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2018/11/08 (Thu) サキタリ洞遺跡
2018/11/01 (Thu) 蜂屋遺跡
2018/10/27 (Sat) 西寺の講堂発掘
2018/10/26 (Fri) 長岡京跡
2018/10/25 (Thu) 飛鳥京跡苑池

 サメの歯156本が出土、島根
 縄文遺跡、食生活の手掛かり

 島根県埋蔵文化財調査センターは14日、松江市朝酌町のシコノ谷遺跡から縄文時代前期―晩期(約7千年前~約2600年前)のサメの歯156本が見つかったと発表した。北海道石狩市の志美第4遺跡の272本に次ぐ多さだった。同センターは「縄文時代のサメは食料として身近なもので、当時の食生活を考える手掛かりとなる」と話している。

 センターによると、遺跡は川沿いで、中海まで約1キロの地点だが、当時は河口付近だったとみられる。歯の大きさは1・2~2・2センチで、全長3~4メートルのメジロザメ科のオオメジロザメ、ヨゴレ、ヤジブカの3種類の歯という。
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 洞窟に4万年前の野生牛壁画

 インドネシアのカリマンタン島東部の洞窟に残る野生の牛とみられる動物などを描いた壁画は4万年以上前のものとする調査結果を、同国やオーストラリア・グリフィス大の研究チームが7日付英科学誌ネイチャー電子版で発表した。チームは「動物などを描いた具象画としては世界最古」としている。

 チームは今回の壁画を、現生人類が欧州で残した最も古い洞窟の壁画とほぼ同時期とみている。単純な絵ではなく具体的な描き方をしていると強調している。

 洞窟の絵などは欧州が中心となって発展したと考えられてきたが、チームは「遠く離れた欧州とインドネシアで、ほぼ同時期に生まれた」とみている。

 側溝跡発見で論争決着

 奈良市埋蔵文化財調査センターは7日、南都七大寺の一つとして知られる大安寺(奈良市)の旧境内で、平城京の六条大路の側溝跡が見つかったと発表した。大安寺旧境内を大路が横切っていたかどうかの論争が約30年間続いていたが、今回の調査結果は終止符を打つ成果という。

 大安寺は藤原京(奈良県橿原市)の「大官大寺」が平城遷都に伴って移転。寺の旧境内は奈良時代の六条大路が通っていたとする説と境内部分だけは道路がなかったとする説があった。同センターが2016年度から発掘調査を行い、昨年には大路側溝とみられる遺構が見つかっていたが断定には至っていなかった。

 縄文前期の赤色顔料出土、沖縄

 沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡で、約5500年前(縄文時代前期)とみられる赤色顔料が付着した砂岩が出土し、沖縄県立博物館・美術館が7日、発表した。九州では約1万3千年前から赤色顔料の利用が確認されており、山崎真治主任は「九州の縄文文化の影響を受けた可能性がある。双方の交流を知る発見だ」としている。

 同館によると、今回の砂岩は縦約9センチ、横約7センチ、厚さ約3センチで、2011年度の発掘調査で見つかった。表面の一部に赤い粉末が付着し、蛍光エックス線分析の結果、鉄を含む赤色顔料と確認した。代表的なベンガラ系とみられる。土器に塗って使った可能性がある。

 法隆寺と同じ軒瓦出土、関連寺院造営か 滋賀、飛鳥時代の遺跡

 滋賀県文化財保護協会は1日、縄文時代から中世にかけての集落遺跡「蜂屋遺跡」(栗東市蜂屋)で新たに建物の溝跡が見つかり、法隆寺とその周辺以外では見られない軒瓦が出土した、と発表した。飛鳥時代後半(7世紀後半)の軒瓦で、「法隆寺と強い関連があった寺院がこの土地で造営された有力な手掛かり」といい、専門家は当時では有数の文化拠点があった可能性を指摘している。

 河川改修に伴い約6千平方メートルを調査。発見された溝跡は4カ所で、幅約1メートル~約3・5メートル、深さ約20センチ~約40センチ。飛鳥時代の築地塀跡とみられる。南北の長さは約10メートル~約24メートルにわたり、中から大量の瓦が出土。法隆寺や同寺に隣接する中宮寺でしか確認されていない「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(にんとうもんたんべんれんげもんのきまるがわら)」が2点確認された。

 軒瓦は「笵(はん)」と呼ばれる木型で作られ、繰り返し使われると笵に傷ができる。そのため、同じ笵で瓦を作ると、文様とともに傷も写し出される。2点の軒瓦はハスの花の文様で、花托(かたく)に小さく膨らんだ傷があった。この傷や文様の細かな配置が、法隆寺創建当時の遺構とされる「若草伽藍(がらん)」の軒瓦と一致するという。

 奈良時代の資料によると、蜂屋遺跡がある栗東市北部は当時、法隆寺の水田や倉があったとされる。今回の軒瓦の発見で、同寺との関係が飛鳥時代にさかのぼれるという。

 出土した瓦からはほかにも県内では数点しか見つかっていない法隆寺式軒瓦が50点以上確認された。

 同協会は「法隆寺から軒瓦が持ち込まれたか、この土地で同じ笵を用いて軒瓦を作ったと考えられる。法隆寺と強いパイプを持った有力者がいた」と説明。滋賀県立大の林博通名誉教授(考古学)は「第一級の仏教文化が培われ、当時では国内有数の文化拠点があった可能性がある」と話す。

 現地説明会は3日午後1時半から。雨天決行。問い合わせは同協会077(548)9780。

 富雄丸山古墳の発掘体験、12月~来年1月開催

 奈良市丸山にある国内最大の円墳「富雄丸山古墳」(4世紀後半)で、市民を対象とする発掘調査体験が12月~来年1月に開催される。市が誇る文化・観光資源を活用し、古墳や文化財への関心を高めてもらおうと、市埋蔵文化財調査センターが主催。同古墳の発掘調査に市民が参加するのは初めてで、考古学ファンらの人気を集めそうだ。

 富雄丸山古墳は昭和47年の発掘調査で、2段築成の円墳で直径86メートルと報告されていた。だが、昨年5~8月に実施した航空レーザーによる3次元測量で、新たに3段目を確認。直径は従来の説を大きく上回る110メートル前後に及び、国内最大の円墳であることが判明した。出土した石製の副葬品は国の重要文化財に指定されている。


 発掘調査体験では、古墳の頂上に当たる「墳頂」を中心にスコップで掘削。埴輪(はにわ)や副葬品の一部が出土する可能性があるという。遺物や遺構について、職員による解説もある。同センターの担当者は「古墳の発掘調査に参加できる貴重な機会。そのスケールの大きさを実感してほしい」と話している。

 12月17日~来年1月10日に8回実施。定員は各回10人で、奈良市在住か在勤、在学の16歳以上が対象。12月23日のみ、「こども体験Day」として小学4~中学3年の児童・生徒も参加できる(小学生は要保護者同伴)。11月22、26日に開かれる事前説明会への参加も必要。

 申し込みは11月9日までに住所、氏名、年齢、電話番号、希望する発掘調査の日時(複数日可)を記入し、往復はがきで、〒630-8135奈良市大安寺西2丁目281の「奈良市埋蔵文化財調査センター」へ、郵送かメール(maizoubunka@city.nara.lg.jp)で。問い合わせは同センター(電)0742・33・1821。

 平安京の玄関口 西寺の講堂発掘 火災で再建されず

 平安京遷都に伴い、都の玄関口に建てられた「西寺(さいじ)」跡(京都市南区)について、中心建物の講堂跡で市文化財保護課が行った初の発掘調査で、建物の基壇や階段の痕跡が見つかった。講堂の位置は従来説と異なり、1キロ東の東寺講堂(同区)と一直線上に並んでいたことが分かった。同課は「西寺と東寺が同一の伽藍配置であると考古的に裏付けられ、平安京が精密な測量技術の基に造営されたことがうかがえる」としている。

 西寺講堂跡は現唐橋西寺公園内にあり、講堂跡の小さな丘「コンド山」を調査したところ、基壇(幅1メートル、奥行き30センチ)が出土した。基壇の南端はこれまでの推定位置から約4メートル北側であることが判明、西寺講堂が朱雀大路を挟んで東寺講堂と真横に並ぶ配置になっていたことが確認された。基壇の南側には階段(幅1メートル、奥行き1・2メートル)、石を敷いた参道(幅4メートル以上、奥行き3・3メートル)も連なって発見され、階段からは「延石(のべいし)」を抜き取った跡とみられる穴(幅1メートル、奥行き30センチ、深さ20センチ)が見つかった。

 一帯では、厚さ5センチの赤色の焼土層があり、出土した土器から990年の西寺焼亡の跡とみられる。階段の穴にも焼土が大量に含まれており、同課は「火災直後に延石を抜き取って埋め、その後は講堂が再建されなかったのではないか」と分析している。

 一方、講堂跡から南西約150メートルの発掘では、西寺を囲う西築地に沿う内溝や、築地西側に西大宮大路の側溝とみられる跡が出土。路面に加え、側溝沿いの犬走(いぬばしり)まで小石を詰めて整えていた。寺域の西限が分かり、当初の東寺と同じ東西250メートル、南北510メートルだった可能性が高まった。

 市文化財保護課が10月から西寺の範囲などを確認するため、約230平方メートルを調べていた。現地説明会を27日午前10時~正午に開く。小雨決行。

 長岡京に大規模建物跡、離宮の可能性 京都

 京都府長岡京市埋蔵文化財センターは25日、長岡京市天神1丁目の長岡京跡で、大規模な建物跡が見つかったと発表した。推定される敷地面積は2万平方メートル以上と広大で、長岡京の中では離宮などに限定される特殊な瓦が出土していることなどから、今回の建物跡も離宮だった可能性があるという。

 発見された大型の掘立柱建物は、南北約21メートル、東西約6メートル。西側にひさしが付く構造だったことや、東側に塀跡とみられる溝も見つかっていることなどから、この建物を脇殿としてさらに中心部分に大きな建物を配置する大規模な邸宅だったと推定される。

 現場から天皇の意思や命令を意味する「勅旨」の「旨」を刻印した瓦も多数出土した。同様の瓦は、長岡京域では、北部の離宮「東院」や寺院でのみ見つかっており、同センターの福家恭主査は「今回の建物跡も長岡京で極めて重要な施設だった可能性が高い」という。

 調査地は阪急長岡天神駅から南西約200メートル。長岡京では南西部の右京六条三坊三町という区画に当たり、乙訓寺や鞆岡廃寺が面する主要道の西二坊大路沿いに位置する。病院の建設工事に伴って8月から発掘調査していた。

 現地説明会(小雨決行)は27日午前10時~正午。問い合わせは同センター075(955)3622。

 飛鳥京跡苑池に階段状護岸、奈良
 北池に船着き場か

 飛鳥時代の日本最古の庭園・飛鳥京跡苑池(奈良県明日香村)の発掘調査で北池の全体像が分かり、県立橿原考古学研究所が25日、発表した。ほぼ全体の護岸が見つかり、西岸の大部分が階段状だったことが判明。東京学芸大の木下正史名誉教授(考古学)は「護岸に船を着けて貴族が船遊びに興じていたのかもしれない」と話している。

 今回の調査では、東西や北西部分などの護岸を確認。これまでの成果と合わせて、東西36メートル、南北52メートル、深さ4メートル以上の規模と分かった。

 現地説明会は27日午前9時半~午後3時。駐車場はない。

 平安期の刀装具つくる道具出土 魚ノ棚は高級品職人町?

 京都市下京区油小路通下魚ノ棚下ルの発掘調査で、平安時代末期から鎌倉時代ごろの刀装具をつくるための道具などが見つかった。調査した民間会社は、平安京南部で中世にかけて形成された「七条町」などの職人町が広がりをもって栄えていた痕跡と捉え、高級品も手掛けた京都ならではの商工業地のにぎわいを示す遺構や遺物とみている。

 調査地は平安京左京八条二坊九町に当たる、宿泊施設の建設予定地。京都平安文化財(伏見区)が9月末まで、敷地内の約280平方メートルを調べた。

 調査会社によると、刀装具に関わる道具として、飾り金具をつくる鋳型や坩堝(るつぼ)など約50点が出土した。平安末期から鎌倉期に流行し、貴族や有力武士が帯びたとされる「兵庫鎖太刀」に取り付けられ、刀を帯からぶら下げるための金具「足金物」などを鋳造していた名残とみられる。

 また、平安時代の「八稜鏡」も出土しており、材料の銅を鋳物で再利用するために貯蔵していた可能性があるという。

 調査地に近い現在の西本願寺一帯では、平安京の造営直後から官営市場「東市」が整えられていたが、平安末期までにさびれた。代わりに七条通と新町通が交差する辺りを中心に、商工業者や店舗が集まる七条町がつくられ、京の消費生活を支えたとされる。中世の貴族がにぎわいを日記に書き残し、周辺の発掘調査でも鋳物生産の道具が相次いで出土している。

 京都平安文化財は「当時の刀は生活用品と違って使う人が限られるが、高級品を生産していたのがこの界わいだった可能性がある。発掘調査では、平安期から現代に至る各年代の遺物が出土している。変遷はあるが、平安時代以降、都市としての営みが切れ目なく続いている地域であることも分かった」としている。

 仁徳陵で発掘調査始まる
 宮内庁と堺市、共同で初

 日本最大の前方後円墳で、宮内庁が仁徳天皇陵として管理する大山古墳(堺市、全長486メートル)で23日、同庁と堺市による発掘調査が始まった。

 宮内庁は陵墓を「皇室の祖先の墓」として立ち入りを制限しており、自治体と共同で発掘するのは初。3重に巡る周濠の水で墳丘や二つの堤が浸食されており、発掘調査で現状などを確認、保全計画に生かすという。

 この日は宮内庁書陵部の担当官2人と堺市の職員1人、民間の作業員らが午前8時半ごろ、管理用の出入り口から敷地へ入った。二つの堤のうち内側の第1堤で発掘する予定の3カ所の位置などを確認、作業を始めた。

 黒塚古墳から出土の三角縁神獣鏡は中国製? 蛍光X線分析で判明 奈良

 天理市の黒塚古墳(3世紀後半)から出土した33面の三角縁神獣鏡について、京都市の泉屋博古館(せんおくはっこかん)が大型放射光施設「スプリング8」(兵庫県佐用町)で蛍光(けいこう)X線分析したところ、鏡に含まれる銀などの微量元素の割合が、古代中国鏡とほぼ一致することが分かった。橿原考古学研究所が今月刊行した調査報告書「黒塚古墳の研究」で紹介されている。

 三角縁神獣鏡は、古代中国の魏が邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)に贈った「銅鏡百枚」とする説がある。ただ、中国国内では確認されておらず、中国製か国産かをめぐって長く議論が続いている。今回の調査結果により、黒塚古墳の三角縁神獣鏡が中国で製作された可能性が高まったといえ、論争に一石を投じる成果となりそうだ。

 33面の三角縁神獣鏡は平成9~10年にかけて実施された発掘調査で、竪穴式石室(長さ8・2メートル、幅1・2メートル)から出土。一つの古墳からの出土数としては全国最多で、文様や銘文から全て中国から輸入された舶載鏡(はくさいきょう)と考えられている。

 泉屋博古館はその後、スプリング8の強力な放射光を使い、蛍光X線分析を実施。鏡に含まれる錫、銀、アンチモンの3元素の組成数値を調べ、グラフ化したところ、古代中国の前漢後期~三国時代(紀元前1世紀~3世紀)の鏡の組成数値の分布エリアに収まることが判明。黒塚古墳の三角縁神獣鏡と前漢後期~三国時代の中国鏡が、同じ原材料で作られている可能性が高まった。一方で、同古墳から出土した画文帯(がもんたい)神獣鏡1面も、同じ分布エリア内に収まっている。

 泉屋博古館は過去にも、久津川車塚古墳(京都府城陽市)出土の三角縁神獣鏡などをスプリング8で蛍光X線分析し、同様の結果を得ている。

 中国青銅器を専門とする同館の広川守副館長は「黒塚古墳の鏡は材料的には中国鏡と考えられる。どこで作られたのかは分からないが、中国で製作された可能性もある」としている。

 金閣寺に足利義満が造成した幻の池 発掘調査で

 京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)の発掘調査で、同寺や市埋蔵文化財研究所は11日、金閣に面した鏡湖池南側にあったとされる「南池跡」について、創建した足利義満が造成し、未完に終わった池だったことが分かり、同時期の礎石建物も近くで新たに見つかったと発表した。義満が晩年を過ごした「北山殿」では金閣のほか、国内最大級の北山大塔が存在したことがすでに明らかになっている。幻とされた南池跡の出土は、北山殿が現在の建物規模より大規模に造成されたことを裏付け、室町幕府最盛期を築いた権力者・義満の権勢を示すものという。

 金閣寺の境内整備に伴い、市埋文研が2018年8月までの約2年間、約840平方メートルを調査していた。

 南池跡では、池を囲うように東、西、南側に盛り土し、堤(高さ0・6~1メートル、幅2~5メートル、総延長170メートル)を築いているのを確認した。池内部や堤沿いに、直径6~20メートルの島状の高まりが3カ所あった。遺物の出土状況から、北山殿が築かれた14世紀末ごろに造成されたとみられる。

 ただ、造成土からは防水のために施す粘土層が見つからず、周縁部に護岸石もなかったため、未完だったとみている。

 堤は15世紀後半ごろにかさ上げされ、高さ約2メートルの土塁のようになっていた。応仁・文明の乱(1467~77年)で西軍の陣地になった際、防御用に造り替えられたのではないかとする。

 一方、南池跡の北東辺では、東西5・4メートル、南北6メートルの小型建物跡が出てきた。礎石13個が並び、正面方向で人目に付く東側柱や縁側には、30センチ四方に加工した白い花崗岩(かこうがん)を用いていた。土を固めて整えた舞台のような「三和土(たたき)」(東西10メートル、南北7メートル)が東南方向に広がっており、私的な空間として儀式などを行っていた可能性があるという。

 北山殿は、義満が死去する1408年まで約10年間を過ごし、政務を行う会所や御所もあり、近くに武家や公家、門跡寺院住職らも集住したと、貴族や僧侶の日記から推定されている。近年の発掘調査では100メートル級の高さとされる北山大塔の頂部分を飾った相輪が見つかっている。

 京都市埋文研は「今回見つかった大規模な造成跡や精密に加工された礎石から、義満の北山殿が想像以上に大規模な構造だったことが分かる。ただ、建物の配置や使い方に不明点が多く、文献に基づく検証を進めたい」としている。

 □京都産業大の鈴木久男教授(考古学)の話 南池は、北山殿をさらに拡張してゆく手始めとして造営したのではないか。金閣をよく眺められ、一番目立つ場所から着手したとみられ、義満が存命であれば水を張った池が完成していただろう。強大な権力を握った義満が築いた北山殿だが、今回見つかった礎石建物を含めて不明な点が多い。北山殿の全容を復元する上で、貴重な基礎的な資料が得られた。

 ◇足利義満と金閣寺 室町幕府3代将軍・義満は将軍職を息子・義持に譲ると、1397年に隠居所として「北山殿」の造営を始め、移住。武家に加え、公家や寺社勢力も従える強大な権力を握り続け、ここに海外貿易のために中国・明の使者を迎え、国内最大級とされる北山大塔の建築に着手した。1408年、後小松天皇の行幸後、突然死去して遺言により鹿苑寺になったが、金閣以外の多くは移築、焼失した。

 20年費やし黒塚古墳報告書完成
 奈良・橿考研、甲冑に鹿の毛皮

 邪馬台国の女王・卑弥呼が中国・魏から与えられた「銅鏡百枚」の有力候補とされる三角縁神獣鏡33枚が出土した奈良県天理市の黒塚古墳(国史跡)の発掘報告書「黒塚古墳の研究」(八木書店)が約20年かけて完成し、9日、県立橿原考古学研究所が発表した。

 出土した鉄製の甲冑の内側に鹿の毛皮が用いられていたことなど最新の研究成果を盛り込んだ。B4判、586ページで3万2千円(税抜き)。5日から販売されている。

 黒塚古墳は、3世紀後半に築造された全長約130メートルの前方後円墳。1999年2月まで5次にわたる調査が実施された。

 初期の伏見城跡に江戸期の溝 秀吉時代の地割り反映か

 豊臣秀吉が京都市伏見区で築いた初期の伏見城(指月(しげつ)城)跡で、城特有の地割り(区画整理)を反映したとみられる江戸時代の溝跡や、安土桃山期から江戸初期ごろの金箔(きんぱく)瓦などが見つかった。調査した市文化財保護課は「謎が多い指月城の実態解明の一助になる調査成果だ」としている。

 指月城は1592年から、現在の観月橋団地一帯「指月丘」に秀吉が造営を始め、後に本格的な天守を備えた。96年に慶長伏見地震で倒壊し、その後、北東の木幡山にあらためて伏見城を築いた。

 調査地は伏見区桃山町泰長老にある公務員宿舎敷地内。2カ所計140平方メートルを8月から調べた。

 市によると、溝跡は城中枢に近い山手側の南東調査区で見つかった。江戸中後期の異なる時期に掘られた東西方向の溝(幅約2・5メートル、長さ約8メートル)と、南北方向の溝(幅約2メートル、長さ約5メートル)が丁字形になっていた。南北の溝が西へ30度ほど傾くなど、真北を軸とした正方位の地割りになっていないという特徴があった。一帯の先行調査では、同じような地割りの石垣や建物柱跡が相次いで出土。この溝も城特有の区画に基づいて掘られ、幕末までに埋められたとみられる。

 北西調査区では、1600年前後の遺物が多数見つかった。金箔瓦が4点あり、城内の建物か、木幡山に伏見城が移った後に広がった大名屋敷で使われた可能性があるという。

 指月城は、東西約540メートル、南北約250メートルの敷地に、天守や堀などを備えたとされるが、建物配置などは分かっていない。

 市文化財保護課は「秀吉時代の地割りを見て取れ、文献で天守などの城の中枢があったとされる山手側でも、その存在を考古的に裏付けられた。調査を進め、詳細を明らかにしたい」としている。


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