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2018/09/14 (Fri) 藤原宮跡
2018/09/11 (Tue) 福満遺跡
2018/09/06 (Thu) 国内最大の恐竜化石
2018/08/30 (Thu) 秀吉が埋めた堀跡か
2018/08/29 (Wed) 芝山遺跡
2018/08/24 (Fri) 橿考研博で速報展
2018/08/24 (Fri) 平城宮の考古学

 藤原宮跡で大極殿北門跡を確認 南門などと比べ小規模?

 橿原市の藤原宮跡で、中心施設の大極殿(だいごくでん)を囲んだ回廊の北門跡が確認され、奈良文化財研究所(奈文研)が13日、発表した。調査により、門の東西規模は約4・7メートルと判明。北門跡は過去に2回、奈文研と日本古文化研究所によって発掘されているが、規模が明らかになったのは初めて。

 北門跡は大極殿の四方を囲んだ回廊の北側中央部に位置し、中央を宮(きゅう)の中軸線が通っている。発掘調査では、門の4つの柱のうち南東隅の柱を据えた柱穴を確認。門の南北規模は約5・8メートルと推定される。北側には天皇の住まいである内裏(だいり)があり、天皇が政治を行う大極殿と内裏を行き来する際に利用したらしい。

 東西南北にある計4つの門を比較すると、南門(東西約35メートル、南北約10メートル)のほか、東門と西門(ともに南北約29メートル、東西約6・6メートル)よりもかなり小規模。だが、門の基壇が削られるなど遺構の残存状態が悪いことから、奈文研はもっと大きかった可能性もあるとしている。

 また、今回の調査で、回廊(大極殿院)の東西規模が約116メートルと推定通りだったことも分かった。

 木下正史・東京学芸大学名誉教授(考古学)は「毎日、大極殿に出御(しゅつぎょ)していた天皇にとって、公的な空間と私的な空間を分ける重要な門だった。南門は権威を示すために大きく造られたが、北門はその必要がなかったのだろう」としている。

 現地説明会は15日午後1時半から行われる。
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 秀吉築いた堤、江戸期に再造成か 京都・宇治川

 京都府宇治市は12日、豊臣秀吉が16世紀末に築いたとされる国史跡・宇治川太閤堤跡(同市宇治-莵道)の発掘調査の結果を発表した。当初の護岸が洪水などにより土砂で埋まった後、新たに石を積み上げた修築護岸を確認。江戸期前半に造り直したとみている。

 史跡内では、流れを抑えるため川に張り出した構造物「石出し」が4基見つかっており、このうち最上流の1基の下流側に隣接する約230平方メートルを調査した。

 当初の護岸は高さ1・7メートルほどだったが、上流からの土砂が堆積。そこで、一辺約20センチの角張った石などを積み、奥に丸石を詰めて新たな護岸を築いたとみられる。調査では延長14メートル分を確認、最も高い場所で約1・1メートルあった。

 この上から、1700年代に焼かれた瓦や窯道具などが大量に出土。修築した護岸が土砂に埋もれた後は、近くの窯で出た焼き損じの瓦が廃棄されるようになったとみられる。その後も洪水は繰り返されて陸地化し、明治期には茶園に変わった。

 市は「修築護岸は史跡内で他にも確認できるが、これほど高いのは初めてだ。人口が増えた江戸期は山の木々の伐採が進むなどして土砂が大量に流れ込み、新たな護岸の造成は諦めたのかもしれない」としている。

 調査地は現在の宇治川右岸の堤防より70メートルほど東で、京阪宇治駅の西隣。2007年の発見後続けてきた調査は今回で最後となる。15日午後1時半から現地説明会がある。市歴史まちづくり推進課0774(21)1602。

 奈良期の建物跡出土、周辺の物資集約か 滋賀・福満遺跡

 滋賀県彦根市教育委員会は10日、同市小泉町の福満遺跡の発掘調査で、奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかったと発表した。米を蓄える倉庫と考えられ、周辺の物資を集約する役割があったのではないかとしている。

 同市教委によると、縄文時代晩期から鎌倉時代にかけての建物跡や食器などが出土した。

 奈良時代の掘立柱建物跡は三つが出土し、このうち最大の跡は面積約35平方メートルで20基の柱穴を持つ。市教委は、規模などから当時、税として納められた米などを貯蔵する倉庫だったとしている。その他、平安時代の井戸や河道跡では、役人や高位の人物が使用したとみられる陶製の高級食器も見つかった。

 同遺跡は縄文時代-中世の複合遺跡。調査は新市民体育センター(仮称)の建設に伴い、市教委が県文化財保護協会に委託して2017年8月から1万1550平方メートルで実施している。

 同協会の中川治美副主幹は「掘立柱建物跡は単なる集落でなく、物資を集約する機能があった。調査結果は当時の流通などを知る手がかりになる」としている。

 30日午前10時半から現地説明会を開く。問い合わせは同協会077(548)9780。

 国内最大の恐竜化石を報道公開
 全長8メートル、北海道むかわ町

 北海道むかわ町の山中で見つかったハドロサウルス科恐竜の化石を調べている北海道大総合博物館とむかわ町穂別博物館の研究グループは4日、化石を岩などから取り出す作業が終わったとして、町内の施設でほぼ全身の骨格を報道公開した。頭から尾までの全長は推定8メートル超で、国内で見つかった恐竜の全身骨格では最大としている。

 化石は2003年、約7200万年前(白亜紀後期)の地層で見つかった。

 北大総合博物館の小林快次准教授は「日本の恐竜研究史における最大の発見。全貌を目の当たりにできるのは大きい」と意義を強調した。新種の可能性もあるといい、さらに分析して論文にまとめる。

 3世紀の埴輪やガラス玉 桜井市埋文センターで速報展

 桜井市立埋蔵文化財センターで、平成29年度の発掘調査の成果を紹介する速報展「50cm下の桜井」が開かれている。3世紀に大和以外の地域から持ち込まれた土器や埴輪(はにわ)などを展示している。9月30日まで。

 速報展では計8カ所の調査を紹介している。JR巻向駅西側の纒向遺跡中心部に位置する太田地区では、幅約1メートルの溝から東海や北陸、吉備(現在の岡山県)系の土器、ガラス玉などが出土。東海系土器(甕)には多量の煤(すす)が付着しており、周辺に他地域から来た人々が居住していたと考えられるという。

 また、冠帽形埴輪の一部と考えられる「鋸歯(きょし)文」のある埴輪などを展示しているほか、遺跡内の茶ノ木塚古墳(5世紀後半)から見つかった蓋(きぬがさ)形埴輪や円筒埴輪も見ることができる。茶ノ木塚古墳は調査の結果、直径約35メートル、周濠幅7メートル以上の円墳の可能性が高まったという。

 9月8日午後1時半から同センターで発掘調査報告会が開かれる。問い合わせは桜井市立埋蔵文化財センター(電)0744・42・6005。

 秀吉が埋めた堀跡か 京都改造の一端示す遺構発見

 京都市中京区錦小路通烏丸東入ルの発掘調査で、室町時代末期ごろの堀跡が見つかり、関西文化財調査会(上京区)が29日、発表した。堀は寺院を囲っていたとみられ、豊臣秀吉が洛中の寺院を強制移転させた際に埋められた可能性がある。天下人となった秀吉による京都改造の一端を示す遺構という。

 場所は、平安京左京四条三坊十四町に当たる駐車場の建設予定地(約520平方メートル)で、7月から発掘調査を進めている。

 堀跡は全長16メートル、幅4メートル、深さ1・4~1・7メートルで、底が狭くなる逆台形だった。戦国期の上京や下京の街区や寺院を囲った堀に近い形や規模という。一方、北西から南東に伸びる途中でほぼ120度に屈曲する点が特徴で、底には堀に架かる橋のためとみられる礎石が2カ所あった。

 調査地の地名は「元法然寺町」で、鎌倉時代の武将熊谷直実が、浄土宗の宗祖法然を開山に、法然寺を錦小路烏丸に創建したという伝承がある。一帯を含む洛中では、秀吉が京都改造の一環で寺院を強制移転させ、町割りを大胆に変えた。関西文化財調査会は、法然寺が1591(天正19)年、寺町通に移転させられた際、堀も埋められたとみている。

 同調査会の吉川義彦代表は「屈曲した堀の出土は珍しく、六角形の建物や寺院の重要な建築物を囲っていた可能性がある。ただ、堀の埋められた年代を除いて不確実な点が多く、調査検証を続けたい」と話している。

 9月1日午前11時から現地説明会を行う。雨天中止。問い合わせは関西文化財調査会090(3264)3854

 奈良時代の北陸道整備で集落拡大か 京都・芝山遺跡

 京都府埋蔵文化財調査研究センター(向日市)は28日、城陽市富野の芝山遺跡・古墳群で、奈良時代の掘立柱建物10棟の跡が見つかったと発表した。当時の国家が平城京から北陸へと続く北陸道を整備した際に、一帯の集落が大規模化したことを示す可能性があるという。

 芝山遺跡は府道山城総合運動公園・城陽線に面した南北約840メートル、東西約950メートル。建物跡は、府道西側に接する1565平方メートルの範囲で見つかった。

 10棟のうち2棟は、現在の府道に近い北陸道とみられる道路状遺構に沿って建てられていた。「田」の字形に柱の跡が残り、倉庫として使われたとみられる4棟の建物跡もあった。センターの桐井理揮調査員は「建物が比較的密集しており、道の開通に伴い多くの人が住むようになったという説を補強する材料になり得る」と話す。

 2002、03年度の調査で遺跡の北側に、奈良時代に役人が都と地方を行き来する際、一時滞在した「駅家(うまや)」とみられる建物群跡があったことが分かっているが、今回の建物跡との関連は不明。

 ほかにも、古墳時代の円墳2基が確認された。うち1基からは須恵器が木棺の上などに置かれていたことが分かり、当時の葬送儀礼を知る上で重要な手がかりとなるという。

 現地説明会は9月2日午前11時から。

 36遺跡の発掘成果紹介

 平成29年度の発掘調査成果を紹介する速報展「大和を掘る36」が、9月2日まで橿原市の橿原考古学研究所付属博物館で開かれている。橿考研や各市町村教委による県内36遺跡の調査で出土した土器や木製品が一堂に並べられている。   会場には計442点を展示。大型の展示品では、纒向(まきむく)遺跡(桜井市)などで見つかった木樋(もくひ)3点があり注目される。水の祭祀(さいし)に関連する遺物で、木樋を表わしたとみられる室宮山古墳(御所市)やナガレ山古墳(河合町)の木樋形土製品も一緒に並べられている。

 また、平城京跡(奈良市)で出土し、保存処理が終わった海老錠(えびじょう)が初めて一般公開されているほか、東大寺東塔院跡(同市)出土の鬼瓦や法隆寺若草伽藍(わかくさがらん)跡(斑鳩町)出土の焼けた瓦なども見ることができる。

 9月1日午後1時から橿考研講堂で、発掘調査担当者が講演する土曜講座が開かれる。問い合わせは橿考研付属博物館(電)0744・24・1185。

 考古学を体験しよう 奈文研でこども展示

 奈良文化財研究所・平城宮跡資料館(奈良市)の夏のこども展示「たいけん!なぶんけん-平城宮の考古学」が同資料館で開かれている。発掘調査に携わる研究員の作業内容を紹介するほか、ばらばらの木簡を組み合わせるパズルも体験でき、親子で考古学を楽しめそうだ。9月2日まで。

 会場では、出土品や調査で使う道具を展示し、発掘調査・研究の過程を順にたどることができる。遺構図の描き方が示され、出土した木製品や土器の形を分かりやすく説明。復元された軒丸(のきまる)瓦の成型台に触れ、古代の瓦作りを学ぶこともできる。

 開館は午前9時~午後4時半。月曜休館。入場無料。問い合わせは奈文研連携推進課(電)0742・30・6753。

 キトラ、高松塚壁画公開 - 来月22日から 明日香の両施設で

 極彩色壁画で知られる、キトラ古墳壁画(7世紀末~8世紀初め)と国宝高松塚古墳壁画(同)が、9月22日から明日香村で一般公開される。

 キトラ壁画は10月21日までの1カ月間、同村阿部山の「キトラ古墳壁画体験館 四神の館(しじんのやかた)」内で。同施設での公開は9回目。今回は「白虎」が描かれた西壁と「天文図」の天井を展示する。10月3日、17日は閉室。

 高松塚壁画は9月28日までの1週間、同村平田の仮設修理施設で。公開は23回目。今回は西壁の「女子群像」「白虎」「男子群像」、東壁の「女子群像」、北壁の「玄武」を並べる。

 両壁画とも見学無料。いずれも8月21日午前10時から、それぞれの公開事務局ホームページで事前申し込みを受け付ける。第1次応募受付期間は26日まで。往復はがきも可(当日消印有効)。第1次応募で定員に達しなかった場合は、第2次応募を実施する。

 問い合わせはキトラ壁画の公開事務局、電話06(6281)3060、高松塚壁画の公開事務局、電話06(6281)3040。


 平安京最大級の池は埋められていた!

 平安京最大級の池は埋められていた! 藤原頼通邸「高陽院」…後鳥羽上皇の御所建設の可能性 京都・発掘調査で確認

 世界遺産・平等院(京都府宇治市)を創建した摂政・関白、藤原頼通(よりみち)が平安時代の11世紀に建てた邸宅「高陽院(かやのいん)」に広がっていた平安京最大級の池が、約200年後に埋められていたことが分かった。民間会社・文化財サービス(京都市)が同市中京区で行っている発掘調査で確認。11日、地元住民向けに開催した説明会で公開された。埋め立て後に建物が建てられたとみられ、同社は「栄華を誇った高陽院の晩年を知る上で重要」としている。

 ホテルなどの開発計画に伴い、平安京左京二条二坊十五町の一部、約200平方メートルを調査。その結果、全面で頼通時代の池の底が確認されたほか、底から高さ約70センチにわたり土で一気に埋められた跡が出土した。

 柱穴跡も

さらに埋め立てた跡の上面からは建物の存在を示す柱穴跡が数カ所出土。一緒に出土した土器や瓦片などから、13世紀前半に池を埋めたうえで新たに建物を建てた可能性が高いことが分かった。

 高陽院は、頼通が保安元(1021)年に現在の上京、中京両区にまたがる堀川丸太町付近の2町(長さ約250キロ)四方に造営。後一条天皇が行幸(ぎょうこう)して行われた競馬の様子を描いた「駒競(こまくらべ)行幸絵巻」が有名で、池の大きさもこれまでの発掘調査で南北が約140メートルだったことが判明している。

 4度焼失

 その後4度焼失し、その度に再建。元久2(1205)年には後鳥羽上皇が4町(2町四方)から2町に縮小し、御所として院政の拠点とした。その後、上皇が鎌倉幕府に対して承久3(1221)年に起こした承久の乱の計画を立て、乱の最大の決戦地の宇治川で幕府軍に敗退した後に扉を閉めてこもった場所とされる。

 同社では今回の埋め立ては後鳥羽上皇が御所として造営した際に行われたと推定。後鳥羽上皇時代に建物が100棟余り存在したという記録から、同社は埋め立てが池全体で行われた可能性もあるとしている。

 網伸也・近畿大教授(考古学)は「池も火災の度に形を変えることは調査の中で証明されてきたが、晩年の姿については遺構でこれまで証明されたことがなかっただけに、貴重な発見といえる」と話している。

 垂仁天皇陵の埴輪制作? - 古代・土師氏の集落/菅原東遺跡

 古代の埴輪(はにわ)製作集団・土師(はじ)氏の集落とみられる奈良市横領町の菅原東遺跡で、垂仁天皇陵に治定された宝来山古墳(同市尼ケ辻町)の埴輪を焼いていた可能性があることが、奈良市教育委員会文化財課埋蔵文化財調査センターの調査で分かった。遺跡の遺物を精査したところ、同古墳の物と時期や特徴が似た古墳時代前期(4世紀後半)の埴輪片を確認。日本書紀には、乗仁天皇に仕えた土師氏の祖・野見宿禰(すくね)が殉死の風習に代わる埴輪を考案したとの記述があり、関連が注目される。埴輪片は1日から、奈良市大安寺西2丁目の同センターで始まった夏季特別展で展示されている。

 菅原東遺跡ではこれまでに、古墳時代後期の埴輪窯跡群と集落跡などを検出。古代の「菅原」の地にあることから、菅原土師氏の埴輪生産の拠点と考えられてきた。ただ、同時代後期以前の埴輪は確認されていなかった。

 奈良市埋蔵文化財センターでは平成27年度、同遺跡から過去に出土した多数の埴輪片を精査。その結果、平成3年と同12年の出土遺物に、同時代前期にさかのぼる埴輪片を主な物で15点確認した。

 いずれも野焼きで黒斑があり、円筒埴輪には▽方形や半円形の透孔がある▽鰭(ひれ)付きがある▽口縁部が約8センチと短い―などの特徴があった。形象埴輪は蓋(きぬがさ)形埴輪などで、立体的な段差表現を持っていた。

 南へ約250メートルに位置する宝来山古墳でも近年、同様の特徴を持つ埴輪片が採取されていることから、同遺跡で焼かれた埴輪が古墳に供給された可能性があるという。

 日本書紀によると、垂仁天皇は皇族の墳墓に近習者を生きたまま埋める殉死を哀れに思い禁止。皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の際、野見宿禰が殉死の代わりに墳丘に埴輪を立てることを提案し、土師の姓をたまわったという。

 同センターの村瀬陸主事は「古墳時代後期の窯のすぐ近くで埴輪片が見つかり、垂仁天皇と同じ古墳時代前期にも埴輪生産が行われていたことが分かった。その事実が、日本書紀の埴輪誕生説話の元になった可能性もある」としている。

 同センターの夏季特別展「奈良市の埴輪―土師氏の故郷でのハニワ生産」は9月28日まで。午前9時から午後5時開館。土日曜、祝日は休館(8月25日は除く)。入場無料。

 問い合わせは同センター、電話0742(33)1821。

 弥生期の大規模集落跡 京都、社会変遷たどる手掛かりに

 京都市埋蔵文化財研究所は、下京区醒ケ井通松原下ルの元醒泉小で、弥生時代中期初頭(紀元前4~3世紀)の大規模な集落跡が見つかったと発表した。水田や建物の跡、石器や管玉などの出土品もまとまって発見され、近畿北部の弥生社会の変遷や実態を解明する手掛かりになるという。

 小学校整備に伴い弥生~飛鳥時代の「烏丸綾小路遺跡」の南西部約2900平方メートルを調べた。

 水田は、調査地東側にかつて流れた鴨川支流の汚泥がたまったところに東西5メートル、南北12メートルで見つかり、人の足跡のほか、土壌中に稲のもみ殻約200粒があった。京都大吉田南キャンパス(左京区)で見つかった弥生前期の水田に次いで市内で2番目に古い時期になる。近くに約10棟の竪穴建物跡もあった。

 稲作に使った石包丁や、武器に用いる石のやじりといった石器、千点以上の壷(つぼ)や甕(かめ)などの土器、管玉も出土した。

 市中心部では平安京建都以降、開発が繰り返されたため、古い遺構や遺物は壊れていることが多い。集落の人は北側の四条通周辺に移った後、ここを埋葬地に使うなど土地利用の変遷も分かるという。

 関西大大学院の森岡秀人非常勤講師(考古学)は「稲作を始めた弥生前期から中期にかけ、近畿では集落が農耕適地を求めて移動するケースが多く、調査により初期農耕集団が京都盆地でも定着していたことが鮮明になった。弥生中期初頭の出土品がまとまって得られた意義も大きく、近畿北部の弥生文化や社会の実態を研究する上で貴重な成果だ」とする。

 現地説明会は28日午前10時~11時半。当日の問い合わせは現地事務所090(6205)8330。

 藤原京跡で出土の唐三彩、幻の古代寺院に関連か

 橿原市の藤原京跡で出土し、7世紀末~8世紀初めの国内最古級の唐三彩(とうさんさい)であることが20日明らかになった枕の破片は、神武天皇陵と綏靖(すいぜい)天皇陵に挟まれた藤原京の西端付近で見つかった。調査した市教委は、この地域にあったとされる幻の古代寺院「山本寺」に関連する遺物の可能性があるとみている。

 発掘調査は県立医大新キャンパス予定地に通じる東西方向の市道拡幅に伴い、昨年7~11月に実施。調査地の西端から藤原宮期(694~710年)の瓦や土器のほか、唐三彩の枕の破片が見つかった。

 現場付近で、大規模な邸宅や役所の存在をうかがわせる遺物は見つかっていない。一方で、神武天皇陵の東側にある宮内庁管理地内では寺院跡と考えられる礎石が出土。このため、「山本寺」と呼ばれる謎に満ちた古代寺院の推定地となっている。その実態は不明だが、唐三彩が今回出土した場所からは南に約170メートルの至近距離にある。

 官寺である大安寺の旧境内(奈良市)からは、40個以上の唐三彩の枕が見つかっており、橿原市教委の杉山真由美主査は「破片は山本寺に関連した遺物の可能性がある」とみている。

 破片を見た大阪市立東洋陶磁美術館の小林仁・学芸課長代理(中国陶磁史)は「唐三彩は本来、古墳の副葬品で、今回の破片は河南省の鞏義窯(きょうぎよう)で焼かれたものだろう。当時の都、長安の市(いち)では唐三彩が売られており、遣唐使が買って日本に持ち込み、寺院などに納めたことも考えられる」としている。

 藤原京跡から最古級の「唐三彩」の破片出土 遣唐使が持ち込み?

 7世紀末~8世紀初めの国内最古級の唐三彩(とうさんさい)の破片が橿原市の藤原京跡で見つかり、市教委が20日、発表した。唐三彩は中国・唐代(7~9世紀)に作られた陶器で、全国の約50遺跡で見つかっているが、藤原京(694~710年)跡では2例目の出土。藤原京時代に唯一、派遣された遣唐使が704年に帰国しており、市教委はこの遣唐使が持ち帰ったとみている。

 破片は縦2・6センチ、横4・3センチ、厚さ0・5センチ。白、緑、茶色の釉薬(ゆうやく)をまだら状に塗り分けた特徴的な彩色に加え、上部が直線的な形状から、「陶枕(とうちん)」と呼ばれる唐三彩の枕の一部とみられる。原料となった土の元素を蛍光X線分析で調べた結果、鉄や亜鉛が少なく、唐三彩をまねて日本で焼かれた奈良三彩ではないことが分かった。

 奈良市の大安寺旧境内では、奈良時代の陶枕が40個以上も出土。今回見つかった破片はさらに古いものの、斑鳩町の竜田(たつた)御坊山3号墳(7世紀)で出土した唐三彩の硯(すずり)よりは新しいという。

 藤原京跡では約30年前、人をかたどった「俑(よう)」とみられる唐三彩の破片が出土。今回の遺物はこの破片や縄生(なお)廃寺跡(三重県)から出土した碗(わん)などとともに最古級の唐三彩とみられ、中国・河南省の窯で焼かれた可能性もある。

 菅谷文則・橿原考古学研究所長(考古学)は「飛鳥時代の唐三彩は数が少なく貴重だ。遣唐使によって持ち込まれたと考えられ、朝廷のトップクラスの人物の持ち物だったと思う」と話している。

 今回見つかった唐三彩の破片は21日から9月17日まで、「歴史に憩う橿原市博物館」で一般公開される。


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