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2019/10/25 (Fri) 官寺「西寺」跡
2019/10/04 (Fri) 橋台遺構確認
2019/09/21 (Sat) 秀吉築いた指月城
2019/09/10 (Tue) 平氏一門の屋敷跡
2019/09/08 (Sun) 五塚原古墳
2019/08/31 (Sat) 橿考研が報告書刊行

 平安京「西寺」の中心建物の基壇発見 東寺と西寺、左右対称配置の可能性高まる

 平安京の玄関口に建てられた官寺「西寺」跡(京都市南区)で、中心建物の講堂跡の基壇が見つかったと、市文化財保護課が24日発表した。基壇は造営した平安時代前期の姿をとどめ、同じ時期に築かれた初期平安宮の建物や寺院の解明につながる重要な遺構という。五重塔とみられる建物の跡も初めて見つかり、東寺と西寺の主要伽藍(がらん)が朱雀大路を軸に、左右対称の位置に配置されていた可能性がより高まった。

 基壇は高さ1・5メートルで、沈泥のシルトと砂礫(されき)を交互に積み上げた「版築(はんちく)」で造成していた。上面は削られておらず、礎石を抜いた穴(直径1・5メートル前後)四つのほか、礎石周りの石材「唐居敷(からいじき)」や柱の間をつなぐ石材「地覆座(じふくざ)」も残っていた。地覆座には木が焼けた跡があり、「西寺焼亡」(990年)に関連するとみられる。
 ほかにも、焼亡後の平安期に建物再建のために据えたとみられる礎石(同1・2メートル)が一つ、主要建物とつなぐ軒廊(こんろう)跡の盛り土も見つかった。
 市はこれらを基に講堂の復元案を検討した。平安期の遺構を受け継ぐ東寺に対し、建物は1キロ西で真横に並ぶ一方、柱間は0・6メートル上回る4・5メートル、東西幅は反対に3・9メートル狭い38・5メートルとなり、規模に差異があるのも分かった。

 近畿大の網伸也教授(日本考古学)は「柱間は平安宮の豊楽殿と同じ幅で平安京域の建造物では最大級となり、格の高い建物があったことを裏付ける。東寺の講堂は空海に与えられた後に完成し、密教の世界観を表すために21体もの仏像を並べた結果、建物が西寺より大きくなった可能性がある。初期平安宮を含めた平安初期の遺構は長年の都市開発で破壊されていることが多い。桓武・嵯峨天皇の時代に築かれた今回の基壇は都を造営した当初の寺院を含めた建物の構造や部材・工法を検証、復元してゆく上で重要な発見となる」とみる。

 また、講堂跡から南西約150メートルの調査地では、塔などの重い建物を築く際に地盤改良する「地業(じぎょう)」の跡を12カ所確認した。

 西寺の範囲を確認するため、市が講堂跡に当たる現唐橋西寺公園内などの325平方メートルを9月から調べている。現地説明会を26日午前10時~正午に開く。小雨決行。現場事務所080(1402)4443。
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 四条遺跡、新たに円墳確認 藤原京造営工事で消失 奈良

 橿原市の藤原京跡(四条遺跡)で、京の造営工事で墳丘が削平(さくへい)された直径約25メートルの円墳・四条14号墳(5世紀末~6世紀初め)が見つかり、橿原考古学研究所が4日発表した。四条遺跡ではこれまでにも、造営工事で壊された古墳が確認されており、橿考研は「当時の様子がよく分かる資料」としている。

 円墳は周濠を持ち、祭祀を行ったとみられる4メートル四方の造(つく)り出(だ)し(突出部)が北西側に取り付く。周濠からは馬形や家形、円筒の各種埴輪などが出土。約30年前、現場の約30メートル北側で発掘された同時期の四条1号墳(方墳)からは木の埴輪が出土しているが、今回は見つからなかった。このほか、条坊(じょうぼう)制に伴う藤原京の道路(西6坊坊間路(ぼうかんじ))や、これに垂直に交わる京造営時の溝なども確認された。

 現場は県立医大のグラウンド内で、現地説明会は6日午前10時~午後1時。この西側で、貴族の邸宅跡が見つかった同大新キャンパス予定地でも、同時刻に現地説明会がある。

 三成居城、佐和山城には城下町への道路あった? 橋台遺構確認

 滋賀県文化財保護協会はこのほど、戦国武将の石田三成の居城だった佐和山城の城下町跡(彦根市佐和山町)で、石積みの橋台遺構が見つかったと発表した。橋の存在は古図になく、協会は「橋の方向から、城に続く生活道路があったことが推測される。城下町の具体的な様相に迫る成果」としている。

 佐和山城は同市北部に位置し、多くの城主を経て1591年に三成が豊臣家の代官として預かった。関ケ原の戦いで三成が敗れた後は井伊直政が入城し、彦根城に移った後に廃城となった。

 橋台は一対で、いずれも最大の幅が5メートル、高さ60センチ。生活排水用とみられる溝(幅2・6メートル)の両側に自然石が積まれている状態で見つかった。両溝を渡す橋と、それに続く道があったと推測されるという。

 この道は、城から東に伸びて橋を越え、約100メートル先で城下町の主要道「本町筋」と交差する形になる。周辺で出土した陶器などの遺物から、三成の入城前の16世紀終わりに整備され、17世紀始めごろまで使われていたとみられる。

 井伊家が江戸後期に作成した佐和山城絵図では東西の道がないことから、同協会は「城下町の変遷とともに橋が撤去され、道路としての機能を失っていったのでは」とみる。

 同協会の山口誠司技師は、この東西道について「城内と城下町の主要道を結び、武士や商人の往来を可能にする極めて重要な道だったと考えられる」としている。

平城宮最大の役所跡発見
実務トップ「太政官」か

 奈良市の平城宮跡(8世紀)で最大級の役所跡が見つかったと、奈良文化財研究所が26日発表した。建物の基礎となる基壇は東西約29メートル、南北約17メートル、高さ1・2メートルと推定され、中枢部の大極殿や朝堂に次ぐ大きさ。基壇に取り付く階段や石敷きも見つかり、実務を行う役所の中でもトップの「太政官」の可能性があるという。古代の官僚機構を解明する上で重要な成果と言えそうだ。

 調査地は、天皇による政務や儀礼の中心だった大極殿や朝堂院の東側にあり、実務を担う役所が連なっていたとみられる東方官衙と呼ばれるエリア。

 現地説明会は29日午前11時~午後3時。

 秀吉築いた指月城、本丸囲む巨大内堀が出土 本格的な城整備?

 豊臣秀吉が築いた初期の伏見城(指月(しげつ)城、京都市伏見区)の発掘調査で、天守などのある本丸を囲う内堀跡が見つかり、内堀の幅は想定の倍を超す30メートル以上になることが分かったと市文化財保護課が20日発表した。徳川家による二条城(中京区)の内堀を上回り、秀吉が単なる隠居所にとどめず本格的な城として整備した痕跡を示すという。

 豊臣秀吉は関白職をおいの秀次に譲ると、1592年から現在の観月橋団地一帯の「指月丘」に隠居所となる屋敷の造営を開始。93年の秀頼誕生で天守を備えた本格的な城郭に改築したとされ、96年の大地震で倒壊した。その後、北東の木幡山に改めて伏見城を築く一方、調査地一帯は埋め立てられて武家屋敷などになった。

 同課によると、内堀跡では幅1・7メートル、深さ3・4メートル以上の造成土が堆積し、上には石垣が築かれていた。秀吉が多用した金箔(きんぱく)瓦が土に含まれていた点などから、造成土は木幡山に城が築かれる際に指月城の内堀を人為的に埋めた痕跡で、石垣は武家屋敷になった段階で整えられたとみる。

 内堀の幅は当初15メートルほどと想定。近年の先行調査で今回の調査地から北40メートルで堀東側とみられる痕跡、北西30メートルで西側の石垣が見つかっており、今回の結果を合わせると30メートル以上になることが確実になるという。

 戦国の天下人が京・伏見で築いた城の内堀(最大幅)と比べると、秀吉の木幡山伏見城の100メートルと聚楽第(上京区)の43メートルに次ぎ、織田信長の旧二条城(同)の27メートルや徳川家の二条城の25メートルを上回る。市文化財保護課は「今回は堀の底まで行き当たらなかったが、地形などから深さも15メートルほどに達するとみられる。天下人にふさわしい規模で城を築いていたことを裏付ける」としている。

 調査地は伏見区桃山町泰長老の公務員宿舎敷地内で、3カ所計145平方メートルを8月から調べている。現地説明会を23日午前10時~正午に開く。警報などが発令されている場合は中止する。現地事務所080(4854)9054。

 平安京「羅城」と「九条大路」を初確認 南端の位置が確定

 京都市埋蔵文化財研究所(埋文研)は12日、同市南区の平安京跡の発掘調査で、都の内外を隔てる築地(ついじ)塀「羅城(らじょう)」の跡を初めて確認したと発表した。都の最南端を東西方向に貫く九条大路の跡も初めて見つかった。平安京に羅城があったことが証明され、研究者の間で異なる意見があった南端の位置も考古学的に確定し、埋文研は「平安京の実態を知る上で画期的な成果」としている。

 平安京の「右京九条二坊四町」に当たる計約5445平方メートルの区域を昨年12月から調査。東西方向に延び、砂利を敷き詰めて舗装した路面とその南北の側溝が見つかり、さらに南側の溝の外側に砂利と土をたたき固めた高さ約15センチ、幅約3メートルの土壇もあった。いずれも平安京が造営された9世紀当初の遺構とみられ、路面は九条大路、土壇は羅城の塀を築いた基礎部分と考えられるという。

 平安京の都市計画は905~27年に編纂(へんさん)された律令施行細則「延喜式」に記録されているが、確認された羅城と九条大路は、記述から推定される位置に一致した。

 羅城は、古代中国の都で外敵から守るため周囲に築かれた城壁。日本では都を荘厳に見せるため正門「羅城門」の周囲に築地塀として設けられた。平城京(奈良)では南辺のほぼ全体にあったことが調査で確認されているが、平安京では見つかっていなかった。今回の調査地は羅城門の西約630メートルに位置し、門から2区画目(二坊)に当たることから、平安京でも南辺全体にあった可能性がある。

 一方、九条大路の遺構は南北の溝の間が約30メートルあり、大路の南側の羅城と北側にあったとみられる築地塀の間は約36メートルと推定された。延喜式には「南の極(きわ)の大路12丈、羅城の外2丈」(1丈は約3メートル)と記され、大路の道幅に「外2丈」を含むのか意見が分かれていたが、遺構から「外2丈」を含まない「12丈」と結論付けられた。

 西山良平・京都大名誉教授(日本古代中世史)は「平安京が実際にどの程度まで造営されたかは古代史上の争点だったが、南端までかなり高い精度で造られていたことが明らかになった。日本の都城の発達史を考える上で極めて大きな成果といえる」と話している。現地説明会を14日午前10時~11時半に開く。問い合わせは現場事務所(080・1402・4072、当日のみ)。

 平氏一門の屋敷跡から墓石の原型が出土 一帯は墓所「鳥部野」か

 平安京郊外にあった墓所、鳥部野(とりべの)(鳥辺野)で埋葬された貴族の墓に使われたとみられる平安時代ごろの「笠塔婆(かさとうば)」が京都市東山区の六波羅政庁跡で見つかったと、民間調査会社・文化財サービス(伏見区)が9日発表した。鳥辺野が旧五条通(現松原通)南側に広がり、一帯を拠点とした平清盛の都市開発によって葬送地から姿を変えた変遷を考古的に裏付ける発見としている。

 笠塔婆は墓石の原形で3基が見つかった。うち最大の1基は石製で11世紀半ば~12世紀前半とみられ、国内最古級となる。六角形をした最頂部の笠と軸、四角形の土台が確認され、推定の高さは約1・8メートル。軸にはお経を収めるくぼみ「奉籠孔(ほうろうこう)」(幅約12センチ、奥行き約6センチ)があった。

 調査地は平安末期に平氏一門が屋敷を構えた「六波羅邸」跡(東山区五条通東大路西入ル北側)。8月までの同社の発掘で清盛が活躍した時代に築かれた軍事防御用の堀が見つかり、堀や周辺から笠塔婆のほか、方形に区画されたり、木棺を用いたりした11世紀~12世紀中ごろの墓計7基が出土していた。

 平安期の墓は平安京内では禁止されたため郊外につくられ、鳥辺野が最も知られる。文化財サービスは「平氏による開発で葬送地が武家の拠点に変わり、詳細位置が不明な鳥辺野が少なくとも現五条通から旧五条通にはあったことが考古的に明らかになった」とする。

 元興寺文化財研究所の狭川真一副所長(仏教考古学)は「『餓鬼草紙』の絵は京近郊の墓所の風景を描いたとされ、想起させる遺構は重要な発見と言える。調査地は墓が規則性を持って並ぶなど計画的につくられた墓域だったとみられ、鳥辺野全域において絵のように放置遺体が散乱していた可能性は低い。方形区画墓や笠塔婆を備えた点などから、藤原氏傍流といった貴族の一族墓所があったのではないか」と話している。

 笠塔婆は21日まで下京区の京都産業大むすびわざ館(日曜・祝日休館)で、22日~11月4日は上京区の市考古資料館(月曜休館だが祝日の場合は翌日休館)で展示される。いずれも入場無料。

 自然石だけで石室築造 古墳出現期で初の発掘例、京都・向日

 国史跡乙訓古墳群の一つで、古墳時代初期の大型前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」(京都府向日市寺戸町)から、河原の石を積み上げた竪穴式石室が見つかり、向日市埋蔵文化財センターが6日、発表した。古墳が出現し始めた時期に、加工をしていない自然石だけで大型前方後円墳の石室を築造していた発掘例は初めて。埋葬の実態を示す新たな手がかりになるという。

 竪穴式石室は後円部の中央から確認された。長さ6・2メートル、幅1・3メートルの長大な規模だった。石室上部までの調査のため深さは未確認で、推定1・5メートル以上とみられる。地元の川で採取した30センチ程度の石を重ねて垂直の壁を築き、上部を天井石と粘土で覆っていた。一部は自然崩壊していた。

 ほぼ同時期の前方後円墳の石室は、中山大塚古墳や黒塚古墳(いずれも奈良県天理市)で発掘されている。それぞれの石室は、板状に削った石を積み上げたか、河原の石など自然石と組み合わせて作られていた。古墳出現期は、この形式が各地で採用されたと考えられていた。

 今回の調査では、弥生時代終わりから古墳時代初めごろの土師器(はじき)の破片も初めて出土した。石室を埋めた後に地上で行った祭事で使われた可能性がある。想定されていた築造時期が裏付けられ、邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼の墓説がある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)と同時期の3世紀半ばであることが確実となった。大型前方後円墳としては最古級になるという。

 築造の時期や大規模な石室が明確になったことなどから、センターは「ヤマト王権の一翼を担った主要な人物が埋葬されていたのではないか」としている。発掘は、国史跡指定後の継続調査で、埋蔵施設を確認するために市教委が昨年7~11月に実施した。すでに埋め戻されており、調査内容は向日市寺戸町の市文化資料館で7日から始まる成果展で紹介する。

 卑弥呼と同時代、重要文化財の銘鏡など展示 京都・宮津

 京都府京丹後市で見つかった重要文化財の「湯舟坂2号墳出土環頭大刀(かんとうたち)」と「大田南5号墳出土青龍3年銘鏡」が、宮津市国分の府立丹後郷土資料館で展示されている。2対の竜が向かい合って玉をかむ大刀の柄頭の意匠や、中国の年号が入った鏡では国内最古とされる銘鏡の細部が見学できる。

 国際博物館会議(ICOM)京都大会の開催を記念して特別に陳列した。

 大刀は金メッキが施され、有力な豪族の副葬品と考えられている。銘鏡は中国・魏(ぎ)の年号「青龍三年」(235年)が刻まれており、239年に魏に使者を送った卑弥呼と同時代のものとされる。

 16日まで。月曜休館(16日は開館)。7日まで無料で、8日以降は入館料(高校生以上200円)が必要。

 飛鳥宮跡出土の木簡300点を解説 橿考研が報告書刊行

 橿原考古学研究所は、飛鳥宮跡(明日香村)の発掘調査で出土した主要な木簡約300点を解説した「飛鳥宮跡出土木簡」(県文化財調査報告書第182集、A4判56ページ)を刊行した。昭和60年3月の第104次調査で発見され、注目を集めた「大津皇子」や「大来(おおく)皇女」の木簡などを紹介。飛鳥宮跡出土の主要木簡を一堂に紹介する報告書の刊行は初めて。

 報告書では、昭和41年~平成14年にかけての発掘調査で出土した1400点を超える木簡のうち、305点を取り上げ、釈文(しゃくぶん)と写真を付けて紹介している。

 最も注目されるのは、第104次調査で出土した木簡。飛鳥宮東外郭(がいかく)の塀に伴う石組み溝に1082点にも上る木簡がまとまって残っていたが、報告書ではこのうち159点を紹介。大津皇子関係では、「大津皇」「津皇」などと記されていた。大津皇子は謀反の罪を着せられ、自害に追い込まれた悲劇の人物。一方、大来皇女は大津皇子の姉で、伊勢神宮の斎王(さいおう)を務めた。「大来」「太来」と書かれた木簡が確認されている。

 また、天武10(681)年を示す「辛巳年(しんしねん)」や大友皇子を指す「大友」、国名の「伊勢国」「尾張」などと記された木簡も紹介。これらは登場する人物や国名などから歴史書をつくる部署で書かれ、投棄されたとみられる。いずれも字を練習するための習書木簡で、日本書紀を編(へん)纂(さん)する際の原資料と推測される。

 このほか、昭和51年の第51次調査で見つかった冠位を示す「大花下」や地方組織について記した「白髪部五十戸」▽平成12~13年の第143次調査で出土した天智5(666)年を指す「丙寅年(へいいんねん)」▽平成13~14年の第147次調査出土の天武5(676)年を指す「丙子年(へいしねん)」-などの木簡についても説明している。


 報告書は出土木簡による大きな成果として、紀年銘(きねんめい)木簡と土器により、宮殿遺構の年代特定が可能になったと指摘。飛鳥宮跡の最上層遺構は「後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原(きよみはら)宮であることが確定した」と結論づけている。また、地方行政や都での役所の配置などを考える上でも、重要な資料になると強調している。

 380万年前の猿人、顔を復元
 エチオピアで頭骨化石発見

 アフリカ東部エチオピアで、約380万年前の初期人類アウストラロピテクス・アナメンシス(アナメンシス猿人)の頭蓋骨の化石を見つけ、顔を復元したと、米クリーブランド自然史博物館などのチームが28日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。

 アナメンシス猿人の頭部の化石がほぼ完全な形で見つかったのは初めて。人類の進化の解明に役立つとしている。

 化石は2016年に発掘。成人男性とみられる。あごが前に突き出し、耳の穴が小さく、脳を収容する空間が細長くて小さい。こうした特徴は700万年前ごろの極めて初期の猿人に近いという。

 山城地域最大の前方後円墳で国史跡の「久津川車塚古墳」(城陽市平川、全長約272メートル)の発掘調査を進めている市教育委員会は28日、後円部下段の直径が約110メートルあることなど、後円部の規模が初めて分かった、と発表した。

 史跡整備に向けた調査で、2014年度から行っている。今回は後円部の北東から西にかけて約70平方メートルを調べた。3段構造の墳丘のうち、後円部の斜面やテラス(平坦部)を調べて、斜面とテラスの境目となる石などを確認し、直径や中段と下段のテラスの幅などを割り出した。

 古墳の主軸上に当たる後円部真北の斜面では、斜面を縦に区切る石の列も見つかり、築造時に軸を意識して作業していた可能性が考えられるという。

 調査を指導する大阪市立大の岸本直文教授(考古学)は「久津川車塚古墳は大阪府羽曳野市の応神天皇陵古墳をモデルに造ったと考えられている。大きな古墳が地方に伝わった際に、どのようなサイズになるかを知る貴重な史料だ」と話す。

 31日午後1時から現地説明会がある。小雨決行。車での来場は不可。近鉄久津川駅から徒歩約10分。問い合わせは市教委文化・スポーツ推進課0774(56)4049。

 鎌倉時代遺構で「災害と復興の痕跡」京都・金生寺遺跡で説明会

 鎌倉時代の掘っ立て柱建物跡が見つかった京都府亀岡市曽我部町の「金生寺(こんしょうじ)遺跡」で24日、現地説明会が行われた。猛暑の中、約90人の参加者が柱や災害の痕跡を眺め、地域の歴史を振り返っていた。

 発掘した府埋蔵文化財調査研究センターが催した。遺跡からは建物跡4棟や土師(はじ)器皿などが出土したほか、大規模な土石流の痕跡も見つかった。センター担当者から「鎌倉時代の民の暮らしが復元できる遺跡」との解説を受けると、うなずきながら、メモをとる参加者もいた。

 弥生~古墳時代の木製農具が出土 亀岡余部遺跡

 京都府教委と亀岡市教委は22日、同市余部町の余部遺跡で、これまでの調査で不明だった200年近い期間の様相を考証する遺構や遺物が見つかったと発表した。複数の用水路跡から、弥生~古墳時代の木製農具を出土し、担当者は「丹波地域の生産活動を考える貴重な資料」とみる。

 同遺跡は縄文時代から中世にかけての複合遺跡。これまで弥生時代中期の建物跡や古墳時代後期の古墳などを確認している。

 国営農地の整備に伴い、府教委は5月から約1300平方メートルで調査。弥生時代後期から古墳時代前期にかけて作られたとみられる用水路跡3本や、中世の溝が見つかった。

 遺構からは20種類に及ぶ木製品が約40点出土。長さ約70センチの「曲柄又鍬(まがりえまたぐわ)」や田げたなどで、水路の掘削や周辺の耕作に使われたとされる。保存状態の良い農具がまとまって見つかることは口丹波地域でも珍しいという。

 一方、亀岡市教委の調査区では、自然流路から人工的に引いた水路跡で、地域一帯に流通していた丹波型の瓦器椀(がきわん)(中世)も完形で見つかった。

 26日午前10時から現地説明会を開く。問い合わせは府教委文化財保護課075(414)5903。

 奈良の飛鳥京跡苑池に流水施設
 7世紀、天皇の祭祀用か

 飛鳥京跡苑池で見つかった流水施設。左上が階段状の護岸、右上の石組みの中に湧き出た水が切り石を敷いた溝を流れる=8日、奈良県明日香村(共同通信社ヘリから)
 飛鳥京跡苑池で見つかった流水施設。左上が階段状の護岸、右上の石組みの中に湧き出た水が切り石を敷いた溝を流れる=8日、奈良県明日香村(共同通信社ヘリから)
 飛鳥時代(7世紀)に造られた日本最古の本格的庭園とされる飛鳥京跡苑池(奈良県明日香村)で湧き水を利用した流水施設が見つかり、県立橿原考古学研究所が8日、発表した。石組みの中に湧き出た水が、大規模な石敷き区画の中に設けられた溝を流れる構造で、天皇が祭祀などで使う重要な空間だった可能性が高い。

 苑池は天皇の宮殿があった地区に隣接し、北池と南池がある。女帝・斉明天皇の時代に築かれ、息子の天武天皇が改修したとされるが、北池の機能はよく分かっておらず、南池の水量調整などを行う付属的な池と考えられていた。階段状の護岸も見つかった。


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