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2012/01/26 (Thu) 鳥居前古墳
2012/01/23 (Mon) 現地説明会に500人
2012/01/20 (Fri) 手原遺跡
2012/01/19 (Thu) 長岡京跡
2012/01/14 (Sat) 美濃山廃寺遺跡

 ギリシャ、古代遺跡撮影料値下げ
 歳入増目指す

 事実上の財政破綻に追い込まれたギリシャ政府は27日までに、パルテノン神殿で有名なアテネのアクロポリスなど古代遺跡での映画や写真撮影の許可料などを大幅に引き下げる決定をした。

 これまでは高額で撮影の申し込みが少なかったため、料金を下げて申請件数を増やし、政府の歳入増につなげるのが狙い。国民の間では「われわれの文化遺産を安売りするな」との反対意見も出ている。

 文化・観光省によると、同国の古代遺跡で映画を撮影する場合、これまでは1日4千ユーロ(約41万円)の撮影許可料が必要だったが、今月からは同1600ユーロに値下げされた。

 鳥居前古墳:集落側の墳丘、山側より高く 淀川からの見栄えを考慮?

 大山崎町教育委員会は25日、大和政権に参画した有力者の墓とみられる鳥居前古墳(同町円明寺)について、墳丘の東側が西側より高さが高くなる造りだったことが分かったと発表した。片側だけ高く作られた古墳は珍しく、東側に点在する集落などに見栄えを良くする狙いがあったのではとみている。

 同古墳は中規模の前方後円墳(全長51メートル、高さ8メートル)で、主体部は竪穴式石室。古墳時代前期末〜中期初頭(400年前後)に築造されたとみられる。朝鮮半島南部からも出土している巴型銅器などが見つかっており、大和政権で外交に関与していた有力者を埋葬したと推認されている。

 町教委によると、これまでの調査では前方部は1段、後円部は3段構造としていた。しかし今回、墳丘の裾の部分を掘り下げたところ、東側から新たにもう1段が見つかった。この段は高さ約1メートル、長さ約11メートルの盛り土で成形され、ふき石が敷かれていた。

 同古墳は、西側が山を背にしているのに対し、東側には河川交通の要だった淀川があるほか、点在する集落遺跡も確認されている。

 町教委の古閑正浩さん(43)は「集落や水上交通路からの見栄えをよくするため、東側だけ意識的に高く作った可能性がある」としたうえで「古墳とそれを支えた地域との関係を考える上で重要な成果」と話した。

 28日午後1時から、現地説明会が開かれる。現場は西乙訓高校正門の西側約60メートル。小雨決行。問い合わせは町教委(075・956・2101)。

 紫香楽「内裏正殿」建物跡

 天皇が住み、祭祀(さいし)を行った「内裏正殿」と見られる大規模な掘立柱建物跡が見つかった甲賀市信楽町宮町の紫香楽宮跡(宮町遺跡)で22日、現地説明会が開かれた。地元や京阪神などから約500人が駆けつけ、説明に耳を傾けた。

 紫香楽宮跡では今回の調査で、東西に2棟の正殿がある内裏構造だったことがわかった。同様の構造は、紫香楽宮以前に都が置かれた恭仁京跡(木津川市)でしか確認されていないといい、注目を集めている。

 説明会では、同市教委の担当者が「(遺跡の)北側部分はまだ発掘を行っておらず、引き続き宮の全容解明に向けて調査したい」などと説明。参加者たちからは積極的に質問が出されるなど、終始にぎわいを見せていた。


 井戸跡から出土のつぼに人形 栗東の手原遺跡

 滋賀県栗東市の手原遺跡で、木製の人形(ひとがた)2体がつぼに収められた状態で井戸跡から見つかった。調査に当たった市教委と市体育協会文化財調査課によると、災厄をはらう祭事で川や水路に流される事例が一般的な人形が、井戸に手厚く封入されていたのは珍しい、という。21日に栗東歴史民俗博物館で開かれる2010・11年度発掘調査成果報告会で展示解説される。

 手原遺跡では奈良時代(8世紀)の寺院や役所跡が確認されている。今回は、同文化財調査課が昨年1月、遺跡北西部(同市蜂屋)の一角で同時代に掘られた直径約4・3メートル、深さ2・5メートルの井戸の遺跡から、細くなっている首の部分が欠けた直径15センチ、高さ14センチの須恵器のつぼを発見。その中に人形が収められていた。長さ約13センチ、幅約2・5センチと、約15センチ、幅約2・2センチの2体。ともに杉製で、頭部から肩にかけてあごひげのある顔が墨で描かれていた。

 木製人形は奈良時代、病や災厄を乗り移し、川や水路に流す祭事に用いられた。辰巳和弘同志社大元教授(古代学)は「当時は井戸やつぼの中も異世界に通じていると信じられていた」と指摘。そのうえで「(井戸の中に、しかもつぼに入れて、という)二手間かけた厄払いの事例は珍しく、当時の精神世界を知るうえで重要。よほど大きな災厄があったのでは」と推測する。

 報告会は21日午後1時半から。無料。問い合わせは歴史民俗博物館TEL077(554)2733。

邸内の通路発見 小路出入り用か

 平安遷都前の都・長岡京跡で、貴族が住んでいたとみられる邸宅内の通路が見つかったと、長岡京市埋蔵文化財センターが18日、発表した。当時、道幅の広い大路(おおじ)に門を構えられたのは上級貴族だけで、下級貴族が邸宅から狭い小路(こうじ)に出るために作ったとみられる。

 調査地は、長岡京(784〜794)跡の西部に位置する長岡京市長岡2丁目。東に大路、西と南北は小路に囲まれた正方形の区画(113メートル四方)の一角で、溝と柵に挟まれた南北約24メートル、幅約2メートルの通路が確認された。

 平安時代、大路に門構えを持てるのは上級貴族だけと決められ、下級貴族や役人は小路から出入りしたとされる。長岡京でも同様の決まりがあったとみられ、すずりや墨書土器も出土したことから、同センターは邸宅は下級貴族のもので、通路は5メートル南の小路まで続いていたとみている。

 小田桐淳・同センター事務局長は「長岡京の邸宅の構造を知る手がかりになる」と話す。現地説明会は21日午後2時から。阪急長岡天神駅の北西300メートル。問い合わせは同センター(075・955・3622)へ。

恭仁宮と同じ東西対称の内裏構造 紫香楽宮跡

 滋賀県甲賀市教委は18日、同市信楽町の紫香楽宮跡(宮町遺跡)で、大規模な掘立柱建物跡が見つかった、と発表した。天皇が住み、祭祀(さいし)を行った「内裏正殿」の可能性が高く、東西に2棟の正殿を持つ内裏構造だったことが判明。同様の内裏は恭仁宮跡(木津川市)しか例がなく、市教委は「内裏構造が分かったのは初めて。紫香楽宮の特性を考える上で貴重な発見」としている。

 紫香楽宮跡では10年前の調査で、政治の中心区画「朝堂」北西部から大型建物跡が出土。主要建物にもかかわらず遺跡の中軸線から西に外れていたため、東からも建物が見つかる可能性が考えられていた。

 今回は朝堂の北東部から、東西24・9メートル、南北14・8メートルの掘立柱建物跡が出土した。西側の建物跡と規模や構造が近いため、市教委は、一対として建築されたと判断。一般的に朝堂北側に内裏を置くことなどから、「東西に二つの建物が並立する内裏構造が解明できた」としている。

 出土した建物跡について、史跡紫香楽宮跡整備活用検討委の黒崎直副委員長(富山大名誉教授)は「規模や構造から内裏正殿の可能性が高い。紫香楽宮調査の中で、朝堂跡出土などに続く重要な成果」と説明した。

 東西対称の構造を持つ内裏は、過去に恭仁宮で確認され、今回が2例目。二つの宮はともに聖武天皇によって築かれ、恭仁宮は740〜744年に、紫香楽宮は745年の一時期、都が置かれた。当時は藤原氏と反藤原氏の権力争いが行われ、黒崎副委員長は「恭仁宮では、こうした対立の影響で内裏を二つに分けたとの説もある。紫香楽宮でも同様の構造を持つことが分かり、より研究が進むのでは」としている。

 現地説明会は22日午前10時と午後1時半から行う。問い合わせは甲賀市教委TEL0748(86)8026。

 土器に日本最古の「いろは歌」 三重・斎宮跡から出土

 天皇の名代として伊勢神宮に仕えた「斎王」が住んだ国史跡「斎宮(さいくう)跡」(三重県明和町)から、ひらがなで「いろは歌」の一部が書かれた、11世紀末から12世紀前半の土器の破片が見つかり、県立斎宮歴史博物館が17日、発表した。ひらがなのいろは歌が書かれた出土物としては日本最古になるという。

 文字が書かれていたのは縦約7センチ、横約4センチ、厚さ約1センチの「土師器(はじき)」と呼ばれる素焼きの土器片で、復元すれば直径約9センチの皿になる。文字の大きさは約1センチ四方で、墨で皿の内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と書かれていた。

 同館は、斎宮に住む皇族や女官たちが、文字を覚えるために練習用に書いた「習書」の可能性が高いとみていて、京都の華やかな貴族文化を持つ斎宮に、早い段階でひらがなを学ぶ文化が伝わっていたことをうかがわせる史料として注目している。

 「いろはにほへと」で始まる「いろは歌」は、ひらがなを覚えるための手習い歌の一つで、10世紀末から11世紀中頃に成立したとされる。

 出土物に書かれていた例では、奥州藤原氏が治めた岩手県平泉町の平安時代後期の地方都市跡「志羅山遺跡」で出土した、12世紀後半の木簡が最古だった。

 「いろは歌」が書かれた墨書土器などの出土物は21日から3月11日まで、同館で展示される。

     ◇

 いろは歌 音の異なる、かな47文字から成る歌。手習い歌のほか、順序を示すのにも使われた。平安中期ごろに作られ、文献で最初に出てくるのは1079年の仏教の経典の一つ「金光明最勝王経音義」の巻頭部分で、漢字を使って日本語の発音を表す「万葉仮名」で表記されている。空海が作ったといわれたこともあったが、現在では疑問視されている。

 ひょうたん形土器が初出土 八幡・美濃山廃寺遺跡

 八幡市美濃山の「美濃山廃寺遺跡」を発掘調査している京都府埋蔵文化財調査研究センターと八幡市教委は13日、中心施設とみられる掘っ立て柱作りの建物跡とともに、全国でも例のないひょうたん(ひさご)形の土器が見つかった、と発表した。仏教法具とみられる。これまでの調査で国内最古となる奈良時代の覆鉢形の土製小塔も出土しており、センターは「これまで知られていた畿内の寺院とは異なる信仰のありようを知る上で貴重な発見」としている。

 新名神高速道路建設に伴い、昨年4月から寺域を含む約1万6千平方メートルを調査した。

 ひょうたん形土器は寺域内の南側で13点見つかり、高さ10〜20センチ。鉢形小塔と同じく奈良時代中頃の作とみられる。塔の頂を飾る宝珠などを模し、木や青銅の土台の先端に付けて「小塔供養」に使ったとみている。

 建物跡は東西20メートル、南北10メートルで、掘っ立て柱の柱穴が16基見つかった。南側の柱間は最大で約7メートルもあったが、建物の規模からみて、同センターは「間に礎石を用いた支柱があったのではないか」と推測している。

 また、中心施設の北側には時代が異なる計30棟の倉庫群などがあり、寺域の南側には、寺院建立のための瓦窯や銅製品を作る溶解炉跡も見つかった。

 ひょうたん形の土器について上原真人京都大大学院教授(考古学)は「当時、小塔をたくさん作って奉納すると功徳が得られるという考えがあった。中央政府と密な関係があった大寺院のように巨大な塔の建造ができなくても、地方寺院が柔軟な独自の手法で信仰を深めていったのではないか」と話す。

 現地説明会は15日午前11時、午後1時。問い合わせは現地事務所携帯電話090(8207)5285。

■美濃山廃寺 7世紀後半(白鳳時代)に地方豪族が建て、9世紀前半(平安時代)には廃絶したとみられる。開発をのがれたため、地方の古代寺院を解明する有効な手掛かりとされる。過去の調査では、国内最古とみられる鉢形小塔や大量の瓦、国産の施釉(せゆう)陶器「奈良三彩」の壺(つぼ)の一部が見つかった。

 長崎・松浦市で発掘

 長崎県松浦市で発掘された国内最古級のサイ科の化石と福井県立恐竜博物館の宮田和周主任研究員=6日、福井県勝山市 長崎県松浦市教育委員会と福井県立恐竜博物館は13日、松浦市鷹島町で見つかった大型哺乳類の化石約100点が、約1800万年前のサイ科と分かったと発表した。岐阜県可児市などで数多く見つかっているサイ科化石と並び国内最古級。同時期のサイ科化石で、全身の様子が推測できるまとまった発見は国内初という。

 発掘に当たった同博物館の宮田和周主任研究員は「現代のサイが属するサイ科のグループは約2300万年前に登場したが、東アジアでは同時期の資料が少なく、アジアでのサイの初期段階を知る上で貴重」としている。


 1億5千万年前か

 10日付の中国紙、新京報によると、北京市延慶県は9日、恐竜の足跡の化石を発見したと発表した。北京で恐竜が生息していた痕跡が見つかったのは初めてという。

 肉食、草食恐竜のものとみられる足跡が数百残されており、調査した科学者は約1億5千万〜1億4千万年前のジュラ紀のものとみている。

 中国では遼寧、甘粛、雲南の各省や内モンゴル自治区が恐竜の化石発見地として知られる。

石室のレリーフは何を暗示? ヤマト王権に対抗した吉備王国とは

吉備王国−。弥生から古墳時代の岡山には、畿内を首都としたヤマト王権に匹敵する一大勢力があったという。卑弥呼の時代から強い影響力を及ぼし、倭の五王が活躍した5世紀には、国内4番目の規模を誇る造山(つくりやま)古墳を築造。造山古墳に付随する千足(せんぞく)古墳では昨年12月、石室に施されたレリーフが取り外され話題になった。未知の天皇の存在を暗示するかのような強大な古墳と、本州で唯一見つかった神秘のレリーフは何を物語っているのか。

国内最大の「登れる古墳」

岡山市街から西へ約10キロ。中国山地に囲まれた盆地に、こんもりした山がポツンと見える。斜面はなだらかで、頂上に神社のほこらのある点が、周囲の山々とは趣が異なる。これが造山古墳(全長350メートル)だ。

規模では仁徳天皇陵(堺市、全長486メートル)などに次ぎ国内ベスト5に入る。他の4古墳は陵墓として宮内庁が管理し、厳重に柵で囲まれているため、造山古墳だけが墳丘の上まで登ることができる。

後円部は被葬者の石室があるとみられるが、登ってみると意外に平坦(へいたん)で広い。ただ、周縁部だけが1メートルほど高くなっていることから、中心部は山城などとして利用された際に掘り返されたとみられる。発掘調査が行われていないため、石室の構造や副葬品は不明だが、墳丘に立って地下の状況を想像するだけで、歴史ロマンがかき立てられる。

これだけの規模を誇る造山古墳は、奈良や大阪を中心とする畿内の天皇陵と比べても全く引けを取らない。仁徳天皇陵や応神天皇陵(大阪府羽曳野市、全長420メートル)には及ばないものの、同時代の允恭(いんぎょう)天皇陵(同府藤井寺市、230メートル)や反正天皇陵(堺市、148メートル)などをはるかにしのぐ。

謎秘める千足古墳

造山古墳の南西約200メートルにあるのが、国史跡の千足古墳(5世紀前半、全長74メートル)。石室を区切る板石「石障(せきしょう)」(高さ53センチ、長さ162センチ、厚さ13センチ)の表面には、直線と円を組み合わせた「直弧文(ちょっこもん)」と呼ばれる特殊な文様のレリーフが施されている。鎖でがんじがらめに縛り付けたようにも見えるデザインは、死者の魂を封じ込めるためとか、魂を外部の邪悪なものから守るためなど、さまざまな説がある。

この文様のレリーフは本州にはなく、北部九州や熊本の古墳にみられ、石室の石材は香川産であることが分かっている。つまり、千足古墳は九州や四国の文化を取り入れて造られたという。被葬者は、造山古墳の被葬者の親族や有力家臣とみられることから、造山古墳も中四国や九州を勢力範囲とし、ヤマト王権とは一線を画した王国の首長ともいわれている。

ただし、造山古墳や千足古墳は、畿内の天皇陵などと同様の墳形、前方後円墳であることから、ヤマト王権と密接な関係を指摘する説も強い。岡山の研究者は「吉備王国」、関西の研究者は「畿内の支配下の墓説」を唱える傾向があり、古代の対立が現在の学界にも反映されているようだ。

卑弥呼にも吉備の影響?

卑弥呼が活躍した2〜3世紀にも吉備地域は独自文化を築きながら、ヤマトに強い影響力を及ぼした。2世紀後半〜3世紀前半に築かれた墳墓「楯築(たてつき)墳丘墓」は全長70メートル以上で、畿内の最古級の前方後円墳に迫る規模だ。有力者の墓に供えられ、装飾文様の施された「特殊器台」と呼ばれる土器は、吉備地域で発達。卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(奈良県桜井市)や最古級の大規模前方後円墳には、特殊器台をモデルにした「特殊器台形埴輪(はにわ)」が使われるなど、当時から関係が深かった。

考古学の成果から考えると、卑弥呼時代の吉備王国は、ヤマト王権と対立するのではなく、連合政権だったともみられる。

レリーフの危機

吉備王国のカギを握るともいえる千足古墳は、飛鳥美人像などが描かれた高松塚古墳(奈良県明日香村、8世紀初め)やキトラ古墳(同村、7世紀末)に次ぐ国内3例目の石室装飾の取り外しという点でも議論を呼んだ。

石障が取り外されたのは、レリーフの剥落(はくらく)が進んだためだったが、国史跡でありながら貴重な歴史遺産の劣化を防げなかったことは、文化財行政に大きな課題を突きつけた。

千足古墳が調査されたのは約100年前。明治45年に盗掘されたのを受け、大正元年と同12年に調査され、石障レリーフの写真撮影などが行われた。

石室は、大正の調査以来、整備などは行われず、石室内は水がたまりっぱなしだった。市教委によると、石室内は、水を抜いても10日もすれば雨で天井近くまで水がたまった。そのため、空気にさらしたり水没したりという頻繁な環境変化は、かえって石障を傷めると判断。空気から遮断する方が保存にいいとして、20年ほど前から水没したままになっていた。

ところが、その間にレリーフの剥落が進行。剥落は平成21年の岡山大の調査で判明し、ヘドロが石室床面から20センチほど堆積した部分が最もひどかったという。

考古学や保存科学の専門家らが対策を検討した結果、このままではさらに剥落が進むとして、取り外して本格的な修復作業を行うことになった。石障は修復後に石室内に戻す予定で、墳丘も石室内に水が入らないよう整備を行うという。

遺跡は現地保存が大原則といいながら、高松塚古墳では石室解体、朱雀などが描かれたキトラ古墳の壁画ははぎ取られた。そして今回も取り外され、いずれも現地保存はできなかった。

千足古墳の一枚の板石は、吉備王国のロマンとともに、文化財保存のあり方をも問うことになった。


 「国分尼寺」跡か

 大津市教委は3日、大津市国分1丁目の石山国分遺跡から、平安時代の仏具とされるつぼや花器の破片約10点が見つかったと発表した。出土品から、尼寺「国分尼寺(に・じ)」跡の可能性が大きいという。7日午前10時半から現地説明会がある。雨天決行。

 市教委によると、石山国分遺跡のあった一帯は奈良時代から平安時代にかけて、大規模な寺院「国昌寺」があり、平安時代には国分寺にも指定。その際、国分尼寺が併設された記録があるという。

 これまでの調査で、当時の区画を表す溝「条里」を一部発見。出土品は条理周辺に多数あった瓦の破片の中から見つかった。

 石山国分遺跡では昨年7月、藤原宮(694〜710)の瓦を焼いたとみられる窯跡が県内で初めて見つかった。今回の調査場所はそこから約500メートル離れている。

 室町期の今出川南北に? 同志社大の水路跡発掘

 京都市上京区の同志社大今出川キャンパスの発掘調査で2010年に見つかった室町時代の水路跡が、当時、付近を流れていた「今出川」の可能性があることがこのほど分かった。今出川は何度か流路が変わったとみられ、研究者は「応仁の乱で変化した京都のまちを知る手掛かりになる」としている。

 今出川とみられる水路跡は、10年から11年まで同大学が行った相国寺旧境内の発掘調査で発見された。ほぼ南北に流れ、幅は10メートル近くあり、自然の流路を加工したとみられる。相国寺創建期(14世紀後半)に設けられ、応仁の乱(1467〜77年)後に埋められたらしい。また、11年に300メートル北で行った烏丸キャンパス予定地の発掘でも、今出川キャンパスで見つかった流路に沿うとみられる道路跡があった。

 応仁の乱以前の室町時代の京都を描いたとされる江戸時代の地図「中昔京師地図」には、当時の相国寺境内を流れる今出川が描かれており、発掘結果と位置が合うという。

 今出川は、鎌倉時代の「徒然草」に応長年間(1311〜12年)に一条通付近まで流れていたことをうかがわせる記述がある。室町期になって、北から流れてきた川が、現在の今出川通あたりで東に折れるなど、何度も流路を変えていた。発掘を担当した同志社大の鋤柄俊夫教授(考古学)は「一帯は応仁の乱などで、まちの造りが大きく変わった。今回の水路は都市構造の変遷を示す一つの成果といえる」としている。

 長崎に潜伏キリシタン墓碑
 禁教令下も残存、国内初

 長崎市多以良町にある墓地に、禁教時代の17世紀半ばから後半にかけて建てられた潜伏キリシタンの墓碑があることが、分かった。長崎歴史文化博物館(長崎市)の研究員らでつくる「外海キリシタン研究会」が23日、明らかにした。

 江戸幕府の禁教令下に建てられ、破壊されずに残った墓碑が確認されるのは国内で初めてという。

 墓地にあるキリシタン墓碑64基のうち、17世紀に建てられたとみられるのは長墓と呼ばれる2、3基。先端部近くに十字架に見立てた石柱が建てられており、初期キリシタン墓に特徴的な形だという。

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