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2009/11/20 (Fri) 茶臼山古墳
2009/11/20 (Fri) 恭仁宮跡
2009/11/20 (Fri) 高松塚をCGで再現
2009/11/19 (Thu) 津万遺跡
2009/11/18 (Wed) 阿部山遺跡群
2009/11/18 (Wed) 京田辺市の文化財展
2009/11/18 (Wed) ミイラをCT検査
2009/11/18 (Wed) 国史跡・高麗寺跡

 木棺重量は264キロ - 桜井茶臼山古墳

 初期ヤマト政権の大王墓級の前方後円墳・桜井茶臼山古墳(桜井市外山、3世紀末〜4世紀初め、全長200メートル)の木棺の現存重量は264キロだったことが分かった。

 県立橿原考古学研究所が、保存と調査を目的に石室内から取り出していた木棺の重量や形状を、18日に測定した。木棺は、コウヤマキ製の大木を縦に二つに割って埋葬部分をくり抜いた「割竹形木棺」で、底部だけが現存。長さ4.89メートル、幅75センチ、厚さ最大27センチ。

 恭仁宮跡 初期平城宮と類似構造

 奈良時代の740〜744年に聖武天皇が都を置いた恭仁宮(くにきゅう)跡(木津川市加茂町)で、役人が政務を行った「朝堂院」と、待機場所の「朝集殿院」を区切る塀の一部とみられる柱穴などが見つかり、府教委が19日、発表した。朝集殿院は朝堂院より東西に長かった可能性が高く、専門家は「初期平城宮と同じ配置で、都城の変遷がわかる貴重な成果」としている。

 昨年の調査では東西一列に3メートル間隔で柱穴が6か所あり、朝堂院の建物跡とされた。しかし今回、さらに西側に柱穴(長辺1・5メートル、短辺1メートル)が同じ間隔で2か所、北側には南北に柱穴(同)が2か所出土。南北に並んだ柱穴は朝堂院の西塀とみられ、東西の柱穴は朝堂院と朝集殿院を区切る塀の可能性が高くなった。西端の柱穴は南北に並んだ柱穴より9メートル西側にあり、朝集殿院は朝堂院よりも幅が広く、東西幅が134メートルだったとみられるという。

 奈良文化財研究所の井上和人・都城発掘調査部長は「こうした変則的な形は、初期平城宮と恭仁宮だけで、非常に興味深い」と話し、恭仁宮跡の調査専門委員会の中尾芳治委員長は「恭仁宮が、平城宮をモデルに築造されたことが明確になった」と述べた。

 現地説明会は21日午前10時、午後1時、同3時からの3回。

 国宝、飛鳥美人に会いませんか
 奈良・高松塚をCGで再現

 特殊なゴーグルを着けて高松塚古墳(奈良県明日香村)を眺めると、石室が浮かび「飛鳥美人」が現れる―。コンピューターグラフィックス(CG)で再現した遺跡の映像を、現実の風景に重ねて見せる新技術を東大の研究室が開発。20日までに、在りし日の高松塚の情景がよみがえった。

 高松塚の石室は、劣化した壁画を修復するため2007年に解体された。現在は復元された芝生張りの墳丘があるだけだが、新技術により、石室に入って女子群像(飛鳥美人)や四神図の「玄武」「青竜」など、壁や天井に描かれた国宝壁画を間近に見る仮想体験ができる。

 東大の池内克史教授(情報工学)は「外から眺めても墳丘は土の山だが、中にあった石室や壁画を重ねれば、高松塚をより深く知ってもらえる」と期待している。

 CGは06年に奈良文化財研究所が撮った石室などの高精度な写真を使って作成。この技術を使ったイベント「バーチャル飛鳥京プロジェクト」が21〜23日、国営飛鳥歴史公園(明日香村)で開かれ、希望者は実際に「高松塚の石室見学」をすることができる。

 平安末期の墓から化粧道具
 兵庫、在地領主の女性か

 兵庫県西脇市の「津万遺跡」で平安時代末期の墓の中から、鏡や毛抜きなどの化粧道具一式が見つかり、兵庫県立考古博物館が18日、発表した。

 化粧道具がそろって見つかるのはまれで、当時の風俗を探る上で貴重な史料となりそうだ。

 周辺は平家一門が所有した荘園だったとされており、同博物館は管理を任された在地領主の女性の墓の可能性があるとしている。当時、女性の地位は高く在地領主も珍しくなかったという。

 化粧道具は縦166センチ、横110センチ、深さ20センチの土壙墓の隅で見つかった。骨はなかった。

 鉄製のはさみは長さ17センチ、鉄製の毛抜きは長さ8・5センチ、中国製の銅鏡は9センチ四方の正方形だった。直径6センチのつぼや青白磁の「合子」と呼ばれる直径5・7センチの円形の容器もあった。

 つぼには紅やおしろいを入れ、合子は紅などを使う際のパレットのような役割を果たしたらしい。同博物館は葬られた女性が生前に使用したとみており「対外的な儀礼で人前に出るときに化粧をしていたのでは」と推測している。

 ミニチュア土器出土

 ◆渡米人の墓域か

 明日香村阿部山の阿部山遺跡群で、6世紀中ごろ〜後半の古墳2基が見つかり、石室跡から炊飯具をかたどった副葬品「ミニチュア土器」が出土した。明日香村教委が17日発表した。ミニチュア土器は渡来人の古墳で出土例があることから、この一帯に渡来人の墓域が広がっていたとみられるという。

 同遺跡群はキトラ古墳南方の丘陵にあり、遺跡の有無を確認するため、昨年5月から約500平方メートルを調べた。

 見つかった古墳はいずれも横穴式石室を持つ方墳(約10メートル四方)だったが、後世に石材が抜かれたり盗掘されたりし、ほとんど原型は残っていなかった。

 しかし、石室跡の床面からほぼ完形のミニチュア土器(高さ約25センチ)など、渡来人の古墳からよく見つかる副葬品が出土した。遺跡近くには渡来系氏族の東漢氏(やまとの・あや・うじ)の居住域が広がり、氏族の有力者の墓だったとみられる。石室内にはくぎもあったため、木棺を埋葬していたらしい。

 すぐ北側から12〜13世紀の木棺墓も三つ見つかり、完形の青磁碗(わん)も出土した。当時高級品だった中国の龍泉窯(りゅう・せん・よう)産で、この周辺で強い勢力を誇っていた子嶋寺(高取町)と関係がある可能性が高いという。

 現地説明会はないが、21日午後1時から、同村川原の村中央公民館で発掘調査報告会がある。無料。

 琵琶湖にまつわる考古学 本に  
 琵琶博学芸員 研究成果を紹介

 琵琶湖博物館(草津市下物町)の学芸員、用田政晴さん(54)=彦根市船町=が、琵琶湖にまつわる考古学を分かりやすく「湖と山をめぐる考古学」(サンライズ出版刊)にまとめた。湖底に水没していた粟津貝塚(大津市)の調査時のエピソードや、織田信長が大船から小船に切り替えた背景なども紹介している。

 滋賀県内で行った考古学の研究成果を知ってもらうおうと、同館の情報誌などに発表した文章を集めた。

 粟津貝塚では、調査のために水を抜いた湖底を歩き、現在の2倍ほどあるセタシジミの貝殻を多数見つけた体験を紹介。信長は全長約50メートルの大船を建造したが、すぐに小船に切り替えたのは、遠浅で淡水の琵琶湖に適したからと分析している。浅井長政の小谷城は、山岳寺院を利用して造られたという用田さんが考えた新説も披露している。

 用田さんは「生まれ育った滋賀には興味が尽きない。この本を琵琶湖博物館の副読本としても読んでほしい」と話している。A5判458ページ、3150円。

 出土の耳飾りや埴輪、石器並ぶ 
 京田辺 中央図書館で文化財展

 京田辺市内の古墳から出土した埴輪(はにわ)や、縄文時代の石器などを集めた「京田辺市の文化財展」が17日、同市田辺の市立中央図書館で始まった。

 文化財保護強化月間(11月)に合わせて市教委が企画した。遺跡から発掘された耳飾りや須恵器、埴輪などを中心に文化財9点と、仏像の写真パネル18枚を展示している。

 山崎神社(京田辺市三山木)所蔵の石棒は全長約40センチの円筒形の棒で、縄文時代後期(3000〜4000年前)の祭祀(さいし)に使ったとみられる。6世紀ごろの堀切古墳(同市薪)から出土した武人埴輪は近畿地方を代表する人物埴輪で、顔の入れ墨を表現した模様を見ることができる。22日まで。無料。

 古代エジプト人も動脈硬化に
 ミイラをCT検査し判明

 現代の生活習慣が主な原因とされる動脈硬化が古代エジプトの時代にも存在したことが、米研究チームのミイラへのコンピューター断層撮影装置(CT)による調査で分かり、17日にフロリダ州で開かれた米心臓学会で発表された。AP通信が報じた。 中部アメリカ心臓研究所(ミズーリ州カンザスシティー)のランドール・トンプソン医師は「ファストフードや喫煙、運動不足などの現代的なリスク要素が動脈硬化の原因と考えられているが、今回の結果は必ずしもそれだけではないことを示している」と語った。

 APによると、研究チームはエジプトで保存されている紀元前1981〜紀元334年のミイラ22体にCTスキャンを実施。うち9体に動脈硬化の症状が見られ、1体には心臓発作が起きた形跡があった。

 カリフォルニア大サンディエゴ校のマイケル・ミヤモト医師は「ミイラと現代の患者の動脈硬化が似ているのにびっくりした」と述べた。

 22体のうち身元が特定されているものはすべて、古代王朝の高官や高僧など社会的身分が高く、トンプソン医師は「(当時)裕福な者は塩漬けの肉を食べたので、高血圧になったのかもしれない」と推測している。

 高麗寺の廃絶時期、土器で特定
 木津川 碗の製作手法で判明

 飛鳥時代創建とされる国史跡・高麗(こま)寺跡(京都府木津川市山城町上狛(かみこま))の発掘調査で木津川市教委は17日、回廊外の溝から出土した土器や瓦から、高麗寺が平安時代末期から鎌倉時代初期の間に廃絶したことが分かった、と発表した。古代寺院の廃絶時期が特定されることは数少ないという。

 高麗寺はこれまで、文献や出土品から9世紀初頭に最後の瓦の葺き替え修理があったことが判明し、平安期に廃絶したとされていたが、明確な時期は不明だった。

 今回の調査では、溝内から見つかった大量の土器のうち、食事などに使われた碗(わん)の製作手法が、12世紀末から13世紀初頭にかけてのものと一致。西回廊の瓦とともに出土していることから、市教委は「同時期に回廊が倒壊し、溝の排水機能も失われ、寺が廃絶した」としている。

 調査を行った溝は、西回廊と平行して南北に走り、回廊内への雨水の浸入を防ぐ役割があったとみられる。長さ約40メートルあり、北に進むに従って細く、浅くなり、最大で幅約3メートル、深さ約1・7メートルあった。過去の調査で見つかった西辺築地外の溝や南回廊の下を潜る地下水路と合わせ、「古代寺院では数少ない、境内の排水システムが明らかになった例」(市教委)という。

 調査ではほかに、溝内から平城宮内など限られた場所からしか出土例のない恭仁(くに)宮式文字瓦や播磨産の完形軒平瓦も出土した。

 現地説明会は21日午前10時と午後1時。問い合わせは木津川市役所Tel:0774(72)0501内の市教委文化財保護室。

 2日間の説明会 1万1300人訪れる

 邪馬台国の中枢施設の可能性がある巨大建物跡(3世紀前半)が見つかった桜井市の纒向(まき・むく)遺跡で開かれていた現地説明会が15日、終わった。参加者は2日間で計約1万1300人に達した。

 初日の14日は朝まで雨が降り続いた影響で約3600人にとどまったが、15日は早朝から多くの人が訪れたため、説明を1時間以上前倒しし、午前8時50分に開始。終了予定も1時間延長し、午後4時の終了までに約7700人が詰めかけた。

二条城:「女院御殿」の遺構 後水尾天皇の訪問裏付け

 京都市埋蔵文化財研究所は13日、中京区の二条城本丸御殿南側で、1626(寛永3)年に後水尾天皇の行幸のため5日間だけ存在した「行幸御殿」の一部「女院御殿」とみられる柱や溝の跡が見つかったと発表した。行幸御殿の存在はさまざまな絵図や文献などで裏付けられているが、建物の痕跡が実際に見つかったのは初めて。研究所は「当時の将軍・徳川家光の威光や天皇家との関係をうかがわせる貴重な発見」としている。

 二条城防災施設整備事業に伴い、今年9月から約750平方メートルを調査。2メートル間隔で南北に並ぶ柱の礎石やその跡を計20基検出した。柱の直径は約30センチだったとみられる。また、建物を取り巻く形で溝の跡も見つかった。

 後水尾天皇は1626年9月、家光の招きで二条城を訪問。立派な御殿が建造され、使用後すぐに解体、御所へ移築されたことが分かっている。絵図によると、発掘された場所は女院御殿の一部で、台所に付属する建物と考えられるという。

 また、今回の調査では、江戸時代前期の金ぱく瓦約50点や寛永通宝、建具の引き手とみられる金属なども出土した。現地説明会は16日午前10時〜正午。二条城の入場料が必要。問い合わせは現地事務所(080・5324・7920)。

「卑弥呼の宮殿」にぎわう
奈良・纒向遺跡で現地説明会

 「女王卑弥呼の宮殿」の可能性がある3世紀前半の国内最大の建物跡が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡で14日、現地説明会が開かれた。集まった大勢の考古学ファンは「これが出た以上、邪馬台国は大和で決まり」と“太鼓判”を押した。

 午前中だけで約1600人が見学。配布された資料を手に市教育委員会の担当者の説明に耳を傾けた。

 前夜からの雨の影響で発掘現場は水がたまり、関係者が早朝からポンプで水をくみ出すなど準備。JRも最寄りの巻向駅へ臨時電車を運行した。

 纒向遺跡は邪馬台国の有力候補地とされる。今回見つかった建物跡と、西側の小規模の3棟は東西一直線に整然と並んでいたことも分かり、市教委は同遺跡の中枢部としている。

 現地説明会は15日も午前10時から午後3時まで開かれる。



 「卑弥呼の里」纒向遺跡に3600人

 邪馬台国の女王・卑弥呼の宮殿の可能性がある大型建物跡が見つかった桜井市の纒向(まきむく)遺跡で14日、開かれた現地説明会。午後からは晴れ間が広がり、約3600人の考古学ファンが詰めかけた。周辺では長蛇の列ができ、「卑弥呼の里」ブランドの地場物産をPRするテントも並ぶなど、お祭りムードに包まれた。

 この日は雨の影響で開催が危ぶまれたため、桜井市教委で早朝から開催か中止かを尋ねる電話が相次ぐ一方、職員約50人が現地で準備に追われた。開始時刻が近づくと、最寄りのJR桜井線巻向駅で電車が到着するたびに大勢の人たちが降り立ち、現地の受付まで長蛇の列。入場制限も行われ、反響の大きさをうかがわせた。

 ようやく「卑弥呼の館」を前にした考古学ファンは、遺構に見入りながら当時に思いをはせた。斑鳩町の測量会社員、出来島行朗さん(60)は「建築の測量、整地が緻密(ちみつ)。現代の技術にも通じるのでは」と感激。また、今回の調査に参加し、この日は案内役を務めたアマチュア考古学者で俳優の苅谷俊介さん(62)は「関東では遺跡の現地説明会に100人もくれば万々歳なのに…」と、人だかりに目を細めていた。

 一方、会場では地場物産の販売コーナーも登場した。卑弥呼をイメージした古代衣装を着た地元の女性ボランティアたちが、「卑弥呼の里」ブランドで統一した地酒や三輪そうめんなどを販売。大発見は地域おこしにもつながりそうで、桜井市観光協会の松井正剛会長(56)は「纒向を市内の他の観光地とからめながらストーリーになる巡り方を考えたい」と意欲を見せていた。

 現地説明会は15日も午前10時〜午後3時に行われる。

 石張り溝を発見 - 「卑弥呼後」豪族居館跡か  5世紀末〜6世紀前半

 女王・卑弥呼の宮殿とされる3世紀前半の大型建物跡が見つかった桜井市辻の纒向遺跡で、5世紀末から6世紀前半の石張り溝が見つかったことが、12日までに分かった。調査した市教育委員会は周辺に点在する同時期の埋没古墳に関連した豪族の居館に伴う溝と推定。「卑弥呼後」の周辺地域の姿を知る貴重な資料になりそうだ。

 市教委によると、溝は幅約4メートル、深さ約50センチで、南北長さ約10メートルと確認。両岸にはこぶし大の石を張りつめ、出土土器から5世紀末〜6世紀前半に機能していたとみられる。

 長野で石器・石片1800点出土
 後期旧石器時代

 長野県佐久穂町畑の満り久保遺跡で、約1万5千年前の黒曜石製の石やり「槍先形尖頭器」など後期旧石器時代の石器・石片が約1800点出土し、同県埋蔵文化財センターが12日、発表した。

 現場は千曲川沿いの高台。黒曜石原産地の麦草峠に近い池の平遺跡群(佐久穂町)と、消費地と考えられる矢出川遺跡群(同県南牧村)を結ぶ八ケ岳の東ふもとに位置する。旧石器時代の遺跡の空白地帯だった。石器の製作場所とみられる。

 同センターは「黒曜石で石やりを製作しながら移動生活をしていた旧石器人の行動解明につながる発見だ」としている。

 遺物が見つかったのは、耕作地の土中で25メートル四方の範囲。約1800点のほとんどが石やりの製作時に出たとみられる破片などだが、槍先形尖頭器23点(最大長さ約5センチ)や、獲物の皮をはぐことなどに使われた石器「スクレイパー」10点も含まれる。

 中部横断自動車道建設に伴う調査。現地説明会は14日午前10時半〜午後2時半に行われる。

 廃材捨てた?穴の一部  纒向遺跡 - 大型建物跡の南

 女王卑弥呼の宮殿とみられる3世紀前半の大型建物跡が見つかった桜井市辻の纒向遺跡で、廃材などを捨てた穴の一部が見つかっていたことが、11日までに分かった。大型建物跡が廃絶した3世紀中ごろの遺構とみられ、上部構造の解明につながる可能性もある。

 大型建物跡の数メートル南側で穴のふちを確認。直径5〜6メートルに達する可能性もあり、南に向けてさらに深くなっていた。中は未発掘だが、加工された板材やかごのような遺物が確認された。


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