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2019/01/17 (Thu) 恭仁京跡
2019/01/11 (Fri) 檜尾古寺跡
2018/12/30 (Sun) 寺町整備の変遷
2018/12/28 (Fri) 平安京囲う「羅城」
2018/12/21 (Fri) 西安寺跡、伽藍配置
2018/11/30 (Fri) 鷺内遺跡
2018/11/30 (Fri) 耳谷草山古墳群

 木津川の恭仁京跡で大極殿院調査 南面に掘っ立て柱塀跡

 聖武天皇が造営した恭仁京の遺跡(木津川市加茂町)から、大極殿を囲む外郭施設「大極殿院」の南面にあたる掘っ立て柱塀の柱穴跡が出土し16日、府教育委員会が発表した。

 大極殿は天皇の即位大礼や新年の儀式が行われた建物。周囲は屋根に瓦を葺(ふ)いた格式高い「築地(ついじ)回廊」に囲まれ、南側には天皇の権威を象徴する大規模な門を持つという。

 調査は、大極殿院南面の回廊と門の位置を確認するため実施。当初予想された位置に回廊と門の遺構は発見されず、南に約6メートル下がった位置を調べた。その結果、一辺約1メートルの堀形を持つ簡素な掘っ立て柱塀の柱穴の跡が、約3メートル間隔で東西方向に一列に並ぶように出土した。


 府教委によると、南面だけが掘っ立て柱塀となっている構造は他に例がないという。ただ、大規模な門の遺構は発見されなかった。

 奈良時代の歴史書「続(しょく)日本紀」では恭仁京の造営に難航したとの記述もあり、府教委は「財政的な理由から、門の建設まで手が回らず、築地回廊ではなく簡易的な掘っ立て柱塀で間に合わせたのでは」と推察している。

 現地説明会は19日午後1時半から。現場(恭仁小学校南側)はJR加茂駅から北へ徒歩30分。
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 幻の寺、京女大生が実態解明 檜尾古寺跡を2年間調査

 京都市左京区の如意ヶ嶽山中で見つかった檜尾(ひのお)古寺跡。これまでは古い資料などでしか名前が知られていなかった幻の寺だったが、京都女子大考古学研究会の2年間に及ぶサークル活動の一環として行われた測量や遺物採集による調査で、寺院の実態が次第に明らかになってきた。調査で採集された遺物は2月17日まで京都市考古資料館(上京区)で展示されている。

 同大の梶川敏夫非常勤講師が如意ヶ嶽に存在した三井寺(大津市)の別院、如意寺や文徳天皇の母、藤原順子(のぶこ)が建てた安祥寺(京都市山科区)といった山林寺院の調査をしてきた実績があり、同研究会は梶川さんの指導で引き続き両寺の調査に取り組んできた。

 檜尾古寺については、平安前期の真言宗の僧、恵運(えうん)が書いた「安祥寺資材帳」などから、安祥寺の北に存在していたことが分かっていたが、これまで遺構は見つかっていなかった。

 ところが2年前、如意寺の子院、大慈院の推定地から複数の建物の礎石が発見されて以来、5回にわたり調査を実施。9世紀前期の土器や瓦、仏像とみられる塑像の破片を採集した。

 また建物は東西約140メートル、南北約130メートルの範囲の尾根を削り、谷を埋めて造成され、10世紀中頃に火災で廃絶したことも判明した。

 この結果、室町時代に最盛期を迎えた大慈院ではなく、安祥寺から真北約600メートルにあたり、資材帳にも出てくる檜尾古寺の可能性が高いことが分かった。

 今回の展示品の中で注目されるのは、塑像と緑釉(りょくゆう)陶器の破片だ。塑像は粘土を主材料にワラなどを混ぜた土を、木とワラで立体的に組んだ芯に盛り上げて造られた像のこと。中国から伝わった技法で、7世紀後半の飛鳥時代から8世紀の奈良時代にかけて造られた。

 このため奈良県内の寺院を中心に作例が多くみられ、8世紀末に遷都された平安京では北野廃寺から出土した仏頭などのみで、数は少ない。

 今回の塑像の破片は、檜尾古寺跡から見つかった2棟の建物跡のうち1棟の中央部分から出土した。須弥壇に置かれていた仏像とみられる。仏像の特定は難しいが、指先の一部や衣とみられる渦巻き状、線刻が施された破片などが含まれていた。

 梶川さんは「塑像は重いので平地で造ったものを山に運ぶのは難しく、寺で造ったとみるのが自然。奈良時代で終わったとみられていた塑像の制作が9世紀まで続いていた可能性を示す発見」と説明する。

 また緑釉陶器は、引退した天皇の離宮・冷泉院や右大臣、藤原良相(よしみ)ら高級貴族の邸宅跡から出たものと遜色ないといい、「創建に相当な位を持った人物がかかわっているのでは」と推測する。

 同調査会の部員は現在14人。今回の調査に参加した文学部4年生の宮本麻菜さんは「先輩から引き継ぎ、重たい機材を山中まで運んで少しずつ調査を進めながら、その結果として歴史を解明できたことはよかった」と話した。

 今回採集した遺物のうち50点が市考古資料館エントランスで展示されている。入館無料。月曜休館(月曜が祝日か振替休日の場合は翌日)。

 大文字山斜面に塑像仏片50点 幻の「檜尾古寺」跡か

  奈良時代に粘土などで盛んに造られた「塑像仏」の破片約50個が、京都市左京区の山林で見つかったと、元市考古資料館長で京都女子大非常勤講師の梶川敏夫さんらが5日、発表した。平安時代前期以前にあった幻の「檜尾古寺(ひのおふるでら)」建物跡を同大学の学生と調査し、確認した。市内における塑像仏関連の発見は4例目となる。

 調査したのは、大文字山(如意ケ嶽)の南に位置する尾根斜面。2017年5月から18年10月にかけ、梶川さんと同大学考古学研究会が、遺跡の測量や建物礎石の確認、地表遺物の採集を行った。これまでに檜尾古寺に関する建物2棟の遺構を確認していた。

 塑像仏の破片は、2棟のうち北側建物跡でまとまって見つかった。最大のものが幅約5センチで、渦巻きのような形だったり、仏像の衣文を思わせる線刻があったりする。京都造形芸術大の岡田文男教授(保存科学)が分析したところ、漆の表面に金箔を貼った「漆箔(しっぱく)」が施され、火災を受けて金箔が溶けて丸い粒子になって残っていることが分かったという。

 塑像仏は、奈良に都があった白鳳期から天平期に多く造られた。ただ、平安時代になるとあまり造られなくなったとされ、市内の出土例は、北野廃寺出土の仏頭などに限られている。

 調査全体では、ほかに平安前期に当たる9世紀の瓦や土器ばかりが見つかり、当時の支配層が持った緑釉陶器もあった。見つかった遺物と、調査地南側で寺院を開いた僧・恵運(えうん)が9世紀後半に記した「安祥寺資財帳」の記述を参照し、檜尾古寺跡と判断した。

 梶川さんは「密教が全国に流布する初期段階において、平安京近くにあった密教系寺院の実態が一部でも分かった意義は大きい。ただ、寺の建立者のほか、塑像仏が造られた時期や場所など不明な点も多く、継続調査が待たれる」と話している。

 遺物を紹介する速報展を2月17日まで上京区の市考古資料館で開いている。1月12日午後2時から学生による展示解説も行う。入場無料。月曜(祝日は翌日)休館。

 秀吉の寺町整備の堀跡出土 京都の浄教寺敷地調査 「変遷分かる資料」

 京都市下京区の浄土宗寺院、浄教寺(じょうきょうじ)の敷地から、天正10(1582)年の本能寺の変で討ち死にした武将の菩提(ぼだい)寺の移築時に築かれ、豊臣秀吉が都市改造の一環で天正18年に実施した寺町整備に伴って埋められた堀跡が出土し27日、民間調査団体の古代文化調査会(神戸市)が公開した。同会は「寺町整備の変遷が分かる珍しい資料だ」としている。

 発掘調査は浄教寺の建て替えなどに伴い約560平方メートルの範囲で実施。堀は、本能寺の変で織田信長とともに討ち死にした村井貞勝の菩提を弔う春長寺(しゅんちょうじ)が移転してきた際に築かれ、寺の周囲を巡っていたとみられる。中に捨てられていた瓦から判明した。出土した堀の痕跡は寺の南西角のものとみられ、幅約6メートルで深さ1・5メートルの逆台形だった。

 堀はその後、秀吉が天正18年に実施した寺町整備で、信長・信忠親子を弔う大雲院(だいうんいん)を二条御所から現在の四条河原町に移したのに伴い埋められた。さらに堀の一部は翌年この地に移転してきた浄教寺に組み込まれていたことが分かった。

 浄教寺は、平安時代末期に平重盛が東山に建立した堂が始まり。後に村井貞勝が帰依したという浄土宗の僧侶・貞安(ていあん)が住み、貞安は大雲院の創建、移転などにも大きくかかわっている。

 古代文化調査会の家崎孝治代表は「寺町は秀吉が京内の寺を一度に集めて形成された印象が強いが、今回のように貞安が中心になり、いろんな変遷を経て整備されていったことが確認された」と話している。

 平安京囲う「羅城」なかった? 京都、造営当初の痕跡出土

 平安京と京外の境目とみられる都造営当初の整地層の痕跡が、京都市下京区寺町通四条下ルで27日までに見つかった。整地層は、都を取り囲む羅城(らじょう)(周壁)を築くための規格に沿う幅だった。ただ、壁そのものの跡は確認できず、羅城で囲われた後世の絵図などと違い、実際は羅城が築かれなかった可能性を示している。

 寺院やホテルの新改築に伴い、民間調査会社の古代文化調査会(神戸市)が約550平方メートルを調べている。

 調査では、平安京東端の南北通り「東京極大路(後の寺町通)」の東の側溝跡(幅約2メートル)が見つかり、側溝のさらに東側で幅約6メートルの整地層が出土した。整地した際に特徴的なうぐいす色を帯び、京外に当たる隣接地とは違い礫(れき)がほぼ含まれていなかった。土器などの遺物から平安時代前期とみられる。周壁の痕跡は検出していない。

 平安京の羅城は、古い絵図で京域の四方を囲うように描かれることがあるが、実際には都の玄関口「羅城門」と周囲だけに整備されたのが通説とされる。10世紀の法令集「延喜式」では、羅城の規格は南限の九条大路にのみ付記され、羅城を挟む形で両側に設けられた平地「犬行(いぬばしり)」と合わせた全体の幅は約6メートルと定めている。

 今回出土した整地層と延喜式で定められた規格が一致することから、同調査会の家崎孝治代表は「平安京と京外の境目に、羅城を築造可能な整地をわざわざ行っていたことになる。造営当初はここにも羅城を築く意図があったものの中止した可能性があり、慎重に検討したい」と話している。

 西安寺跡、伽藍配置は「四天王寺式」 金堂の全体規模も判明

 飛鳥時代に創建されたとされる西安寺(さいあんじ)跡(王寺町)が、塔と金堂が南向きに一直線に並ぶ「四天王寺式」の伽藍(がらん)配置だったことが分かり、町教委が発表した。また、今回の発掘調査で、塔のそばに建っていたと推測される金堂の全体規模も明らかになった。

 平成27年度の調査で金堂跡と想定された場所を含む約60平方メートルについて、町教委が先月から調査。金堂基壇の北、東、南端を相次いで確認し、基壇の規模は東西14・9メートル、南北12・2メートルと判明した。


 建物規模は礎石2個の間隔などから、東西5間(約11メートル)、南北4間(7・6~8・3メートル)と推測。塔の大きさは昨年、法隆寺(斑鳩町)の五重塔とほぼ同規模と裏付けられたが、金堂は他の飛鳥時代の寺院と比較して小規模だったことが分かった。

 また、基壇の南端で大量に出土した瓦の年代から、金堂は7世紀後半~8世紀初頭に建立され、鎌倉時代までに廃絶したとみられるという。

 町教委の岡島永昌学芸員(44)は「今後は門や回廊、講堂の有無など、伽藍の全体像を解明していきたい」と話した。

 現地説明会は22日午前10時~午後3時。付近に駐車場はない。小雨決行。問い合わせは町地域交流課観光振興係(0745・33・6668)。

 平城宮跡・東門の規模判明

 平城宮跡・東門の規模判明 - 基壇や築地塀を確認 東西10メートル、南北20メートル

 奈良文化財研究所は13日、奈良市の平城宮跡東区朝堂院地区で奈良時代後半の東門跡を調査し、東西の規模が約10メートルだったと発表した。過去の調査で南北規模は約20メートルと判明しており、東門全体の規模が確定した。また東門の南北に取り付く築地塀も見つかり、同時期の東区朝堂院の東西幅が177メートルだったことも確認された。

 東門の規模確認などを目的に、10月1日から約560平方メートルを調査。東門の基壇や雨落溝、築地塀などの遺構を確認した。

 東門の基壇は後世に削られたため、礎石や柱を据えつけた穴などは見つからなかったが、厚さ約20センチの積土が残っていた。西側に沿った「コの字」形の雨落溝(幅1~1・2メートル、深さ20~40センチ)を南北約22メートル、東西約4・5メートルにわたって確認。一部にこぶし大の石列や凝灰岩の切り石があった。

 基壇の南北では軟質土と小石が混じった硬質土を約10センチごとに交互に積んだ幅約3メートルの築地塀跡が見つかった。その東西両側には幅0・6~1メートル、深さ10~50センチの雨落溝が並行。西側の溝は東門の雨落溝に接続し、こぶし大の石列も見つかった。

 東門基壇の東側は後世の水路に壊されていたが、築地塀と門の中心線は一致することから、築地塀の中心線から基壇西端の距離(約5メートル)を東へ反転させることで基壇の東西規模は約10メートルと判明。南北規模も雨落溝の遺構から約20メートルと再確認された。

 基壇規模から東門は礎石建ちで、南北6列、東西3列の柱列の建物と推定。雨落溝をはじめ周辺から大量の瓦が出土したことから、東門と築地塀ともに瓦ぶきだったと考えられる。平城宮内では中規模の門で、東院南門にあたる「建部(たけるべ)門」とほぼ同規模だった。

 朝堂院は大臣や幹部級の官人が国政の重要な事項を決める現代の国会議事堂のような施設。奈良時代後半の平城宮では中央と東の地区に二つの朝堂院があった。東区朝堂院は天平17(745)年の還都後に整備された第2次大極殿の南側に位置。同時代前半には大極殿院が舞台だった天皇の即位や元旦朝賀などの儀式も行われるようになった。

 今回の調査成果により、奈良時代後半の東区朝堂院は東西約177メートル、南北約284メートルと確定した。

 調査を担当した奈良文化財研究所の福嶋啓人研究員は「東区朝堂院は東門だけがブランクのようになっていたため、全容を知る上で大きな成果。今後は奈良時代前半の遺構の調査を進めたい」としている。現地見学会は15日午前11時から午後3時まで。説明は随時。

 古代の金銅仏光背の鋳型が国内初出土 滋賀の遺跡

 滋賀県草津市教育委員会は12日、同市野路町の榊差(さかきざし)遺跡で、金銅仏の背後に飾る光背の鋳型が出土した、と発表した。奈良時代前半のものと推定され、古代の光背鋳型が見つかるのは国内初。現存する古代の光背は法隆寺の「四十八体仏」などわずかで不明な部分が多く、市教委は「鋳造による仏像制作の過程を知る上で貴重な発見」としている。

 光背は後光を表す装飾。鋳型は18点の破片が見つかり、最大で長辺9・5センチ、短辺5センチ。ハスの花びらをかたどった「蓮弁形(れんべんがた)」で、文様は雲文か唐草の可能性が高い。高さ20センチ未満の小型の金銅仏に付けられたとみられる。

 出土した「排滓(はいさい)土坑」と呼ばれるくぼみからは銅くずも見つかった。5月には近くのくぼみから奈良時代前半の獣脚(鉄製鍋の脚部)の鋳型が見つかっており、今回の光背鋳型も同時期とされる。

 市教委は、同遺跡の南西約800メートルにあった古代寺院「笠寺廃寺」との関連性が強まったとみる。一方で、遺跡は近江国庁へとつながる官道「東山道」沿いに位置し、生産規模も大きかったと考えられるため、「一寺院のための工房だったかは検討の余地がある」とする。

 仏教美術に詳しい同志社大の井上一稔教授は「貴重な成果」としつつ、鋳型が輪郭部分しか出土していないことや、同じ文様の光背を背負う仏像が見つかっていないことにも着目。「今後、仏像の姿が描かれた鋳型が見つかれば、仏像の原型を作るための型である可能性も出てくる」と指摘し「鋳型の中央部分の発見に期待したい」と話した。

 同遺跡の調査は隣接する3遺跡と合わせて2019年度まで。報告会が15日午後1時半から市役所であり、光背や獣脚の鋳型など出土品を展示する。問い合わせは市教委文化財保護課077(561)2429。

 縄文のクルミ入り籠が出土、福島
 全国初、貯蔵目的か

 福島県南相馬市教育委員会は29日、縄文時代晩期の鷺内遺跡(約3千年前)から、クルミが200個ほど入った籠が出土したと発表した。このような状態で大量のクルミが見つかるのは全国初という。市教委の担当者は「当時、食べ物を籠に入れて貯蔵したことが分かる貴重な資料だ」と話している。

 昨年10月から今年6月にかけて発掘調査した結果、湧き水をためるために作ったとみられる穴から、籠やざるのようなものが12点見つかった。

 このうち、タケやササ類を編んだ縦33センチ、横20センチの四角い籠に、当時の主食の一つだったオニグルミの実が大量に入っていた。

 兵庫の古墳群で石製腕輪
 小型銅鏡や鉄刀も

 兵庫県教育委員会は29日、同県豊岡市の耳谷草山古墳群から石製腕輪「石釧」が出土したと発表した。直径約7センチで、表面には線が細かく刻まれており、県教委は「これほど精緻なものは珍しい」としている。

 古墳群のうち円墳や方墳の11基を発掘。古墳時代前期から中期(4~5世紀)に築造されたと推定されている。石釧は二つの古墳の間にある溝から見つかった。

 最も大きい23号墳では木棺が二つ埋葬されており、それぞれ手のひらほどの大きさの小型銅鏡「珠文鏡」が1面ずつ副葬されていた。鉄刀、首飾り用の玉なども出土した。周辺地域の中心的な人物の墓と考えられる。

 奈良・高取の遺跡で発見 最古の大壁建物跡か 渡来人入植は5世紀より前?

 高取町の市尾カンデ遺跡で、大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の大壁(おおかべ)建物跡(東西約14・5メートル、南北約13メートル)が見つかり、高取町教育委員会が27日発表した。建築年代は4世紀末~5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。

 大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居。同町では、朝鮮半島式の床暖房装置「オンドル」を持つものを含めて約40棟見つかっている。

 今回出土したのは、これまで最大級とされてきた森ヲチヲサ遺跡(同町)などの建物跡とほぼ同規模で、東側に入口がある構造。柱穴から出土した土器などから4世紀末~5世紀初めの建築と推定され、国内最古とされる南郷柳原遺跡(御所市)の大壁建物跡(5世紀代)より古くなる可能性があるという。

 現場は東漢氏(やまとのあやうじ)など渡来人の居住地とされる県中部地域の一角。他にも15棟の大壁建物跡を含む計25棟の建物跡が見つかった。日本書紀には、応神朝に東漢氏の祖先が来朝したとの記述があり、今回の成果との関連性が注目されている。

 白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な施設があったことは間違いない」とみている。

 遺構はすでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。

 仁徳天皇陵、堤に精巧な石敷き
 5世紀、大王の権力示す

 仁徳天皇陵として宮内庁が管理する日本最大の前方後円墳・大山古墳(堺市、5世紀中ごろ)を共同発掘している同庁と堺市は22日、周濠の内堤で精巧な石敷きや円筒埴輪の列が見つかったと発表した。墳丘は通常、崩落を防ぐため葺石で覆われているが、堤にまで石敷きを施した例は初めて。古代の大王の権力を示すとともに、謎の多い巨大古墳の構造を知る画期的な発見だ。

 石敷きは総面積約6万5千平方メートル(東京ドーム1・4個分)の内堤全体にあった可能性が高く、研究者からは「桁違いの労力」「大王墓にふさわしい壮大な設計」と驚きの声が上がっている。

 サメの歯156本が出土、島根
 縄文遺跡、食生活の手掛かり

 島根県埋蔵文化財調査センターは14日、松江市朝酌町のシコノ谷遺跡から縄文時代前期―晩期(約7千年前~約2600年前)のサメの歯156本が見つかったと発表した。北海道石狩市の志美第4遺跡の272本に次ぐ多さだった。同センターは「縄文時代のサメは食料として身近なもので、当時の食生活を考える手掛かりとなる」と話している。

 センターによると、遺跡は川沿いで、中海まで約1キロの地点だが、当時は河口付近だったとみられる。歯の大きさは1・2~2・2センチで、全長3~4メートルのメジロザメ科のオオメジロザメ、ヨゴレ、ヤジブカの3種類の歯という。

 洞窟に4万年前の野生牛壁画

 インドネシアのカリマンタン島東部の洞窟に残る野生の牛とみられる動物などを描いた壁画は4万年以上前のものとする調査結果を、同国やオーストラリア・グリフィス大の研究チームが7日付英科学誌ネイチャー電子版で発表した。チームは「動物などを描いた具象画としては世界最古」としている。

 チームは今回の壁画を、現生人類が欧州で残した最も古い洞窟の壁画とほぼ同時期とみている。単純な絵ではなく具体的な描き方をしていると強調している。

 洞窟の絵などは欧州が中心となって発展したと考えられてきたが、チームは「遠く離れた欧州とインドネシアで、ほぼ同時期に生まれた」とみている。

 側溝跡発見で論争決着

 奈良市埋蔵文化財調査センターは7日、南都七大寺の一つとして知られる大安寺(奈良市)の旧境内で、平城京の六条大路の側溝跡が見つかったと発表した。大安寺旧境内を大路が横切っていたかどうかの論争が約30年間続いていたが、今回の調査結果は終止符を打つ成果という。

 大安寺は藤原京(奈良県橿原市)の「大官大寺」が平城遷都に伴って移転。寺の旧境内は奈良時代の六条大路が通っていたとする説と境内部分だけは道路がなかったとする説があった。同センターが2016年度から発掘調査を行い、昨年には大路側溝とみられる遺構が見つかっていたが断定には至っていなかった。


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