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2008/10/05 (Sun) 飛鳥京跡
2008/10/02 (Thu) 浄土屋敷遺跡
2008/10/02 (Thu) 金貝遺跡
2008/10/01 (Wed) エジプト展
2008/10/01 (Wed) 高松塚壁画
2008/09/30 (Tue) 南曽我遺跡
2008/09/30 (Tue) 箸墓古墳
2008/09/28 (Sun) 藤原宮朝堂院跡
2008/09/27 (Sat) 平城宮跡

 飛鳥京跡の発掘成果紹介
 橿考研博秋の特別展開幕

 飛鳥時代に歴代天皇の宮殿が営まれた飛鳥京跡(明日香村)の発掘成果を紹介する、県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市)の秋季特別展「宮都 飛鳥」(読売新聞大阪本社など後援)が4日、開幕した。飛鳥京の研究を大きく前進させた貴重な遺物の数々に、訪れた考古学ファンらが、1300年以上前の「首都」の様子に思いを巡らせていた。11月30日まで。

 同研究所創立70周年の記念企画で、飛鳥京跡から出土した土器や木簡(レプリカ)、柱材など695点を展示。石組みの溝や石敷きの広場など遺構の写真パネルも並び、約半世紀にわたる発掘調査の様子をたどることができる。

 大和高田市三和町、無職上西千津比古さん(85)は「それぞれの遺跡が発掘された当時のことを思い出し、あらためて飛鳥を身近に感じました」と話していた。

 木簡の実物は18、19日、11月15、16、22、23日に展示。10月19日、11月2、23日の午後1時からは、同研究所の講堂で博物館学芸員らが飛鳥京跡の調査成果や出土した木簡などについて講演する。問い合わせは同館(0744・24・1185)。

 室町期の集落跡出土
 東近江・浄土屋敷遺跡 

 滋賀県文化財保護協会は1日、防御や水利目的とみられる堀を備えた室町時代の集落跡などが、東近江市上平木町の浄土屋敷遺跡から出土したと発表した。協会は「中世から戦国動乱期へ向かう近江の村落形態を如実に示している」としている。

 堀は幅約3メートル、深さ約1・2メートル。東西方向に4本見つかった。堀と堀の間は約30−60メートルあり、一辺約15メートルの方形の区画溝が数カ所あった。

 区画溝は幅、深さとも約20−30センチで、中で掘っ立て柱建物跡が7棟確認され、周辺から室町時代の陶片が多数出土した。堀の底に水がたまっていた形跡があり、防御目的に加えかんがい用水としても使っていた可能性があるという。

 同遺跡は、農地整備と道路建設に伴い4月から約1万平方メートルを発掘調査している。同様の集落跡は県内各地で出土しているが、旧八日市市域での発見は初めてという。

 このほか今回の発掘調査で、縄文時代晩期の埋甕(うめがめ)や、古墳時代後期の竪穴住居跡2棟も見つかった。

 現地説明会は4日午前10時から。問い合わせは同協会TEL077(548)9780。

 発掘20年 歴史ロマン
 向日市埋文センターが記念展

 向日市埋蔵文化財センターの設立20周年記念展「遺跡発掘20年 足もとにある宝もの」が1日、同市寺戸町の市文化資料館で始まった。縄文から平安まで、各時代ごとの特色を示した出土物を展示し、これまでの調査研究の成果を紹介している。

 同センターは1988年の設立。記念展はセンターと市教委が主催し、会場には最近10年間の出土物を中心に土器や石棒、瓦など計約100点が並んだ。

 長岡京時代のコーナーでは、東院跡などの離宮跡で見つかった長岡京期の瓦を展示。天皇直属の内廷機関「勅旨所」を示す「旨」の異体字が刻まれた瓦は、勅旨所が離宮造営に関与していたことを推察させる。乙訓寺や宝菩提院(ほうぼだいいん)廃寺などの「京下七寺」や山背(やましろ)国(山城国)内の古代寺院で出土した離宮と同型の瓦もあり、桓武天皇の仏教政策の一端を知ることができる。古墳時代終末期の家形陶棺や尾張地方とのつながりをうかがわせる東海系埴輪(はにわ)片なども並んでいる。展示は11月16日まで。無料。問い合わせは同センターTEL(931)3841。

平安前期の神社本殿跡を発見
東近江・金貝遺跡 流造で最古か

 滋賀県文化財保護協会は1日、平安時代前期に建てられた三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の神社本殿とみられる掘立柱建物跡が、東近江市野村町の金貝遺跡で見つかったと発表した。これまでに確認された最古の流造神社建築より2−300年も古いうえ、流造は礎石や土台の上に建てられるという神社建築史上の定説を覆す可能性があるとしている。

 掘立柱建物跡は幅約6メートル、奥行き約7メートル。直径約50センチから1メートルの柱穴が2−3メートル間隔で16カ所あり、柱穴の配置から、正面のひさしが長くせり出し正面の幅が三間(約6メートル)ある三間社流造の神社建築とみられる。

 建物跡の南東約60メートルにあった別の掘立柱建物跡で、9世紀後半から10世紀前半とみられる墨書土器が出土しており、協会は神社建築跡も同時期の可能性が高いと判断した。

 9世紀後半から10世紀前半であれば、最古の流造神社建築とされる平安時代後期の宇治上神社本殿(京都府宇治市)を2−300年さかのぼる。さらに、今回の遺構は掘立柱建物跡で、室町時代以前の流造神社建築は礎石や土台の上に建設される、との定説に沿わない。

 協会は「神社が後に移転されたため、遺構が残ったのだろう。神社建築の起源を考える上で貴重な発見だ」としている。

 金貝遺跡は、ほ場整備事業に伴い2007年度から調査している。現地説明会は4日午後1時半から。問い合わせは協会Tel:077(548)9780。

美術館「えき」KYOTO JR京都伊勢丹7階 (電話 075-352-1111)

時間 10:00〜19:30
休館日 無休

●吉村作治の新発見!エジプト展  〜国立カイロ博物館所蔵品と〜

平成20年10月10日(金)〜11月24日(月・休)

世界初公開となる3500年〜4000年前の未盗掘木棺、「チャイの人型棺」「セペクハトとセネトイトエスの箱型棺」をはじめ、「古代エジプトのミイラと埋葬」をテーマに展覧します。

 高松塚壁画、修理用樹脂にカビ
 壁画のカビとの関連調査

 文化庁は30日、高松塚古墳(奈良県明日香村)の国宝壁画の劣化原因を調査する検討会で、過去の修理の際にアクリル樹脂を注入した個所に1−2カ月後、カビが発生していたと公表した。

 アクリル樹脂は文化財修復に海外でも広く使われている。壁画修復を担当する東京文化財研究所が最近の実験でカビが生えることを確認。文化庁は、樹脂と壁画のカビ発生に関連があるかどうか調べる。

 同研究所が1976−83年までの作業日誌を整理。78−80年に、絵の下地になっているしっくいのはく落防止に樹脂を使った東西の壁などで、修理直後にカビが見つかっていたことが分かった。

 樹脂は少なくとも76年から2001年まで使用されたという。同研究所は、樹脂にはカビの栄養分がないため、不純物が混ざった影響も考えられるとしている。

 発掘作業見て遺跡に理解を-橿原・南曽我遺跡を公開

 土器や柱穴はどうやって見つかるの?―。
 元興寺文化財研究所(奈良市)は29日、橿原市曽我町の南曽我遺跡で行っている発掘調査の様子を公開すると発表した。「現地説明会」は調査終了後が基本だが、遺跡への理解を深めてもらおうと、「関西考古学の日」に合わせて企画した。

 6月中旬から約6000平方メートルを調査しており、弥生時代の方形周溝墓や溝、奈良時代の井戸跡などが見つかっている。埋没した古墳の濠ではニワトリ形埴輪(はにわ)も出土。

 公開は10月1、8、13の3日間で、いずれも午前10時―正午と午後1時半から同3時半。13日は土器洗いの体験コーナーも設ける。

箸墓古墳の発掘

 ◆墳丘外周から解明

 箸墓古墳の発掘はすでに始まっている。何をバカなと言われるかもしれない。だが、ここ十数年の間に箸墓の周辺で行われた小規模な発掘で、墳丘を取り巻く周濠(しゅう・ごう)や堤の様子がだいぶわかってきた。墳丘の外とはいえ、そこは古墳の一部。将来、墳丘が発掘される時がくれば、近年の発掘は箸墓発掘の前史であり、開始でもあると位置づけられるであろう。

 98年の桜井市教委の発掘が画期的だった。住宅の建て替えに伴う約170平方メートルという狭い範囲だが、後円部の墳丘と隣接したところ。周濠(幅約10メートル、深さ約1・3メートル)と堤、堤と墳丘をつなぐ陸橋(底の幅約5メートル)を検出した。それ以前の前方部での発掘と合わせ、周濠が後円部と前方部の全体に巡っていることが確実となった。

 00年には前方部南側の角付近の様子がわかった。やはり住宅建設に伴う桜井市教委の発掘で、墳丘のすそ、周濠、堤の遺構を検出したのだ。ところが、堤の外側も溝状に落ち込んでいて、深さ約1・5メートルまで達していた。この落ち込み遺構は、95年に県立橿原考古学研究所(橿考研)が前方部北側の角付近を発掘した時にもあった。

 ここから推定できるのは、幅約10メートルの周濠は内濠(うち・ぼり)で、堤は内堤、外側の落ち込み遺構は外濠(そと・ぼり)という二重周濠の可能性である。橿考研の寺沢薫さんと桜井市教委の橋本輝彦さんが仮説を立て、二重周濠の推定復元図をつくった。内濠は後円部と前方部の両側面まで巡り、内堤の外を馬蹄形(ば・てい・けい)の外濠が巡る。ただし、前方部の前面は外濠だけが巡る。

 周濠の幅が約10メートルというのは大古墳の割には狭すぎる。でも、外濠まであるのは巨大すぎないか。面白いが、まだデータ不足、という印象だった。それがこの8月末、久しぶりに二重周濠を示す新たな発掘成果が報じられた。

 桜井市教委が前方部の南西で、前方部に向かって落ち込んでいく溝状の遺構を見つけたのだ。落ち込みは深さ1・3メートルまで確認できた。橋本さんは前方部前面の外濠と考え、前方部のすそからの距離約60メートルが外濠の幅と推定した。従来の推定より2倍も広く、箸墓はさらに巨大古墳となる。

 箸墓の二重周濠説は学界ではまだ定説になっていないが、反論も聞かれない。なにしろ、墳丘の全長は約280メートルもある。民家の敷地ほどの面積の発掘で、墳丘外周の全容を知るには限界がある。

 箸墓を邪馬台国の女王・卑弥呼の墓と考える研究者は多い。「最古の古墳」とする考古学者も多い。研究者にとっても、古代史・考古学ファンにとっても、最も魅力的な古墳である。だが、宮内庁が管理する陵墓のため、学者でも墳丘には立ち入れない。

 困難な目的を達成するのに「外堀を埋める」という戦略がある。私は「外濠から発掘して、外堀を埋めよう」と言いたい。墳丘の外周が解明されれば、墳丘内の調査を宮内庁はいつまでも拒むことはできなくなると思うからだ。そのためにも、住宅建設に伴う発掘ばかりでなく、計画的な学術調査をぜひ進めてほしいと願っている。

 ■箸墓古墳(桜井市)は全長約280メートルの前方後円墳。3世紀中ごろ〜後半の築造とみられる。日本書紀では、三輪山の神である大物主の妻、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓で、「昼は人が作り、夜は神が作った。大坂山(二上山の北)の石を人々が列をつくって手渡しして運んだ」と書かれている。

 運河跡興味津々900人

 運河跡などの説明を聞く考古学ファンら(橿原市の藤原宮朝堂院跡で) 橿原市の藤原宮(694〜710年)朝堂院跡で27日、奈良文化財研究所による現地説明会が開かれ、建築資材を運んだとみられる運河跡を考古学ファンら約900人が訪れて、造営当時を想像しながら見入っていた。

 調査を担当した玉田芳英上席研究員と小田裕樹研究員が「運河で木材を運んだとみられ、宮の造営の様子や過程が分かる」などと、遺構の図面や写真を使って説明。運河跡から見つかった、資材を運搬する筏(いかだ)を引いたと考えられる牛や馬の骨なども展示され、参加者らは、研究員に熱心に質問していた。

 京都府長岡京市、無職中西寿夫さん(72)は「これだけの遺構を見ていると、実際に工事をした人の苦労は大変だっただろうと思う。今後の調査にも期待したい」と話していた。

 この日は、明日香村でも、飛鳥時代の渡来系氏族・東漢氏(やまとのあやうじ)の居宅とみられる建物跡の現地見学会が開かれ、約600人が訪れた。



 掘立柱塀の柱根確認 第1次大極殿院回廊跡で

 奈良市の平城宮跡で、第一次大極殿院を囲んでいた西面の築地回廊跡から、掘立柱塀に使われた柱根(ちゅうこん)が見つかった。26日発表した奈良文化財研究所によると、柱穴の底には磚(せん)(レンガ)や瓦が敷かれ、地盤が弱い部分でも柱が沈まないようにした古代の工夫がよく分かるという。

 第一次大極殿院は奈良時代に国家の重要な儀式があった場所で、全体が築地回廊(南北318メートル、東西178メートル)で囲まれていた。同研究所が復元整備のため今年4月から西面の3カ所(計126メートル分)を調査。北面は県道が通っているため調査予定はなく、予定されている回廊の発掘調査はほぼ完了したことになる。

 平城遷都当初に造られていた築地回廊のうち、東西の面は聖武天皇の恭仁京遷都に伴って解体され、後に掘立柱塀が造られたことが分かっている。掘立柱塀の柱穴は4・5メートル間隔で24個見つかり、そのうち3個に柱根(直径約45センチ)が残っていた。柱穴の底には磚(長さ30センチ、幅15センチ、厚さ8・5センチ)が6個並べられ、間を埋めるように欠けた瓦が差し込まれていた。地盤が弱かった西側の柱穴に共通する特徴という。

 築地回廊の内側を通っていた雨落溝の跡も見つかり、大きさの違う小石が層になっていることから、何度か造り替えられたことがよく分かるという。門や暗きょの跡が東面と同じ位置から見つかり、回廊が東西対称に造られていたことも再確認した。

 調査した同研究所の和田一之輔・研究員は「これまでの調査結果を改めて確認できる遺構を検出できた」と話している。

 現地説明会は28日午後1時半から。小雨決行。

「せん仏」初出土 飛鳥時代制作、用途など調査へ

 ◇如来並んだ「十二尊連坐」か

 奈良市の平城宮跡で、第一次大極殿院を取り囲んでいた築地回廊の跡から、仏の姿を土の板にレリーフ状に型抜きした「〓仏(せんぶつ)」が初めて見つかった。制作時期は飛鳥時代と見られるが、出土した土層は中世から近世にかけてのもの。平城宮跡から出土した経緯も不明で、発掘担当者は「一体どこで何に使われたのか」と首をひねっている。

 〓仏は塔などの内壁に打ち付けられ、装飾として使われた。見つかったのは破片(縦7・7センチ、横4・5センチ、厚さ2・3センチ)で、一体の如来が座っている様子が分かる。

 座っている如来の姿が縦に3列、横に4列並んだ「十二尊連坐(じゅうにそんれんざ)〓仏」の一部とみられるという。桜井市の山田寺跡から出土した〓仏(7世紀)と形や大きさがよく似ており、同じ原型から作られた可能性が高い。

 平城宮の中に仏堂があったという記録はないが、続日本紀に「養老6(722)年に天武天皇と持統天皇のために仏を作り仏殿に安置した」という記述があり、この仏殿が平城宮内にあったとする説もあるという。

 発掘を担当した同研究所の和田一之輔・研究員は「推測しかできず、現段階では何も分からない。今後の調査結果を待ちたい」と話している。

 天文図「昴宿」など剥ぎ取り

 明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末―8世紀初)の壁画修理保存で、文化庁は25日、天井天文図北西の「昴宿」など3つの星座と「天狼」(シリウス)を表す星を剥(は)ぎ取ったと発表した。

 作業は24、25日の2日間、壁画修理技術者3人がへらなどを使って実施。星の金箔(ぱく)や黄道、赤道の朱線を含む漆喰(しっくい)を南北約25センチ、東西約10センチのL字型で剥ぎ取った。「昴宿」を縦約5センチ、横約3センチの大きさで剥ぎ取ったほか9分割した。

 昨年7月の始まった天文図の剥ぎ取りはこの日で、全体の9割近くが完了。11月にもすべての作業が終わる見込み。

 東漢氏の居宅跡か
 檜前遺跡、復権で整備

 古代の渡来系有力氏族、東漢氏の本拠地の一角にある奈良県明日香村の檜前遺跡で、飛鳥時代後半−奈良時代前半(7世紀半ば−8世紀前半)とみられる計5棟の掘っ立て柱建物跡が見つかり、村教育委員会が25日、発表した。

 建物群は、大化の改新(645年)で一時衰退した東漢氏が勢力を盛り返し、氏寺の檜隈寺を本格的に整備した時期に当たり、村教委は「一族の復興のシンボルとなる寺の造営や維持管理に携わった人が住んだのではないか」としている。

 建物群は、檜隈寺跡の南200メートルにある見晴らしの良い丘陵上に立地。最も大きなものは南北3・6メートル、東西10・5メートルの床張りで、ほかにひさし付きや間仕切りをした建物もあったようだ。3時期に分けられ、数回建て替えられたとみられる。

 現地見学会は27日午前10時から午後3時まで。

 古代ラムセス2世像の顔か
 エジプトで発掘

 エジプトのホスニ文化相は24日、首都カイロの北東約80キロのテルバスタで、古代エジプトで最も有力な王とされる紀元前13世紀のラムセス2世をかたどったとみられる像の顔部分を発掘したと発表した。花こう岩製の像は地下1・5メートルで見つかり、鼻部分が損傷、あごひげ部分がなくなっている。

 全身像は高さ4・5メートルとみられ、他の部分の発掘を急いでいる。ラムセス2世は第19王朝の王でスーダン国境に近いアブシンベル神殿などエジプト各地に自分自身の像を残した。

 テルバスタはナイル川東岸デルタ地帯にある神殿と都市の遺跡で、都市は古代エジプト第4王朝からローマ帝国東西分裂(紀元前2613年ごろから紀元後395年)まで栄えた。

 藤原宮で大規模溝跡
 造営へ運河網整備か

 奈良県橿原市の藤原宮(694−710年)跡で、宮造営に必要な資材を運ぶための運河とみられる大規模な溝跡が見つかり、奈良文化財研究所が24日、発表した。

 南北に伸びる本流約7メートル分と、枝分かれした支流を確認。過去の調査も合わせると、総延長は500メートル以上になり、同研究所は「国家の威信をかけた大工事で運河網を整備し、木材や瓦などの資材を計画的に搬入したのだろう」としている。

 貴族や役人が儀式を行う広場「朝庭」で出土。本流(幅3・5−4メートル、深さ2メートル)は、北側4カ所で見つかっている運河跡につながるという。

 本流から北東方向に掘られた支流は浅く、輸送以外に運河の水量調整の役割を持っていた可能性がある。溝は大極殿などの主要部を建てる際に埋められ、10年ほどしか存在しなかったようだ。

 万葉集の「藤原宮の役民の作る歌」は「近江の田上山で切り出した木でいかだを組み、宇治川や木津川を経て陸揚げした」と木材調達の様子を伝える。その後、陸路や川を使って運河に入ったと考えられている。


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