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2012/04/26 (Thu) 福井県立恐竜博物館
2012/04/26 (Thu) 松塚遺跡
2012/04/25 (Wed) 西山古墳
2012/04/23 (Mon) 平城京跡
2012/04/17 (Tue) 東築地跡
2012/04/17 (Tue) 成合遺跡
2012/04/17 (Tue) 成合遺跡
2012/04/15 (Sun) 馬場南遺跡
2012/04/10 (Tue) 出雲大社

 東山一橋小跡地 平安以前の居住跡 古墳と奈良期 小規模集落か

 京都市埋蔵文化財研究所が東山区の一橋小跡地で行っている調査で、古墳時代と奈良時代の建物跡が出土した。両時代の遺構が一帯で見つかったのは初めてで、平安時代より500年以上も前から人が住んでいたことが明らかになった。

 発掘場所は、後白河法皇の妻で平清盛の義妹にあたる建春門院(平滋子)がいた最勝光院の跡で、3月に同院に関係する建物跡が出土していた。その後、一帯1500平方メートルを掘り下げると奈良時代の建物跡3棟分と、古墳初期(3世紀ごろ)の竪穴住居跡10棟分が見つかった。いずれも小規模な集落跡とみられる。

 奈良時代の建物跡は南北7メートル、東西4メートルで、古墳時代は一辺が4〜7・5メートルの方形だった。古墳期の建物跡は重なった場所にあり、同じ場所で建て替えたとみられ、うち一棟は焼け土の跡から何らかの工房に使われていた可能性があるという。

 古墳時代の遺跡は伏見区深草や右京区西京極で確認されているが、今回の調査地一帯で平安以前の遺跡が見つかったケースはなく、市埋文研は「住居跡の性格は不明だが、平安以前の付近の土地利用を考える上で重要な成果だ」としている。調査は6月末まで行われる予定。

 翼竜の化石:長崎半島の白亜紀後期地層で15点発見

 長崎市と福井県立恐竜博物館は26日、同市の長崎半島西海岸にある白亜紀後期(約8400万年前)の地層から、翼竜の骨の化石約15点を見つけたと発表した。翼竜の化石は国内でこれまで約30点が発見されているが、いずれも歯や足跡など1点ずつで、同じ個体の複数の部位の化石がまとまって見つかったのは日本初という。

 同館の東(あずま)洋一特別館長と宮田和周(かずのり)主任研究員が09年10月、下顎(あご)の一部や不完全な大腿(だいたい)骨、翼の骨の一部などを長さ約1メートル、幅約50センチのエリアで発見した。骨の特徴などから翼竜類の「アズダルコ科」に属するとみられ、翼を広げた時の大きさは3〜4メートル程度と推測される。翼竜は初めて空を飛んだ脊椎(せきつい)動物とされ、同科の化石発見は国内で5例目。翼竜の骨は軽くて薄いため、壊れやすくて河川でも流されやすい。このため、1個体の骨の化石がまとまって見つかるのは珍しいという。

 古墳時代中期の甲冑形埴輪出土
 
 【守山・松塚遺跡/王権近い有力者か】


 守山市浮気町の松塚遺跡で、古墳時代中期(5世紀後半)の甲冑(かっ・ちゅう)形埴輪(はに・わ)が出土した。当時のカブトを精巧に模したとみられ、王権の中枢に近い職人が製作したと考えられることから、古墳に葬られた人物が中央と関係の深い有力者だった可能性があるという。

 甲冑形埴輪は高さ25・5センチあり、宅地造成工事に伴う昨年11〜12月の調査で、古墳の周囲を囲う溝(約7メートル)から見つかった。「眉庇付冑(ま・びさし・つき・かぶと)」と呼ばれるものをかたどったとされ、同形の埴輪は全国で13点あるが、部品を段差で区別するなど類例のない精巧なつくりで、県内では初の出土という。

 同時に見つかった大刀(た・ち)形埴輪は高さ27・3センチあり、鹿の角で作られた装具を模しており、柄(つか)の部分が良好な状態で残っていた。大刀形の大半は6世紀のものが多く、全国的にも最古級という。

 高橋克壽・花園大教授(考古学)は「埴輪は畿内王権の中枢の埴輪工人(職人)か、その影響を強く受けた人物が製作したと推測でき、古墳群のリーダーが、王権に一定の地位を認められた有力者だったと考えられる」としている。5月6日まで、同市服部町の市立埋蔵文化財センターで展示される。

 超精密な測量図 天理大など

 天理市杣之内町にある国内最大の前方後方墳で国史跡の西山古墳(4世紀後半)を、天理大や国際日本文化研究センターなどの共同研究チームが3次元測量し、1センチ単位の精密な測量図を作成した。前期古墳の実態を解明する資料になるとしている。

 墳丘や周囲の13か所から3次元レーザーを照射し、約1億3500万か所のデータを収集。その結果、墳長は180メートルで、前方部幅70メートル、後方部幅91メートル、高さが前方部9・52メートル、後方部15・54メートルと確認できた。データを基に高精度の画像や鳥瞰(ちょうかん)図、断面図などが作成できるほか、他の古墳との形状や大きさの比較も容易という。

 ホームページや天理参考館などでの公開を検討する。同大学の桑原久男教授(考古学)は「西山古墳には測量の障害となる樹木がほとんどないので、詳細なデータを得ることができた」と話している。

 発掘調査で見解二分 - 謎深まる宅地利用  平城宮近くの一等地

 貴族の邸宅か下級役人の住まいか―。奈良市三条大路1丁目の平城京跡で行われた二つの発掘調査で、市埋蔵文化財調査センターと県立橿原考古学研究所の見解が分かれている。いずれの発掘区も平城宮に近い一等地。結論は今後の調査に委ねることになりそうだ。

 県立橿原考古学研究所が県営プール跡地の発掘調査で「下級役人の住まい」と発表したのは昨年11月。小規模な掘っ立て柱建物が並び、宅地の境は塀で仕切られていた。

 担当した北山峰生・主任研究員は「川に挟まれているため水害を受けやすく、湿気も多い。快適に住める場所ではなかっただろう」と話す。

 一方、奈良市埋文センターは今年1月、西側の108平方メートルを調査した。調査面積は狭いが、京内の基本区画「坪」(約1万6千平方メートル)の中軸線をまたいでいた。

 この線を挟んで対のように配置されたり、柱穴が線上に重なる建物があり、同センターは「かなり計画的」とみている。橿考研の調査区も同じ坪だが、周辺を囲む道路に近い。遺構はいずれも奈良時代後半ごろ。

 市埋文センターの安井宣也主任は「小区画の宅地利用ではなく、1坪か2分の1坪を利用した可能性がある」と指摘する。中心部には計画的に建物を配置、周辺に雑舎を設けたとの考えだ。

 京内の宅地は朝廷から割り当てられ、1坪丸ごと利用できたのは5位以上の貴族だった。時期はずれるが、周辺は長屋王や藤原仲麻呂(恵美押勝)の大邸宅。安井主任は「高級住宅地の一角で、下級役人が住むとは考えにくい」という。

 一方、橿考研の北山主任研究員は「全体が細かく分割され、その一部が見つかったのでは。宮に近ければ一等地という考え方には再検討が必要」

 二つの調査を通じて、平城京の宅地利用をめぐる研究が深まりそうだ。

 広大「松林苑」実証 - 東築地跡を初確認  平城宮北側

 平城宮の北側に営まれた奈良時代の庭園施設「松林苑」が、現在の想定の約1・5倍の規模だったことが確実になった。県立橿原考古学研究所が奈良市佐紀町で踏査を行い、東を区切る築地跡を初めて見つけた。県の遺跡地図も改められる見込みで、平城宮の倍近い“大松林苑”が正式に認められることになる。

 松林苑は続日本紀に登場し、聖武天皇は計6回出かけて宴会を開くなどした。離宮のほか、薬草園や菜園、動物園もあったと考えられている。

 昭和47年に発見された土塁をきっかけに調査が進み、県遺跡地図では水上池の東側で区切る東西約1キロ、南北約1・3キロが想定されている。

 平成9年には、さらに東側の航空自衛隊幹部候補生学校(奈良市法華寺町)の敷地内で庭園跡や大量の瓦が見つかり、範囲の広がりが確実視されていた。

 踏査は同研究所の所員9人が参加して行われ、地形などから推定される松林苑の東端と北西隅を歩いて築地の痕跡などを探した。

 東の築地跡は国道24号西側の尾根で見つかり、幅4・5〜4・8メートル、高さ0・5〜0・8メートルの高まりが長さ約100メートルにわたって続いていた。遺跡地図の範囲から約350メートル東側で、同研究所はウワナベ古墳も取り込むとみている。

 尾根の斜面では瓦や土器など約20点の遺物を採取。瓦の様式は続日本紀に松林苑が登場する年代(729〜746年)と一致した。

 松林苑の範囲は現在の想定から東西距離が大幅に伸び、約1・8キロ。面積も約1・5倍に広がる。

 同研究所の木下亘・調査課長は「東の築地の可能性が高く、(想定の範囲外で)見つかっていた遺構が松林苑の施設と言えるようになる」と話している。


菅谷文則・県立橿原考古学研究所長の話

平城宮と密接に結びついた遺跡で、聖武天皇のころに特に重視されていた。東の築地跡が見つかった意義は大きく、今後も調査・研究を進めていきたい。

 大阪で翡翠の勾玉が出土
 弥生中期、北陸産か

 弥生時代中期の集落跡である大阪府高槻市の成合遺跡で、北陸地方で生産されたとみられる翡翠製の小型勾玉が見つかり、大阪府文化財センターが17日、発表した。

 同センターによると、翡翠は新潟県の糸魚川周辺で産出するものが縄文―古墳時代にかけ全国各地に運ばれたことが分かっており、これまでに約400点が出土しているが、近畿地方での発見は珍しい。

 勾玉は淡い緑色に乳白色が入り、長さ1・7センチ、幅1・4センチ。弥生時代中期によく見られるドーナツを半分に割ったような形。翡翠は力のある集落しか所有できなかったが、「近くの大集落から村が分かれ、譲り受けたのでは」という。

 大阪で翡翠の勾玉が出土
 弥生中期、北陸産か

 弥生時代中期の集落跡である大阪府高槻市の成合遺跡で、北陸地方で生産されたとみられる翡翠製の小型勾玉が見つかり、大阪府文化財センターが17日、発表した。

 同センターによると、翡翠は新潟県の糸魚川周辺で産出するものが縄文―古墳時代にかけ全国各地に運ばれたことが分かっており、これまでに約400点が出土しているが、近畿地方での発見は珍しい。

 勾玉は淡い緑色に乳白色が入り、長さ1・7センチ、幅1・4センチ。弥生時代中期によく見られるドーナツを半分に割ったような形。翡翠は力のある集落しか所有できなかったが、「近くの大集落から村が分かれ、譲り受けたのでは」という。

 木簡万葉歌は家持作? 木津川・馬場南遺跡で08年出土

 京都地名研究会会長の吉田金彦・姫路獨協大名誉教授が、木津川市の馬場南遺跡から出土した木簡に書かれた万葉歌について、「大伴家持の作品で、歌が収録されている万葉集巻10のほかの『詠み人知らず』の作品も家持らによるものが多い」との新説をまとめた。22日に龍谷大(京都市下京区)で開く同研究会講演会で発表する。

 同遺跡では、2008年に「阿支波支乃之多波毛美智(あきはぎのしたばもみち)」と墨書された木簡が見つかり、万葉集巻10の作者未詳歌と一致。府内初の万葉歌木簡発見が話題となった。その後の研究で、木簡の裏側から「越中守」の文字も見つかり、同時代に越中守で万葉集の編者ともいわれる大伴家持との関係が指摘されていた。

 今回の説で吉田名誉教授は、アキハギやハギの下葉という言葉を家持が好んで使用していた点や、同じく巻10でアキハギを詠んだ歌が家持の作品に類似していることを挙げ、「木簡に書かれた万葉歌の作者が家持であるとの裏付けになる」と分析。ほかの巻10の作者未詳歌にも類似点があるとし、名前が記されていないのは「妻以外の女性とのやり取りが含まれていたからあえて伏せたものもあるのでは」と推測する。

 講演は龍谷大大宮キャンパスの本館講堂で午後2時からで、一般参加可。資料代300円とスリッパ、靴入れが必要。遺跡で見つかった三彩陶器に描かれた魚の模様から、遺跡にあった「神雄寺」の性格を考察する自説なども披露する。

 問い合わせは同研究会事務局TEL0774(44)7636。

 出雲大社の設計図原本公開
 古代高層神殿の謎調査

 島根県の出雲大社は10日、宮司の蔵に代々秘蔵されていた、高さ約48メートルあったとされる古代高層神殿の平面設計図「金輪御造営差図」の原本を公開した。

 今後は島根県立古代出雲歴史博物館が、紙質や書き込まれた文字などから、描かれた年代を調べ、高層神殿がいつから存在していたのかなどの謎を解明するための調査を行う。

 発表によると、設計図は縦約42・5センチ、横約30センチの紙に描かれ、布に貼り付けて巻物として保管されていた。

 これまでは江戸時代に描かれたとされる写本を公開してきたが、出雲大社が約60年に1度の遷宮を迎えたことなどから、原本の公開を決めた。

 平安後期の巨大柱穴出土 渡来系氏族の旗支柱跡か

 明日香村の檜隈寺跡(国史跡)の近くで、柱の根元部分が残った平安時代後期(10〜11世紀)の巨大な柱穴が2個出土した。調査した奈良文化財研究所は、檜隈寺を氏寺とした渡来系氏族、東漢(やまとのあや)氏の子孫が、重要な儀式などで掲げた旗の支柱跡とみている。

 国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区の整備に伴う調査で出土した。

 2個の柱穴は、同寺中心伽藍(がらん)の金堂跡から南東約70メートルの位置にあり、約2メートル間隔で並んでいた。いずれも方形で、一辺が約1・5〜1・8メートル。深さは約1・2メートル。

 2個とも柱穴の底に直径約70センチの柱の根元が残っていた。柱穴から見つかった土器などから平安時代後期の遺構とみられる。

 柱穴2個の間隔が狭いため、奈文研は鳥居や門の跡ではなく、儀式や行事で掲げる旗の竿(さお)を、両側で支える「幢竿(どうかん)支柱」跡の可能性が高いとみている。

 日本書紀によると、推古天皇(554〜628)の時代、氏族が競って柱を立てる儀式で、東漢氏が最も高く太い柱を立てたことから「大柱直(おおはしらのあたい)」と呼ばれたと記している。

 一方で、檜隈寺は飛鳥時代の権力者、蘇我氏との結びつきがあり、政治や外交、軍事の面で影響力のあった東漢氏の氏寺とされる。

 奈文研の黒坂貴裕・主任研究員は「東漢氏の子孫が立てた旗の支柱跡だろう。柱穴の大きさから『大柱直』の心意気が感じられる」と話している。

 現地は、すでに埋め戻されている。

 邪馬台国候補地に研究拠点
 奈良・桜井市がセンター開設

 邪馬台国の最有力候補地とされる纒向遺跡がある奈良県桜井市が今月、遺跡の調査研究の拠点となる「纒向学研究センター」を市内に開設した。所長に就任した寺沢薫・元県立橿原考古学研究所部長は5日、記者会見し「国の歴史・文化の原点が見えてくるだろう。現代にも通じる問題点は社会に問い掛けていきたい」と語った。

 センターでは纒向学を「国内最初の都市とされる遺跡一帯の研究を充実させ、国の成立を解明する学問」などと規定。全国的な関心も高い遺跡だけに、観光客を呼び込むための情報を発信する場にもする考えだ。

 巨大な仁徳陵、見えた!
 50年ぶり、堤の樹木伐採

 仁徳さん、すっきり―。日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵(大山古墳、堺市)で5日までに墳丘の“目隠し”となっていた堤防の樹木が一部伐採され、木立の間から巨大な前方部のシルエットが見えるようになった。

 管理する宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所によると、伐採は少なくとも50年ぶり。市民や春休みで訪れた親子連れには「墳丘がいかに大きいか初めて分かった」「圧迫感がなくなり、すっきりした」と好評だ。

 3重の周濠に挟まれた二つの堤防にはカシなどがびっしりと生えており、これまでは内側の堤防(内堤)上にある拝所から、前方部のごく一部が見えるだけだった。

 100万年前、最初の火
 南アの洞窟に痕跡

 現代人の祖先が100万年前に火を利用した跡があった南アフリカの洞窟遺跡(カナダのトロント大提供) 現代人の祖先が100万年前から火を使っていたことを示す痕跡を南アフリカの洞窟で発見したと、カナダのトロント大などのチームが2日付の米科学アカデミー紀要電子版に発表した。これまで最初の火の利用と考えられていた時代より、30万年古いという。

 チームは「原人のホモ・エレクトスが生活の一部に火を利用し始めていたのだろう」とみている。

 チームは南ア北部にある洞窟の遺跡で、地層を詳細に調べて、100万年前の植物の灰や焼かれた骨片を発見。燃焼があったのは洞窟の内部で、灰などが、風や雨の流れによって運び込まれたのではないと判断した。

 アフリカで新種の初期人類の化石
 ルーシーと異なる歩き方

 アフリカ東部・エチオピアにある約340万年前の地層から、新種とみられる初期人類の足の化石を、米クリーブランド自然史博物館などのチームが発見、29日付の英科学誌ネイチャーに発表した。

 エチオピアでは、同じ時代に「ルーシー」の愛称で知られるアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)がいた。新種は、アファール猿人とは違い、直立二足歩行に適した土踏まずをつくる弓形の構造がなく、足の指で物をつかめるのが特徴。アファール猿人の方がより、現生人類の祖先に近いと考えられるという。


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