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2019/04/18 (Thu) アコリス遺跡
2019/04/16 (Tue) ペトラ遺跡
2019/03/19 (Tue) 国の文化審議会
2019/03/18 (Mon) 平城京跡に舟入遺構
2019/03/10 (Sun) ヤッスホユック遺跡
2019/03/07 (Thu) 斎宮跡の発掘調査
2019/03/03 (Sun) 若杉山遺跡
2019/03/01 (Fri) 奈良文化財研究所

 新生児用の小さな靴?出土
 エジプト中部アコリス遺跡

 エジプト中部のアコリス遺跡で、約3千年前の靴(長さ約9センチ)を日本の調査団が発掘したことが18日、分かった。団長の川西宏幸筑波大名誉教授によると、新生児用と言えるような小さな靴が出土するのは極めて珍しいという。

 靴は今年1月、当時の集落の住居跡で見つかった。ヤギの皮革製で上部と靴底部分が縫合され、飾りひもが付いていた。新生児用のファーストシューズのようなものだった可能性がある。

 川西名誉教授によると、アコリス遺跡からは複数のサンダルや靴が見つかっており、上流階級に限られていた履物を履く生活が、庶民にも普及していたとみられる。
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 ペトラ遺跡に日本援助で博物館
 ヨルダンの世界遺産遺跡

 中東ヨルダンの南部にある世界遺産の古代都市遺跡、ペトラ遺跡の玄関口に、日本の援助で遺跡の歴史や古代の人々の生活を知ることができる新しい「ペトラ博物館」が完成した。関係者や地元住民は、中東情勢の混乱の影響で落ち込んだ観光業の振興や地域の活性化につながればと期待している。18日から開館する。入場料は当面、無料。

 ペトラ遺跡は米映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」のロケ地として知られ、日本人にも人気の観光地。遺跡敷地に古い博物館がかつてあったが、発掘された貴重な遺物の保存体制が十分でなく、博物館新設の資金として日本が全額の7億8380万円を無償援助した。

 平安京遷都以前の京都を知って 市考古資料館で古代寺院テーマに特別展    

 平安京遷都以前の京都に存在していた古代寺院をテーマにした特別展「京都の飛鳥・白鳳寺院」が、京都市上京区の市考古資料館で開かれている。奈良・平城京に近いながらも当時あまり知られていなかった遷都以前の世界を、当時の在地豪族らが建てた16の寺院跡から出土した約500点の遺物や復元イラストを通して紹介している。6月23日まで。

 遷都以前の京都は文化の後進地だった。しかし、そんな中でも現在の北野白梅町周辺(京都市上京区)で見つかった北野廃寺から、蘇我氏が6世紀後半、奈良・飛鳥に建てた国内初の本格寺院「飛鳥寺」と同じ形の瓦を持った遺構が出るなど、比較的早い時期から寺院が建てられていたことが確認されている。

 その代表格が7世紀初頭に建立された北野廃寺と、聖徳太子との関係が深い秦氏が建てた広隆寺旧境内(右京区)。今回の展示では両寺の瓦片や北野廃寺から出土した粘土などで造られた仏像(塑像)の頭部なども紹介している。

 また仏教を独占して強大な権力を誇った蘇我蝦夷・入鹿親子が大化の改新で殺害された直後、仏教を国家統制の手段とした朝廷が全国に寺院造営を奨励。これを機に京都でも多くの寺院が建てられるようになった。それが北白川廃寺(左京区)や「八坂の塔」で知られる法観寺旧境内(東山区)▽大宅廃寺(山科区)▽樫原廃寺(西京区)-など。八坂の塔の中央を通る心柱を支える心礎は創建当初のままだ。


 今回の展示では、大宅廃寺跡で確認されている塔の頂上を飾った相輪や水煙の破片、法観寺から出土したタイル状の仏像「●仏(せんぶつ)」の破片などを並べている。また昨年、右京区京北町で実施された周山廃寺の調査成果も紹介されている。

 このほか各寺院が岩倉や西賀茂などで操業していた複数の瓦窯から供給を受けていたことが分かる内容になっている。

 同資料館は「平安京以前の京都では秦氏ら有力氏族が競って寺院を建てながらその多くが未完成に終わるなど、先進地の奈良や飛鳥と違った様子を遺物などを通して感じてほしい」と話している。入館無料。月曜休館(月曜が祝・休日の場合は翌日休館)。

●=土へんに専の旧字

 ARで弥生期の唐古・鍵体感 田原本町教委がアプリ開発 奈良

 田原本町教委は、弥生時代の唐古・鍵遺跡の様子を拡張現実(AR)を駆使して体感できる無料アプリを開発し、提供を始めた。唐古・鍵遺跡史跡公園事務所では、アプリが入ったタブレット端末を貸し出している。

 使い方はまず、スマートフォンやタブレット端末にアプリをダウンロード。23本の柱(高さ約2メートル)で示されている史跡公園内の大型建物跡に近づくと、復元画像が表示され、弥生時代にタイムスリップした気分になれそうだ。

 また、翡翠(ひすい)の勾玉や絵画土器など珍しい遺物が出土した11地点に近寄ると、画面上で遺物の発掘を体験できるほか、シャーマンによる弥生時代のマツリの風景を再現したCGなども見ることができる。

 貸し出し用のタブレット端末のカバーは特注品で、町内の清水風遺跡で出土した前漢鏡がモデルとなっている。

 アプリのダウンロードは同町の「唐古・鍵総合サイト」から。問い合わせは唐古・鍵遺跡史跡公園事務所(0744・34・5500)。

 キトラ古墳の極彩色壁画、国宝に
 琉球国時代石碑は重要文化財

 国の文化審議会は18日、美術工芸品分野で、奈良県明日香村のキトラ古墳の極彩色壁画など3件を国宝に、豊臣家文書や沖縄県の琉球国時代石碑など41件を重要文化財に指定するよう柴山昌彦文部科学相に答申した。近く答申通り指定され、美術工芸品の重要文化財は1万772件(うち国宝893件)となる。

 国宝はこのほか、中国の影響を受けたとみられる唐招提寺(奈良市)の木造薬師如来立像など6体、初期密教彫刻の特徴を示す安祥寺(京都市)の木造五智如来坐像も指定される。重文の豊臣家文書は、秀吉が関白となった際の朝廷の任命書や秀吉自筆の書など多彩な内容となっている。

 平城京跡に舟入遺構 - 東堀河の荷揚げ場か 古代の都城跡で初/奈良市埋文センター

 奈良市大安寺2丁目の平城京跡で、運河の「東堀河」を行き交った船の荷揚げ場「舟入(ふないり)」とみられる奈良時代の遺構が、奈良市教育委員会埋蔵文化財調査センターの調査で見つかった。古代の都城跡で同様の施設が確認されるのは初めて。出土遺物は、同市大安寺西2丁目の同センターで開催中の平成30年度春季発掘速報展で展示されている。29日まで。

 現場は「平城京左京六条三坊十二坪」に位置し、同センターが昨年4~5月に約348平方メートルを調査。

 同センターによると、舟入遺構は東西16メートル、南北6メートル以上、深さ0・8メートル。西側で幅4・3メートル分検出した東堀河跡と幅約2メートル、長さ約1メートル、深さ0・6メートルの溝でつながっていた。

 深さ1・1メートルの東堀河から流れ込んだ水が常時たまっていたとみられ、物資の積み下ろしや舟の方向転回を行った舟入の可能性がある。

 東側には舟入遺構と同時期の並行した東西溝2本もあり、その間は幅約3メートルの通路と推定。周辺には掘っ立て柱建物跡や井戸跡も見つかり、調査地は水運と陸運の結節点の役割を持つ施設があったと考えられるという。

 調査地からは祭祀(さいし)に関わる土馬や人面墨書土器のほか、奈良三彩の壺(つぼ)などの遺物が出土。土器から東堀河と舟入遺構は、平安時代の10世紀ごろには完全に埋没したとみられる。

 平城京には東西の市周辺にそれぞれ堀河が南北に通され、京内の物流の役割を果たしていた。西堀河は現在の秋篠川とみられ、東堀河は過去の調査で京跡の「二条条間路」から「九条大路」の間に数カ所確認。いずれも両岸に2~6メートルの空閑地があり、舟をひく通路だったと考えられている。

 同センターの原田憲二郎・活用係長は「今回の遺構は、これまでの東堀河とは趣が異なる。他の場所でも同様の遺構がないか、慎重に検討する必要がある」としている。

 このほか、発掘調査速報展では塔院北門が確認された「史跡大安寺旧境内」や、古代から近代までの遺構が見つかった「平城京跡(左京三条六坊十坪)・奈良町遺跡」の出土遺物が展示。午前9時から午後5時開館。土日曜と祝日は休館。無料。

 問い合わせは同センター、電話0742(33)1821。

 4千年前の儀礼用か土器7点出土
 トルコ中部の遺跡

 トルコ中部のヤッスホユック遺跡で、約4千年前の儀礼用とみられる土器7点が見つかった。発掘調査を続ける中近東文化センター(東京都三鷹市)付属のアナトリア考古学研究所(トルコ中部カマン)が明らかにした。1カ所からまとまって出土し、保存状態も良いという。

 研究所は25~26日、学習院大(東京都豊島区)で報告、研究会を開く。

 土器7点は昨年10月に発掘された。高さは14~21センチで一部破損しているが、いずれも細長いとがった底があり、両側に取っ手が付く杯のような形状だった。日常的に飲用に使われたとは考えにくいという。

 斎宮跡で飛鳥時代の宮殿一部か
 伊勢神宮奉仕の皇女過ごす

 伊勢神宮に仕える皇女「斎王」が過ごした斎宮跡(三重県明和町)で、7世紀後半から8世紀初めの飛鳥時代に建てられた宮殿の一部とみられる建物遺構が見つかり、斎宮歴史博物館が6日、発表した。

 同博物館によると、最初の斎王は674年に派遣された天武天皇(在位673~686年)の娘、大来皇女とされ、今回見つかったのはそれに続く時期の遺構。同館は「斎宮の草創期に、天武天皇らが中央集権体制整備の一環として、伊勢神宮の祭祀への関与を強めた様子がうかがえる」としている。

 同館は昨年6~12月、飛鳥時代に斎宮の中心があったとみられるエリアとその隣接地を発掘調査した。

 徳島に国内最古の坑道
 弥生土器出土、朱を採掘

 徳島県阿南市の若杉山遺跡で、赤色顔料である水銀朱の原料「辰砂」を採掘していたとみられる坑道跡から、弥生時代後期(2~3世紀)の土器片5点が見つかり、市が1日発表した。坑道が掘られた時期は不明だったが、土器から弥生時代後期と推測でき、市は「日本最古の坑道」としている。

 これまで最古とされた坑道は、奈良時代(8世紀)に始まった長登銅山(山口県美祢市)という。

 若杉山遺跡はこれまでに辰砂原石や精製用の石臼、勾玉などが出土している。阿南市によると坑道は人為的に掘られた形跡があり、坑道内では石きねも見つかっている。坑道の高さは約1メートル、奥行きは約13メートル。

 銅製人形など出土品90件 奈文研の資料館、発掘成果を紹介

 奈良文化財研究所が平城宮・京跡で行った発掘調査の成果を紹介する企画展「発掘された平城2017・2018」が、奈文研平城宮跡資料館(奈良市)で開かれている。出土例の少ない銅製の人形(ひとがた)など朱雀門(すざくもん)前付近で出土した祭祀(さいし)具などを展示。最新の調査・研究成果に触れることができる。31日まで。

 平城宮跡東院地区や朱雀門周辺、法華寺旧境内、興福寺境内などの出土品約90件を展示している。このうち祭祀具では、朱雀大路西側溝から出土した人形や斎串(いぐし)、土馬(どば)などを紹介。珍しい銅製の人形は皇族らが使ったと考えられ、今回の出土品も朱雀門前という場所柄から同様の祭祀具とみられる。


 また、興福寺境内から出土した15~17世紀初頭の泥塔(でいとう)も展示。泥土を型抜きして焼いたもので、当時の信仰を考える上で興味深い。このほか、土層に確認できる地震痕跡についても紹介し、地割れの跡などが展示されている。

 開館は午前9時~午後4時半。月曜休館。無料。問い合わせは奈文研連携推進課(0742・30・6753)。

 「せるそ木簡」京都市指定文化財に 御土居跡出土品で初

 豊臣秀吉が16世紀末に京都に築いた御土居(おどい)の堀跡から出土した「せるそ様(さま)」という宣教師名が書かれた墨書木簡などが、京都市指定文化財に指定されることになった。裏にはアルファベット文字も見られるなど、当時の宣教師の実態をうかがわせる全国的にも珍しい資料だという。御土居跡からの出土品の指定は初めて。

 この木簡は大型商業施設の建設に伴い、JR京都駅南側の京都市南区西九条春日町などで実施された発掘調査で出土。安土桃山時代から江戸時代前期にかけての470点以上に及ぶ工具や武具、食事具、遊戯具などとともに見つかった。


 縦18・0センチ、横3・4センチ、厚さ0・5センチのヒノキ製。表に「せるそ様のせんか如庵様」、裏には「Omairu」などと書かれている。「せるそ様」は京都などで布教活動をしていたイエズス会の宣教師、セルソ=コンファローネとみられる。

 この周辺にはヨーロッパ人や宣教師の居住地があったとされ、織田信長が元亀4(1573)年、室町幕府15代将軍、足利義昭との確執で上京を焼き打ちした際、宣教師のルイス=フロイスが逃げ込んだことでも知られている。

 裏のアルファベット文字は解読不明だが、宣教師名とともに全国でも珍しい出土例という。

 御土居跡からは、冠や烏帽子(えぼし)が表現された文楽人形を思わせる木製の頭部も出土。未完成品などもあることから、この一帯に人形製作の工房があったと想定される。

 このほか今回は、西行庵(東山区)の主屋・茶室▽頂法寺(中京区)の本堂、拝堂▽大慈院(北区)所有の絹本著色春屋宗永像、天文十五年春林宗俶の賛付▽権現寺(下京区)所有の木造聖徳太子立像▽霊鑑寺(左京区)の庭園-などを指定。これで市指定・登録は計525点になる。


 長岡京跡に有力貴族の邸宅か 正殿と脇殿2棟の跡見つかる

 京都市伏見区久我西出町の長岡京跡発掘調査で、掘立柱建物3棟の跡を確認したと民間調査会社が28日、発表した。南北2面に庇(ひさし)を備えた正殿のほか、脇殿が2棟あり、後に大きな力を持つことになる藤原氏など上中級の貴族邸宅跡とみられる。

 調査地は長岡京左京三条三坊十六町で、工場敷地約1200平方メートルを昨年12月から調べている。

 当主が居所とした正殿跡では22個の柱穴が見つかった。東西13・5メートル、南北12メートルの正方形に近い建物で、南北両側に3メートルの庇がついていたとみられる。さらに調査地から13メートル東側にも規則的な柱穴が並び、配列からそれぞれ東西4・8メートル、南北12メートルの建物2棟が南北に連なっていたと推定。一族が住んだり、家政機関が置かれたりした脇殿とみられる。奈良時代末期から長岡京期の瓦や土器が出土し、長岡京の遺構と判断した。

 発掘した民間調査会社の京都平安文化財(伏見区)によると、邸宅は1町(約120メートル四方)の半分の広さを占め、長岡宮南限に接した二条大路に近いことから、昇殿を許された上中級貴族が住んだとみる。

 平城京や平安京では、左京の二条大路かいわいに藤原氏の邸宅があった。元向日市埋蔵文化財センター長の山中章・三重大名誉教授(考古学)は「都城において、貴族は原則、それまでと同じような場所に邸宅を割り当てられた。木簡といった文字資料が見つからず状況証拠にすぎないが、平安期に摂関家として権勢を誇った藤原北家や、その立役者の藤原冬嗣に関連する邸宅の可能性はあり得る」と話す。

 遺構は、平安時代の貴族邸宅「寝殿造の原型」とするかどうかで見解の分かれる平安前期の平安京右京一条三坊九町(現山城高)の出土建物跡とも配置が似ていた。正殿と脇殿の間に流路を思わせる跡があり、同社は「古代の貴族邸宅の変遷を考える材料になる」とする。山中名誉教授は、寝殿造の原型を示す可能性について「敷地内には寝殿造に特徴的な池がなく、直接に結びつくものではないだろう」としている。

 現地説明会は3月2日午後1~3時。当日のみ現地携帯電話090(6675)6609。

 長岡京跡から大型建物跡「貴族邸か」「藤原北家に関係した可能性も」

 京都市伏見区の長岡京跡(784-94年)から、貴族邸とみられる大型建物跡が出土し、民間調査会社の京都平安文化財(京都市)が28日発表した。出土したのは、宅地の中心施設の正殿(せいでん)と、脇殿(わきでん)と呼ばれる付属施設2棟分。同社は「出土例が少ない長岡京期の貴族の宅地跡が整然と出た意義は大きい」と評価する。

 工場建設に伴い左京三条三坊十六町の南西部を約1200平方メートル調査。この結果、東西5間(13・5メートル)南北2間(6メートル)の本体に加え、南北両面に庇(ひさし)が1間分付く大型建物跡が出土した。一緒に出た土器から長岡京期に建てられたことが確認された。


 また大型建物跡の東側から東西2間(4・8メートル)の建物跡が2棟分みつかった。いずれも南北5間(12メートル)と推定。建物の規模や配列から貴族邸跡と考えられ、大型建物は中心施設になる正殿、付属建物は脇殿とみられる。

 さらに正殿と脇殿の間には当時、最大幅3メートルの自然流路が流れ、調査地の東部分は湿地状態だったことが判明した。脇殿が湿地内に建てられていたこともわかった。同社は「朝廷では大臣クラスにあたる貴族の邸宅の可能性がある」とみている。同じ配列を持った建物跡は平城京や今回の調査地に近い三条四坊六町、さらに9世紀初頭の平安京右京一条三坊九町などで出土している。

 長岡京に詳しい山中章・三重大名誉教授は「これまでの伝統に沿った邸宅が長岡京、平安京へと引き継がれていったことがわかる好例。調査地の近くに藤原冬嗣が朝廷から拝領した土地もあり、藤原北家に関係した貴族の可能性もある」と話している。

 徳島、縄文の「朱」生産遺跡
 石臼や赤い耳飾りも

 徳島県阿南市の加茂宮ノ前遺跡で、古代の赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千~3千年前)の石臼や石きね300点以上のほか、朱が塗られた耳飾りが出土し、県教育委員会が18日、発表した。

 三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の朱の原石や朱が付着した土器が見つかっているが、水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多としている。

 今回、原料となる石も出土しており、朱を生産していた可能性がある。朱が塗られた土器も見つかり、当時の具体的な使用状況が分かるという。

 「寛永通宝」の鋳造所か
 長野・松本で未完成品など出土

 長野県松本市の国宝・松本城近くのビル建設現場の発掘調査で、江戸時代の代表的貨幣「寛永通宝」の未完成品や鋳造に使われた道具などが見つかり、16日から松本市時計博物館で一部が公開される。3月3日まで。松本藩では幕府から鋳造が許されており、現場付近一帯が鋳造所だった可能性がある。

 松本市教育委員会によると、発掘調査は2015年8月~16年9月。失敗した寛永通宝など9点、溶けた金属を鋳型に注ぐ「るつぼ」約30個分の破片などが見つかった。

 寛永通宝は1636(寛永13)年から幕末まで造られたとされ、松本藩では初期の1637~40年に鋳造されたとの文書が残っている。

 奈良市西九条町から平城京南端の小規模宅地跡

 奈良時代の平城京南端に位置する奈良市西九条町で、小規模に細分化された宅地跡が複数出土し、奈良市教委が31日発表した。宅地跡は「坪」と呼ばれる区画を32分割しており、京跡内でまとまって見つかるのは初めて。後の平安京で基準となる宅地割り「四行八門制」の原形とみられる。

 平城京は大路によって街を碁盤の目状に区画する条坊(じょうぼう)制を採用。この区画をさらに16分割した小区画は「坪」(約135メートル四方)と呼ばれ、現場は「左京九条三坊五坪」に当たる。


 今回の調査では、坪内を東西に4等分、南北に8等分した32ブロックから成る長方形の宅地跡(東西約30メートル、南北約15メートル)を約10区画確認。奈良時代末期から平安時代初期にかけて区割りされたとみられ、それぞれの宅地跡からは井戸や建物の遺構が見つかった。平城京跡内で宅地跡がまとまって出土したのは初めてという。

 これらは平安京で宅地割りの基準となった四行八門制と類似しており、下級役人らへの宅地班給の変遷を知る貴重な遺構という。大阪府立近つ飛鳥博物館の舘野和己館長は「四行八門制の先駆けが見られる。人口増に伴い、宅地は小規模化したのではないか」と話している。

 現地説明会は2月3日午前10時~午後3時に行われる予定。小雨決行。現地に駐車場はない。


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