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 発掘20年 歴史ロマン
 向日市埋文センターが記念展

 向日市埋蔵文化財センターの設立20周年記念展「遺跡発掘20年 足もとにある宝もの」が1日、同市寺戸町の市文化資料館で始まった。縄文から平安まで、各時代ごとの特色を示した出土物を展示し、これまでの調査研究の成果を紹介している。

 同センターは1988年の設立。記念展はセンターと市教委が主催し、会場には最近10年間の出土物を中心に土器や石棒、瓦など計約100点が並んだ。

 長岡京時代のコーナーでは、東院跡などの離宮跡で見つかった長岡京期の瓦を展示。天皇直属の内廷機関「勅旨所」を示す「旨」の異体字が刻まれた瓦は、勅旨所が離宮造営に関与していたことを推察させる。乙訓寺や宝菩提院(ほうぼだいいん)廃寺などの「京下七寺」や山背(やましろ)国(山城国)内の古代寺院で出土した離宮と同型の瓦もあり、桓武天皇の仏教政策の一端を知ることができる。古墳時代終末期の家形陶棺や尾張地方とのつながりをうかがわせる東海系埴輪(はにわ)片なども並んでいる。展示は11月16日まで。無料。問い合わせは同センターTEL(931)3841。

美術館「えき」KYOTO JR京都伊勢丹7階 (電話 075-352-1111)

時間 10:00〜19:30
休館日 無休

●吉村作治の新発見!エジプト展  〜国立カイロ博物館所蔵品と〜

平成20年10月10日(金)〜11月24日(月・休)

世界初公開となる3500年〜4000年前の未盗掘木棺、「チャイの人型棺」「セペクハトとセネトイトエスの箱型棺」をはじめ、「古代エジプトのミイラと埋葬」をテーマに展覧します。

 発掘作業見て遺跡に理解を-橿原・南曽我遺跡を公開

 土器や柱穴はどうやって見つかるの?―。
 元興寺文化財研究所(奈良市)は29日、橿原市曽我町の南曽我遺跡で行っている発掘調査の様子を公開すると発表した。「現地説明会」は調査終了後が基本だが、遺跡への理解を深めてもらおうと、「関西考古学の日」に合わせて企画した。

 6月中旬から約6000平方メートルを調査しており、弥生時代の方形周溝墓や溝、奈良時代の井戸跡などが見つかっている。埋没した古墳の濠ではニワトリ形埴輪(はにわ)も出土。

 公開は10月1、8、13の3日間で、いずれも午前10時―正午と午後1時半から同3時半。13日は土器洗いの体験コーナーも設ける。

 縄文期に多人数火葬
 長岡京・伊賀寺遺跡 一つの墓にまとめる

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは18日、長岡京市下海印寺の伊賀寺(いがじ)遺跡で縄文後期(約3500年前)の火葬墓と見られる遺構が見つかったと発表した。縄文期の火葬の確認は府内初。多数がまとめて葬られており、縄文の葬制に詳しい山田康弘島根大准教授は「多人数が火葬にされ一つの墓に葬られるのは全国的に珍しい」という。

 遺構は京都第二外環状線の建設計画に関連する調査で2基確認された。1基は直径1メートル余りの楕円(だえん)形、他の1基は縦2・85メートル、横4・05メートルの長方形。穴の深さは0・4−0・5メートル。多数の人骨と焼土が見つかり、近くに火葬跡とみられる焼土があった。楕円形の墓には副葬品とみられる注口(ちゅうこう)土器がほぼ完形で残っていた。

 京都大理学研究科自然人類学研究室の大藪由美子研修員によると、骨の状態で焼いたのではなく遺体を火葬したとみられる。楕円形の墓には少なくとも9人が葬られていた。一体は10代後半、別の一体は25−40歳代。長方形の墓にも複数が葬られ、一体は成人だった。

 発掘を担当した府埋文センターの岩松保主任調査員は「埋葬した骨を掘り出して火葬にする再葬は縄文時代にもある。しかし、今回は遺体を火葬した一次葬の可能性が高い」と話す。

 現地説明会は20日午後2時から。現地事務所Tel:075(953)1544。

 中世文書に記載「戸田」存在確認
 福知山、掘っ立て柱跡や溝出土

 府埋蔵文化財調査研究センターは17日、京都府福知山市戸田の戸田遺跡で平安末期から鎌倉初期にかけての村落跡が見つかり、「中世の文書に出てくる戸田地区の存在を初めて確認した」と発表した。「地域史を知る上で重要」としている。

 発掘は由良川の築堤工事に伴い、4月から計2300平方メートルにわたって行っている。

 現場からは、最大で直径約60センチの掘っ立て柱跡を多数発見。村を区画するための溝(幅1−3メートル、深さ約30センチ)や畑、池の跡とみられる円形の石組みが見つかった。碗や皿の瓦器や土師(はじ)器の出土品から、集落は12世紀後半から始まったことが分かった。

 戸田は当時、松尾大社(京都市西京区)の社領で、中世の同大社文書にも「富田」(戸田)の記載がある。発掘で、集落跡が文書にある村であると確認できた。出土品には初期の伊万里焼や中国製磁器も数多くあり、「江戸時代にかけて日本海と由良川の水運で栄えた村だった」と同センターはみている。

 現地説明会は23日午前10時半から。現地事務所携帯電話090(9718)3588。

 キトラ朱雀を報道公開
 泥乾燥、朱色もぼんやり

 文化庁は10日、奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)からはぎ取り、保存処置中の四神図「朱雀」を報道陣に公開。表面を覆った泥が乾燥して白くなり、鮮やかな朱色や描線は見えにくい状態になっていた。

 カビと細菌の混合体(ゲル)が厚く付いた数十カ所で下地のしっくいがひび割れる恐れがあり、レーヨン紙を張って保護。このほか褐色の斑点になったゲルも数百カ所あるという。文化庁は2010年の一般公開を目指しており、ゲルの除去など本格的な作業に取り掛かる。

 担当する東京文化財研究所の川野辺渉副センター長は「絵の上の泥は、顔料も一緒に落ちるため、除去できないだろう」と話した。

 朱雀図は現在、明日香村にある修復施設で温度18−19度、湿度55%で保管。乾燥させてカビの発生を抑えている。

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 キトラ壁画「朱雀」 表面の粒状物質、数百〜1000カ所近くに

 昨年2月にキトラ古墳(明日香村)の石室からはぎ取られ、修復が行われている極彩色壁画「朱雀」について、文化庁は10日、約1年半ぶりに報道陣に保存状況を公開した。壁画を覆う黒茶色の粒状物質は、数百から1000カ所近くに上ることが判明。同庁は、水分を与えて柔らかくしながら除去する方針を示した。平城遷都1300年祭に合わせて平成22年の一般公開を目指すものの、粒状物質の除去の進捗(しんちょく)によっては、困難な可能性もあるという。

 朱雀の壁画上に発生した粒状物質は、カビやバクテリアなどの混成で、湿度99%の石室内ではゼリー状になって壁画を覆い、あまり目立たなかった。しかし、はぎ取り後に専用保管庫で湿度55%に保って保管する中で、次第に0・5ミリ大の粒状に固まっていった。

 頭部や尾羽など全体に及んでおり、乾燥で凝縮すると壁画の描かれた漆喰(しっくい)に亀裂が発生する恐れがあるため、現在は樹脂をしみ込ませた1センチ大のレーヨン紙を張りつけて保護している。

 薄い泥の層に覆われた尾羽部分は、乾燥に伴って土の茶色が目立つようになり、朱雀の彩色がくすんだようになっている。泥粒子は壁画顔料より微細なため、除去は困難だという。

 修復担当の川野邊渉・東京文化財研究所副センター長は「絵が失われたり退色しているのではない。水分を与えると石室内のような鮮やかな朱色が戻る」と説明した。

 府内出土の遺物ずらり
 木津川、7日から企画展

 京都府内各地の発掘調査で出土した遺物を紹介する企画展「京都発掘だより2008」が、7日から木津川市山城町の府立山城郷土資料館で開催される。

 同展は府埋蔵文化財調査研究センター(向日市)や各市町教育委員会の発掘調査成果を広く公開することを目的に毎年開いており、昨年度の調査で出土した土器や埴輪などを中心に約120点展示。同センターが今夏開いた「小さな展覧会」の出展品のほか、山城地域の古墳や遺跡で出土した埴輪などを見ることができる。

 木津川市の内田山古墳から出土した5世紀初めごろの家形埴輪(高さ約70センチ、幅約50センチ)や、宇治市の乙方遺跡で見つかった1万数千年前の石製のやり先などが展示される。

 10月5日まで。入館料一般200円、小中学生50円。月曜休館(月曜祝日の場合は火曜休館)。

 秀吉庭園遺構に400人

 豊臣秀吉が築いた「宇治川太閤堤(たいこうづつみ)跡」(宇治市菟道(とどう)丸山)で出土した庭園遺構の現地説明会が30日行われ、約400人の歴史ファンが詰めかけた。

 石組みの池や炉の跡などを前に、同市歴史資料館の職員が「あり得ない所から庭園が出た時は、まさかという思いで、驚いた」と発掘した時の状況を説明。見学者らは「庭を造って護岸がゆがめられないのか」などと熱心に質問していた。


 鎌倉末期の倉?祭事施設? 
 南丹・新庄遺跡掘っ立て柱建物跡出土

 京都府南丹市八木町室橋の新庄遺跡で、一般の住居と異なり特殊な用途と考えられる鎌倉時代末期の掘っ立て柱建物跡1棟分が見つかり、発掘調査している府埋蔵文化財調査研究センターが28日、発表した。

 府のほ場整備事業に先立ち、今年5月から1270平方メートルを調査している。

 掘っ立て柱建物はほぼ南向きで、二間四方(東西4・3メートル、南北5メートル)の高床式。周りを囲む柵か塀の柱跡も見つかった。建物中央の柱の下から、地鎮の目的で埋めたとみられる中国製の青磁碗2個と、土師器(はじき)の皿3枚の破片が出土した。

 掘っ立て柱の建物は、鎌倉時代には古い形式に属し、主要な建物には用いず、倉庫や祭事用などに使われたという。近くの室橋遺跡などでも確認されているが、今回の遺構は柱の直径が40−50センチで、鎌倉時代としては規模が大きいという。同センターは「用途は不明だが、高くて立派な建物だったのでは。村の重要な物を入れた倉か、宗教的な意味合いがあった可能性もある」としている。

 このほか、古墳時代中期の竪穴住居跡や、かまどを備えた作業場とみられる奈良時代の半地下式掘っ立て柱建物跡、かんがい用水路とみられる幅約3メートルの時代不明の溝跡も見つかった。

 30日午前10時半から現地説明会を開く。駐車場はない。問い合わせは同センターの携帯電話090(6205)8261。

 万福寺の塔頭跡を確認
 宇治市教委 境内図もとに発掘調査

 京都府宇治市教委は27日、同市五ケ庄の黄檗宗大本山万福寺の南側で行った発掘調査で、江戸前期の同寺開創当初に建てられた塔頭(たっとう)の華蔵(けぞう)院跡を確認した、と発表した。1871(明治4)年に陸軍の火薬製造所建設のため取り壊されており、市教委は「塔頭の正確な建物配置を知る貴重な資料」としている。

 市教委と同寺によると、華蔵院は万福寺を開いた中国の僧隠元の弟子・南源性派(なんげんしょうは)が開創7年後の1668(寛文8)年に建立。同寺は18世紀初めに現在の倍の境内約56万平方メートルに33の塔頭があったが、現在は19に減っている。

 発掘調査は、17世紀後半に描かれたとされる境内図をもとに行い、華蔵院の所在地付近から、塔頭で僧が寝起きする庫裏(くり)と呼ばれる建物遺構が出土した。東西20メートル、南北12メートルで、土台の礎石を据え付けるための直径約1メートルの穴8つ確認した。庫裏は東西に伸び、南北に長い本堂とL字型に接していた。

 遺構から土瓶や急須、煎(せん)茶わんの破片なども多数見つかり、隠元がもたらした喫茶文化が弟子に受け継がれていたことがうかがえるとしている。

 現地説明会は30日午前10時から行う。

 道路の遺構出土 長岡京もう少し広かった?

 長岡京跡の北に隣接する野田遺跡(向日市森本町)で、長岡京の小路の延長とみられる道路の遺構が見つかり、向日市埋蔵文化財センターが21日発表した。小路に伴って柱穴も出土。道路沿いに何らかの建物が建っていたことがうかがえ、センターは「従来の想定よりも京域が北に広がっていた可能性が高まった」としている。

 工場建設に伴い、5月から1396平方メートルを調査。道路の遺構は、長岡京の北限とされてきた北京極大路をさらに北へ約40メートル上がった付近で、南北約40メートルにわたって出土。長岡京の東二坊坊間西小路の延長線上に位置し、幅約9メートルで、両側に幅約0・8〜1・2メートルの溝を配していることなど、この小路と同じ形状であることを確認した。

 溝の脇には、平行して柱穴が数か所にわたって出土。一辺65〜90センチ、深さ80センチの井戸跡なども見つかった。

 これまでも、東一坊大路などいくつかの大路が、北京極大路より北に延びていることを確認しているが、小路については今回が初めて。大小の道路を東西南北に整備した長岡京の条坊区画がさらに北に広がっていた可能性が高まったという。

 同センターでは「桂川のはんらんなどで南側に京域を広げることが出来ないため、北側に広がりを持たせたのでは。長岡京を築いた桓武天皇の計画性の高さがうかがえる」としている。

 一方、山中章・三重大教授(考古学)は「北側の広がりは、京域ではなく、唐の長安や平城京にもあった天皇の私的な空間ではないか。その空間が条坊区画されていたということだろう」との見方を示している。

 現地説明会は23日午前10時から行われる。

 宇治川太閤堤跡に庭園遺構 秀吉らしさ 
 有馬の茶庭に類似

 新たに庭園遺構が見つかった宇治市の宇治川東岸の「宇治川太閤堤跡」。土の下から姿を現したのは、治水目的の堤防に庭を造る、という太閤さんらしい奇抜な発想だった。

 見つかった庭園遺構の池は、池の水が川に流れ込むような構造だった。

 秀吉が湯治で、たびたび訪れていた有馬温泉(神戸市)の「湯山遺跡」の茶庭にも同じ構造の池跡があり、仲隆裕・京都造形芸術大教授(庭園史)は太閤堤跡の池が「湯山遺跡の池と類似している」とみる。神戸市教委によると、1590年には秀吉が千利休や津田宗及ら茶人と有馬温泉を訪れたという文献が残されているという。

 小和田哲男・静岡大学教授(戦国史)も「自分の天下を確信し、茶の湯にのめり込んだ晩年の秀吉らしい、破天荒さが表れているのではないか」と話す。

 宇治川での茶会の記録はないが、秀吉は組み立て式の「黄金の茶室」を造ったほか、京都で大茶会を催すなど茶道の振興に尽くしたことで知られ、戦場などで野だてを楽しんでいたとされる。

 今回は茶器の破片や別の建物遺構は見つかっていないが、今後の遺構の全容解明が期待される。

 彩色鮮やか、想像上の高山表す 京都、国宝級の陶器発見

 奈良の都の北郊にあたる文廻(ぶんまわし)池遺跡(京都府木津川市)から、板状の三彩陶器数十点が見つかった。鮮やかに彩色されており、正倉院宝物にもひけをとらない国宝級。組み立てると仏教世界の中心にそびえる想像上の高山である須弥山(しゅみせん)を表す、立体的な大型工芸品になりそうだ。三彩の須弥山は国内での出土例はなく、中国でもきわめて珍しい。発掘場所は本格的な調査中だが、万葉集の木簡も出土。陶器は唐からもたらされた貴重な唐三彩の可能性もあり、専門家は前例のない遺跡として、今後の調査に注目している。

    ◇

 〈須弥山〉 インドが起源とされ、仏教の世界観の中心にあると言われる高山。複数の山や川、海などの自然が表現されている。日本で有名なのは奈良県明日香村で見つかった7世紀の須弥山石。一部が失われたものの、山などが刻まれていることが分かる。噴水としても使われたらしい。文様が表現され、仏像をのせた「須弥壇」もその一種。このほか、銅鏡の文様などにも応用された。

酒屋跡か、室町期の町家
下京 地下には麹室も

 京都市下京区烏丸通綾小路西入ルの発掘調査で、室町時代前期(14世紀後半)の酒屋とみられる町家跡が見つかり6日、市埋蔵文化財研究所が発表した。醸造の甕(かめ)を据えた多数の穴や、麹(こうじ)を育てる地下倉庫、井戸など酒造業の施設がそろっていた。

 ビル建設に伴い5月上旬から585平方メートルを調査。甕跡は直径70センチ、深さ25センチの円形で38個確認された。東西3−6列、南北15列に整然と並んでいた。地下倉庫は東西5メートル、南北2・5メートル、深さ1メートル。地中の湿気を遮る「すのこ」を支えたとみられる礎石が残っており、麹室の可能性が高いという。

 礎石など町家跡も良好に残り、幅10メートル、奥行き30メートルの「うなぎの寝床」だったとみられる。通り沿いに店舗、奥に作業場と井戸、通りから奥まで突き抜ける「通り庭」があり、現在とよく似た京町家の構造という。甕の破片は人為的に壊されており、1419年、幕府が出した麹づくりの禁令に従わなかった制裁の可能性があるという。

 室町時代の京は酒どころ。300軒以上の酒屋が並び、高利貸を兼業し財を蓄えたという。市埋文研は「現場は町衆の町として栄えた下京の中心地。山鉾が出され始めたころの祇園祭を、経済的にバックアップした酒屋だろう」と話している。

 現地説明会は9日午前10時から。問い合わせは現場事務所TEL075(344)2602へ。

 鎌倉期、京の貴族も猛暑対策
 近鉄京都駅構内で泉跡発掘

 京都市下京区の近鉄京都駅の線路増設に伴う発掘調査で、鎌倉時代前半の泉とみられる跡が1日までに見つかった。甕の口縁部を再利用し、こんこんと絶えず水がわき出す“水甕”のデザイン。貴族らの優雅な暮らしぶりがうかがえる。

 泉跡は直径2メートルの円形のすり鉢状に小石を敷き詰め、中心の噴き出し口に直径50センチの甕の口を据え、60センチ下の砂れき層まで掘り込んでいた。

 泉は、夏の猛暑を逃れるため、貴族らに愛好された。平安末期とされる「扇面古写経」(四天王寺蔵、国宝)は、甕を埋めた泉から水があふれ出る様子を描いている。

 調査地は平安末期に鳥羽天皇中宮・美福門院得子(なりこ)や平清盛の弟頼盛が住んだとされる。調査した京都市埋蔵文化財研究所は「居住者は特定できないが、相当な立場の人物だろう」と話している。

 現地説明会は2日午前10時と11時から。問い合わせは携帯電話090(2064)2199へ。


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