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2008/09/30 (Tue) 箸墓古墳
2008/09/28 (Sun) 藤原宮朝堂院跡
2008/09/27 (Sat) 平城宮跡

 藤原宮跡 朝堂院建物跡が出土

 藤原京(694〜710年)の宮殿があった橿原市高殿町の藤原宮跡で、儀式や政務を行う朝堂院の建物のうち、国家の予算編成や徴税、戸籍編さんを行う民部省の役人が着座した「東第六堂」の建物跡が出土し、奈良文化財研究所が25日発表した。巨大な建物跡(南北11・2メートル、東西49・1メートル)がまるごと見つかったうえ、正面に天皇が政務を執った大極殿や耳成山をのぞむロケーション。同研究所は「大和三山に囲まれた当時の朝廷の姿をしのぶ貴重な資料」としている。

 朝堂院は大極殿南側にあり、親王や太政大臣、役人が着座する12棟が東西対称に並ぶ建物群。役人は各官庁から同院に集まり、朝の会議「朝政」を開いた。

 「東第六堂」は最も南側にある東西に長い建物で、確認された朝堂院遺構としては4棟目。現在の総務省の一部と財務省を兼ねる民部省の主計寮、主税寮の役人が着座したとされる。

 柱を立てる礎石は平城京遷都に伴い、大半がなくなっていたが、1辺約1メートルの2基が元の位置と離れた場所で出土。礎石を置く直径1・5〜2メートルの穴には、礎石を安定させるために人頭大の石が敷き詰められていた。構造は南北に庇(ひさし)がある切り妻造りで、役人は板張りの床にむしろを敷いて座っていたとみられる。基壇の外縁は木枠で囲んでいたらしい。

 建物の周囲はれき敷きの空間が広がり、格調高い院内の様子がうかがえる。

 現地説明会は27日午後1時30分から。

 大谷3号窯は平安期最大級
 亀岡・篠窯跡群 阪大発表

 京都府亀岡市篠町の篠窯跡群・大谷3号窯(2基)を調査している大阪大学考古学研究室は25日、平安時代前期後半(9世紀後半)に平安京などへ高級品とされた緑釉(ゆう)陶器を供給していたとされる大谷3号窯について、「当時では全国的にも最大級で、大型の窯で緑釉陶器を生産するなど近畿の生産拠点だったと見られる」と発表した。

 工人たちが都の技術に加え、丹波の技術を生かしながら高度な陶器製造をしていたことがうかがえる、としている。

 今回の調査では、昨年8月に同窯の灰原(ごみ捨て場)から緑釉陶器や、陶器を焼く際、製品同士が付着するのを防ぐ窯道具の三叉トチンが発見されのを受け、窯の規模や構造を確認していた。

 この結果、窯2基は、山の斜面を掘り、その上に枠木をかぶせたとみられる半地下式だったことが判明。一つは幅約1・7メートル、高さ約60センチ(推定)、長さ約10メートル、隣接したもう一つの窯は幅約1・5メートル、高さ同、長さ約8メートルで、「大きい窯は当時としては全国的にも最大級で、規模から見て大型陶器を作る近畿有数の生産拠点だった」(同研究所)としている。窯からは緑釉陶器の皿の破片など数十片も見つかった。

 また、緑釉陶器の製造では、洛西地域の工人集団らが、地表に作った小型の窯で製作していたと見られていたが、今回の調査で山の斜面を利用した大規模な窯跡が確認されたことなどから、同研究所の高橋照彦助教授(考古学)は「口丹波での緑釉陶器は、都の工人の流入によって製造されたのではなく、都の技術と口丹波で培われた伝統的な製法を組み合わせた上で、地元の工人が製造していたと考えられる」としている。

 現地説明会は27日午前10時から。

 境内から近世のかまど出土
 福岡県久留米市の善導寺

 福岡県久留米市の善導寺境内で、安土桃山から江戸時代にかけてのかまど12基が出土し、同市教育委員会が24日、発表した。市教委は「調査例の少ない、寺院のかまどの変遷を示す貴重な資料」としている。

 市教委によると、国の重要文化財である善導寺大庫裏の保存修理に伴う地下遺構の発掘調査で、かまどは計3カ所から見つかった。

 1カ所からは安土桃山時代のかまど計5基(直径約70センチ)、別の2カ所からは江戸時代のかまど計7基(直径約1メートル)が出土。いずれも石組みで、江戸時代のかまどは1基で一度に数十人分の食事が作れる大きさだった。

 市教委は「江戸時代のかまどが戦乱の続いた安土桃山時代よりも大型化しているのは、社会が安定して法事に訪れる人が増えたためではないか」と推測している。


 境内から近世のかまど出土
 福岡県久留米市の善導寺

 福岡県久留米市の善導寺境内で、安土桃山から江戸時代にかけてのかまど12基が出土し、同市教育委員会が24日、発表した。市教委は「調査例の少ない、寺院のかまどの変遷を示す貴重な資料」としている。

 市教委によると、国の重要文化財である善導寺大庫裏の保存修理に伴う地下遺構の発掘調査で、かまどは計3カ所から見つかった。

 1カ所からは安土桃山時代のかまど計5基(直径約70センチ)、別の2カ所からは江戸時代のかまど計7基(直径約1メートル)が出土。いずれも石組みで、江戸時代のかまどは1基で一度に数十人分の食事が作れる大きさだった。

 市教委は「江戸時代のかまどが戦乱の続いた安土桃山時代よりも大型化しているのは、社会が安定して法事に訪れる人が増えたためではないか」と推測している。

 馬子邸跡で新たに建物跡
 明日香村の島庄遺跡

 飛鳥時代の大豪族・蘇我馬子(生年不明−626年)の邸宅で、大化改新(645年)によって蘇我氏が滅亡した後に草壁皇子の「嶋宮」になったとされる奈良県明日香村の島庄遺跡で、7世紀前半の建物跡が新たに見つかり、同村教育委員会が24日発表した。

 これで馬子の時期の建物跡は5棟で、嶋宮期を含めた7世紀代の建物跡は16棟となった。

 今回発見の建物跡は柱穴4個分。柱穴は直径0・8−1メートルで、2メートル間隔で並んでいた。穴の中央部に直径約20センチの柱を立てたらしい。建物規模は不明。

 また、馬子の正殿ではないかとされる大型建物跡は東西12メートル、南北7・5メートルで、嶋宮の中心施設とみられる建物跡は東西12メートル、南北4・4メートルの規模と分かった。

 安土城内堀の遺構か 石垣見つかる
 滋賀県調査研究所

 特別史跡の安土城跡(滋賀県安土町下豊浦)を調査している県安土城郭調査研究所は18日、同城の内堀の遺構とみられる石垣が見つかった、と発表した。大手門の前に幅40メートル以上の広場があったことが分かったのをはじめ、石垣の一部に橋の基礎とみられる突出部も確認された。同研究所は「広場や橋は、天皇を迎えるための施設だったのでは」と推測している。

 見つかった石垣は大手門前から南へ44メートルのところで、東西32メートル間に4カ所。うち一番西側の石垣は高さ85センチ前後の三段積み。下部には石組みの不等沈下を防ぐ胴木と呼ばれるクリの角材が敷かれ、くいで止める丁寧な工法がとられていた。

 その東側3メートルの石垣には長さ4・4メートル(幅2・5メートル以上)の突出部があり、大手門道のほぼ延長線上に位置するため、内堀を渡る橋の基礎(橋台)と推測している。

 同城は大手門の両側100メートル間に二つの門があったことから、大手門前と内堀の間には4400平方メートル以上の広場があったとみられ、同研究所は「城郭の一部に紫宸殿を模した建物があったことと合わせると、天皇を迎えようとした信長の計画が裏付けられるのではないか」と話している。

 現地説明会は、21日午前10時半と午後1時半の2回、同城跡大手前駐車場で行われる。

 近江国庁の役所か
 大津「青江遺跡」 掘っ立て柱建物跡出土 

 大津市教委は17日、近江国庁の関連施設跡とみられる史跡「青江遺跡」(同市神領4丁目)から、3棟分の掘っ立て柱建物跡が見つかった、と発表した。うち一つは、国庁の中心施設「政庁」の東脇殿跡に次ぐ規模で、国庁で使われた飛雲文の模様が入った軒丸瓦も発見されたことから、市教委は「近江国庁と深いかかわりを持つ官衙(かんが)(役所)ではないか」としている。

 近江国庁は8世紀から10世紀まで、近江国を統治した。青江遺跡は史跡「近江国庁跡」の南約500メートルにあり、1999年度の調査で国司級の役人の住居とみられる建物跡が見つかっている。

 今回は、青江遺跡の東南部の約1万平方メートルを発掘した。建物跡は近接して建てられ、うち2棟は重複していた。最大の建物跡は南北27メートル、東西6メートルの長方形で、国庁と同じ方位に建てられ、政庁の東脇殿跡(南北48メートル、東西7メートルと推定)に次ぐ大きさだった。8世紀後半から9世紀初めに作られた土器や瓦の破片も大量に出土していることから、3棟とも、この時期の建造とみられる。

 市教委は「建物の近くで硯(すずり)や水滴も見つかっており、文書行政を担う官衙だったのではないか。これまで官衙は近江国庁周辺でしか見つかっておらず、離れた場所で見つかったのは初めて。国庁と方位が同じであることから計画的に造られたとみられ、官庁街だった近江国府の広がりがわかる」としている。

 現地説明会は20日午前10時半から。

 地方官衙の遺跡に詳しい奈良文化財研究所(奈良市)の山中敏史・遺跡調査技術研究室長の話官衙は政治の実務を担う場所で、国庁から広範囲にブロックをなして散在していた。今回の発見は、近江国の都市計画を知る手掛かりになる。

 室町期の堀の一部発掘

 鎌倉前期に建てられた洛中最古の建物として知られる京都市上京区の大報恩寺(千本釈迦堂)の本堂(国宝)から約100メートル北西で、旧境内に巡っていたとみられる堀の一部が16日までに見つかった。

 5月中旬から約300平方メートルを調査した。堀は南北方向で幅約2・5メートル、深さ約1・2メートルの逆台形。水がたまった形跡もあった。室町後期の16世紀に掘られ、数10年で埋められたらしい。

 発掘した古代文化調査会の家崎孝治代表は「戦乱が相次いだこの時代、京の寺は自衛のために境内に堀を巡らせ、本堂を守ったのでは」と話している。

 極小ガラスの連珠に銀箔?
 富田林・廿山南古墳で発見

 大阪府富田林市の廿山南(つづやまみなみ)古墳(6世紀中ごろ、古墳時代後期)で、7つつながった製造過程の小さなガラス玉が見つかり、中に銀箔が挟まれている可能性の高いことが15日分かった。

 大阪府立近つ飛鳥博物館(同府河南町)によると、7つの「連珠」が見つかった例はなく、銀箔入りのガラス玉は全国でもほかに二例しかない。

 調査した同博物館の宮崎泰史学芸員は「分析を進めて銀箔が確認できれば極めて貴重な発見。製造途中の形で副葬品にされており、ガラス製作にかかわった人の墓ではないか」としている。

 古代のガラス玉は、溶かしたガラスを細長いしんに巻き付けて製造。ガラスが軟らかいうちにくぼみを付けるなどして連珠状にした後、切り離して首飾りなど装飾品に使った。

 市民の会「保存を求める」要望書
 山科本願寺・寺内町遺跡

 山科本願寺・寺内町を考える市民の会(山本正明会長)と山科本願寺・寺内町の歴史を学ぶ会(中村武生事務局長)は8日、国史跡の山科本願寺・寺内町遺跡(京都市山科区)について「保存と活用を求める」要望書を山田啓二京都府知事と桝本頼兼京都市長らに提出した。

 要望書は「同遺跡は日本の歴史上、屈指の中世都市であり、かけがえのない歴史遺産」とし、広範な学術調査を行い、史跡範囲を拡大することや案内板の建て替え、史跡公園としての整備、学校教育への導入などを求めている。

 山科本願寺は本願寺中興の祖の蓮如が室町中期に造営したが、約半世紀後に法華宗徒らの攻撃で陥落した。蓮如の隠居所「南殿」と現在も残る土塁の一部が2002年に国史跡に指定された。両会では「指定直後にも同様の要望をしたが全く進展がみられない」と話している。

 ほぼ完形の武装石人出土

 福岡県八女市の鶴見山古墳(6世紀中ごろ)から円体武装石人1体が出土し、同市教育委員会が5日、発表した。両腕の先端と鼻の部分が欠けているだけで、市教委は「これほど完全な形のものが出たのは初めて。当時の武人が装着していた甲冑(かっちゅう)の状況を詳細に観察でき貴重な発見」としている。

 石人は、古墳の上に立てるために石で作られたもので、馬の形をした石馬とともに石製表飾品と呼ばれる。石人石馬は九州では31古墳で確認されている。

 今回の石人は高さ158センチ、最大幅78センチ。頭部にはかぶと、胴部には短甲、下半身部には草ずりを装着している。


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