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長岡宮朝堂院南門、調査結果を発表
向日市埋文センター 30日に現地説明会

 日本の古代の宮で初めて、楼閣を伴っていたことが確認された長岡宮朝堂院南門について、向日市埋蔵文化財センターは28日、京都府向日市上植野町の発掘現場で調査結果を発表した。楼閣を含む南への張り出しは約36メートルで、平安宮応天門より小規模ながら、宮城を飾る施設にふさわしい壮麗な建物であったと見られる。

 同センターは8月下旬から10月末にかけて、翼廊の南部分にあたる約400平方メートルを発掘調査した。礎石の据え付け穴を3基確認したほか、外周を通る基壇の溝も南側に延びていた。瓦片が大量に出土し、幅9メートルの回廊が南に折れ曲がっていた。

 その南端に礎石の基礎が8基見つかり、柱の間隔から回廊とは異なる建物の存在が判明した。この建物は▽柱の配置から総柱構造と考えられる▽回廊から基壇が続いており一体的な施設▽礎石基盤が回廊より丁寧に整地されている−などの状態から、平安宮応天門の「翔鸞楼(しょうらんろう)」に相当する約15メートル四方の楼閣と判断した。

 南門の東側は未調査だが、平安宮の例から同様の楼閣が想定され、南門を中心とした鶴翼型の施設と考えられるという。

 一方、これまで宮の南面を東西に貫くと想定されていた主要道路の二条大路は、張り出した楼閣に塞がれる形になることから、長岡京の条坊復元の見直しが今後の課題となる。

 現地説明会は30日午前10時と午後2時の2回開く。阪急西向日駅西口そばの朝堂院公園に集合する。問い合わせは向日市埋蔵文化財センターTel:075(931)3841。

 ■長岡宮朝堂院南門に楼閣

 向日市上植野町南開の長岡宮朝堂院南面回廊の発掘調査で、朝堂院南門に伴う「翼廊(つばさろう)」が南に折れ楼閣を伴っていたことを同市埋蔵文化財センターが28日、発表した。平安宮応天門の翔鸞楼(しょうらんろう)にあたる施設とみられる。同センターが作製した復元図=写真下=からは、往時の宮前面の威容がうかがわれる。唐の宮城の建築様式にならった。

 始皇帝陵に大量の硬貨
 秦の「国家金庫」か

 新華社電によると、中国陝西省西安市郊外にある「秦の始皇帝陵」の地下に、大量の硬貨が埋まっていることが分かった。同市でこのほど開かれたフォーラムで国際記念物遺跡会議のペツェット会長が、磁気探査の結果発見したとして明らかにした。

 陵は未発掘で、新華社は硬貨の種類や枚数を伝えていないが、同会長は「非常に多くの硬貨」とした上で「国家の金庫とみられる」と指摘した。

 始皇帝陵は東西345メートル、南北350メートル、高さ76メートルの墳丘で2003年には地下約30メートルの地点に東西170メートル、南北145メートル規模の巨大な「地下宮殿」などが存在することが確認されている。


 始皇帝陵に大量の硬貨
 秦の「国家金庫」か

 新華社電によると、中国陝西省西安市郊外にある「秦の始皇帝陵」の地下に、大量の硬貨が埋まっていることが分かった。同市でこのほど開かれたフォーラムで国際記念物遺跡会議のペツェット会長が、磁気探査の結果発見したとして明らかにした。

 陵は未発掘で、新華社は硬貨の種類や枚数を伝えていないが、同会長は「非常に多くの硬貨」とした上で「国家の金庫とみられる」と指摘した。

 始皇帝陵は東西345メートル、南北350メートル、高さ76メートルの墳丘で2003年には地下約30メートルの地点に東西170メートル、南北145メートル規模の巨大な「地下宮殿」などが存在することが確認されている。

 勝竜寺・久貝の恵解山古墳、ずんぐり形
 長岡京市埋文センター発表

 京都府長岡京市勝竜寺・久貝2丁目の国史跡「恵解山(いげのやま)古墳」(5世紀半ば、前方後円墳)を発掘調査している同市埋蔵文化財センターは19日、後円部の輪郭とくびれ部の位置がほぼ明らかになった、と発表した。後円部の直径と前方部の横幅が拮抗(きっこう)し、前方部の長さも比較的短く、ずんぐりした形だった、としている。

 全長128メートルの恵解山古墳は乙訓地域で最大規模を誇り、同市は史跡公園として整備する計画を進めている。昨年までに5回の発掘調査が行われ、1980年の第3次調査で、前方部中央から多量の鉄製武器を埋納した施設が発見された。昨年の第5次調査で古墳西側に祭祀(さいし)の場「造り出し」の南辺を確認、さらに今回は北西角から前方部にかけての基底石が見つかり、造り出しの規模は南北約12メートル、東西約9・7メートルと分かった。

 後円部の輪郭については、過去の前方部の調査で見つかったような基底石や盛り土は出土しなかった。しかし、造り出しの北東角から後円部方向へ約7メートルの地点で、円を描くように広がる多数の葺(ふき)石が見つかった。

 同センターは、過去の調査成果とも照らし合わせ、後円部は直径約78メートル、くびれ部は幅約53メートルと推定。「これで古墳すそ部の復元が可能になった。後円部の直径と前方部の幅(76メートル前後)が拮抗するなど、ずんぐりした平面形は大阪府羽曳野市の墓山古墳などと似ている」としている。

 このほか、前方部と造り出しの接続部分の北角で、石や祭祀用の家型埴輪(はにわ)、祭祀用土器を模したミニチュアのつぼなどが発見された。「前方部と造り出しの間に、谷状の斜面が設けられていた可能性がある」という。現地説明会は22日午後1時半から。問い合わせは同センターTel:(955)3622。

 両袖式横穴式石室を確認
 京田辺の堀切古墳群 副葬品も出土

 京田辺市教委は13日、同市薪の堀切古墳群で、古墳時代後期の円墳内部に全長約9メートルの横穴式石室を確認し、家形石棺の石片や馬具など副葬品が出土したと発表した。横穴式石室墳の少ない南山城地域では、城陽市の黒土古墳群に次ぐ規模の石室で、市教委は「保存状態が良く、横穴墓への墓制の移り変わりを知るうえで貴重」としている。

 堀切古墳群はこれまでに円墳10基と横穴墓10基を確認。7号古墳からは顔に入れ墨紋様のある埴輪が出土している。今回は、民間の宅地造成に伴い、本年度から東側丘陵部の1・2号墳について本格調査を実施していた。

 1号墳は、直径約22メートル、高さ3メートルの円墳で、幅広い周溝を確認し、内部で両袖式の横穴式石室が見つかった。石室は全長約9メートル、高さ約2メートルで、玄室は長さ4・7メートル、幅1・75メートル。内部から凝灰岩製の家形石棺の破片や、ガラス玉などの副葬品約30点が出土したほか、小石を敷き詰めた床が良い保存状態で残っていた。玄室に続く羨道(せんどう)は長さ4・3メートル、幅1メートルで、長さ8メートル以上の排水溝も確認した。円墳とみられていた2号墳は自然地形の丘陵と分かった。

 市教委の鷹野一太郎・文化財保護係長は「古墳群の中でも一段上の規模で、中央と直結するような地元の有力者が埋葬されたのではないか」と話している。

 現地説明会は15日午前10時半から行われる。

 前方部の端 ほぼ確定
 山城・椿井大塚山古墳

 半世紀前、三角縁神獣鏡など多数の古代鏡が出土した京都府山城町椿井の国史跡「椿井(つばい)大塚山古墳」(前方後円墳、3世紀後半)で、町教委がこのほど実施した発掘調査の結果、これまで確定ができなかった前方部の端の位置(墳端)がほぼ絞り込めたことが分かった。

 これに伴い、諸説あった古墳の全長も町教委が設定する175メートルに落ち着くとみられる。想定されている墳端のすぐ外側を発掘し何も出土しなかったためで、町教委は「何も出ない発掘調査も、時には大きな成果になる」としている。

 椿井大塚山古墳は後円部の大きさが直径約110メートルと確定しているものの、西方に伸びる前方部周辺には民家が多く本格的な発掘調査ができなかった。このため、全長は考古学者によって200メートル−165メートルの幅で異なる学説が存在。町教委は1995−98年の調査で後円部とのバランスなどから175メートルと定めていたが「決め手に欠けていた」という。

 今回の調査地点は、全長を175メートルとした史跡範囲から町道を挟んだ西側の位置で、民家の建て替えに伴い実施。8月31日から9月22日のまでの間、幅約2メートル、長さ21メートルにわたり、深さ1・7メートルまで掘り下げたが古墳を造成した痕跡は見つからなかった。

 椿井大塚山古墳は、山城地域最古、最大の前方後円墳。53年、後円部を横断する現JR奈良線の改良工事で竪穴式石室が発見され、卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡30数面などが出土。古墳研究を飛躍的に発展させた。

 同志社大歴史資料館の辰巳和弘教授は「椿井大塚山古墳の規模が確定されることは、学術的な価値が高い」と話している。

奈良の歌姫赤井谷 横穴墓に改葬跡

 奈良市歌姫町の古墳時代後期(6世紀末〜7世紀初め)の歌姫赤井谷横穴墓群で、新たに見つかった横穴墓にあった人骨が、別の場所から移され、改葬されていたことがわかり、調査した同市教委と奈良大が7日、発表した。横穴墓ではっきりと改葬されたと分かる事例は全国的に珍しく、遺体を2度埋葬する「複葬」と呼ばれる葬送が営まれた可能性もあり、当時の葬送儀礼を考える上で貴重な資料と注目される。現地説明会は行わない。

 人骨は玄室(幅約2メートル、長さ約3メートル)の床面3か所で出土。足や腕、歯など5人分以上あり、少なくとも2人は子どもという。骨のつながりが不自然で、複数分が固めてあったことなどから、移し替える際にバラバラになったと考えられ、改葬されたと判断された。

 また、墓道には2度、土で埋めた形跡があり、入り口付近には、人為的に逆さに置かれた須恵器のつぼも見つかっており、追葬もされたとみられている。

 日本書紀などには、天皇や貴人は本葬前、特別の建物で遺体をまつる「殯(もがり)」の儀式があったと記されており、植野浩三・奈良大助教授(考古学)は「改葬は、死者を弔うための殯につながるような儀礼だったかもしれない」との見方を示す。

 一方、白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「遺体を一度埋葬した後、洗い清めて再び埋葬する『洗骨葬』などの複葬が、この時代に行われていたかもしれず、当時の葬法を考え直す発見だ」と話している。

 溝巡らせた竪穴住居跡見つかる
 栗東・十里遺跡 首長支える階層か

 滋賀県教委は5日、栗東市十里の十里遺跡から、弥生時代末期−古墳時代前期の周囲に溝を巡らせた竪穴住居跡4棟が見つかった、と発表した。近くには、同時期の首長が居住したとみられる下長遺跡(守山市古高町)があり、県教委は「住居の構造などから、首長を支え、首長と庶民層をつなぐ階層の人たちが住んでいた」と推定。研究者は「支配層と被支配層が明確になっていく直前の社会構造を示す資料」としている。

 十里遺跡は弥生時代−平安時代の複合遺跡で、県道の整備に伴い、4月から発掘調査していた。

 4棟の竪穴住居跡のうち1棟は、一辺が約5メートルの方形で、外側約5メートルの周囲に溝(長さ15・3メートル、幅0・2−0・6メートル、深さ0・1−0・4メートル)があり、全体で約200平方メートルと推定された。他の3つの住居跡も遺構の保存状態がよくないものの、同様の構造と推定された。同遺跡で弥生末−古墳前期の住居跡が見つかったのは初めて。

 住居と距離を設けて溝を巡らせた竪穴住居跡は、これまでの調査から、集落で支配的な立場にあった人が住んでいた、と考えられている。

 十里遺跡の北東約600メートルの下長遺跡では、同じ構造で規模が大きく、同時期の首長が住んでいたとされる「首長居館」跡が見つかっている。十里遺跡は、住居の規模が小さいことなどから、県教委は首長を支える立場の人の住居とみられ、「首長と一般庶民との間を取り持つ層に当たるのではないか」としている。

 8日午後1時半から、現地説明会が開かれる。問い合わせは県文化財保護協会TEL077(548)9780。

 市内の遺跡からの出土品一堂に
 宇治市歴史資料館で1日から特別展

 宇治市歴史資料館(京都府宇治市折居台)は10月1日から、市内の遺跡からの出土品を集めた特別展「イセキ?発見!みんなの埋蔵文化財」を催す。

 身近に遺跡があることを知り、歴史に興味を持ってもらおうとの狙い。宇治、五ケ庄、西宇治など、地域ごとにコーナーを分けた。

 市内30カ所の古墳や住居跡、古代寺院などの遺跡から発見された土器、石器、埴輪など約250点を展示。パネルでは、市内にある計172遺跡を一堂に紹介する。

 二子(ふたご)塚古墳(五ケ庄)から出土した同市最古の遺物、2万年前のナイフ形石器や庵寺(あんでら)山古墳(広野町)の古墳時代の埴輪、乙方(おつかた)遺跡(宇治)の弥生時代の土器などを並べた。

 また、市内162の石碑を紹介する写真展「宇治の碑路傍の語り部たち」も同時に開く。

 大人200円、小中学生や宇治市内在住の高齢者などは無料。11月20日まで。月曜休館(10月10日は開館)。同館Tel:0774(39)9260。


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