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2008/10/05 (Sun) 飛鳥京跡
2008/10/02 (Thu) 浄土屋敷遺跡
2008/10/02 (Thu) 金貝遺跡
2008/10/01 (Wed) エジプト展
2008/10/01 (Wed) 高松塚壁画
2008/09/30 (Tue) 南曽我遺跡
2008/09/30 (Tue) 箸墓古墳
2008/09/28 (Sun) 藤原宮朝堂院跡
2008/09/27 (Sat) 平城宮跡

 3万2000年前の木片出土
 東京都内の旧石器遺跡

 東京都杉並区教育委員会は27日、同区の「高井戸東遺跡」から約3万2000年前の旧石器時代の炭化した大型木片(炭化材)を発掘した、と発表した。同教委は「人が生活した遺跡で見つかった木片としては日本最古。同じ地層から出土した磨製石斧(せきふ)などの石器群も同年代で最古級と分かる」としている。

 区教委によると、調査区域では、地表から約2メートルの層に米粒大の炭化物が集中して見つかる場所が5カ所ほぼ直線上に並び、うち3カ所から炭化材を発見。最も大きい木片は土中に斜めに埋まり、長さ約20センチ、太さ約16センチで、外面が黒く焼けていた。

 さらに同じ地層から磨製石斧1点とナイフ型の石器3点が見つかった。

 放射線炭素年代測定を行った結果、木材は約3万2000年前のものと判明。


 3万2000年前の木片出土
 東京都内の旧石器遺跡

 東京都杉並区教育委員会は27日、同区の「高井戸東遺跡」から約3万2000年前の旧石器時代の炭化した大型木片(炭化材)を発掘した、と発表した。同教委は「人が生活した遺跡で見つかった木片としては日本最古。同じ地層から出土した磨製石斧(せきふ)などの石器群も同年代で最古級と分かる」としている。

 区教委によると、調査区域では、地表から約2メートルの層に米粒大の炭化物が集中して見つかる場所が5カ所ほぼ直線上に並び、うち3カ所から炭化材を発見。最も大きい木片は土中に斜めに埋まり、長さ約20センチ、太さ約16センチで、外面が黒く焼けていた。

 さらに同じ地層から磨製石斧1点とナイフ型の石器3点が見つかった。

 放射線炭素年代測定を行った結果、木材は約3万2000年前のものと判明。

 遺跡公開ロングラン 明日香村が検討

 ☆1日→一週間 混雑緩和と観光客増が狙い☆

 飛鳥時代の遺跡の発掘が相次ぐ明日香村は、1日限りだった発掘現場の公開を1週間程度に延ばすことを検討している。大きな発見があった時には現地説明会が開かれるが、数千人の考古学ファンらが集中し、辺りは大混雑。一方で、「たった1日では都合がつかなくて行けない」との不満の声もあった。観光客が減少気味の村は、ロングラン公開で環境を整え、より多くのファンを呼びこもうともくろんでいる。

 村では一年中、遺跡の発掘が続く。05年は、天武天皇が住んだ飛鳥浄御原宮の正殿跡(県立橿原考古学研究所)、蘇我入鹿邸とみられる建物跡(奈良文化財研究所)、板石積み石室の古墳(村教委)などが見つかり、説明会や見学会には毎回約3千人が訪れた。

 だが、一挙に大勢の人が詰めかけ、長時間の順番待ちを強いられたり、路上駐車の列ができたり。こうした現状に、関義清村長は「公開を延ばせば、訪問客は分散し、全体で増える。飲食店や土産店など村の観光産業も活性化する」と考えた。

 村への観光客は79年の180万人をピークに減り続け、02年は半分以下の77万人。石舞台古墳などの遺跡に加え、発掘現場も観光資源として活用しようとの狙いだ。

 計画では、村教委と飛鳥京観光協会が協力。通常の現地説明会とは別に、遺跡を埋め戻すまでの間、ボランティアガイドが現地で説明する。現在、04年に蘇我馬子邸とみられる建物跡が出土した島庄遺跡が発掘中で、長期公開の第1弾になりそう。奈文研や橿考研の発掘現場でも、可能な範囲でボランティアガイドを活用したい考えだ。

 島庄遺跡では05年3月にも説明会が開かれ、約3千人が訪れた。翌日以降も人出は絶えなかったが、遺跡を見られずに帰った観光客も数十組はいたという。近くのレストランの店長は「遠方から来てがっかりした人を見るのは忍びなかった。公開期間が延びれば、売り上げ増にもつながる」と期待する。

 猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は「村の取り組みは先駆的だ。一歩進んで、発掘の開始時期に一緒に体験したり、担当者の意見を聞けたりしたら、もっと考古学を身近に感じてもらえるだろう」と話している。

 《発掘中の解説 案内板続々》

 明日香村で発掘中の遺跡前に、案内板を立てる動きも出ている。

 飛鳥京跡を掘っている県立橿原考古学研究所は1月、「飛鳥時代後半の宮殿遺跡です。宮殿にかかわる柱などを探しています。2月ごろになると詳しいことが分かると思います」と書かれた看板を置いた。村教委も、島庄遺跡に空撮写真を張った看板を立てた。
 石神遺跡を発掘中の奈良文化財研究所も、写真つきの看板を設置。担当者は「観光客も多く通る。見ただけではわかりにくい発掘現場を、より知ってもらえたら」と話している。

 国の史跡として正式決定
 大山崎町の大山崎瓦窯跡

 大山崎町大山崎永福寺の大山崎瓦窯跡が26日、国の史跡として官報に告示され、正式に指定された。

 同瓦窯跡は、2004年11月に始まった民間宅地開発の事前調査で見つかった。天王山のすそ野の斜面地に、たき口を東側に構えた平窯6基が南北約40メートルに並び、平安宮に瓦を供給したとされる。

 町は昨年2月に調査結果を発表し、8月に文化庁へ国史跡指定の申請を出した。11月には、国の文化審議会が国史跡に指定するよう答申し、今回の官報掲載で正式決定となった。

 町は国などの補助金を見込み、用地取得費や今後の調査費として上限1億2200万円と利子分を債務負担することが、昨年12月の定例町議会で決まっている。今後は遺跡の範囲確認の調査などを続けていく。

 8世紀前半の塑像片に群青
 前橋で出土、東日本最古

 前橋市総社町の寺院跡「山王廃寺(さんのうはいじ)」から出土した8世紀前半の塑像片に、青色の顔料「群青」が塗られていたことが、同市教育委員会などの調査で26日までに分かった。

 群青の使用は7世紀末の法隆寺金堂壁画が国内最古とされ、東日本でほぼ同時代のものが確認されたのは初めてという。

 「胡人像上半身(こじんぞうじょうはんしん)」と呼ばれる全長約10センチの薄茶色の塑像片で、焦げ茶色に変色した着物の襟部分に青色粒子があった。東京文化財研究所の協力で行ったエックス線分析の結果、群青の原料の「藍銅鉱(らんどうこう)」と確認した。

 山王廃寺は7世紀後半の白鳳期に建てられた初期の寺院で、11世紀前半まで「放光寺(ほうこうじ)」の名称で栄えたとされる。これまでの市教委の発掘調査で、約2200点の塑像片が見つかっている。

 8世紀前半の塑像片に群青
 前橋で出土、東日本最古

 前橋市総社町の寺院跡「山王廃寺(さんのうはいじ)」から出土した8世紀前半の塑像片に、青色の顔料「群青」が塗られていたことが、同市教育委員会などの調査で26日までに分かった。

 群青の使用は7世紀末の法隆寺金堂壁画が国内最古とされ、東日本でほぼ同時代のものが確認されたのは初めてという。

 「胡人像上半身(こじんぞうじょうはんしん)」と呼ばれる全長約10センチの薄茶色の塑像片で、焦げ茶色に変色した着物の襟部分に青色粒子があった。東京文化財研究所の協力で行ったエックス線分析の結果、群青の原料の「藍銅鉱(らんどうこう)」と確認した。

 山王廃寺は7世紀後半の白鳳期に建てられた初期の寺院で、11世紀前半まで「放光寺(ほうこうじ)」の名称で栄えたとされる。これまでの市教委の発掘調査で、約2200点の塑像片が見つかっている。


 湖東地域の扇状地 古代人の姿求め
 安土で企画展 縄文土器など紹介

 湖東地域の愛知・犬上両川に囲まれた扇状地に古代人の姿を追う企画展「扇状地の考古学−愛知・犬上の古代文化」が、滋賀県安土町下豊浦の県安土城考古博物館で開かれている。

 2つの川に深くかかわった縄文時代と古墳時代の30の遺跡から出土した土器を中心に約500点が展示されている。

 縄文後期の土田遺跡(多賀町)から出土した多数の土器棺には、子どもの遺骨や火葬した成人の骨が入っており、大規模な集落が展開していたことが分かる。また福満遺跡(彦根市)の縄文晩期のつぼや深鉢、石のやじり、さらに松原内湖遺跡(同)から出土し、用途がはっきりしないへら状木製品(県指定文化財)なども展示されている。

 荒神山古墳(彦根市)から出土した蓋柄(きぬがさえ)木製品は貴人に差し掛けた傘の一部という。同古墳の副葬品とみられる車輪石も展示され、盛んになりつつある湖上交通を支えた集落の存在が分かる。このほか、鉄製馬具(東近江市、小八木古墳)やベンガラが詰まった状態の須恵器のつぼ(愛知川町、塚原古墳)なども目を引く。

 4月2日まで。入館料350円。

 柱建物跡6棟などが見つかる
 守山市の下之郷遺跡

 弥生時代中期の大規模環濠(かんごう)集落跡として知られる滋賀県守山市下之郷町の国史跡・下之郷遺跡を発掘調査していた同市教委は24日、遺跡の中心部で掘っ立て柱建物跡6棟と、建物を囲う区画溝の跡が複数見つかった、と発表した。建物は2棟ずつ方角を変えて建てられており、「集落が拡大する中で、政治や祭祀(さいし)の場が必要になり、関連する建物が建てられたと考えられ、遺跡中心部の変遷をうかがうことができる」としている。

 調査は、同遺跡の中心部約800平方メートルで行われた。掘っ立て柱建物跡は長方形で、短辺にあたる梁行(はりゆき)が3−4メートル、長辺の桁行(けたゆき)が6−11メートル。井戸跡も2カ所見つかった。

 調査地西側の2棟は、集落成立時に建てられた屋根を壁で支える壁立式住居と考えられる。北側の2棟は、東西方向から12−13度西にずれて同じ方角に、南側の2棟は東西方向にそろって並んでいた。市教委は「紀元前200−同50年の間に3期にわたり、居住用の建物から、集落の広がりとともに政治や祭祀に関連する建物に変わっていったと推測できる」としている。

 28日午後1時半から現地説明会を開く。問い合わせは市文化財保護課Tel:077(582)1156。

 葛城に遣唐留学生の一族?
 8世紀土器に「井刀」墨書

 奈良県葛城市の竹内遺跡で出土した8世紀前半の土器に「井刀」と墨書があるのが確認され、同市歴史博物館が23日、発表した。

 「刀」は「部」のつくりの略とみられ、文献に登場したことがない「井部」か「井」という一族の存在をうかがわせる。同博物館は「中国の西安市で墓誌が見つかった遣唐留学生、井真成の出身地を検討する新たな資料。もともとは井戸の掘削や用水管理などを担当した集団だろう」としている。

 土器は1989年に出土。墨書があるのは分かっていたが、同博物館の再調査で直径約17センチの1点に「井刀」、別の1点も「井」の字の一部があると判明した。

 古代のふき石を目前に-巣山古墳で現地説明会

 墳丘の斜面からふき石が出土した、広陵町三吉の巣山古墳(4世紀末から5世紀初、国特別史跡)で22日、現地説明会が開かれ、多数の地域住民や歴史ファンら集まった。

 巣山古墳は全長220メートルで奈良盆地西部最大級の前方後円墳。ふき石は同町教育委員会が昨年11月から実施した第6次調査で出土し、墳丘の斜面に幅約3メートル、長さ約100メートルにわたって、大小の石がびっしりと敷き詰められていた。大王級の前方後円墳で広範囲にわたってふき石が確認された例は少なく、注目を集めている。

 京の古代学研が存続の危機
 資金難で3月末に活動停止も

 京の考古学研究をリードしてきた古代学研究所(京都市中京区、角田文衛所長)が、資金難から3月末にも学術研究を停止する可能性があることが、19日までに分かった。研究所を運営する財団法人古代学協会が停止の方針を固め、全職員から希望退職を募っているが、研究者らは「何とか研究所を残してほしい」と存続を訴えている。

 同協会は1951年、角田所長をはじめ考古学や歴史学の第一線の研究者が結成。行政による組織的な発掘に先駆けて、平安宮の大極殿跡や朝堂院跡など多くの発掘を手がけた。88年には研究部門を改組し、古代学研究所を創設した。

 関係者によると、協会の運営は賛助会員の企業からの寄付金でまかなわれているが、バブル後の不況で休会や退会が相次ぎ、会員数が激減。寄付金は最盛期の4分の1程度にまで落ち込んでいるという。

 同協会は昨年9月末、研究者を含む職員7人全員に、「研究所の事業・活動について3月末をもって停止せざるを得ない事態」と文書で通告。希望退職を募っている。また同協会が発行している学術誌「古代文化」も月刊での発行が困難になっているという。

 西井芳子常務理事は「文化に資金を出すという企業マインドが変わってしまった。研究所の存続へ向け最大限の努力をしているが、展望は厳しい」とする。一方、研究者らは「研究所がなくなれば、京都の歴史研究を支えてきた角田史学を継承する場もなくなってしまう。再建の道を探ってほしい」と話している。

 ■古代学協会 角田文衛氏や故江上波夫氏らが大阪で結成。67年には京都文化博物館の前身・平安博物館を開設した。平安京などの発掘調査を進める一方、仁和寺所蔵文書の文献研究やエジプト・アコリス遺跡やイタリア・ポンペイ遺跡などの発掘調査も手がけた。平安建都1200年に合わせ「平安京提要」(角川書店刊)なども編集した。

 古墳のふき石リフォーム?
 奈良・巣山古墳で確認

 奈良県広陵町の前方後円墳、巣山古墳(特別史跡、4世紀末−5世紀初め)で、周濠(しゅうごう)に面した前方部北端のすそに幅約3メートル、長さ約100メートルにわたってふき石が敷き詰められているのが見つかり、同町教育委員会が19日発表した。

 ふき石はいったん整えられた後、西端付近でさらに濠を約1メートル掘り下げて敷き直す追加工事が行われていた。同古墳では出島の遺構が見つかっており、町教委は「ふき石を置いた後に、濠に出島を造るなどの計画変更が生じ、急きょリフォームしたのではないか」と話している。

 史跡整備に伴う発掘調査。ふき石は、こぶし大の安山岩などが整然と敷き詰められており、斜面の最下部には直径30−40センチの基底石を横1列に並べるなど丁寧なつくりだった。

 出島状遺構は2003年、前方部西側の濠で確認され、遺構からユニークな水鳥埴輪(はにわ)などが出土した。

 現地説明会は22日午前11時から。

 聖徳太子弟の墓は大王級
 外堤出土、テラスで儀式か

 宮内庁が聖徳太子の弟、来目皇子の墓だとしている大阪府羽曳野市の塚穴古墳(7世紀前半)南側で、高さ約2メートルでテラスが付いた外堤が見つかり、羽曳野市教育委員会が19日発表した。

 古墳全体は大王墓に匹敵する規模と判明。高い外堤がある同時期の方墳は、蘇我馬子の墓ともいわれる石舞台古墳(奈良県明日香村)以外に見つかっておらず、発掘した市教委歴史文化課の高野学係長は「石舞台とよく似て兄弟のような形。第1級の古墳に位置付けられる。来目皇子の墓の可能性が一段と高くなった」と話している。

 市教委によると、古墳は一辺約50メートルの方墳。墳丘の南側で、盛り土して築いた上下2段構造の外堤が出土した。東西約100メートル、南北15メートル程度の巨大な土手とみられ、幅約2メートルある下段のテラス部分で、葬送などの儀式が行われたらしい。

 信長は見栄っ張り?
 安土城 虎口を増築、石垣も豪華に

 滋賀県教委と県安土城郭調査研究所は18日、発掘調査をしている特別史跡安土城(同県安土町)大手門西側の枡形虎口(ますがたこぐち)の石垣裏に、別の石垣が確認できた、と発表した。織田信長が天皇を同城に招く計画を築城前後に持っていたことから、大手門の石垣ができた後に、虎口を増築し、見栄えのするよう計画を変更したと、同研究所などはみている。

 門を入ったところの広場である枡形虎口を復元・整備する段階で、大手門の石垣と丁字形に接する虎口西壁との交差部分がうまく石積みできない不具合が判明、発掘調査した。

 その結果、虎口西壁にあたる石垣は、直径約1・8メートルの石3つが等間隔に並ぶ豪華な「模様積み」であるのに対し、大手門の石垣は数10センチの石をそろえた「布積み」で、西側へ延びていることが分かった。布積みの石垣は埋められ、新たに模様積みの石垣で囲んだ郭(くるわ)(広場)がつくられ櫓(やぐら)が設けられたとみられる。

 信長は1578(天正6)年、家臣に失火の罰として大手門南面に新道を造らせたのを機に、新道を通り天皇を招く計画を固めたのではないかとみられる。そのために大手門周辺の築造計画を変更。大きい石をふんだんに使って、大手門を中心に虎口のある東門と西門を据え、威厳を示したのではないかという。

 同研究所は「信長が初めから計画していたという見方もあるが、計画が固まった時点で、見栄えを気にした奇抜な演出をしたと見た方がよい」と話している。

 子宝祈願の石棒見つかる
 京田辺の薪遺跡 縄文中期の土坑も

 京都府京田辺市薪巽の薪(たきぎ)遺跡の発掘調査をしている府埋蔵文化財調査研究センターは18日、近畿では出土例の少ない縄文時代後期の祭事用の石棒や縄文時代中期の土坑のほか、奈良時代の掘立柱建物跡を確認した、と発表した。土坑は、過去に発掘された竪穴式住居跡に隣接する調査区で見つかり、縄文時代中期の集落規模がさらに拡大した。

 石棒は流路跡から出土した。頭部の直径約18センチ、長さ約30センチ。石棒は集落の広場などにまつられ、子宝祈願などの祭事に使われたといい、直径10センチ以上の石棒は府内3例目、近畿でも9例目で、出土例の多い北陸から伝わった可能性もあるという。また土坑は、直径約1・3メートル、深さ約0・7メートルの10基で、土器片が多数出土し、住居跡に隣接していた食料を貯蔵したり、ごみを捨てる場所とみられ、当時の集落跡がさらに大規模なものであることが分かった。

 一方、土坑と同じ調査区で確認された掘立柱建物跡は、8世紀後半の奈良時代のもので、南北約9メートル、東西約5メートルと、南北約6・3メートル、東西約5・1メートルの方形2つ。周辺から墨が付いた須恵器が出土し、文字を扱う役人などが住んでいたとみられる。

 薪遺跡は、縄文時代から鎌倉時代にわたる集落遺跡で、同センターは2001年から調査している。現地説明会は21日午後2時から。問い合わせは現地事務所Tel:0774(64)3477。

 8棟目の五角形・竪穴住居跡
 守山・伊勢遺跡 交流の拠点か

 滋賀県守山市伊勢町の伊勢遺跡を発掘調査していた同市教委は18日、弥生時代後期(2世紀)の五角形の竪穴住居跡1棟が見つかった、と発表した。同遺跡では8棟目で、県内の半数近くが同遺跡に集中しており、市教委は「国内で見つかった五角形の竪穴住居跡の半数が集まる日本海沿岸地域との交流の中で、この地域に建築技術がもたらされたと考えられる」としている。

 調査は、同遺跡の西端約300平方メートルで行われた。竪穴住居跡は、東西6・2メートル、南北5・8メートルで、広さ約36平方メートル。食料などを貯蔵したと考えられる穴が、南東辺で確認された。

 五角形の住居は、通常の竪穴住居より大きく、特異な造りであることから、有力層が住んでいたとされ、近畿では滋賀県が1番多く見つかっている。鳥取や島根県では5、6年前にまとまって確認され、計50棟ほどになるといい、市教委の伴野幸一主任は「日本海側との地域間交流があったことが推測できる」と話している。

 伊勢遺跡は、弥生時代後期の集落跡で、東側に政治を行う祭殿跡など、西側一帯に集落跡が広がっている。

 21日午前10時から現地説明会が行われる。
 問い合わせは市文化財保護課Tel:077(582)1156。

 寅のはぎ取りを断念
 キトラ古墳で文化庁

 極彩色壁画のはぎ取り作業が進む奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で、文化庁は17日、石室の東壁に描かれた十二支図「寅(とら)」のはぎ取りを断念したと発表した。

 絵の下地となっているしっくいが全面的に石壁と固着し、現状の道具ではがすと壁画を傷めてしまうと判断した。文化庁は「道具を改良して再度、挑戦したい」と話している。

 壁画はぎ取り作業は一時中断。今後は、傷みが激しい天文図(天井)の取り外し方法を探る実験を3月末まで繰り返す。

 しっくいが予想以上に薄い四神図「朱雀(すざく)」(南壁)もはがす方法が見当たらない状況で、文化庁の調査研究委員会は、石室の部分解体も含め、今後の対応を検討する。

 馬伝来時の「くつわ」出土 四條畷・蔀屋北遺跡

 大阪府教委は11日、同府四條畷市の蔀(しとみ)屋北遺跡から、5世紀半ば頃のものとみられる鉄製の轡(くつわ)が出土したと発表した。朝鮮半島から馬が伝わったとされる時期の轡とみられ、構造的な特徴から百済でつくられたものが馬とともに運ばれたと考えられるという。

 轡は手綱をつけるための馬具で、馬の口に入る部分のハミ、手綱を取り付ける引手などを組み合わせて使う。今回発見されたのは左右一対の轡のうち左半分と右の一部で、錆がほとんどなく、細部の形や製造過程もよくわかる良好な状態。ハミが動くのを防ぐ鹿角製のヒョウも装着されており、子馬用の実用品として使われていたらしい。

 ハミについた青色は、鹿角の成分が変化した可能性も考えられる。

 轡にはハミと引手をつなぐ「遊環(ゆうかん)」と呼ばれる輪があることから、百済系のものとみられるという。

 同遺跡は大和朝廷の馬の生産拠点で日本書紀にも記されている「河内の馬飼い」の一部とされており、今回の発見はそれを裏付けるとともに、百済系の氏族が馬の飼育にたずさわっていたことを示しているといえる。

現地説明会は14日午後1時から行われる。

 埴輪列が出土、規模確定
 木津・上人ケ平遺跡で説明会

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは14日、墳丘を取り巻く円筒埴輪列が多数出土し、古墳の規模が確定した木津町の上人ケ平(しょうにんがひら)遺跡・5号墳で現地説明会を開いた。雨にもかかわらず集まった約70人が担当者の解説に聞き入り、歴史に思いをはせていた。

 5世紀後半に造成された円墳で、これまで古墳の規模は確認されていなかった。周囲に溝を巡らせており、高さ約3メートルの墳丘は2段構成。その1段目と2段目の間と周溝外縁に埴輪が配置されていた。

 同センターの発掘調査は昨年9月から行われており、今回の成果として同古墳の円丘部が直径約22メートル、造り出し部分を含めた全長は約26メートルと判明したことなどを担当者が解説した。

 説明会には府南部を中心に、大阪や奈良などからも文化財ファンが訪れ、傘を片手にカメラのシャッターを切る姿などが見られた。古墳は再来年度中には公園として整備される予定となっている。

 2月にも石室解体実験
 高松塚古墳の壁画保存で

 奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で国宝壁画を修復・保存するための石室解体について、文化庁の同古墳保存対策検討会は12日、東京都内で開いた作業部会で、来年1、2月ごろの石室解体に向け、今年2月にも解体実験をし、秋に墳丘を発掘するなど大まかな作業日程を固めた。

 2月にも検討会を開き正式に決める。作業部会には、保存科学や考古学などの専門家ら9人が参加した。

 解体実験では、高松塚古墳と同規模の墳丘や石室を造り、機材を使って石室を解体する実験を繰り返し、壁画に影響を与えずに石壁を取り出す方法を探る。

 山瀧寺跡で「瓦溜まり」出土
 宇治田原町教委が発表

 京都府宇治田原町教委は12日、同町荒木の山瀧(さんりゅう)寺跡の第五次発掘調査で、奈良時代(8世紀)の瓦片を中心とした瓦溜(だ)まりが見つかった、と発表した。町教委は「瓦を使用した山瀧寺の中心的な建物がすぐ西側に存在していたのでは」と推測している。

 今回の調査は、1999年から始めた最終年度調査にあたる。瓦溜まりは、町中央公民館(同町荒木)の南東約10メートル地点から見つかった。南北幅約3メートル、東西幅約1メートルで、コンテナ5、6箱分の大小の瓦片が出土した。

 中には、99年の第一次調査でも見つかり、創建期と思われる白鳳時代(7世紀後半)の軒瓦2点も含まれている。焼けた痕跡のある石や土も見つかり、瓦の一部が重なって出土していることから、建物が被災した際に屋根から落ちた瓦の遺構(瓦落ち)の可能性があるとしている。

 山瀧寺は、7世紀後半に同町内で最初に建てられたとされる寺院。焼失と再建を繰り返し、明治初期に廃寺となった。

 現地説明会は、14日午後2時から。町教委Tel:0774(88)5850。

 始皇帝の祖母?秦代の大型陵墓発見 中国・西安

 新華社電などは11日、中国陝西省考古研究所が同省西安市の長安区で、南北550メートル、東西310メートルにわたる秦代の大型陵墓を発見したと報じた。

 秦代の陵墓としては最大規模としており、陝西省の考古学専門家は過去の文献などを根拠に「始皇帝(紀元前259―同210年)の祖母の墓である可能性がある」としている。

 専門家によると、陵墓は溝で囲まれ、四方を囲んだ壁にはそれぞれ門が設けられている。墓室は南北28メートル、東西29メートルの大きさで、中から玉を使った装飾品や青銅製の台座などが発見されたという。

 京のまん中 縄文集落!? 高陽院跡 土器片など出土

 京都市中京区の関白藤原頼通の邸「高陽院(かやのいん)」跡の発掘で、平安期の層の下から、縄文晩期とみられる土器片や木製品が出土したことが12日までに分かった。調査した京都市埋蔵文化財研究所(市埋文研)は「縄文遺跡は京都市内では、北白川遺跡(左京区)など山沿いで見つかるケースが多く、市街地の中心部で見つかるのは非常に珍しい」と注目している。

 遺物は昨年9月上旬に藤原頼通の邸宅跡とされる「高陽院」の池跡が見つかった場所をさらに掘り進めて見つけた。

 土器片は煮炊きに使用した深鉢で、川跡の中から数百点出土した。

 口縁に帯状の粘土を張り付けて刻み目を入れた凸帯(とったい)文がある縄文晩期の形式。

 また木製品では、石斧(おの)を取り付けて木材の加工用に作ったとみられる手斧の柄(長さ40センチ、幅19センチ)が出土した。

 住居跡などの遺構は見つかっていないが、土器片の摩滅がないことから、遠方から流されてきたのではなく、集落が近くにある可能性が大きいという。

 京都市内では縄文晩期の土器と弥生中期の土器が同じ層から出土するケースが多いが、今回は縄文晩期の層の上に60センチほどの砂れきの堆積層があり、その上から弥生中−後期の土器が見つかっており、弥生と共存しない純粋な縄文晩期の遺跡とみている。

 市埋文研は「京の縄文人が弥生文化と出合う直前の遺跡。京に稲作が伝わった時期を考える上で貴重な発見」とし、現場で採取した土を分析をして、稲作の痕跡を調査する。

 馬伝来時の「くつわ」出土 四條畷・蔀屋北遺跡

 大阪府教委は11日、同府四條畷市の蔀(しとみ)屋北遺跡から、5世紀半ば頃のものとみられる鉄製の轡(くつわ)が出土したと発表した。朝鮮半島から馬が伝わったとされる時期の轡とみられ、構造的な特徴から百済でつくられたものが馬とともに運ばれたと考えられるという。

 轡は手綱をつけるための馬具で、馬の口に入る部分のハミ、手綱を取り付ける引手などを組み合わせて使う。今回発見されたのは左右一対の轡のうち左半分と右の一部で、錆がほとんどなく、細部の形や製造過程もよくわかる良好な状態。ハミが動くのを防ぐ鹿角製のヒョウも装着されており、子馬用の実用品として使われていたらしい。

 ハミについた青色は、鹿角の成分が変化した可能性も考えられる。

 轡にはハミと引手をつなぐ「遊環(ゆうかん)」と呼ばれる輪があることから、百済系のものとみられるという。

 同遺跡は大和朝廷の馬の生産拠点で日本書紀にも記されている「河内の馬飼い」の一部とされており、今回の発見はそれを裏付けるとともに、百済系の氏族が馬の飼育にたずさわっていたことを示しているといえる。

 現地説明会は14日午後1時から行われる。

 高さ70メートルの七重塔-大安寺西塔跡、まもなく調査終了

 奈良市教育委員会が平成13年度から行ってきた大安寺西塔跡(同市東九条町)の調査が間もなく終了する。基壇の規模が確定し、金銅製の風鐸も出土したことで巨大な七重塔の高さが推定できるようになった。市教委は来年度、東塔跡の調査に着手する予定で、伽藍(がらん)の解明がさらに進みそうだ。

 最古のマヤ象形文字か
 グアテマラで米チーム発見

 米科学誌サイエンス(電子版)は5日、中米グアテマラ北部サンバルトロのピラミッドでマヤ文明最古とみられる紀元前300−同200年ごろの象形文字を発見したとする、米ニューハンプシャー大などの考古学チームの論文を掲載した。

 ロイター通信によると、発見されたのは白っぽい石の上に書かれた約10の象形文字。ほとんどが判読不能だが、チームはそのうちの一つが「支配者」を意味する可能性があるとしている。

 論文は「マヤの進んだ文字体系は、これまで考えられていたよりも何世紀も前から利用されていたとみられる」と結論づけた。

藤原宮内裏から大型建物跡
 天皇が儀式に使った?

 持統天皇が開いた国内最大の都、藤原京(694−710年)の宮殿、藤原宮跡(奈良県橿原市)で、天皇の私的空間とされる「内裏(だいり)」から、四方に庇(ひさし)を持つ大型建物跡が、奈良文化財研究所の発掘調査で4日までに見つかった。規模や構造から、天皇が儀式に使った可能性もあるという。藤原宮跡では内裏の調査はほとんど行われておらず、天皇の公私にわたる生活や政治構造を考えるうえで、一級の資料になりそうだ。

 現場は、当時の国会議事堂に相当する「大極殿」跡の北東約140メートルで、道路の拡幅工事に伴って調査が行われた。

 建物跡は東西約17メートル、南北約11メートル。柱を据える穴は一辺約1メートルで、うち一つには、当時の柱(直径約25センチ)が立ったままの状態で約30センチ分残っていた。

 この建物跡については昭和53年に東側の一部が検出されていたが、規模などはほとんど不明なまま。今回の調査で大型建物だったことが確定し、内裏の最も中心的な建物「正殿」に次ぐ施設だった可能性が高くなった。

 また、西側では石を敷き詰めた遺構も検出。さらに数10メートル西には正殿があったと推定されることから、この石敷きは正殿の周囲を装飾していた可能性もあるという。

 藤原宮跡は昭和9年から発掘調査が行われているが、内裏はほとんど手つかず。内裏以外の調査で、宮殿は一辺約900メートルのほぼ正方形の区画に、大極殿や現在の官庁街にあたる朝堂院の建物12棟が並んでいたことが判明している。

 黒崎直・富山大教授(考古学)の話

 「藤原宮の内裏はこれまで全くといっていいほど調査されておらず、今回の発掘で建物と周囲の様子が一部でも分かったのは画期的な成果だ。今回の建物では何らかの公的な儀式が行われ、さらに奥の建物で天皇や皇后が起居したのではないか」


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