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2008/09/27 (Sat) 平城宮跡

 太古のビーバーの化石発見
 長く平らな尾が特徴

 中国・内モンゴル自治区の約1億6400万年前、ジュラ紀中期の地層から、ビーバーに似た長く平らな尾を持つ新種の哺乳類の化石を、中国と米国の研究チームが発見、24日付の米科学誌サイエンスに発表した。現代のビーバーのように、水辺で生活していたらしい。

 この哺乳類の尾は幅が広くうろこで覆われ、泳ぐときに使っていたとみられる。化石には体を覆っていた毛の痕跡なども残っており、内側の毛は、水をはじくために短く密集したものになっていた。体長は少なくとも42.5センチで、体重は500―800グラムと推定される。

 チームの米・カーネギー自然史博物館の羅哲西博士によると、ビーバーのように水辺で暮らす哺乳類としては最も古く、ジュラ紀の哺乳類でこれまで知られているものの中で最も大きい。哺乳類がかなり古い時代からさまざまに分化していたことを示すという。

 府内最大の子持ち勾玉出土
 亀岡の池尻遺跡

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは23日、亀岡市馬路町の池尻遺跡の集落跡から、府内では最大の子持ち勾(まが)玉を発見したと発表した。同センターでは「ほぼ完全な形で見つかるのは府内で初めて」としている。

 発見された子持ち勾玉は長さ10センチ、幅7・3センチ、厚さ4・8センチ、重さ260グラム。滑石を彫って精巧に作られており、胴体に約2センチの6つの勾玉が付いている。古墳時代中期(5世紀後半)に作られ、集落の中で祭事に使われていたと考えられる。

 府内では恭仁京関連遺跡(加茂町)や山開古墳(向日市)などから4例発見されているが、いずれも板状で、破損していたという。

 同センターでは「これほど厚みがあって大きく精巧な勾玉は、限られた産地で一元的に作られていたと考えられ、これを得た有力者には、相当の権力基盤があったのではないか」としている。

 現地説明会は26日午後2時から行われる。

 国分寺の子院?遺構を確認
 亀岡の蔵垣内遺跡・茶道具も

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは23日、亀岡市千歳町の蔵垣内(くらがいち)遺跡で、鎌倉時代から室町時代にかけて(13世紀半ば−16世紀後半)の丹波国分寺に関連する寺院の子院とみられる遺構群を確認したと発表した。中世の同寺に関する文献資料がほとんど確認されていない中で、同センターでは「国分寺の変遷を知る上で貴重な発見」としている。

 遺構内からは中国製の青磁香炉や、当時まだ全国的に流通していなかった備前焼の瓶など高価な茶道具が発見された。また、鎌倉時代に行われた住居建設のための大規模な造成工事の痕跡も確認された。

 遺構群は、丹波国分寺の南端につながる道路沿いから発見されているとともに、当時、茶を扱う場所であった建物であることから、「国分寺か国分寺の流れをくむ大寺院への参道に並ぶ子院群の一つである可能性が高い」(同センター)とみられる。

 遺構群は土砂で埋め立てられており、出土した土器などから室町時代の終わりごろに廃絶されたと考えられる。このため、同センターは「参道沿いに鎌倉時代に入ってから子院郡が形成され、戦国時代に破壊されたという中世の国分寺周辺の様子がイメージできる」としている。

 現地説明会は26日午前10時40分から行われる。

 同センターは、国営農地再編整備事業ぶ伴って、2005年5月から発掘調査を行ってきた。

 巣山古墳「霊柩船」「第一級の資料だ」研究者らに驚き、期待

 広陵町三吉の大型前方後円墳・巣山古墳(4世紀後半)で約1600年間、地中に眠っていた〈霊柩(れいきゅう)船〉。古代の葬送を初めて実証する今回の出土品は、これまで文献や埴輪(はにわ)などでしか想像できなかった歴史の空白を埋める第一級の資料で、多くの研究者が驚きの声をあげた。用途が分からない木材も同時に多数出土しており、今後の調査に期待する声も多い。

 古代の葬送について、万葉集には、志貴親王(しきのみこ)が亡くなった時の葬列の様子を「高円山(たかまどやま)に 春野焼く 野火と見るまで もゆる火を…手火(たび)の光ぞ ここだ照りたる」と読んだ歌がある。

 たいまつが照る中を野辺送りの行列が進んだことが文字から想像できるが、葬送儀礼にまつわる“物証”そのものは、これまで確認されていなかった。

 出土した木製品の中には船の側板、棺(ひつぎ)のふたの形をした部材などのほか、建築部材のようなものや、三重の円が描かれた三角形の部材(長さ1・8メートル)、丸や角に加工された柱や板、傘の形をした飾りなどもあった。

 同町文化財保存センター所長を務める河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は「船の屋根や飾りなどの一部かもしれない。今後、慎重に復元しなければ」と力を込める。用途不明の木材は、桜井市の勝山古墳(3世紀初め)の周濠(しゅうごう)などでも出土しており、石野博信・徳島文理大教授(考古学)は「これらを葬具として見直す必要がある。同じような葬送儀礼はもっと時代がさかのぼるのではないか」と驚く。

 〈霊柩船〉の復元の参考にされたのは、傘などを飾り立てた三重県松阪市の宝塚1号墳の船形埴輪や、棺のような物を載せた船の絵がある天理市の東殿塚古墳の円筒埴輪などだ。八賀晋・三重大名誉教授(考古学)は「船形埴輪が巣山古墳の木製品と似ているので驚いた。古代の船に対する考え方をより具体的にする成果で、埴輪に描かれた古墳祭祀(さいし)の写実性を証明している」と評価する。

 白石太一郎・奈良大教授(考古学)は「古墳での葬送儀礼に使われた木製品は全く確認されていなかった。現在残っている資料だけでどんな儀礼だったかを判断するのは危険だということがよく分かった。まだまだ複雑で多様な儀礼が行われていたのだろう」と、今後の成果に期待する。

 一般公開の問い合わせは同町(0745・55・1001)へ。

 延暦寺造営の資材工房か
 大津・上仰木遺跡で発掘

 延暦寺の初期の伽藍(がらん)形成を支えた9世紀後半(平安前期)の製鉄炉の跡や、10−11世紀(平安中期)の銅塊が、大津市仰木4丁目の上仰木遺跡で見つかり、滋賀県教育委員会が21日、発表した。

 飛躍的な発展を遂げつつあった9世紀半ば以降の同寺の実像を示す初めての資料で、県教委は「一帯で生産した鉄や銅が、延暦寺の建築資材や仏具の製造に使われたと考えられ、延暦寺の発展を支えた重要な生産工房だった」とみている。

 県道の建設に伴い、2004年7月から延暦寺横川中堂の東約3・5キロの約4000平方メートルで調査した。調査地の南端で、鉄鉱石を溶かす製鉄炉の跡(縦約1・2メートル、横約0・5メートル)と、燃料の木炭をつくる木炭釜の跡(高さ約3メートル、幅約1・7メートル、奥行き約9・1メートル)が1基ずつ見つかった。

 製鉄炉は粘土のブロックを積み上げた「バスタブ型」で、近くの谷からは、製鉄の過程で生じる鉄かすや炉壁のかけら(計約120トン)も発掘された。炉は鉄をつくるたびに取り壊して谷に捨てたとみられ、同じ場所で見つかった須恵器の形態から、9世紀後半のものと判明した。

 また、製鉄炉跡の約150メートル西では、銅の製造を裏付ける10−11世紀の銅塊1点(長さ約5センチ、幅2・5センチ)や銅かす7点も出土した。

 一帯で見つかった須恵器数100点が、延暦寺大講堂で確認された須恵器と形状や土質の面で一致し、延暦寺との深い結びつきが明らかになった。3代座主の円仁が、横川中堂や総寺院を開いて基礎を確立した時期とも重なっており、県教委は「延暦寺が基盤を築きつつあった段階において、どのように造営作業を進めていったかを探る上で貴重な資料」としている。

 現地説明会は25日午前11時から。問い合わせは県文化財保護協会Tel:077(548)9780へ。

 中国河南省で2000年前の大規模農村遺跡発見

 中国河南省内黄県の三楊庄で、約2000年前に洪水による土砂で埋まった前漢時代(紀元前202―後8年)末期の大規模な農村遺跡が、同省文物管理局の発掘調査で21日までに見つかった。中国各紙が伝えた。火山の大噴火で埋没したイタリアの都市国家ポンペイの遺跡と匹敵する遺跡という。

 黄河流域に位置する遺跡には当時の生活用具や広大な農地が残されており、中国農業史を書き換える可能性もあるという。

 同文物管理局などによると、遺跡は2003年夏から発掘が続けられており、瓦屋根のある家屋7カ所のうち4カ所の発掘が終了。農地は家屋の前にあり、周囲には水路があった。池や道路なども発掘された。

 家屋はいずれも縦20メートル、横14メートル前後の長方形の敷地に瓦屋根の建物が2列に並んでおり、当時のままの姿で発掘。井戸やトイレもあった。おわんや盆などの生活用具も出土、当時の民衆の生活ぶりが分かる初めての遺跡としている。

 県内9遺跡の調査成果を紹介 26日、安土城考古博物館で

 県内遺跡の出土品などの整理調査成果を報告する「あの遺跡は! part2」が二十六日、安土町下豊浦の県立安土城考古博物館で開かれる。

 昨年十一月の「part1」に続く第二弾。今回は県文化財保護協会の調査員が、縄文時代の丸木舟が見つかった入江内湖遺跡(米原市)や琵琶湖岸の弥生集落・赤野井浜遺跡(守山市)など九遺跡を取り上げ、スライドなどで紹介する。

 報告会は午前十時半−午後三時十分。事前申し込み不要で、参加無料。午前九時から午後五時まで同博物館内の整理作業室も特別公開される。問い合わせは、同協会調査整理課=電0748(46)4861=へ。

 韓国の古墳にクスノキの棺 鉄の見返り、日本から運ぶ?

 朝鮮半島からもたらされた鉄の見返りに、日本から何が運ばれたのか。古代史最大級の謎に、新たな仮説が登場した。木材だ。韓国南部の古墳で昨年、朝鮮半島では自生しないクスノキの棺が発見されたからだ。中国を含む東アジアに特定の樹木を貴ぶ文化があったという新しい歴史像も浮上している。

 木棺が見つかったのは、慶尚南道昌寧郡の松●洞古墳群(全23基)の7号墳(5世紀末〜6世紀初頭)。当時一帯は加耶(かや)と呼ばれ、小さな国がいくつもあり、7号墳は、そうした国の支配者のものとみられる。

 国立昌原文化財研究所の池炳穆(チ・ビョンモク)所長が1月に早稲田大で開かれた研究会に参加し、調査の概要を日本で初めて報告した。

 木棺は長さ3.3メートル、幅0.8メートル、高さ40センチほどで重さは258キロ。科学的分析の結果、昨年秋クスノキと判明した。

 照葉樹のクスノキは朝鮮半島には自生しない。済州島にはあるが、大きく育たない。古墳の構造や土器の様式から、昌寧一帯は新羅の強い影響下にあったとみられるが、済州島は新羅と敵対する百済の領地だった。台湾や中国南部にはあるが、これも遠隔地。こうした点から、「近い日本から運ばれた可能性が高い」と池所長は考える。

 魏志倭人伝にも倭国の産物としてクスノキが記されている。虫がつきにくく長持ちするのが特徴で、特産品として知られていた可能性が高い。

 分析結果を受け、早稲田大の李成市教授(朝鮮史)は、過去に韓国の古墳で発見された木材類を改めて調査。すると、百済や新羅の多くの古墳でクスノキやコウヤマキの木片があった。コウヤマキは日本にしかない木だ。

 逆に、当時の日本では鉄は未発見で、朝鮮半島からの渡来品は極めて貴重。見返りとしては米や塩、人が考えられてきたが、どれも朝鮮半島にもあり、「対価になりえない」との異論があった。

 李教授は「木片は棺だったと考えていいだろう。クスノキなど棺に適した樹木が自生しないため、日本に求めた。その貴重さは鉄との交易に見合うはずだ」と話す。

 この新しい歴史像は、「飛鳥時代の仏像がなぜクスノキなのか、という大きな謎を解くきっかけにもなる」(仏教美術が専門の大橋一章・早稲田大教授)という。

 日本に残る飛鳥〜白鳳時代(7世紀〜8世紀初頭)の木製の仏像は20体近くあるが、1体を除くとすべてクスノキ製だ。

 中国や朝鮮半島に古い時代の木製仏像が残っていないこともあって、仏像作りは朝鮮半島を経由して伝わったが、素材にクスノキを使うことは日本独自で、当初から自主性を持っていた――との考えが長く有力だった。

 大橋教授は「クスノキの仏像は中国の南朝で生まれたのだろう。朝鮮半島の仏像もクスノキで作られていたのだろう。そして、日本で仏像を作ったとすれば、それを手本にしたとも考えられる。外国文化を受け入れる場合、普通は丸のみするものだ」と語る。

 鈴木靖民・国学院大教授(東アジア古代史)は「仏像と棺はどちらも死や来世とつながる。東アジア全体に耐久性にすぐれたクスノキなどの木材を大切にする文化が広がっていた可能性がある」と話している。

 (●は「山」へんに「見」)

 基壇は最上級の壇上積み
 大阪・百済寺跡の西塔跡

 渡来氏族・百済王氏の氏寺と伝わる大阪府枚方市の特別史跡・百済寺跡を発掘調査している同市教育委員会は16日、西塔(8世紀後半)の基壇跡が「壇上積み」という最上級の外装方法だったことが分かったと発表した。

 市教委は「壇上積みは官営の寺ではよく見られるが、地方の氏寺としては破格。有力氏族としての力がしのばれる」と話している。

 西塔跡はこれまで部分的に発掘調査されていたが、再整備のため、ほぼ全面的に発掘された。基壇の外装のうち、最下段に並べた凝灰岩の延石と、その上に組み合わされた地覆石が見つかり、壇上積みと判明した。

 百済王の一族は660年の百済滅亡のため亡命してきた王族で、高級官僚として大和朝廷に仕えた。

 古墳の構造 CGで再現
 長岡京市教委 紹介ソフトを制作

 京都府長岡京市教委はこのほど、古墳時代に同市域に築かれた古墳の構造をコンピューターグラフィックで立体的に再現した古墳紹介ソフト「長岡京市の古墳」を制作した。郷土の歴史を分かりやすく市民に伝える教材として、市内の小、中学校などで活用していく。

 貴重な文化財の保存や活用のあり方について、多くの市民に関心を持ってもらおうと企画した。昨年6月に作業を始め、古墳時代前期の長法寺南原古墳や中期の恵解山(いげのやま)古墳など計5基の外観を、これまで行われてきた発掘調査を基に復元した。

 映像時間は10分間。大阪大名誉教授で考古学者の都出比呂志さんが監修を務めた。市の鳥「メジロ」が案内役となり、各古墳の築造時期や石室の位置などを説明する。

 恵解山古墳を史跡公園として整備する計画を進めている市教委生涯学習課の中尾秀正主任専門員は「長岡京市域には、かつて100基以上の古墳があったという歴史を知ることで、郷土の宝を将来に残そうという意識を持ってもらえたら」と話していた。

 鎌倉時代も冬の必需品 奈良の遺跡でカイロ出土

 奈良県橿原市の新堂遺跡で、13−14世紀(鎌倉時代)にカイロ代わりに使った「温石」と呼ばれる石1個が見つかり、同市教育委員会が10日、発表した。

 温石は焼いて布で包んで使う、市教委は「寒い季節。昔の人もカイロは必需品だったのでしょうね」と話している。

 見つかった石は縦12センチ、横10センチ、重さ700グラム。火鉢などから取り出す際に棒を通す穴(直径1センチ)が1つあった。温石は平安時代の文献にも登場。患部に当てて病気を治したり、僧侶が空腹を紛らわすため腹に当てることもあったという。

 千塚資料館(橿原市)で11日から5月7日まで開かれる発掘調査成果展に展示される。

 池の底から中世の「洲浜」
 知恩院・方丈庭園 尊氏建立幻の寺?

 江戸時代初期に造営された知恩院(京都市東山区)の方丈庭園で、中世に多く作られた「洲浜(すはま)」とみられる石敷き跡が、9日までに池の底から見つかった。現在の池とは形状が全く異なるため、南北朝時代に足利尊氏が東山山ろくに創立した常在光院(寺)の庭園跡の可能性もあり「はっきりした史料の少ない『幻の寺』の姿を解明するうえで興味深い」と専門家は注目している。

 知恩院の方丈庭園は江戸時代を代表する書院建築の大方丈と小方丈(いずれも重要文化財)の南側に面し、中心に大小2つの池が広がっている。1641(寛永18)年に名高い造園家小堀遠州とかかわりの深い僧玉淵らが作庭し、京都市指定の名勝となっている。

 昨年夏に池岸の一部石組みが崩れ、お寺と市埋蔵文化財研究所が池底や護岸を調査した。その結果、北池の西岸から中心部にかけて緩やかな傾斜の石敷き(幅約3メートル)が見つかった。直径15センチ程度の石が海岸を模すように散りばめられ、平安時代から鎌倉時代の庭園に多く作られた洲浜との共通点が確認された。

 知恩院の建立以前、庭園の周辺は隣接する青蓮院の敷地で、尊氏が築造した常在光院があったという記録がある。しかし遺構などは見つかっておらず「幻の寺」ともいわれている。

 調査に携わった福原成雄・大阪芸術大教授(日本庭園史)は「大きな石組みで護岸した現在の池の形状とは明らかに異なり、石敷きの特徴から室町時代より古い遺構の可能性が高い。これまで謎の部分が多かった常在光院跡との関連をうかがわせる初めての遺構で、より広範な本格的な調査が必要だ」と指摘。尼崎博正・京都造形芸術大教授(造園学)も「金閣寺や醍醐寺などでも昔の庭園の遺構を活用して新たな名庭園を完成させた。知恩院の方丈庭園の成り立ちを知るうえでも興味深い発見だ」と注目している。

 掘っ立て柱建物跡などが見つかる

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは2日、縄文、古墳時代の遺構などで知られる下海印寺遺跡(長岡京市下海印寺)で、長岡京時代に建てられた可能性のある掘っ立て柱建物跡3棟と溝などが見つかった、と発表した。一帯は長岡京跡右京七条四坊十六町にあたり、同時期における国家的な祭祀(さいし)場所とされる西山田遺跡とも近接している。都の造営事業が京域西端にまで進んでいた、と推測させる貴重な資料となりそうだ。

 掘っ立て柱建物跡3棟のうち2棟の主軸は、南北方向を向いて整然と並んでいる。西側の1棟は柱穴8基を備えており、南北4・2メートル、東西3・9メートルの規模。東側の1棟は一部が調査地を外れるため、全体像を把握できないが、現時点で南北5・4メートル、東西3・9メートルを確認した。

 調査地は小泉川左岸で、対岸には長岡京期の祭祀場所・西山田遺跡が位置するため、「祭祀と関連する建物であった可能性もある」(小田桐淳長岡京市埋蔵文化財センター調査係長)という。

 溝は長さ10メートル、幅80センチ−1メートル、深さ40センチ。奈良−平安時代の土師器や須恵器の破片も多量に出土した。長岡京内の他の施設同様に真南北方向を意識した造りで、府埋文センターは「明確な時期を示す遺物は出土していないが、建物も溝も長岡京時代に含まれる可能性がある」としている。

 京都第二外環状道路の建設事業に伴い、同センターが昨年11月から発掘調査を行っていた。調査ではこのほか、古墳時代後期(6世紀前半)の竪穴式住居跡3基や、同遺跡では初めての弥生時代の遺構となる土器だまり(長さ2メートル、幅50センチ)も見つかった。弥生時代後期のつぼやかめなどがまとまって出土しており、府埋文センターの竹井治雄専門調査員は「人為的に埋められたと考えられる」と指摘。小泉川周辺での同時期の集落の存在を浮び上がらせた。

 4日午後2時から現地説明会を開く。問い合わせは現場担当者Tel:090(2064)2199。

 闘鶏山古墳に接して墳墓
 大阪 4世紀、陪塚のはしりか

 大阪府高槻市の闘鶏山古墳(4世紀前半、前方後円墳)で、墳丘のすぐ南にある「方形盛り土」が墳墓だったと分かり、高槻市教育委員会が2日発表した。家臣クラスの墓らしい。

 5世紀前半から主墳の周りに近親者や家臣を葬った小型の「陪塚(ばいちょう)」が現れるが、研究者は「そのはしりではないか」と注目している。

 盛り土は縦17メートル、横15メートルの方形で、現存の高さは1メートル。中央部に2段に掘り込んだ「2段型墓壙(ぼこう)」という形式の埋葬施設が見つかった。表面は古墳のふき石のように小石が張られていた。

 市教委は「古墳の被葬者との深いつながりがうかがえる。陪塚のように当初から墳墓として計画したのか、葬儀の際の祭壇を墓に再利用したのか、今後さらに検討したい」と話している。


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