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2008/10/02 (Thu) 金貝遺跡
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2008/10/01 (Wed) 高松塚壁画
2008/09/30 (Tue) 南曽我遺跡
2008/09/30 (Tue) 箸墓古墳
2008/09/28 (Sun) 藤原宮朝堂院跡
2008/09/27 (Sat) 平城宮跡

 帆立貝式古墳と判明 三上山の方向に軸

 滋賀県守山市教委が、同市浮気町の松塚遺跡で行った発掘調査で確認したとしていた古墳時代後期(5世紀末−6世紀初め)の円墳跡が、その後の調査によって「帆立貝(ほたてがい)式古墳」であることが、30日に分かった。古墳跡の軸が、目の前に見える野洲市の三上山に向いていることも分かり、市教委は「古くから信仰の対象とされる三上山を、古墳の被葬者が意識していたと推測できる」としている。

 本調査の後に、同遺跡の西端で行われた確認調査で、周濠(しゅうごう)が途中で外側に張り出し、周濠の壁面に葺石(ふきいし)が敷かれているのが確認された。

 本調査でも、今回見つかった場所の約7メートル北側で葺石が見つかっており、市教委は「両角に葺石が敷かれた張り出し部分があり、帆立貝式古墳と判断した」としている。葺石は、張り出し部分が崩れるのを防ぐとともに、周濠の角を強調するために敷かれたと考えられている。帆立貝式古墳は、県内では50例前後見つかっているが、守山市内では初めてという。

 同遺跡は、宅地開発のため、埋め戻し工事が行われている。

 縄文土器に「キビ」付着
 安土町・竜ケ崎A遺跡 全国初確認

 滋賀県教委は30日、安土町下豊浦の竜ケ崎A遺跡で出土した縄文時代晩期末(約2600−2500年前)の土器片に、炭化したキビの固まりが付着しているのを確認した、と発表した。

 県教委によると、キビが土器に付着した状態で見つかったのは全国初といい、「キビを脱穀や煮炊きしていたと考えられ、当時の食文化を知る上で貴重な資料」としている。

 竜ケ崎A遺跡は安土山の西側ふもとに位置し、縄文時代中期から晩期まで(約4500−約2500年前)の集落跡とされる。ほ場整備に伴い、県教委が2003年に発掘調査し、出土した土器などを調べていた。その結果、土器片の一つに穀類と推定される直径約1・5ミリの粒状の炭化物が付着しており、顕微鏡などで分析したところ、キビと判明した。

 土器片は、貯蔵や煮炊きに使われた深鉢の底の一部とみられ、底の直径約6・5センチ、高さは約8センチで、ヨシの堆積(たいせき)層から出土した。炭化したキビは土器内側の約7センチ四方にこびりついていた。殻が残っているものが少なく、脱穀されたとみられる。

 キビは縄文時代晩期にはすでに食べられていたと推定されているが、日本では自生していないため、栽培されていたか、他の地域から運ばれたと考えられるという。縄文時代と弥生時代を通して、炭化したキビは、これまでに彦根市の稲里遺跡など3カ所でしか見つかっていない。

 京都大文学研究科の泉拓良教授(考古学)は「縄文時代晩期の人々がキビを食べるため、脱穀や煮炊きなどをしていたことを示す貴重な資料」と話している。

 土器片は31日から4月14日まで、安土町桑実寺の県安土城考古博物館ロビーで展示する(月曜休館)。問い合わせは県文化財保護協会Tel:077(548)9780。

 HPに福知山遺跡情報 市教委600か所

 福知山市内の遺跡約600か所の種類や位置、関連する文献名を、地図から調べられるホームページ(HP)「福知山市遺跡情報」を市教委が開設し、運用を始めた。遺跡や出土品の写真を盛り込み、ビジュアル面も充実させる方針で、市教委は「気軽に見て、身近な遺跡に興味を持ってもらいたい」と期待している。

 開設したHPには、福知山市377、旧三和町14、旧夜久野町119、旧大江町84の計594か所の遺跡情報を掲載。地図上の印をクリックすれば遺跡の名称や種類、大きさや関連文献が表示される。住所と遺跡名からも検索できる。たとえば、1986年発掘の広峯(ひろみね)古墳群では、種類が「方墳」、現状については「消滅」などと概要を記載。市教委がまとめた調査報告書などの関連文献一覧表が示される。

 HPには福知山市ホームページ
 http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/ からアクセスできる。



 最大級の木簡、奈良時代の「履歴書」 徳島・観音寺遺跡

 奈良時代、朝廷の地方行政機関「阿波国府」があったとされる徳島市国府町の観音寺遺跡で、朝廷が官人登用に際して国府との間で行った身元照会の手続き「勘籍(かんじゃく)」が記された8世紀の木簡が初めて出土した。徳島県埋蔵文化財センターが29日、発表した。木簡は長さ58センチ、幅5センチで国内最大級。記された文字数約150字も異例の数だ。朝廷への回答の下書きとみられ、専門家は「律令国家による地方支配の詳細を解明するうえで貴重な史料となる」としている。

 見つかった木簡は、厚さ4.9〜0.8ミリのヒノキの木片。8世紀後半の河川跡の砂層から出土した。文字は墨書きで、表面と裏面にそれぞれ七十数文字ずつ。読み取れない部分があるが、計約140字は解明できるという。

 木簡の裏面に、「阿波国司が勘籍した(戸籍を調べた)結果を解す(上申します)。秦人部大宅は26歳で――」という意味の文言があり、この人物の年齢や出身地、戸主などが記してある。

 内容から、阿波出身者を官人に登用する際、中央政府の民部省が阿波国司に身元調査させたことがうかがえる。何度も削ったり、棒線を引いて文字を修正したりした跡もあった。

 木簡に書かれた勘籍の結果は紙に書き写したうえで朝廷に送られ、官人の情報が一元的に管理されていた。現在、東大寺・正倉院(奈良県)にはこの勘籍の一部、約10人分の記録が残っている。


 最大級の木簡、奈良時代の「履歴書」 徳島・観音寺遺跡

 奈良時代、朝廷の地方行政機関「阿波国府」があったとされる徳島市国府町の観音寺遺跡で、朝廷が官人登用に際して国府との間で行った身元照会の手続き「勘籍(かんじゃく)」が記された8世紀の木簡が初めて出土した。徳島県埋蔵文化財センターが29日、発表した。木簡は長さ58センチ、幅5センチで国内最大級。記された文字数約150字も異例の数だ。朝廷への回答の下書きとみられ、専門家は「律令国家による地方支配の詳細を解明するうえで貴重な史料となる」としている。

 見つかった木簡は、厚さ4.9〜0.8ミリのヒノキの木片。8世紀後半の河川跡の砂層から出土した。文字は墨書きで、表面と裏面にそれぞれ七十数文字ずつ。読み取れない部分があるが、計約140字は解明できるという。

 木簡の裏面に、「阿波国司が勘籍した(戸籍を調べた)結果を解す(上申します)。秦人部大宅は26歳で――」という意味の文言があり、この人物の年齢や出身地、戸主などが記してある。

 内容から、阿波出身者を官人に登用する際、中央政府の民部省が阿波国司に身元調査させたことがうかがえる。何度も削ったり、棒線を引いて文字を修正したりした跡もあった。

 木簡に書かれた勘籍の結果は紙に書き写したうえで朝廷に送られ、官人の情報が一元的に管理されていた。現在、東大寺・正倉院(奈良県)にはこの勘籍の一部、約10人分の記録が残っている。

 模型で百済寺遺跡を再現
 東近江の「愛史会」が労作

 東近江市愛東地区の歴史研究会「愛史会」は室町時代に隆盛を誇った巨大寺院・百済寺遺跡の模型を作り、同市下中野町の愛東公民館に展示した。

 百済寺は六〇六(推古十四)年に開かれた古刹(こさつ)で、室町時代には三百の坊があり、約千人の僧侶が生活していた。県内有数の巨大寺院だったが、度重なる火災や戦国時代には信長の焼き打ちに遭い、約三十ヘクタールの全山が焼失。今は本堂や本坊、赤門、仁王門などが残る。

 模型作りは、今年が百済寺開基千四百年にあたることから、文化遺産を多くの人に知ってもらいたい、と同会のメンバー四人が中心になり、昨年七月から取り組んだ。

 旧愛東町教育委員会が十五年かけて作成した百済寺遺跡調査測量図面を参考に、九カ月かけて完成させた模型は五百分の一のスケールで、幅百四十五センチ、奥行き百六十五センチ、高さ四十センチ。発泡スチロールを測量図面に合わせて積み上げ、粘土で成形してアクリル絵の具で仕上げてある。「最盛期の様子を可能な限り復元した」と関係者。

 愛東教育分室の明日一史主任(31)は「住民主導でここまで再現できたのはすばらしい。百済寺をよく知ってもらう機会になれば」と話している。模型は同公民館の文化財資料室に展示され、自由に見学できる。

 西大寺の鴟尾出土-主要建物を飾る?

 奈良市西大寺南町の西大寺旧境内で、創建時(8世紀後半)の瓦製鴟尾(しび)の破片が市教育委員会の調査で見つかった。平城京にあった寺院の鴟尾が発掘調査で見つかったのは初めて。復元した大きさは金堂クラスだが、記録に残る鴟尾は金銅製で、匹敵する規模の主要建物を飾ったとみられている。

 現境内の東側で約1000平方メートルを発掘調査。破片は井戸と素掘りの穴から一点ずつ出土。いずれも奈良時代後半の破片で、頭部とひれの一部と分かった。

 弥生〜飛鳥の竪穴住居跡
 一帯に集落、裏付け

 右京区太秦蜂岡町付近にある「常盤仲之町(ときわなかのちょう)遺跡」を調査している京都市埋蔵文化財研究所は27日、弥生〜飛鳥時代の竪穴住居計8棟の跡や、鎌倉時代の墓とみられる跡などが出土したと発表した。これまでに付近で発掘された遺跡とあわせて、一帯に集落が広がっていたことが裏付けられるという。

 JR山陰線の高架化に伴う調査で、JR花園駅からJR太秦駅間の東西に延びる線路沿いを幅約4メートル、長さ約470メートルにわたって発掘。8棟のうち1棟は1辺が4・3メートルで、飛鳥時代の須恵器などが見つかった。

 発掘現場西側では、炭や焼けた土の上に須恵器が伏せて置かれているのが見つかった。1977年の調査時に同遺跡で発掘された鎌倉時代の墓と似ているという。

保存へ共同研究現地機関と協定
京都造形芸大 中国・西安で出土の文化財

 唐や漢の都・長安だった中国西安市で出土する貴重な文化財の保存に向け、京都造形芸術大(京都市左京区)は28日、西安市の調査研究機関、文物保護考古所と共同研究の協議書(協定書)を同大学で締結した。

 平安京の出土遺物の保存処理で実績があり、中国でも共同研究を進めてきた岡田文男教授(文化財科学)が中心となり、今年7月、現地に研究センターを開設。保存処理の研究と実践を進める。

 対象は、近年の都市開発で発見が相次いでいる王の墓などの遺跡から出土した前漢代(紀元前後)の壁画や紙片、赤彩土器、象眼の入った青銅器、15世紀の明代の漆棺など。文化財保存処理機関の吉田生物研究所(京都市山科区)が協力する。

 来日した孫福喜・西安市文物局副局長は「人類の貴重な遺産といえる文化財を、きちんと分析して保存を考えることが必要で日中共同研究に期待する」。岡田教授は「都市開発が進む西安市内では、これまで知られていなかった遺物が大量に見つかっており保存は急務。10年かけて事業を進めたい」と話した。

 これに合わせ、4月6日午後1時半から同大学で国際シンポジウム「壁画でよみがえる史記の世界」を開催。孫副局長が02年に出土した貴族の墓の壁画など西安市の文化財について報告する。

 畝傍山に高地性集落-弥生時代の土器片採取

 大和三山の一つ、橿原市の畝傍山(199メートル、国名勝)に、弥生時代の高地性集落が営まれた可能性の高いことが分かった。県立橿原考古学研究所に留学していた韓国の研修生が同時代後期初頭(1世紀ごろ)の土器片を採取。高地性集落は軍事的要素が強いとされ、曽我川流域を見下ろす立地。万葉集以前の畝傍山の様子がうかがえる。

 基礎の石敷きに区画跡
 下鴨神社 平安後期の祭壇跡

 京都市左京区の下鴨神社境内にある平安後期の祭壇跡の調査で、祭壇の基礎の石敷きに、人工的に設けられた区画の跡が新たに見つかり、同神社と京都市埋蔵文化財研究所が24日発表した。鳥羽離宮跡(伏見区)などの類例から「宮廷の建物と同じ工法が使われた可能性がある」としている。

 同神社糺(ただす)の森の「奈良の小川」周辺整備で、南岸に祭祀(さいし)の遺構を復元するため、昨年度に続いて調査した。昨年度は直径20センチ程度の河原石を敷き詰めた石敷きの上に約10−20センチの土盛りが見つかっており、石を並べた祭祀(さいし)跡もあることから、祭壇とみられている。

 今回は東隣の83平方メートルを2月下旬から調査した。新たに見つかった区画は方形と見られ、形や大きさのそろった石が直線的に並んでいた。同様の区画は、白河天皇(上皇)らが造営した鳥羽離宮跡や六勝寺跡(左京区)など、平安後期の朝廷と深い関係の邸宅の基礎部分などにあり、多人数が同時に作業するための目安とみられる。

 糺の森整備委員長の上田正昭京都大名誉教授(古代日本・東アジア史)は「平安初期に大嘗祭(だいじょうさい)の前のみそぎが糺の森で行われた記録もある。今回の発見で祭壇が宮中の祭りに伴うものである可能性が強まった」と話している。

 現地説明会は26日午前10時から。問い合わせは同神社Tel:075(781)0010。

 纒向石塚の周濠は馬蹄形
 最初期から本格古墳の要素

 前方後円墳の原型とされ、古墳説のほかに弥生時代の墳丘墓説もある奈良県桜井市の纒向石塚(まきむくいしづか)古墳(3世紀前半−中ごろ)の周濠(しゅうごう)が、後の古墳によく見られるような「馬蹄(ばてい)形」に近い形と分かり、桜井市教育委員会が23日発表した。

 大和政権や古墳の発祥の地の奈良県で、最初期古墳の周濠の形が判明したのは初めて。弥生墳丘墓のように墳丘に沿った形という想定もあったが、本格古墳の設計プランが既に登場していたことになる。市教委は「前方後円墳の成立と展開を考える上で重要な成果」としている。

 須恵器、4世紀後半に製作 宇治で出土
   
 京都府宇治市の「宇治市街遺跡」の古墳時代の溝跡から出土した初期須恵器(すえき)の製作年代が、同じ場所で出土した木製品の伐採時期の測定などから、定説より半世紀近く早い4世紀後半までさかのぼれることがわかり、同市教委と奈良文化財研究所が22日、発表した。

 市教委は「古墳時代の年代的枠組みにも影響を及ぼす成果。韓式(かんしき)土器が一緒に出土していることから、朝鮮半島にも今回の年代が応用可能で、古代の年代観を日韓で解決していく手がかりにもなる」と話している。

 市教委によると、木製品が出土したのは、全長12メートル、幅3メートル、深さ50センチの溝跡。初期須恵器20点や約70点の韓式土器、土師器(はじき)60点とともに、木製品70点が出土、渡来人のムラ跡と考えられる。

 木製品は建材とみられ、うち5点を使って奈文研の光谷拓実・古環境研究室長が年輪年代測定法で測定。3点で実年代が測定でき、樹皮を残すヒノキ板材(長さ30センチ、幅14センチ)は、西暦389年に伐採されたと判明した。

 同じ板材を国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の今村峯雄教授が炭素年代測定法で調べたところ伐採時期は359−395年との結果が出た。

 溝跡は攪乱(かくらん)されておらず、4世紀末に木製品と初期須恵器が一緒に捨てられ、土砂に埋まったとみられることから、須恵器の製作年代もほぼ特定できた。

 須恵器の生産は5世紀前半、朝鮮半島からの渡来人によって大阪府南部の陶邑(すえむら)などで始まった−というのが定説だが、これを半世紀近くさかのぼることになる。

 5角形の竪穴住居跡見つかる
 栗東の下鈎東遺跡 市内で初めて

 滋賀県栗東市教委は20日、同市下鈎と蜂屋にまたがる下鈎東遺跡から、弥生時代後期(2世紀)の5角形の竪穴住居跡1棟が見つかった、と発表した。市内では初めてで、規模などから、集落の中心的な人物が住んでいたと推測するとともに、山陰や北陸地方に多く分布していることから、市教委は「日本海沿岸の地域との交流を示す資料」としている。

 竪穴住居跡は東西、南北とも7・6メートルで、広さ約38平方メートル。中央付近に炉跡があり、近くに調理具とみられる上面が平坦な花こう岩が置かれていた。南東辺には、食料などを貯蔵したと思われる穴があった。

 昨年、同遺跡で見つかった方形の竪穴住居跡より規模が大きく、湖北や湖西地域の遺跡にみられる土器も多数出土した。

 5角形の竪穴住居跡はこれまで、鳥取県で65棟、石川県で6棟見つかっている。県内では19棟目に当たり、守山市の伊勢遺跡など、野洲川左岸に多く分布していることから、市教委は「日本海沿岸の文化が琵琶湖を介して伝わった」と推測、「朝鮮半島の鉄などを手に入れるために交流した可能性もある」としている。

 東海道新幹線新駅の区画整理事業に伴い、昨年10月から約4500平方メートルを発掘調査していた。25日午後1時半から現地説明会を開く。問い合わせは市出土文化財センターTel:077(553)3359。

 古代のトイレがテーマの講演も
 宇治で発掘報告会

 宇治市発掘報告会が18日、京都府宇治市折居台の市文化センターで開かれた。2005年度の調査結果をはじめ、古代のトイレをテーマにした講演もあり、参加者の関心を集めた。

 市歴史資料館主催で、約130人が参加した。発掘報告では、藤原道長が建てた藤原氏の菩提(ぼだい)寺、浄妙寺跡や平安貴族の別業跡が見つかった宇治市街遺跡などを紹介。続いて、金原正明・奈良教育大助教授(環境考古学)が「トイレの考古学−古代の水洗トイレ事情」と題して話した。

 金原氏は花粉や種子、寄生虫卵の分析などで遺跡のトイレを見つけ出す手法を説明。平安時代から中世にかけての奥州、平泉柳之御所の便所跡で検出した寄生虫卵から当時の人がサケやマスを常食したと分かった例を示すなど、トイレ跡から古代の食習慣もたどった。

 一方、水洗トイレの歴史については、藤原京跡で道沿いの側溝から屋敷内に水を引いた水洗トイレが見つかった例などを挙げ、「日本では、最後に埋める穴の形より、水洗のほうが古い可能性もある」とした。

 守山・松塚遺跡で市内最大の円墳
 市教委発表 物部氏との関係も

 守山市教委は18日、同市浮気町の松塚遺跡で、市内で最大となる直径約37メートルの古墳後期(5世紀後半−6世紀初め)の円墳跡が見つかった、と発表した。近くには、同時期の大規模な集落跡の吉身南、吉身北両遺跡や辻遺跡(滋賀県栗東市)があり、一帯では6世紀初めごろに物部氏の支配が始まることから、市教委は「集落の有力者が埋葬されたと考えられ、物部氏との関係も推測される」としている。

 松塚遺跡の北端約1100平方メートルを発掘調査した。

 埋葬施設などのある墳丘部は削られていたが、深さ約1メートル、幅6−9メートルの周濠(しゅうごう)が、全体の3分の1ほど見つかった。復元すると直径約37メートル、周濠部分を合わせると最大約53メートルの円墳と分かった。周濠から、円筒埴輪(はにわ)片や須恵器片が出土した。

 周濠の西端に葺石(ふきいし)があり、周濠から張り出すような形で敷かれてることから、張り出し部分のある「帆立貝式古墳」の可能性もあるという。

 21日午前10時から、現地説明会がある。問い合わせは守山市埋蔵文化財センターTel:077(585)4397。

 「大化の改新」の舞台確認 飛鳥板蓋宮
 石敷き遺構出土

 古代史最大のクーデター「大化の改新」(645年)の舞台となった飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の一部と見られる石敷きなどの遺構が、奈良県明日香村の飛鳥京跡で県立橿原考古学研究所の調査によって発見されたことが17日分かった。権勢をほしいままにした蘇我一族が滅び、古代の新体制がスタートした歴史的な場。飛鳥板蓋宮跡の遺構はこれまでほとんど確認されておらず、先ごろ見つかった飛鳥浄御原宮の正殿跡や飛鳥岡本宮跡の柱跡などとともに、謎の多い古代宮都の研究が大きく進みそうだ。

 新たな遺構が見つかったのは、先ごろ、飛鳥浄御原宮跡で発見された「北正殿跡」の、さらに下層とその南側。続けて行われていた調査で、7世紀中ごろのものとみられる長さ約8メートル、幅約70センチにわたる石を敷き詰めた溝のような遺構が南側から出土した。

 築造年代は、北正殿を建てる際に壊された痕跡があったことなどから、飛鳥浄御原宮より以前のものと判明した。

 さらに、北正殿跡を数十センチ掘り下げたところ、柱を据えた一辺1・4メートルの穴も検出。直径40センチの柱の痕跡も確認された。赤く焼けた土や炭が詰まっており、火災に遭ったことが分かった。

 この場所は、日本書紀の記述などから、数百メートル四方のほぼ同じ範囲に、舒明天皇の「飛鳥岡本宮」、皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」、天武天皇の「飛鳥浄御原宮」が相次いで築かれたとされてきた。

 また、日本書紀には、「斉明元(655)年冬、飛鳥板蓋宮で火災があり、斉明天皇が飛鳥川原宮に遷(うつ)った」と記述。今回見つかった柱穴にも焼けた跡があることから、飛鳥板蓋宮の火災との関連が高いとみられる。

 数ある飛鳥京の中でも飛鳥板蓋宮は、中大兄皇子や中臣(藤原)鎌足が蘇我入鹿を暗殺し、新体制のスタートとなった場所。いわば古代史最大の政治的舞台だ。

 飛鳥板蓋宮跡はこれまで、より新しく、その上層に築かれたとされてきた飛鳥浄御原宮跡に阻まれて調査できなかった。しかし今回、同研究所が飛鳥浄御原宮跡を発掘調査したところ、さらに古い飛鳥岡本宮や飛鳥板蓋宮の遺構が見つかった。

 大化の改新 大化元(645)年6月の蘇我入鹿暗殺に始まり、中大兄皇子と中臣鎌足が推し進めた政治改革。唐の律令制度にならった中央集権国家の樹立を目指して、「改新の詔(みことのり)」を発布。皇族や豪族の私有地を廃止する公地公民の制や、新たな租税制度などを実施した。中国の例に従い、公式に年号をたてて「大化」としたため、「大化の改新」と呼ばれる。

 3宮殿の重なりはっきり
 奈良・飛鳥京跡で遺構

 奈良県明日香村の飛鳥京跡で18日までに、古代史最大のクーデター「大化改新」(645年)の舞台となった飛鳥板蓋宮で、その一部とみられる石敷きの遺構が見つかった。

 調査地では今月、天武天皇の飛鳥浄御原宮の「内安殿」とみられる大型建物跡や、舒明天皇の「飛鳥岡本宮」の遺構とみられる建物跡が見つかったと発表されたばかり。

 飛鳥京跡に重なる3つの宮殿がまとまって確認できたのは珍しく、奈良県立橿原考古学研究所(同県橿原市)の担当者は「宮殿の重なり具合が分かりやすい形で見つかった。宮殿の変遷がうかがえるよい資料だ」と話している。

 今回見つかった遺構は長さ約8メートル、幅約0・7メートルの溝のような跡で、石が敷き詰められていた。最下層にある舒明朝の建物とは違う方向を向き、上層部の天武朝の建物を建てる際に壊された跡があることから、中層部の飛鳥板蓋宮の一部と判断した。

 金色に輝く古代の花形飾り
 キトラ古墳、銀装大刀も

 奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で、2004年夏に石室内を発掘調査した際、大量に運び出された土の中から、金色に輝く花形の飾り金具や純銀製の大刀飾りの一部が見つかり、文化庁が17日発表した。

 花形金具(直径約4センチ)は金銅製で、花びら6枚が開いた形。中心にひもを通すための銀環が付いており、金と銀のコントラストが美しい豪華なデザイン。赤漆が付着していたことから、木棺や副葬品を入れた箱などの外側に付けたらしい。

 大刀飾りは3点あり、柄口とさや口、さや尻の金具だったとみられる。いずれも純度の高い銀製で、刀身のかけら(長さ10センチ)や木製の柄の一部も出土。

 十一面観音像が出土
 守山・欲賀南遺跡 平安後期

 守山市教委は16日、滋賀県守山市欲賀町の欲賀南遺跡から、平安時代後期の銅造十一面観音立像が見つかった、と発表した。室町−江戸時代の屋敷跡周辺の穴から出土した。平安時代の銅製の十一面観音立像が出土するのは全国的にも珍しいといい、「この地域の有力者の念持仏か、天台宗系の寺院にまつられていた可能性があり、当時の人々の信仰を知る手掛かりとなる」としている。

 観音立像は、高さ9・6センチ、幅2・7センチの銅製で、頭部の十一面観音や身に付けている天衣(てんね)が分かる保存状態だった。柱穴や出土したすり鉢などから、室町−江戸時代の屋敷跡と確認された遺構の周辺にあった穴の中で、頭を北側にしてあおむけの状態で見つかった。屋敷跡と同じころに埋まったと推測された。

 この地域には、地域の有力者の屋敷があったという伝承もあり、市教委は、観音立像が有力者の念持仏だった可能性もある、とみている。

 銅製の仏像が遺跡から出土したのは、県内では栗東市の辻遺跡に次いで2例目。

 また、併せて調査した欲賀南遺跡から200メートル北西の欲賀遺跡では、2年前に巫女(みこ)形埴輪(はにわ)が出土した古墳が、直径約20メートルの円墳と確認された。新たに、古墳時代後期の方墳も見つかり、市教委は「この地域の豪族の古墳群と考えられる」としている。

 18日午前11時から現地説明会を開く。問い合わせは守山市教委文化財保護課Tel:077(582)1156。

 キトラの白虎、初公開へ
 5月に奈良・飛鳥資料館で

 奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で、保存のため石室の石壁から取り外された四神図「白虎(びゃっこ)」が5月に奈良文化財研究所飛鳥資料館(同村)で公開されることが決まり、文化庁が16日発表した。キトラ古墳の壁画を一般公開するのは初めて。

 白虎は2004年9月から翌年5月にかけ、胴体部分と前脚部分の2つに分けて壁からはぎ取られた。修復作業はほぼ終了し、絵の状態は安定しているという。同研究所の担当者は「前脚のつめまで、リアルに表現された描線の美しさを見てほしい」と話している。

 公開は5月12日から28日までの17日間。2分割された壁画を元通りの状態に並べ、湿度60%に保ったガラスケースに入れて展示する。

 側溝跡から怒り顔の木製「人形」
 長岡京市開田の発掘調査

 長岡京市埋蔵文化財センターが1−3月上旬に実施した京都府長岡京市開田4丁目の発掘調査で、牛の足跡が残る長岡京時代の側溝跡から、怒り顔の木製「人形(ひとがた)」が出土した。長さ約27センチ、幅約5センチ、厚さ5ミリの上部分が見つかり、同センターは全体の長さを60−80センチと推定。長岡京跡では仏顔や困り顔など数多くの人形が出土しているが、「これだけ大型の物は多くはない」としている。

 出土場所は、右京六条二坊十一町の南側を走る六条条間南小路の側溝跡。牛に踏まれた影響で、粘土質の溝の底にめり込んでいたらしい。古代の都などでは、自身の身代わりとして病気やけがれを背負わせた人形を、水に流してはらう風習があったとされる。

 見つかった人形の顔は長さ約10センチ。あごひげやずきんのようなかぶり物を墨で細かく表現している。まゆ毛と目尻をつり上げた迫力ある表情に、「制作者の願いの強さを感じるが、ちょっと怖い」と同センター。

 右京六条二坊十一町の発掘調査は今回が初めて。長岡京期の掘っ立て柱建物計3棟の柱穴や、宅地と道路を仕切ったさく列も見つかった。

 鎌倉の盗掘前は完全密閉

 極彩色壁画で知られる奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)石室は、鎌倉時代に盗掘穴が開けられるまで約500年、ほぼ完全に密閉されていたことが分かり、文化庁が13日、発表した。

 盗掘後もしばらくして穴が埋まり再び安定。石室に大量の水や土砂が流入した形跡はまったくなかったという。

 石室内部の発掘で取り出した2カ所の土壌を調査。一番上は盗掘後に入った土砂や木の根が積もり、その下は盗掘時に壊した石室の破片や木棺の漆膜が層になっていた。

 最下部は粘土状の鉱物の層で厚さ約1センチ。粒子の大きさは1ミクロン以下で、凝灰岩の壁がわずかに通す水に含まれた微粒子が、長い年月の間に浸透、乾燥を繰り返したらしく、10−40ミクロンの細かい層が水平に重なっていた。

 伏見城下町跡 桃山期の日用品ざくざく

 伏見区竹中町の伏見城城下町跡から、桃山時代の漆器やほうきなどの日用品が約1000点も見つかり、調査した京都市埋蔵文化財研究所は11日午前10時から、現地説明会を開く。

 調査は伏見区総合庁舎の建設に伴って、酒造会社の工場跡地で、昨年6月から約4000平方メートルで実施した。現場は豊臣秀吉が1596年築城した伏見城の城下町の西部で、出土品は調査地中央部の一辺3・5〜8メートルの方形穴(深さ最大3メートル)2基から見つかった。

 出土品の中でもとくに漆器類が200点と多く、草花やツル、カメ文様の良質な物が目立ったといい、武家か裕福な町人が利用していたらしい。研究所は徳川家光が1623年に廃城した際、利用者が捨てた可能性が高いと考えており、「城下町にいた人々の生活実態を知るうえで貴重な資料」としている。問い合わせは現地事務所(075・602・2405)。

 神宮寺跡とみられる礎石が見つかる
 大津・日吉大社境内

 大津市坂本5丁目の日吉大社境内にある日吉神宮寺遺跡で、室町時代の神宮寺跡とみられる建物の礎石が見つかり、大津市教委が10日、発表した。

 調査は、日吉大社の参拝所建設計画に伴い、昨年11月から約300平方メートルで実施した。

 その結果、遺跡の中心部で室町時代のものとみられる礎石(直径1メートル−20センチ)が3メートル間隔で南北12メートル、東西9メートルにわたって確認された。礎石の見つかった場所は、室町時代の絵図「日吉山王社古図」(延暦寺蔵)に描かれた神宮寺の位置と符合した。

 さらに下層からは、平安時代とものとみられる土器が出土した。同市教委は「平安期にも室町時代と同規模の寺があったのでは」としている。

 神宮寺については、鎌倉時代の古文書「叡山大師伝」(石山寺蔵)に、天台宗の開祖・最澄の父親が子どもを授かるよう祈願するため、後に同寺が建つ地に草庵を設けてこもった、との記述がある。最澄も比叡山に入る前に、この草庵にこもり祈願した、と伝わる。

 市教委は「神宮寺の存在が確認され、最澄が生まれた時代の遺構につながる期待も出てきた」としている。

 現地説明会は4月8日午後1時から。問い合わせは大津市教委文化財保護課Tel:077(528)2638。

 木造の羅城、東西1キロ
 奈良・平城京

 平城京(710−784年)の正門「羅城門」両側から広がった城壁「羅城(らじょう)」は、瓦屋根がある高さ3−4メートルの木造塀で、東西約1キロだけだったことが分かり、奈良県大和郡山市教育委員会と元興寺文化財研究所が10日、発表した。

 日本の都で羅城の構造が明らかになったのは初めて。手本にした唐の都長安は堅固な城壁に囲まれていたが、平城京は都の中心を南北に走る朱雀(すざく)大路の入り口、羅城門の両側だけ整えていた。

 市教委は「防御機能としては期待できない。外来の客を迎える京の入り口を装飾したのだろう。中国の使者が見てがっかりしたかもしれない」としている。

 大和郡山市の下三橋遺跡で、平城京の九条大路南側2カ所を調査。屋根のある土塀を予想したが基礎がなく、2列の掘っ立て柱の穴が見つかった。幅は約1・5メートルで、市教委は高さ3メートル余りの木造塀と推定した。

平城京「羅城」は装飾が目的?防御機能見当たらず

 奈良時代の都、平城京(710〜784年)の城壁にあたる「羅城」の南面が簡易な瓦ぶきの掘立柱建築物で、8世紀中ごろに途中までしか造られなかったことが奈良県大和郡山市の下三橋遺跡での調査でわかり、市教委と元興寺文化財研究所が10日、発表した。

 市教委などは「中国の都城のような防御的機能はほとんどなく、装飾が目的だった」とみている。

 九条大路南側で、これまでに回廊状の細長い掘立柱列(幅1・5〜1・8メートル)を2か所で計約80メートル分確認し、平城京の正門・羅城門から延びる羅城と判断した。

 柱の抜き取り穴から750年代の瓦が多数出土しており、瓦ぶきだったらしい。また、羅城は築地(ついじ)塀とみられていたが、その痕跡はなかった。

 平城京の南辺は約4・3キロに達したとされるが、今回の調査で、羅城の柱穴は、羅城門から東約530メートルの東一坊大路で途絶えていたことが判明。門の西側を合わせると、約1キロ分しかなかったとみられる。

 一方、同遺跡は昨年、定説を覆す「十条大路」の存在をうかがわせる道路遺構が出土。今回もさらに南側で新たな交差点や道路遺構を確認した。「十条大路」の想定地の北約70メートルに迫る結果で、同大路の存在はより確実になった。

現地説明会は12日午前10時〜正午

 遺跡見学4カ所はしごだ 石舞台へ臨時バス

 ◆あす明日香、おすすめルート◆

 11日は、明日香村内4カ所で遺跡の現地公開・説明会が開かれる「考古学デー」だ。遺跡が多い同村でも、これだけ集中するのは初めて。見学のおすすめルートを紹介する。

 現地説明会は、2棟目の正殿跡が見つかった飛鳥京跡(午前10時〜午後3時)、石舞台古墳造営時の宿泊施設跡とみられる遺構が見つかった島庄(しまのしょう)遺跡(同)、「観世音経」と書かれた木簡が出土した石神(いしがみ)遺跡(午後1時半。現場公開は午後3時半まで)の3カ所。石組み溝と塀跡が見つかった島庄遺跡については説明会はないが、12日まで午前10時〜午後3時に公開されている。

 来場はバスが便利。奈良交通が近鉄橿原神宮前駅中央口から石舞台に向かう臨時バス(約20分、340円)を運行する。午前9時から随時出発し、途中は飛鳥京跡近くの岡橋本バス停だけに止まる。

 すべてを回るには午前中に到着した方がいい。石舞台バス停を降りると、すぐ近くの国営飛鳥歴史公園芝生広場で島庄遺跡の説明がある。そのまま同古墳東側の棚田にある遺構へ。誘導に従って進むと、もう一つの島庄遺跡に着き、飛鳥京跡へ向かう。その後、近くで昼食休憩。

 飛鳥京跡から石神遺跡へは歩いて約20分。飛鳥寺跡やのどかな田園風景が広がる。説明は午後1時半の1回だけなので注意が必要。帰りは、石神遺跡近くの飛鳥バス停から路線バスで橿原神宮前駅へ(230円)。バスは1時間に1本(午後2時7分、3時7分、4時7分)だ。

 問い合わせは奈良交通テレフォンセンター(0742・20・3100)へ。

 平安前期の役人住居か?
 下京で井戸跡見つかる

 京都市下京区で、平安前期のほぼ完全な木枠の井戸跡(一辺約1・2メートル、深さ約2メートル)が10日までに見つかった。2棟の建物跡も見つかり、下級役人の住居とみられる。

 井戸跡は9世紀後半につくられ、末期には廃絶したとみられる。規模はやや大きめで、木枠は細い板を正方形に整然と並べ、底と中央に角材を巡らせ、しっかりと固定していた。

 現場は西市に近い平安京西南の辺境地。調査した民間発掘団体・関西文化財調査会(上京区)は「建物もひさしのついた立派なもの。当時の一般的な役人の比較的裕福な生活ぶりをうかがわせる」と話す。