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 キトラ古墳に新たなカビ
 天文図の尾宿、直径7センチ

 文化庁は28日、奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で、天井の天文図に黒色のカビのようなものが見つかったことを明らかにした。

 文化庁によると、カビのようなものは、直径約7センチにわたり、天文図の東側にある星座の「尾宿(びしゅく)」にかかるように発生していた。同日午後、同庁関係者が定期点検のため石室内に入ったところ、確認した。

 同庁はカビなどの発生に対処するため1週間に2度程度、定期点検をしており、25日にも点検に入ったばかりだった。

 仁徳陵一望 住民「景観壊す」 堺に148メートルマンション計画

 堺市内に建設が計画されている高さ約148メートルの超高層マンションから、国内最大の前方後円墳の仁徳天皇陵(堺区)が“丸見え”になることがわかった。天皇陵との距離は約1キロ。同市は世界文化遺産登録を目指しているが、地元住民からは「景観悪化につながる」と建設反対の動きも。中には「天皇陵を見下ろすことに問題はないのか」の声もある。建設主の南海電鉄は数回にわたり住民説明会を開いているが、1500年以上にわたって“菊のカーテン”に閉ざされていた場所だけに、景観論争の決着には時間がかかりそうだ。

 南海電鉄によると、予定地は南海堺東駅の東側に隣接する車庫跡地約1・4ヘクタール。42階と15階の2棟約500戸で、平成21年3月のオープンを予定している。高さ約148メートルは市内で最も高い建物となる。

 ただ、仁徳天皇陵との距離は北西にわずか約1キロ。完成すれば、最上階からは、これまで航空写真などでしか眺められなかった古墳の全体像が丸見えになるという。

 同電鉄では、計画を打ち出した昨年9月以降、2カ月に1度のペースで地元住民らに説明会を実施しているが、周辺住民は猛反発。仁徳天皇陵を含む百舌鳥古墳群の世界文化遺産登録に向け、超高層マンションの建設が水を差すというのが主な理由だ。

 地元住民で建設に反対する上村雄彦・大阪府立大名誉教授は「明らかに景観を破壊しており、建設を中止しなければ世界遺産登録はありえない」と指摘。ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、世界文化遺産のケルン大聖堂(独)の周辺で高層ビル開発の計画が持ち上がった際、緊急保護が必要として大聖堂を危機遺産に登録し、計画をストップさせたという。

 さらに、一部住民からは「堺市のシンボルを見下ろす人たちがいるのはいい気分ではない」という声も。実際に堺商工会議所が約20年前、天皇陵近くの市有地に高い塔を建てる計画を提案したが、「御陵を上から見下ろすとはもってのほか。失礼だ」などの強い抗議が寄せられ、立ち消えになった。

 住民らは今月20日にも建設中止を求める要望書を市に提出する予定だが、市建築都市局は、論争からは一定の距離を置きつつ、「古墳の周囲には、低いながらもすでに家やマンションが建っている。現場に高さ制限はなく、建築基準法をクリアしていれば問題ない」という。

 皇室関連の歴史的遺産をめぐっては、京都御所のある京都市では、市内中心部がそもそも厳しい高さ制限で規制されているため、内部が丸見えになるような高層建築物は建てられない。また、すでにオフィスビルなどに囲まれている東京の皇居でも平成13年、付近に高さ約180メートルの「丸の内ビルヂング」(丸ビル)が建設された際、外からの視界をさえぎるため高さ約16メートルのクスノキを植えた経緯がある。

 仁徳天皇陵が見下ろされることについて、宮内庁陵墓課では「皇居の周囲にも高層マンションやビルは建設されている。住民感情は理解できるが、特に申し上げることはない」という。

 市では先月末に有識者で構成する「市歴史文化都市有識者会議」を設置し、登録に向けた環境整備やPR方法などについて検討を始めているが、委員の一人の上田正昭・京都大名誉教授は「市からは今のところマンション建設についての説明はない。登録のハードルは高いため、市や地域住民の話を聞き、調査する必要がある」と話している。

 小墾田宮近くで石列遺構

 明日香村の石神遺跡で、石やくいの跡が並ぶ7世紀前半〜中ごろの遺構が見つかり、奈良文化財研究所が27日、発表した。近くには、ほぼ同時期に推古天皇が築いた「小墾田宮(おはりだのみや)」(603〜628)があったとされ、同研究所は「庭園のような関連施設だった可能性もある」として、今後も周辺調査を進める。

 今年3月、「観世音経」と記された最古の木簡(679年)が出土した同遺跡の北部約625平方メートルをさらに掘り下げたところ、南北に約9メートル続く深さ60センチの石列を確認した。人頭大の石を3、4段積み重ねており、百済の影響を受けた方形の池か、石組み溝とも考えられるという。

 また、石列のそばでは直径6〜8センチの木のくいを20〜30センチ間隔で打ち込んだ列が南北に2本(長さ11メートル以上)、東西に1本(長さ約22メートル)出土。3本は「コ」の字形につながり、施設を囲む柵や塀の跡らしい。

 石列とくい列の向きは、正しい方位からずれており、同研究所は、方角に沿って整然と建物が建てられる前の7世紀前半〜中ごろの遺構とみている。

 日本書紀では、612年に朝廷の命で、百済からの帰化人が小墾田宮の南庭で中国風の石橋や石造物の須弥山(しゅみせん)石を造ったと記述。推古天皇没後も一帯には、控えの宮殿や武器庫が存続していたとされる。

 今回の調査地は、南側に斉明天皇時代の迎賓館跡(7世紀中ごろ)があり、西約200メートルでは「小治田宮」と書かれた奈良時代(8世紀後半)の墨書土器が出土している。

 同研究所は「未開地と思われていた場所なので、不明な点が多い。石列の性格が明らかになれば、当時の開発の意図がわかるだろう」としている。現地説明会は行わない。

 葛城氏の館復元10分の1で制作

 5世紀(古墳時代中期)の大豪族・葛城氏の居館とされる大型建物の10分の1の復元模型が、神戸大の黒田龍二助教授(日本建築史)によって制作された。橿原市の県立橿原考古学研究所付属博物館の春季特別展「葛城氏の実像」で6月18日まで展示されている。

 大型建物は御所市の極楽寺ヒビキ遺跡で遺構が見つかっており、不明な上部の詳しい構造については、約3キロ北東の葛城氏の墓とされる宮山古墳(国史跡)で出土した家形埴輪を参考にした。約1・3メートル四方、高さ1・4メートルで、昨年12月から3カ月間かけて作った。

 遺跡では、外側に丸柱の跡が20本、内側に古代建築では珍しい板状の柱跡が6本見つかっており、内側の柱列が建物の中心部で、周囲に縁側があったとみられている。

 家形埴輪にも、板状の柱列があることから、黒田助教授は、大型建物が埴輪の原型だったと考えた。柱には埴輪と同じ魔よけの文様を転写した。

 特別展ではほかに、かまどの煙出しに使われたとみられる高さ1・4メートルの煙筒土器(下茶屋カマ田遺跡)など、御所市の遺跡を中心に2400点の出土品が展示されている。

 入館料は大人800円、高校・大学生450円、小中学生300円。月曜と5月9日休館(祝日は開館)。問い合わせは、同博物館(0744・24・1185)へ。

 葛城の竹内遺跡、古墳時代の物流センターと判明

 奈良県葛城市の竹内遺跡が古墳時代中期(5世紀前半)、塩や国内で生産が始まったばかりの須恵器などが集積された〈物流センター〉だったことが、同県立橿原考古学研究所の調査でわかった。

 古代の大豪族・葛城氏が本拠にした地域にあたり、「倭の五王」の時代、大王(天皇)に比肩する権勢を誇った葛城氏の勢力基盤が、必需物資の流通ルートを押さえたことにあったことをうかがわせる成果だ。

 同研究所付属博物館で開幕した特別展「葛城氏の実像」で須恵器や製塩土器が展示されている。

 1976年以来、同研究所などが約20次にわたって発掘し、出土した土器を整理、検討してきた。

 その結果、堺市などの陶邑(すえむら)窯跡群で生産されたとみられる初期の須恵器や、朝鮮半島の影響を受けた韓式土器の破片計数百点と、さらに大阪府南部や和歌山県などの海辺で作られた塩を運んだ製塩土器の破片数千点が確認された。

 須恵器は通常、一つの集落から出土する量よりはるかに多く、また大量の製塩土器の破片は、この場所で塩を別の土器に移し替えた痕跡だったとみられる。

 調査地からは、幅4・5メートル、深さ2メートルの人工的な大溝が見つかっており、東西200メートル以上にわたって一直線に続くことが判明。倉庫群のような大規模な施設を区画していた溝の一部だった可能性が高い。

 一帯は、竹内峠を経て大阪、奈良両府県を結ぶ古代の主要幹線道に近接した交通の要衝であることなどから、同研究所は大阪側からの物資が、いったん竹内遺跡に集積され、奈良盆地の各地に配られていた可能性が高いと判断した。

 古墳時代の大王と豪族に焦点
 安土城考古博物館で特別展

 安土町下豊浦の県立安土城考古博物館で二十二日、古墳時代の大王と豪族に焦点をあてた春季特別展「吾(われ)、天下を左治(さじ)す」が始まる。六月四日まで。

 特別展のタイトルは、埼玉県・稲荷山古墳(五世紀)出土の鉄剣銘の一節。鉄剣を作らせた豪族が「大王を補佐した」との意味とされ、この時期の大王と豪族の関係をうかがわせる。

 大王と豪族が連合して支えた大和政権の中央と地方の様相を考古、文字資料など約二百五十点で紹介する。稲荷山古墳出土で国宝の金銅製帯金具や重要文化財の和歌山県・大谷古墳出土品、栗東市・新開古墳出土品なども並ぶ。

 入館料が必要。月曜日休館(五月一日は開館)。講演会は次の通り。いずれも午後一時半開演で先着百四十人。無料。

 ▽五月三日「古墳からみた5世紀の大王と豪族」(白石太一郎・奈良大教授)▽同十四日「大王と『古墳規制』」(一瀬和夫・大阪府教委主査)▽同二十八日「大王に嫁いだ姫と西都原古墳群」(北郷泰道・宮崎県立西都原考古博物館主幹)

 山科本願寺跡 中国製堆黒片など多数出土

 本願寺中興の祖とされる蓮如が創建した山科本願寺跡(山科区)から、中国製の漆製品「堆黒(ついこく)」の破片が多数見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が20日、発表した。同研究所は「当時の高級品で、寺の勢力の大きさを示している」としている。

 昨年11月から12月にかけて南北3メートル、東西1・5メートル、深さ0・7メートルの土壙(どこう)を調査し、土をふるいにかけ、水洗いして発見した。

 堆黒は木に漆を何層も塗り重ね、彫刻を施した製品。破片は5〜20ミリほどの大きさで、100点以上が出土。13〜14世紀ごろの中国製で、寺の装飾品として使用されていたと見られる。

 土壙からは蒔絵や陶磁器の破片も出土。陶磁器の破片は青磁や白磁、染め付けなど約1200点があり、堆黒と同様に輸入品とみられる。

 寺は1478年の創建で1532年に六角定頼らに焼き打ちされた。土壙は焼き打ち後に作られたらしい。

 出土品は27日〜5月7日、上京区の京都市考古資料館で展示される。月曜休館。

 鎌足の親族トップの墓か
 大阪、天皇陵と同じ八角墳

 大化改新の立役者で藤原氏の祖、中臣鎌足(614−669)の墓とされる大阪府高槻市の阿武山古墳(7世紀後半、円墳)の近くから、当時の天皇陵と同様に墳丘が八角形をした7世紀中ごろの古墳が見つかり、大阪府文化財保護課が19日、発表した。

 周辺からはこの八角墳を含め、7世紀前半から中ごろの方墳や円墳が計24基発掘され、阿武山古墳とよく似た土器も出土。同課は「いずれも鎌足の全盛期に造られており、中臣一族の墓群だろう。八角墳にはその中でトップクラスの人物が埋葬された可能性が高い」としており、中臣氏の権勢ぶりを知る貴重な手掛かりになりそうだ。

 現場は、尾根の頂上近くにある阿武山古墳から約500メートル南西に下った同府茨木市桑原の谷斜面。

 古代人のお守り スイジ貝刻む埴輪 奈良の古墳

 紀伊半島以南に生息するスイジ貝が線刻された盾形埴輪が、奈良県田原本町の保津岩田古墳(5世紀初め)で見つかった。スイジ貝は、古代から魔よけとされ、現在も沖縄地方でお守りとしてこの貝を使っている地域があり、日本人の信仰のルーツを探るうえで貴重な資料になりそうだ。

 古墳の周囲に掘られた溝から出土した。幅、高さとも約30センチ分が残っていたが、制作された当時の高さは70センチ以上あったと推定。中央部にスイジ貝をデフォルメした文様が3カ所ある。

 スイジ貝が埴輪に描かれた例は全国で数例しか見つかっていない。

 辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話 「防御用の盾形埴輪にスイジ貝の文様を刻むことで、被葬者を邪霊から二重に守ろうとしたのだろう。古代人の信仰が、現在まで受け継がれている様子がうかがえて興味深い」

 神仙思想を反映-吉備塚古墳の象眼大刀

 平成16年に奈良市高畑町の吉備塚古墳(6世紀初め)で出土した大刀の文様について、奈良教育大学の山岸公基助教授(美術史)は19日、中国・南朝の壁画と図像が共通することを明らかにした。「神仙思想を正しく反映した国産品。当時の日中交流を証明する資料」という。

 ヘビは陸上で進化か
 原始的な新種の化石発見

 アルゼンチンの約9300万年前の白亜紀後期の地層から、最も原始的とみられる新種のヘビの化石を同国とブラジルの研究チームが発見、20日付の英科学誌ネイチャーに発表した。発見場所は当時陸だったとみられ、トカゲの手足が退化して現在のヘビの姿になったのは陸上とする説を裏付ける発見だという。

 化石には後ろ足が残っており、これまで見つかったヘビには見られない、陸生生物のような後ろ足の付き方をしていたことから新種と判断した。

 ヘビはトカゲの手足が退化して白亜紀の中ごろ(約1億年前)までに現れたと考えられているが、進化途中の化石が見つかっておらず謎が多い。

 中世の酒蔵 破壊される?
 下京の遺構 かめに割られた痕跡

 京都市下京区で昨春見つかった中世の酒蔵跡とみられる遺構で、酒がめの破片を調査していた京都市埋蔵文化財研究所は19日までに、ほとんどのかめが人為的に割られていたことを突き止めた。市埋文研は「酒造りへの統制が厳しくなり、酒蔵が強制的に破却させられた痕跡では」と注目している。

 酒蔵跡は昨年4月、下京中建設に伴う発掘調査では200カ所以上のかめ穴を確認。かめの破片は14カ所の穴から見つかった。その後、破片をつなぎ合わせると、ほとんどのかめに、直径1−2センチの穴が開けられていることが分かった。

 穴は、かめを据えつけたまま内側から底や側面に開けたり、掘り出して外側から開けたとみられ、穴を中心に放射状に割れていた。「金属の棒のようなものでたたき割ったのでは。生々しく、破却という言葉がぴったり」という。

 出土土器による年代判定では、穴が埋まったのは15世紀中ごろ。上層からは応仁の乱後の祭祀(さいし)遺構も検出され、同世紀末までに酒蔵は廃絶したらしいという。

 室町幕府は1419(応永26)年、北野神社に酒の原料である麹(こうじ)づくりの独占を認め、酒屋ごとに行われていた麹づくりが禁止された。同神社の文書には、今回の調査地の酒屋を含む52軒が提出した起請文が残り、麹を育てていた麹室を幕府の役人の目の前で破却したとの記述もある。

 市埋文研では「庶民のしたたかさで、禁止後も麹づくりを続けたが、締め付けが厳しくなり、酒屋自体の破却に追い込まれた−という筋書きも考えられる。当時の商業環境の厳しさを示す遺跡ではないか」と話している。

 ■一揆で襲撃も 川嶋將生立命館大教授(日本中世史)の話

 破却が事実なら、徳政一揆の襲撃を受けた可能性もある一方、延暦寺か北野神社が自分の権益を守るために行動した可能性もある。調査地の酒屋は大規模で、財力の大きさを示しており、多くの勢力から目をつけられても不思議ではない。

 古代ロマンに浸る キトラ古墳特別展

 奈良文化財研究所飛鳥資料館(明日香村)の春季特別展「キトラ古墳と発掘された壁画たち」が開幕して初の週末を迎えた15日、普段の1・5倍の観光客が同館を訪れた。壁画のはぎ取り作業のパネル展示や石室の模型などに感心しながら、「早く本物を見たい」と5月12日から始まる壁画「白虎」の展示を心待ちにする声も。

 ■初の週末にぎわう

 展示会場を一巡すると、04年から始まった壁画のはぎ取りから修復・保存までの流れを理解できるような構成になっている。

 初公開されたキトラ古墳石室の出土品の前には人だかりができた。棺などの部品とみられる金色の花形の金具や銀製の刀装具の一部などが展示され、女性客からは「きれいね」との声が漏れた。

 はぎ取り作業用に何度も改良された特製のヘラや、雑菌から壁画を守るために着用した防護服も展示されている。

 四神像のうち、はぎ取られた「白虎」「玄武」「青龍」を写真で公開。
 「保存するための様々な議論から皆さんが直接目にできるまでのプロセスを公開したつもりです」。同館の杉山洋学芸室長は、展示の狙いをこう説明した。6月25日まで。「白虎」図の実物公開は5月12日〜28日。休館は5月11日のみ。

 国内外の壁画70点展示 明日香

 明日香村の奈良文化財研究所飛鳥資料館で14日、特別展「キトラ古墳と発掘された壁画たち」が始まった。同展では5月12〜28日に、キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の極彩色壁画のうち西壁の四神「白虎」が初めて一般に公開される。

 白虎(縦25センチ、横40センチ)は2004年から、胴体と前脚が分割してはぎ取られた。公開にあわせて、発掘調査で出土した国内各地の壁画片、源流となった朝鮮半島の高句麗、新羅の壁画拓本や模写など約70点を紹介する。

 このほか、再建、非再建論争が続く法隆寺の若草伽藍跡で04年に出土し、670年の焼失、再建説を裏付ける資料として注目された壁画片も展示。鳥取県の上淀廃寺(7世紀末)の神将像など、地方文化が花開いた様子を伝える品も並ぶ。

 6月25日まで。5月11日休館。入場料は大人260円(白虎公開中は500円)、高校・大学生130円(同300円)、中学生以下無料。問い合わせは同資料館(0744・54・3561)へ。

 国内最古級木材刻書文字
 大野城跡、氏族署名?

 7世紀後半に築かれた大野城跡の太宰府口城門(福岡県太宰府市)から出土した創建期の木柱に文字が刻まれているのを確認したと、九州歴史資料館(同市)が14日、発表した。「孚(浮)石部」(うきいしべ)の3字と解読され、現存する木材に刻まれた文字として国内最古級という。

 同資料館は「木を切り出した氏族の署名だった可能性がある。柱に刻まれた文字としては国内最古の貴重な資料」としている。木材に刻まれた例としては、ほぼ同時期の法隆寺の仏像に作者名とみられる文字が確認されている。「部」の字を、場所を示す「都」と読む専門家の見方もある。


 国内最古級木材刻書文字
 大野城跡、氏族署名?

 7世紀後半に築かれた大野城跡の太宰府口城門(福岡県太宰府市)から出土した創建期の木柱に文字が刻まれているのを確認したと、九州歴史資料館(同市)が14日、発表した。「孚(浮)石部」(うきいしべ)の3字と解読され、現存する木材に刻まれた文字として国内最古級という。

 同資料館は「木を切り出した氏族の署名だった可能性がある。柱に刻まれた文字としては国内最古の貴重な資料」としている。木材に刻まれた例としては、ほぼ同時期の法隆寺の仏像に作者名とみられる文字が確認されている。「部」の字を、場所を示す「都」と読む専門家の見方もある。

 埋葬施設、南海地震で崩壊 電気探査で「地滑り」
 天理大解明

 天理市櫟本(いちのもと)町、赤土山古墳(4世紀末〜5世紀初め)の後円部にある埋葬施設が、南海地震による地滑りで崩壊した可能性が高いことが、天理大の置田雅昭教授(日本考古学)らの電気探査で明らかになった。埋葬施設内にあったとされる遺物は、これまでも墳丘から崩れ落ちた形で出土している。電気探査がそれを裏付けた形だ。

 同古墳は国史跡の前方後円墳で、全長107メートル、後円部の直径66メートル。これまでの調査では、後円部の南側すそ部で、墳丘から崩れ落ちた葺(ふき)石に交じって、腕輪や玉飾りなど埋葬施設に副葬されたとみられる石製品61点が見つかっている。また、古墳築造直後の4世紀末ごろから5世紀に発生した南海地震によるとみられる地滑りの痕跡も、後円部から見つかっている。

 電気探査は、電極を地中に差し込んで電気を流す。電気抵抗のデータを取り、それをコンピューター処理することで、地下の地盤構造や埋設物を画像化する方法。埋葬施設はこれまで発掘調査されておらず、置田教授らは00年3月、埋葬施設があるとみられる後円部の墳頂について電気探査。その結果、墳丘中心部の深さ3メートルの個所は、電気抵抗が著しく低い部分が上下幅約3メートル、東西幅3メートル、南北に約10メートル続いていた。

 古墳の埋葬施設の電気抵抗は低い例が多いため、置田教授はこの場所に施設があったと判断。埋葬施設の南北の全長は推定約8メートルと考えられるが、電気抵抗の低い部分はそれより長く、後円部の南北両側の地滑りの跡とちょうどつながるため、埋葬施設は地震で崩落した、と判断した。

 防護服着ずに作業-カビ大量発生招く

 明日香村平田の高松塚古墳(7世紀末〜8世紀初め)で、平成13年2月、文化庁が石室入り口の墳丘土の強化工事を行った際、関係者が防護服を着ないまま作業していたことが13日、分かった。翌3月末には、石室入り口付近を中心にカビが大量に発生。その後、国宝壁画がある石室の中まで広がった可能性があるが、文化庁は工事がカビ発生の原因としながら、防護服を着用してなかったことは同古墳保存対策検討会に報告していなかった。

 高松塚の極彩色壁画を損傷
 文化庁がカビの除去中

 奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で2002年、石室で作業した文化庁の修復担当者が、極彩色の壁画(国宝)を傷つけていたことが12日、分かった。

 文化庁は関係者だけで修復、これまで事実関係を公表していなかった。

 同日午前に記者会見し説明。損傷事故の調査会を設置する考えを明らかにしたが、文化庁は高松塚の壁画劣化についても、長く明らかにしておらず、姿勢があらためて問われそうだ。

 文化庁によると、壁画の損傷は02年1月28日。石室でカビの除去作業をしていた担当者が誤って室内灯を倒し、西側の壁に当たって男子群像の衣服の一部、約1センチ四方がはがれ落ちた。同時に空気清浄機も倒れ、西壁の絵がない部分に長さ8センチの傷をつけた。

伽藍の東西に同じサイズの大規模建物 大阪府富田林市・新堂廃寺

 大阪府富田林市の国史跡「新堂廃寺(しんどうはいじ)」で、伽藍の東西に、中央の金堂と塔をはさむようにまったく同じ規模の大規模な建物が配されていたことが、同市教委の発掘調査で分かった。今回確認されたのは東方建物。対をなす西方建物とともに回廊を壊して建てられていた。「新堂廃寺式」と呼ばれる、これまで例のない新たな伽藍(がらん)配置が立証され、古代寺院の姿がまたひとつ明らかになった。

 新堂廃寺は昭和34年から続けられている発掘調査で、その姿が徐々に明らかになっている。創建は飛鳥時代(7世紀前半)。中門、塔、金堂、講堂が南北一直線に並び、回廊が巡る「四天王寺式」の伽藍配置だった。

 白鳳時代(7世紀後半)以降に西方、東方建物が加えられ、回廊が両建物と講堂、中門を結び、さらに築地塀が伽藍を取り囲んでいたと推定されている。

 今回の調査は東方建物の規模を確かめるために行われたが、南西隅の基壇が新たに出土した。北西隅はすでに見つかっていることから、南北の長さは27・6メートルだったことが判明。それは、再建後の西方建物の南北の長さと一致することが明らかになった。

 西方建物の履歴はすでにかなり明らかだ。白鳳時代に南北31・36メートル、東西16・5メートルの大きさで建てられたが、天平時代(8世紀前半)に再建されている。そのさい、南北27・6メートル、東西16・42メートルと小ぶりになったことが分かっている。

 ところが、東方建物には建て替えられた形跡はなかった。

    □  □

 何故か。左右対称にするなら、最初からそうするだろう。東方建物と西方建物の関係は?

 同市教委は「白鳳時代に建っていたのは西方建物だけで、東方建物はなかったのだろう。その後、西方建物が焼失したため白鳳時代以降に東方建物を建てることになったが、さらに後になって西方建物もまったく同じ規模で再建されたのではないか」とみる。

 小ぶりになった理由は、東方建物側の立地条件だろうという。東側には築地塀があり、その外側は一段低い地形。「地形の制約を受けた東方建物の規模に、西方の再建建物が合わせた」(同市教委)という。

 今回の調査で、飛鳥時代の創建時の東面回廊にあったとみられる石組み溝と、東方建物が建てられたさいに東面回廊に設けられた瓦敷き溝が見つかっている。ともに雨落ち溝とみられるが、東方建物は東面回廊を一部断ち切って建てられていた。

    □

 まだ謎の部分は数多い。現在は新堂廃寺と呼ばれるが、往時は何と呼ばれていたのか。誰が建てたのか。文献などの記録はいっさい残っていない。

 手がかりのひとつに、大量に出土した飛鳥時代の瓦がある。新堂廃寺の建物の瓦は、北西約300メートルの羽曳野丘陵にあるオガンジ池瓦窯跡で製造されていたことが明らかになっている。

 特に、新堂廃寺の平瓦は丘陵中腹にある「お亀石古墳」(方墳)の埋葬施設の回りに積み上げられた平瓦と特徴が一致しているのだ。これらの瓦は「百済の技術を受け継いだ国内でも類例の少ない瓦で、渡来系氏族の影響が見られる」と同市教委。つまり古墳の埋葬者が寺の創建にかかわる人物ではないか、という類推ができる。

 東方、西方建物は『仏殿』の可能性が高いというのが研究者らの指摘だ。その上で「回廊を壊してまで建てたのは仏教の新しい経典が伝えられて信仰の形が変わり、金堂に祭る本尊以外に新たな本尊を仏殿に祭った」とみる。

 30メートルを超える塔が建つ南河内最古の寺院は、平安時代に姿を消した。

 始皇帝の祖母の陵墓か
 中国、外国メディアに公開

 中国陝西省考古研究所は7日までに、同省西安市長安区で2004年から発掘が進められている秦代の大型陵墓と副葬品を初めて外国メディアに公開した。

 同研究所は格式や出土品を分析した結果、陵墓は秦の始皇帝(紀元前259―同210年)の祖母、夏太后の墓の可能性が強く「極めて大きな意義がある発見」(焦南峰・同研究所長)としている。

 陵園は南北550メートル、東西310メートルで、墓室と副葬品坑から成り、陵墓としては中国最大級。04年に大学を建設する土台工事をしている際に発見され、これまでに6頭立ての馬車2台と多数の玉器や馬のような模様を記した金の飾り、青銅の馬具、「衛」の文字を刻んだ石などが見つかっている。

 また「集中公墓制」といわれる王族複数の墓を集めた陵墓ではなく、個人を埋葬した最も古い大型陵墓であることも判明した。

 9千年前に歯の治療?
 きりで穴の跡、パキスタン

 人類は9000年も前から歯医者さんにかかっていた−。パキスタン西部の9000−7500年前の墳墓で、生存中にきりのような物で穴を開けられた形跡がある人の歯11本を、フランスなどの国際チームが確認し「歯の治療の原型だ」と、6日付の英科学誌ネイチャーに発表した。

 米紙ニューヨーク・タイムズによると、歯科治療の幕開けを約4000年もさかのぼらせる発見だ。

 チームが調べたのは、新石器時代の墳墓に埋葬されていた成人男女9人の奥歯で、直径1・3−3・2ミリ、深さ0・5−3・5ミリの穴が開いていた。内部のぎざぎざから人工的に削ったとみられ、時代的に硬い石が使われた可能性が高いという。表面がすり減っており、穴を開けた後も歯を使っていたらしい。

 室町後期の堀跡見つかる
 同志社大今出川校地

 京都市上京区の同志社大今出川校地で、室町後期の堀跡が6日までに見つかった。応仁の乱後の混乱期に、屋敷を取り囲んでいた防御用の堀とみられる。

 2月下旬から約80平方メートルを調査。堀跡は東西方向に幅3.5メートル、深さ1.4メートルの逆台形で、堀と平行して、柵列とみられるくいの跡や、別の堀とみられる落ち込みも確認された。

 調査地は、戦国期の洛中洛外図屏風(びょうぶ)では、室町幕府に仕えた伊勢氏の邸宅とされる。調査した同大歴史資料館は「短期間に掘られ埋められた堀だろう。花の御所近くの当時の様子を知る発見」。

 古墳出土の遺物展示-2日、役場に施設オープン

 葬送用具とみられる舟形の木製品が出土するなどした巣山古墳(4世紀末〜5世紀初)をはじめ、広陵町内の古墳から出土した遺物を展示する町教育委員会の文化財保存センターの展示施設が2日、同町南郷の町役場敷地内にオープンする。

 問い合わせは町文化財保存センター、電話0745(55)1001、内線401。

 縄文時代末?の木棺が出土
 新文化伝えた移住者の墓か

 大阪府東大阪市の池島・福万寺遺跡で1日までに、縄文時代晩期末−弥生時代初め(2千数百年前)とみられる最古級の木棺が見つかった。発掘している大阪府文化財センターによると、保存状態は良好という。

 縄文時代は遺体を穴に埋めるだけの土壙墓(どこうぼ)が主流で、木棺は弥生文化とともに伝わったと考えられている。墓制は最も保守的で変わりにくいとされることから、九州や瀬戸内地方から新文化を携えてやってきた移住者の墓だった可能性もあり、注目される。

 木棺は成人用とみられ、長さ1・5メートル、幅0・5メートル、高さ0・4メートル。長径約2メートルの穴の底に側板を立てた状態で埋め込み、後から底板を落とし込む仕組みで、ふたは残っていなかった。材質は広葉樹らしい。


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