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 朱に染まる「卑弥呼の鏡」
 大阪 未盗掘の闘鶏山古墳

 大阪府高槻市の前方後円墳「闘鶏山(つげやま)古墳」(4世紀前半、全長86メートル)で、未盗掘の石室内部を同市教育委員会などが高性能のデジタルカメラで遠隔撮影し、鮮明な画像を30日、公開した。

 石室内には、魔よけや長寿の薬とされた朱を一面にまいてあり、画像には「卑弥呼(ひみこ)の鏡」と呼ばれる三角縁神獣鏡2枚や鉄刀などさまざまな副葬品、被葬者の頭蓋(ずがい)骨がはっきりと写っている。

 整然と並んだ鏡などは埋葬時のままの配置を保っているとみられ、非常に珍しいという。当時の葬送儀礼を考える貴重な手掛かりになりそうだ。

 市教委は2002年にもファイバースコープで石室内を撮影。未盗掘の石室2つと鏡などの副葬品を確認したが、画像が不鮮明だったため詳細が分かっていなかった。

 近畿最古級の石棺盗掘跡? 柏原市

 柏原市の古墳時代前期(3世紀末〜4世紀初め)に造られた前方後円墳、玉手山3号墳を発掘調査していた大阪市立大学日本史研究室と柏原市教委は30日、同古墳近くの安福寺に残されている近畿地方で最古級とされる石棺のふた(国重要文化財)が、3号墳から出土したものであることがほぼ確実になった、と発表した。3号墳の竪穴(たてあな)式石室が、盗掘で大きく破壊されていることが、今回の発掘調査で確認され、その破損状況から分かったという。

 調査によると、後円部頂上の平らな面には直径5〜10センチほどの丸石が敷き詰められていたが、中央部分が東西約6メートル、南北約8メートルの小判形に荒らされており、多くの板石が土に混入していた。鉄片や円筒形の管玉も出土しており、竪穴式石室が盗掘された際、板石を積み上げた壁がかなり大規模に破壊されたものとみられる。

 安福寺にふたが残る石棺は、丸太状の木棺を模した「割竹(わりたけ)形石棺」と呼ばれるもので、石棺の中では最古のタイプ。玉手山3号墳で出土したと言い伝えられてきた。石室の破損の規模など今回の調査結果は、それを裏付けるものになるという。

 調査を指導した同大学の岸本直文助教授(考古学)は「竪穴式石室は棺を包み込むように造られている。石棺を掘り出した際に石室の壁を大きく壊し、板石を捨てたのでは」と話している。

 現地説明会は9月3日午後2〜4時。現場は柏原市立老人福祉センターの敷地内で、近鉄国分駅から徒歩約15分、同道明寺駅から徒歩約20分。

 城陽・芝ヶ原9号墳 祭祀用把手付の壺出土

 城陽市教委は24日、同市久世、市立久世小の中庭にある古墳時代中期後半(5世紀後半)に築造された芝ヶ原9号墳から、祭祀(さいし)用の把手付短頸壺(とってつきたんけいこ)が出土したと発表した。5世紀中頃から後半にかけ、朝鮮半島から持ち込まれた陶質土器か初期須恵器と考えられ、同形の器は、府内では初めて。近畿でも数例しか出土例はないといい、同市教委は「被葬者は、当時の最先端の品をいち早く取り入れた人物と考えられ、半島との交流を示す遺物」と話している。

 同古墳は、約120基ある久津川古墳群(4世紀後半〜7世紀前半)の中の一つ。高さ約4・5メートル、直径約25メートルの2段築造の円墳で、表面はこぶし大の葺石で葺かれていた。裾部分は削り取られている。1969年の調査では、円筒埴輪や形象埴輪が出土している。

 今回の調査では、1段目の平坦部で3個分の円筒埴輪が見つかり、墳頂部では円筒埴輪列の一部と墓こうが出土。墓こうは6・5メートル四方で、墳頂部の約90センチ下から埋葬施設と見られる灰青色の粘土を検出。埋葬施設のすぐ上に把手付短頸壺が、1個はほぼ完形、もう1個は半分ほど割れた状態で見つかった。

 二つはほぼ同じ大きさで、高さ17センチ、胴の直径15センチ、口径8センチで把手が一つ付いていた。文様は、胴、首、台の細い部分に刺突紋が施され、形、特徴などから初期須恵器か、渡来人がもたらした陶質土器と考えられる。形などから生活道具ではなく祭祀用として焼かれたものらしい。

 同市教委は「築造時期は主流だった横穴式石室をつかわず、木棺を粘土で覆った古い埋葬法で、被葬者は伝統を守りながら、朝鮮の新しい品を取り入れるなど積極的に交流してい人物だったと考えられる」と話している。

 現地説明会は行わないが、9月2日午前10時から、同市寺田、文化パルク城陽内のふれあいホールでのシンポジウム「芭蕉塚古墳と王のまつり」で同古墳について説明する。

 奈良期の竪穴住居跡確認
 西院、葛野郷の中心地か

 京都市右京区西院月双町で、奈良時代の竪穴住居跡などが見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が二十四日発表した。周辺ではこれまでにも公的な建物とみられる掘っ立て柱建物跡が見つかっており、秦氏らによって開拓されたとされる葛野郷の中心地だった可能性もあるとしている。

 七月中旬から約六百平方メートルを調査した。奈良期の竪穴住居は三棟あり一辺約四メートル。かまどには、白鳳時代の寺院に使われたとみられる格子模様の瓦が再利用されていた。さらに倉庫とみられる南北五メートル、東西三メートルの総柱建物の跡も見つかった。

 調査地の約二百メートル北西ではこれまで、南北に並列した二棟の掘っ立て柱建物跡が見つかっている。今回の建物群がいずれも真北を向き、公的な権力の存在を示すことから、掘っ立て柱建物跡が、公的な性格を持つ可能性が強まり、葛野郷の中心地との見方が出てきた。

 ほかにも一辺五−八メートルの古墳期の竪穴住居跡五棟や下層から縄文・弥生期の土器も出土し、数千年間連綿と人が住み続けた場所らしい。

 現地説明会は二十六日午前十時から。問い合わせは現場事務所TEL075(314)8394へ。

 旧石器後期の地層か
 宇治・莵道遺跡で発掘調査

 宇治市歴史資料館は22日、京都府宇治市莵道藪里の莵道遺跡の発掘調査で、府南部で初めて1万年から2万年前の旧石器時代後期とみられる地層が見つかったと発表した。これまで周囲で石器が出土しており、同資料館は「その理由を解明する手がかりになる」と期待を寄せている。

 莵道遺跡は莵道地区一帯に広がる古代集落で、これまでの調査で前方後円墳や平安時代の銅銭などが発見されていた。宅地開発に伴う調査で、目立った遺物がない個所を掘り進めたところ、地層が確認された。

 地層は、地表から1−1・5メートルの深さで、古墳時代や奈良時代とみられる層の下から見つかった。植物などの有機物が炭化してできた黒色土が広がっており、地質学的に同様の地形は1万年から2万年前に形成された可能性が高いとされる。

 同資料館は「古い地層はほとんどが削られるか地下深くにあるため見つかりにくいが、現場が緩やかな斜面のため地層が削られ過ぎず、堆積も少なく、浅い部分に残ったのでは」と推測している。

 周辺では2004年に同遺跡内で同年代の剥片(はくへん)石器、1984年には北に200メートルの西隼上り遺跡から1万年前の石槍(やり)が出土していた。資料館は「石器が出てきたのは地層が残っているからでは」と関連性を指摘。今後、土の科学分析を行い、形成年代や性格を究明する。

 応仁の乱 猛火物語る
 天龍寺の旧境内、室町期の焼け瓦

 京都市右京区嵯峨で、室町期の多数の焼け瓦が23日までに見つかった。調査地は天龍寺の旧境内地に当たり、同寺の瓦とみられる。応仁の乱で焼亡した跡の可能性が高く、いずれもれんがのように赤茶けて、熱で溶着したものもあり、火災の激しさを物語る。建物の屋根を飾っていたとみられる鬼瓦の破片も見つかった。

 京都市埋蔵文化財研究所が6月中旬から約400平方メートルを調査した。焼け瓦は南北方向の堀に詰まっており、焼亡後に敷地を整地する際、堀に放り込まれたらしい。鬼瓦(縦16センチ、横19センチ)は右目部分で、大きく見開いた目の眼球や釣り上がったまゆなどが、鬼の形相をほうふつとさせる。

 堀は3時期が重なり、最初は幅3メートル、深さ1・2メートルの逆台形。底と側面に丁寧に石垣が組まれ、底に近い部分から15世紀代の土器が出た。堀は、炭の混じった土で埋められ、新たに掘られた浅い堀を焼け瓦が埋め、さらに新しい堀が掘られていた。

 三つの堀に大きな時期差はないとみられ、堀が境界線として強く意識されていることから、境内全体を囲む外堀だった可能性があるという。

 天龍寺は足利尊氏が後醍醐天皇の菩提(ぼだい)を弔うため1345年に完成。室町時代に6回の火災が記録され、15世紀代の火災は1447年と68年。いずれも全山が焼失するほどの大規模なものだった。

 市埋文研は「大きなしっかりした堀から徐々に浅い堀に変わり、寺が財政的に苦しくなる様子がうかがえる」とし、応仁の乱に伴う68年の火災の可能性が高いとみている。

 亀岡で八角墳出土 蔵垣内遺跡

 府埋蔵文化財調査研究センターは17日、亀岡市千歳町国分の蔵垣内(くらがいち)遺跡から、6世紀後半〜7世紀中ごろの群集墳27基が見つかり、うち1基が天皇陵に多くみられる八角墳だったと発表した。群集墳の中で八角墳が見つかるのは全国的にも珍しいといい、同センターは「大和朝廷に仕えた地方の高級官僚の墓ではないか」としている。

 八角墳は、段ノ塚古墳(舒明天皇陵、奈良県桜井市)、御廟野古墳(天智天皇陵、山科区)などに次ぎ15例目。同遺跡中央付近から出土、西側の一部が削られた状態だったが、一辺は約6メートルで、東側部分には古墳の縁を飾ったとみられる石列が残っていた。

 石室(奥行き約9メートル、幅約2メートル)からは、銀の装飾を施した鉄剣や木棺に使われたくぎなども出土。見つかった須恵器の形状などから、八角墳は7世紀中ごろに造られたとみられる。

 古墳に詳しい石野博信・徳島文理大教授(考古学)は「八角墳の多くは独立墳で、今回は極めて珍しい。朝廷が、各地域から有能な官僚を集め律令体制を整えようとしたことを示す貴重な資料」と話している。

 現地説明会は19日午前10時30分から。問い合わせは同センター現地事務所(090・8207・5285)。

 丸木船、井戸枠に大変身
 守山・弘前遺跡で発掘

 滋賀県守山市赤野井、矢島両町にまたがる弘前(こうまえ)遺跡で、丸木舟を再利用した円形の井戸枠のある古墳時代後期(6世紀後半)の井戸跡が見つかり、17日、滋賀県文化財保護協会が発表した。丸木舟を転用した井戸跡が発掘されたのは、京滋で初めて。同協会は「古墳時代の人々が、資源を有効にリサイクルする文化や技術を持っていたと考えられる」としている。

 調査は、県の水質保全対策事業に伴い、同遺跡の中央部分約5000平方メートルで行った。同協会によると、井戸枠は直径約0・6メートル、深さ約1・6メートル。断面がU字型の2枚を含む計6枚の木材を、筒状に組み合わせていた。U字型木材の先がすぼんでいることなどから、1隻の丸木舟の船首と船尾に近い部分を利用したとみている。

 舟の全長は推定5−6メートル。U字型木材の内側の側面には左右対称のくぼみや穴があった。手すりの棒やしきりの板などを渡したとみられ、琵琶湖で交通や物資運搬などに使用した舟が使えなくなり、転用したとみている。同協会は「木をくりぬいただけの丸木舟から一歩進んだ構造で、全国的にも珍しい。船舶技術の変遷を知る貴重な資料にもなる」としている。

 滋賀県立大の林博通教授(考古学)は、井戸跡が大型建物跡や溝跡の近くで見つかっていることなどから、「建物は祭祀(さいし)の場所で、井戸枠に舟を転用したのは、湖上航行の安全や豊漁を感謝、祈願する意味を込めたのではないか」と話している。

 また、方形周溝墓や掘っ立て柱建物跡などが見つかったことから、同遺跡は弥生時代は墓跡、古墳時代から鎌倉時代にかけては集落跡であることが分かった。

 調査報告会は20日午後1時と同3時から、滋賀県安土町の県立安土城考古博物館で行う。井戸枠は終日一般公開する。無料。問い合わせは同協会TEL0748(46)4861。

 桃山時代の金箔瓦の破片見つかる
 江戸初期のゴミ捨て穴から出土

 京都市中京区で桃山時代の金箔瓦の破片が18日までに見つかった。金箔はほとんど失われていたが、表面にかすかに残る金粉が往事の名残をとどめている。

 江戸時代初期のゴミ捨て穴から出土した。同じ穴から茶の湯などで使われた桃山期の陶器や生活で用いられたとみられる木製品が大量に見つかり、当時三条通沿いに並んでいた陶器店のものとみられる。

 調査した市埋蔵文化財研究所は「金箔瓦をふく建物が調査地の周辺にあったとは考えにくい。豊臣秀吉の聚楽第が破却された後、拾ってきて珍重したのではないか」と話している。


 山科で大規模建物跡を確認  
 奈良−平安後期 中臣氏関連か

 京都市山科区東野舞台町の中臣遺跡で、奈良−平安後期の大規模な掘っ立て柱の建物跡が15日までに見つかった。京都市埋蔵文化財研究所では「柱穴の様子から、かなり早い時代のものだろう。中臣(藤原)鎌足の一族である中臣氏に関連する邸の可能性もある」と注目している。

 宅地開発に伴い、6月中旬から約400平方メートルを調査した。建物は3棟で、柱穴はほぼ方形で一辺が0・8−1メートル。うち2棟は重なり合い、2・1メートル間隔に東西二間分、南北一間分確認。方向は南北よりやや西を向いていた。

 柱穴は平安後期の遺物層のすぐ下で、弥生時代の遺構面にある。柱穴の中から奈良時代の遺物が見つかっているが、遺物はわずかで、厳密な時代の特定は困難という。

 柱穴の規模が立派で、柱穴に柱を建てる時に、粘土を突き固めて丁寧に柱を固定した痕跡があり、かなりの有力者の邸宅と見られる。

 一帯は「中臣町」という地名が現在も残り、鎌足が大津京時代、山科の「陶原館(すえはらやかた)」に住み、死後興福寺の前身「山階寺」になったと伝えられるなど、中臣氏ゆかりの土地とされる。周辺では過去に、官衙(かんが)とみられる掘っ立て柱建物跡も確認されている。市埋文研は「これだけ立派な建物跡は、他にはほとんど見つかっておらず貴重な遺構」と話している。

 紫雲院の位置と合致
 宇治・万福寺塔頭の遺構発掘

 宇治市歴史資料館は11日、京都府宇治市五ケ庄の住宅地で黄檗宗大本山・万福寺の塔頭の遺構が見つかった、と発表した。塔頭は江戸時代に創建された万福寺の広大な境内地の南端部にあたり、明治時代初めに旧陸軍火薬庫建設のため接収される以前の位置が裏付けられた。

 場所は、現在の万福寺南側の駐車場から南に約200メートル。市営黄檗団地の建て替え工事に伴い発掘調査していた。直径が最大60センチの柱穴や土抗、23カ所を検出した。

 今回の調査地は、江戸時代に万福寺の境内や周辺を描いた絵図と照らすと、万福寺の塔頭の1つで南端にあった紫雲院の位置と合致する。紫雲院は現在、別の場所に再興されている。

 一帯は1972(昭和47)年にできた市営団地の建て替え工事中。同資料館は来年度以降、工事に合わせて調査を継続する予定で、「遺構が十分に残っている可能性があり、万福寺の塔頭跡が明らかになれば」と期待している。

 新たに窯跡2基発見-五條の荒坂瓦窯群遺跡

 7世紀後半、天武朝に造営された明日香村の川原寺の創建瓦のメーン生産地として知られる五條市西河内町の荒坂瓦窯群遺跡(7世紀中期〜)で、第6次発掘調査が行われており、新たな窯跡2基などが見つかっている。

 金剛山の南東麓(ろく)、関屋川沿いの丘陵地帯に位置する昭和8年発見の古い遺跡で、これまでに12基の窯跡が確認されていた。平成10、11年度の第5次調査で、瓦工人らの住居とみられる建物跡が見つかり、住居跡を含む東西約400メートル、南北約200メートルの範囲が瓦窯群ととらえられた。

 第6次調査は、窯跡などが表出した斜面が風化して部分崩落しているため、市教育委員会が緊急調査を実施。県史跡となった1号窯の詳細調査以来約30年ぶり。

 中世の出雲大社を復元
 学者5人が自説基に競作

 2000年に鎌倉時代の巨大柱が発掘された島根県出雲市の出雲大社で10日までに、建築学者5人が最新の研究成果や自説を基に当時の本殿をそれぞれ推定、5つの異なる復元案と模型(50分の1)を完成させた。

 16世紀末ごろの古文書には高さ48メートルの高層本殿があったと記され、論争が続いている。5つの模型は、出雲大社に隣接する「県立古代出雲歴史博物館」で8月12−13日に公開される。

 巨大柱は直径約1・35メートルの杉材を3本束ねたもので、出雲大社の境内3カ所で出土。高層本殿を裏付ける資料として話題になり、県は03年に5人に復元を依頼した。

 巨大柱を根拠に、伝承通り高さ約48メートルの本殿を想定したのは宮本長二郎東北芸術工科大教授。古文書の記載と同じ長さ約109メートルのスロープを設置し「造営時に建材を運ぶ足場としても機能したのでは」と推測する。


 中世の出雲大社を復元
 学者5人が自説基に競作

 2000年に鎌倉時代の巨大柱が発掘された島根県出雲市の出雲大社で10日までに、建築学者5人が最新の研究成果や自説を基に当時の本殿をそれぞれ推定、5つの異なる復元案と模型(50分の1)を完成させた。

 16世紀末ごろの古文書には高さ48メートルの高層本殿があったと記され、論争が続いている。5つの模型は、出雲大社に隣接する「県立古代出雲歴史博物館」で8月12−13日に公開される。

 巨大柱は直径約1・35メートルの杉材を3本束ねたもので、出雲大社の境内3カ所で出土。高層本殿を裏付ける資料として話題になり、県は03年に5人に復元を依頼した。

 巨大柱を根拠に、伝承通り高さ約48メートルの本殿を想定したのは宮本長二郎東北芸術工科大教授。古文書の記載と同じ長さ約109メートルのスロープを設置し「造営時に建材を運ぶ足場としても機能したのでは」と推測する。

 土塁の二層構造 判明
 三田村氏館跡、長浜市教委発表

 長浜市教委は3日、滋賀県長浜市三田町の「三田村氏館跡」の発掘調査で、南北の土塁に沿って二条の溝などが見つかり、土塁も後年になって高さを倍に再構築した二層構造であることが分かった、と発表した。「戦国期の在地領主の居館を考えるうえで貴重な資料になる」としている。

 三田村氏は中世から戦国期の土豪で、京極氏や浅井氏の家臣として栄えたが、姉川の合戦後に浅井氏滅亡とともに、三田村氏館も廃城となった。現在も一辺約60メートルの方形の土塁が残っている。

 今回の調査で、西側の土塁に並行して幅1・7メートル、深さ45センチと、幅1・1メートル、深さ40センチの二条の溝が南北に掘られているのが見つかった。出土した遺物(土師器(はじき))から、15世紀後半から16世紀にかけて造られたとみられる。長浜市教委によると「土塁内部に二条の溝を巡らせるのは県内には類例がなく、全国的にも少ない」と話している。

 一方、土塁の断面を調査したところ、まず高さ約1・2メートルの土塁が築かれ、後年になって高さ約2・4メートルまで土が積み増されていたことが分かった。中井均・織豊期城郭研究会代表は「戦国期に軍事的にさらに高い土塁が要求されたことがうかがえる」と話している。

 現地説明会は6日午前10時半から。問い合わせは長浜市教委浅井分室TEL0749(74)4359へ。

 丸木舟や土器など400点展示
 県立安土城考古博物館で企画展

 琵琶湖周辺の遺跡で出土した丸木舟などから、古代人の生活を探る企画展「丸木舟の時代−びわ湖と古代人」が、滋賀県安土町の県立安土城考古博物館で開かれている。

 企画展は滋賀文化保護協会の調査成果展を兼ねており、県内で出土した縄文時代の丸木舟30隻のうち代表的な13隻と、土器や木製容器、釣り針など約400点が展示されている。

 米原市の入江内湖遺跡で見つかった5隻の丸木舟は縄文中期−後期とみられ、ヒノキ、杉、モミ材で造られており、いずれも長さ5−6メートル、幅0・5メートル。5隻そろっての展示は初めて。ほかに松原内湖遺跡(彦根市)、尾上浜遺跡(湖北町)、長命寺湖底遺跡(近江八幡市)から出土した丸木舟や、下長遺跡(守山市)出土の古墳期の部材から復元した、へさきや舷側を補強した準構造船も展示されている。

 入江内湖遺跡から完形で出土した漆塗り木製容器や土器、獣骨製の釣り針や石の重りなども展示され、古代人の生活の一端がうかがえる。

 同企画展は9月10日(月曜日休館)までで、13日午後1時からシンポジウム「びわ湖と古代人」が開かれる。入館料350円。


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