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2008/10/02 (Thu) 浄土屋敷遺跡
2008/10/02 (Thu) 金貝遺跡
2008/10/01 (Wed) エジプト展
2008/10/01 (Wed) 高松塚壁画
2008/09/30 (Tue) 南曽我遺跡
2008/09/30 (Tue) 箸墓古墳
2008/09/28 (Sun) 藤原宮朝堂院跡
2008/09/27 (Sat) 平城宮跡

 新たな仏教石窟群発見
 バーミヤン西方で龍谷大

 アフガニスタン中部バーミヤン遺跡の西約100キロにあるヤカウランの南東近郊の渓谷で、龍谷大(京都市)の調査隊が30日までに、8世紀ごろの仏教石窟群を新たに発見した。ヤカウランの西では昨年、同大が、7世紀にバーミヤンを訪れた中国の僧、玄奘三蔵が「大唐西域記」で記した仏教国「掲職国」の特定につながる可能性もある石窟群を確認している。今回の複数の石窟群発見により、アフガンの仏教文化の西端とされていたバーミヤンより西に大規模な仏教文化圏が存在した可能性がさらに高まった。

 調査隊の入沢崇・龍谷大教授は「渓谷が交易路であったことを証明するもので、石窟は交易商人の祈りの場として、商人らのお布施で維持されていたのではないか」と指摘。アジアから西に広がる「仏教の道」を研究する上でも貴重な成果となりそうだ。

 新たな石窟が見つかったのは、ヤカウランの南東約10キロにあるダライアリ渓谷の川岸2カ所。8世紀ごろから勢力が強まったイスラム期の望楼跡が残る絶壁に掘られたクシャ・ゴラと、南東に約1キロの岩壁に掘られたムシュタックの各石窟。

 クシャ・ゴラでは少なくとも6つの石窟が確認され、うち1つは奥行き、幅がそれぞれ約4メートル、高さ約2・7メートル。内部の天井部分はかまぼこ形で、石窟同士を結ぶ通路も掘られており、仏教石窟の典型的な構造をしていた。仏像を安置したとみられる「仏がん」もあった。

 ムシュタックでは7つの石窟が確認され、うち中央の1つでは仏がんがほぼ原形をとどめ、入り口に灯明台の跡などがあった。クシャ・ゴラ、ムシュタックとも数年前まで地元住民の住居として使用され、天井がすすで覆われていたが、ムシュタックではわずかに壁画の一部とみられる顔料も確認された。

 奈良時代の寺の南門発見
 大津、瀬田廃寺遺跡 国分寺か?

 大津市教委は30日、瀬田廃寺遺跡(同市野郷原1丁目)から奈良時代の寺の南門とみられる遺構が見つかった、と発表した。門入り口の柱跡の間隔は5・1メートルと平城宮の朱雀門に匹敵する大きさという。隣接する野畑遺跡からは「国分僧寺」と記された墨書土器が出土していることなどから、瀬田廃寺を近江の国分寺とする説があり、同市教委は、今回の門の規模などを根拠に「国分寺であった可能性が高まったのでは」としている。

 瀬田廃寺遺跡からは、名神高速道路建設に伴う発掘調査で1959年に金堂跡や塔跡が発見された。四天王寺式の伽藍(がらん)配置が確認されている。

 南門の遺構と考えられるのは、塔の真南37メートルの地点に東西に並ぶ4つの穴(最大2・6メートル)。中央の柱跡の間隔は5・1メートル、両側はそれぞれ4・5メートルの間隔で、その形態から礎石が入っていたと推定できる、という。同市教委は穴の断面の様子から最初は掘立柱を建て、後に権威付けのために礎石建ち建物に改造した、とみている。

 さらに寺跡の周りを囲む南側(約16メートル)と西側(約28メートル)の築地塀跡(幅約3メートル)が発掘されたことで寺域の南側と西側が確定した。

 瀬田廃寺遺跡の南西約700メートルの地点には奈良時代の近江の政治の中心地だった国庁跡(南西700メートル)があり、西側に隣接する野畑遺跡からは「国分僧寺」と書かれた墨書土器が出土している。こうしたことから従来から同遺跡が国分寺跡である可能性が、指摘されていた。

 近江国庁跡や周辺の関連遺跡から出土している「飛雲紋(ひうんもん)」の瓦や、唐草が変形したような模様の金銅製の飾り金具(長さ19センチ、幅11センチ)も出土した。

 今回の発掘調査は宅地造成に伴い7月から始まり、11月末まで行われる。現地説明会は11月3日午後1時から。雨天決行。

 “あられ酒”徳利出土-奈良町遺跡

 赤膚焼の小皿などが見つかった奈良市の奈良町遺跡で、大和名物だった「あられ酒」の徳利や杯がまとまって出土した。発祥は中世にさかのぼるとされ、調査地の近くにあった造り酒屋、菊屋で販売されていた。調査した市教育委員会は「奈良の酒造りや地域の歴史を考える上で興味深い資料」と話している。

 「きくや」の刻印を押したひょうたん形の徳利が10本以上あり、杯と小鉢には「阿られ酒」と書かれていた。一緒に牛乳びんが出土しており、明治時代中ごろから大正時代に使われた可能性が強い。いずれも捨てられた状態だった。

 辻遺跡から捩文鏡の破片
 栗東 円墳の副葬品か

 滋賀県栗東市教委は27日、玉類を製造していた古墳時代(4−7世紀)の大規模集落跡として知られる同市辻の辻遺跡から4世紀の捩文(ねじもん)鏡の破片が見つかったと発表した。出土地点の約50メートル南には有力者のものとみられる円墳跡が確認されており、市教委は「鏡は円墳の副葬品と考えられ、集落の性格を知る上で貴重な資料」としている。

 捩文鏡は、ねじった線を並べた模様の入った国内製の鏡。出土した破片は長さ約7センチ、幅約2・4センチ、厚さ約4ミリ。ベンガラとみられる赤色顔料が付着していた。鏡の大きさは推定で直径約11・8センチ。

 また、玉の原石の緑色凝灰岩(縦11センチ、横7センチ)も見つかった。同遺跡では例のない大きさで、市教委は「出土している玉類などの小物だけでなく、大きな腕飾りなども製作していた可能性もでてきた」としている。

 このほか、5−7世紀の竪穴住居跡34棟や、7世紀後半の掘っ立て柱建物跡が10棟以上確認された。同遺跡ではこれまでに500棟以上の竪穴住居跡が確認されている。

 現地説明会は29日午後2時から開かれる。

 甲賀で鍛冶遺物出土
 市教委「工房の可能性高い」

 甲賀市水口町北脇の北脇遺跡で、平安時代前期から中期(9世紀後半〜10世紀前半)にかけての細長い建物跡やふいご羽口など鍛冶(か・じ)に関連する遺物が見つかったと、甲賀市教委が25日発表した。建物跡が整然と配置されていることから、市教委は「有力氏族が経営した鍛冶工房か、公的な鍛冶工房だった可能性が高い」としている。

 見つかったのは掘っ立て柱建物9棟、さく2基、溝3条。周辺から、ふいご羽口や砥石(といし)、製鉄の過程で生じる鉄滓(てっさい)なども出土した。砥石や鉄滓の形状から、仕上げ作業をしていたことが分かるという。建物は縦約2メートル、横約10メートルの細長いもので、市教委は数人の工人が鍬(くわ)や刀子(とうす)などの小型の鉄製品を製造していたと見ている。

 現地説明会は28日午後2時半から。小雨決行。問い合わせは甲賀市教委文化財保護課(0748・86・8026)へ。

 6〜7世紀の建物跡-高取・羽内遺跡

 高取町羽内(ほうち)の羽内遺跡で、6世紀から7世紀初めと推定される掘っ立て柱建物や大壁建物の遺構が見つかったと同町教育委員会が19日、発表した。掘っ立て柱建物は当時の伝統的な方法とは違い、掘った穴を埋め戻し、もう一度穴を掘って柱を据えるという特異な建て方だったことが判明。遺跡周辺は古代の有力豪族「波多氏」の勢力地だったと考えられ、鉄くずなどが出土していることから、町教委の木場幸弘技師は「波多氏の配下だった渡来人の鍛冶工人が関与していたと考えられる」と推論している。

 町道建設のために今年8月から、約160平方方メートルを調査。掘っ立て柱建物2棟と大壁建物1棟などが見つかった。掘っ立て柱建物のうち西側の建物の規模は東西が約7.5メートル、南北は北側が未調査のため5メートル以上と推定。東西は4本の柱があり、南北は2本の柱穴を検出し、柱が3本以上あったと考えられる。柱間はいずれも約2.5メートル。

 弥生の「エクスカリバー」
 愛媛 垂直に刺さった銅剣出土

 弥生時代中期末−後期初め(紀元前後)の集落跡とみられる愛媛県今治市の朝倉下経田遺跡で、青銅祭祀具「平形銅剣」が垂直に突き刺さった状態で見つかり、県埋蔵文化財センターが19日発表した。

 銅剣は集落の外で横にされた状態で見つかるのが普通で、突き刺さった状態の発見は例がないという。同センターは「中世ヨーロッパの聖剣・エクスカリバーを連想させる特異な状態。突き刺した剣の周りで踊ったり拝んだりしたのではないか」としている。弥生祭祀の具体的な様子を探る貴重な発見となりそうだ。

 銅剣は幅4・6センチで、真ん中あたりから刃先まで約21センチ分が残っていた。直径約35センチ、深さ約30センチの穴に縦に埋まっており、柄など上になっていた部分は後世の整地で折れたらしい。

 銅剣を取り囲むように少なくとも6棟の竪穴住居跡があり、集落の中心部で、祭祀を営む特別な場所だった可能性が高い。銅剣の周りだけ土の色が違うため、木の容器に入れて埋めていた可能性もあるという。

 銅剣は朝鮮半島から武器として伝わり、間もなく祭祀用になったが、具体的な使われ方は分かっていない。エクスカリバーは欧州の伝説に残る聖剣。岩に突き刺さったままアーサー王以外抜けなかった。

 現地説明会は21日午前10時から。


 弥生の「エクスカリバー」
 愛媛 垂直に刺さった銅剣出土

 弥生時代中期末−後期初め(紀元前後)の集落跡とみられる愛媛県今治市の朝倉下経田遺跡で、青銅祭祀具「平形銅剣」が垂直に突き刺さった状態で見つかり、県埋蔵文化財センターが19日発表した。

 銅剣は集落の外で横にされた状態で見つかるのが普通で、突き刺さった状態の発見は例がないという。同センターは「中世ヨーロッパの聖剣・エクスカリバーを連想させる特異な状態。突き刺した剣の周りで踊ったり拝んだりしたのではないか」としている。弥生祭祀の具体的な様子を探る貴重な発見となりそうだ。

 銅剣は幅4・6センチで、真ん中あたりから刃先まで約21センチ分が残っていた。直径約35センチ、深さ約30センチの穴に縦に埋まっており、柄など上になっていた部分は後世の整地で折れたらしい。

 銅剣を取り囲むように少なくとも6棟の竪穴住居跡があり、集落の中心部で、祭祀を営む特別な場所だった可能性が高い。銅剣の周りだけ土の色が違うため、木の容器に入れて埋めていた可能性もあるという。

 銅剣は朝鮮半島から武器として伝わり、間もなく祭祀用になったが、具体的な使われ方は分かっていない。エクスカリバーは欧州の伝説に残る聖剣。岩に突き刺さったままアーサー王以外抜けなかった。

 現地説明会は21日午前10時から。

 平安京跡から謎の巨大池
 朱雀大路沿い、南北2カ所で洲浜

 京都市中京区壬生で発掘調査していた市埋蔵文化財研究所は19日、平安京のメーン道路・朱雀大路に面した区域で、平安時代初期の池跡が見つかったと発表した。池跡は中央部を東西に貫通する仏光寺通の部分が未調査のため全容は不明だが、もし一つの池だったとすれば、南北154メートルに及ぶ巨大な池だったことになる。

 JR山陰線高架工事に伴い8月下旬から、幅2−3メートル、南北450メートルに渡って調査している。

 池跡は石を敷き詰めた洲浜が南北2カ所で確認された。いずれも下に粘土を敷き、石の大きさをそろえた丁寧なつくりで、深さは最大約30センチ。9世紀前半の平安京造営時の邸宅に設けられた庭園の池で、わき水を利用していたとみられる。

 調査地を貫通する仏光寺通は、平安時代の「五条坊門小路」にあたるが、当時の道路関係の遺構は確認できなかった。北と南の池は構造が良く似ており、一体だった可能性もあるが、堆積物による腐植土の層や遺物の状況から、別の池だった可能性もあるという。

 もし一体の池であったとすると、五条坊門小路をまたぐ南北二町(約240メートル)以上の大邸宅があったことになる。市埋文研では「調査地は朱雀大路に面した一等地で大邸宅があって不思議ではない。しかし、所有者は文献でも明らかになっておらず、慎重に調査したい」としている。

 高松塚墳丘に地震の亀裂
 文化庁「予想外の被害」

 壁画保存のため、発掘調査が進む奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で、石室付近の墳丘に、過去の巨大地震でできたとみられる多数の亀裂が見つかり、文化庁が19日発表した。

 亀裂は石室真上まで届いているもようで、発掘担当の松村恵司・奈良文化財研究所考古第一研究室長は「古墳築造後にたびたび起きたとされる南海地震の影響だろう。亀裂はカビ拡大の原因とされる雨水や虫の通り道になった可能性がある。予想外の被害だ」と話した。

 亀裂は墳丘の盛り土を約2メートル掘り下げた平面で10本以上確認。同古墳の墳丘は、石室を保護するため、厚さ数センチ単位で土を層状に突き固める「版築」という技法で頑丈に築造されていたが、亀裂は最長で約2・4メートルあったという。亀裂の幅は約1センチで、盛り土の一部も水平方向で最大約6センチずれていた。亀裂の様子から少なくとも2回は地震の被害に遭ったとみられるという。

 同古墳では2004年の発掘調査でも墳丘のすそで地震による亀裂が確認されていた。

 国内最古の木製くし出土
 佐賀市の東名遺跡

 佐賀市教育委員会は18日、同市金立町の東名(ひがしみょう)遺跡の貝塚から縄文時代早期(約7000年前)のものとみられる木製のくしが出土したと発表した。木製のくしとしては国内最古という。

 市教委によると、見つかったくしは、長さ11・5センチ、最大幅7・2センチ。細い木を太さ2−3ミリ程度に削り、束にして半分に折り曲げたもので、髪をとく道具よりも装飾品として使われた可能性が高い。

 木の束は、ひも状のもので結び合わせて使われたとみられ、歯の先端に削られた跡や加工しやすくするため火であぶったような跡が残っていた。歯は10本残っているが、当時は14本あったとみられる。

 市教委は「縄文時代早期の段階で、すでに九州地方に先進的な縄文文化が存在したことを示す資料」としている。

 これまで石川県・三引(みびき)遺跡から出土した縄文時代前期(約6000年前)の木製くしが国内最古とされていた。

 また、縄文時代の木製くしの出土は、北日本に多く九州では初めて。沖縄県には伊礼原(いれいばる)C遺跡の出土例がある。

 東名遺跡ではこれまで、国内最古とされる木製の編みかごなども出土している。


 国内最古の木製くし出土
 佐賀市の東名遺跡

 佐賀市教育委員会は18日、同市金立町の東名(ひがしみょう)遺跡の貝塚から縄文時代早期(約7000年前)のものとみられる木製のくしが出土したと発表した。木製のくしとしては国内最古という。

 市教委によると、見つかったくしは、長さ11・5センチ、最大幅7・2センチ。細い木を太さ2−3ミリ程度に削り、束にして半分に折り曲げたもので、髪をとく道具よりも装飾品として使われた可能性が高い。

 木の束は、ひも状のもので結び合わせて使われたとみられ、歯の先端に削られた跡や加工しやすくするため火であぶったような跡が残っていた。歯は10本残っているが、当時は14本あったとみられる。

 市教委は「縄文時代早期の段階で、すでに九州地方に先進的な縄文文化が存在したことを示す資料」としている。

 これまで石川県・三引(みびき)遺跡から出土した縄文時代前期(約6000年前)の木製くしが国内最古とされていた。

 また、縄文時代の木製くしの出土は、北日本に多く九州では初めて。沖縄県には伊礼原(いれいばる)C遺跡の出土例がある。

 東名遺跡ではこれまで、国内最古とされる木製の編みかごなども出土している。

 湖底遺跡で杭など発見
 県立大 420年前の地震で沈下か

 長浜市下坂浜町沖の琵琶湖湖底にある下坂浜千軒遺跡を調査してきた県立大学の林博通教授(考古学)の研究室が、沖合約100メートル、水深約2メートルの湖底で、立ち枯れた樹木の根や、打ち込まれた杭(くい)を見つけたと発表した。林教授らは、長浜城主だった山内一豊の娘が建物の倒壊で圧死したとされる約420年前の天正大地震を契機に一帯の地盤沈下が進み、湖底に沈んだとみている。

 見つかったのは、立ち枯れ株5本、杭6本、用途不明の石材など。マツの杭1本の一部で放射性炭素年代測定をしたところ、1470〜1660年ごろに伐採され打ち込まれた杭と確認された。この時期の琵琶湖の水位は現在とほぼ変わらないことから、研究室は地震に注目した。

 とくに1586年1月に起きた天正大地震は、震源は離れているがマグニチュード7.8と推定される大地震で、軟弱地盤に大きな影響を及ぼしたとみられ、その後の地震でさらに地盤が沈下したと考えられるという。林教授は「今後の地震対策では地盤が軟弱な湖岸にも注目すべきだ」としている。

 寺域は東西幅で160メートル 池尻廃寺 府教委発表

 口丹波で最古級の寺院とされる京都府亀岡市馬路町の池尻廃寺を調査している府教育委員会は5日、寺の西側で、外部との境界を示す最も外側の築地塀に関連した遺構や溝などが見つかり、寺域は東西で幅約160メートルだった、と発表した。遺構や溝の位置から築地塀は、寺の内側に向かって弓なりに建てられたと見られ、府教委は「古代寺院の構造がまだ不明な中、具体的なイメージを伝える資料」としている。

 府教委は7月からの調査で、寺院西側から築地塀にかかわる遺構や、その両側に掘られた溝(幅約1・4−2・4メートル)を南北約70メートルにわたって断続的に発見し、西端を特定した。東端は、これまでの調査で分かっており、寺域は東西で幅約160メートルと判明した。南北の長さは不明だが、口丹波の同時期の寺院では最大級という。

 発見された遺構や溝は、寺院の内側に向かって残っていたことから、築地塀も弓なりに建てられていたと考えられ、府教委は「築地塀は直線状に建設されるのが一般的とされるが、地形の影響などから地方の実情に合わせて建設中に変更を余儀なくされたのでは」と見ている。

 池尻廃寺は、飛鳥時代末−奈良時代(7世紀末−8世紀)に建立されたとされ、口丹波では、亀岡市の桑寺廃寺などと並んで最古級とされる。

 現地説明会は、7日午前10時半から。問い合わせは、府教委TEL075(414)5903へ。

 飛鳥時代以降の堀が見つかる 宇治市の広野遺跡

 宇治市教委は6日、宇治市広野町の広野遺跡の発掘調査で、飛鳥時代以降のものとみられる堀が見つかったと発表した。当時の豪族の館を囲んだ堀とみられ、近くの広野廃寺との関連も注目される。

 調査は、現在改修工事中の大久保小のグラウンドで行っている。これまでに古墳から奈良時代の集落跡や7世紀末に建立された広野廃寺などが確認されている。

 堀とみられる部分は、地中4メートルの2カ所で発見した。飛鳥時代から中世までの遺物を含んだ地層で、急な角度で削り込まれた深さ約2メートルの溝を確認した。幅は今後の調査で確認する。

 市教委は、出土した須恵器の形や大きさから、年代を7世紀前半の飛鳥時代と推測。堀の部分が四角に曲がっている形状から「豪族の館があった可能性がある」としている。堀の北側を流れる三軒茶谷川と南側の名木川の合流地点の間に館が広がっていたとみている。

 上原真人京都大大学院教授は「大規模な堀に囲まれた7世紀の居館跡で、谷をはさんだ広野廃寺のパトロンの豪族邸と推定できる」と話している。市教委は、9日午後1時から2時間、現地を公開する。

 西大寺の大型調理場跡発見 奈良、数百人の食事賄う

 奈良時代に聖武天皇の娘、孝謙天皇が平城京(奈良市)に建立し、勢力を誇った西大寺の旧境内で、数百人いたとみられる僧侶の食事や供物を作った調理場らしい8世紀後半の大型建物跡が見つかり、奈良文化財研究所が5日、発表した。

 これまでの調査と合わせ、「食」にかかわる施設が「食堂(じきどう)院」と呼ばれる約120メートル四方の区画に機能的に配置されていたことが判明。創建当初の姿を示す資料として注目されそうだ。

 確認された建物跡は3カ所。西大寺の財産を記録した「西大寺資財流記帳」(780年)によると、北から倉庫の「甲双倉(こうならびぐら)」、調理場の「大炊殿」、盛り付けを行った「檜皮(ひわだ)殿」とみられる。

 大炊殿は東西約27メートル、南北約15メートル。同規模の檜皮殿と幅約5メートル、長さ約15メートルの渡り廊下で連結。両殿の間に平城京では最大級の井戸(約2・3メートル四方)も見つかった。

 過去の調査で檜皮殿の南に「食堂」とみられる建物跡、東側に食糧貯蔵用の須恵器を埋めた跡や料理の下ごしらえのための「東檜皮厨(くりや)」の基壇も見つかっている。

 奈文研の馬場基研究員は「修行の場でもあった食堂は金堂、講堂に次いで大切な場所で、古代の寺院運営を知る上で貴重な資料だ」と話している。

 田原道の遺構、初確認 大津・関津遺跡 「仲麻呂の乱」の舞台

 大津市関津1丁目の関津遺跡で8世紀半ばから9世紀半ば(奈良時代−平安時代前期)にかけての大規模な道路跡が見つかった、と滋賀県教委が5日、発表した。

 道幅は約18メートルと都の大路に匹敵する大きさで、県教委は、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764年)の舞台になったとされる田原道(たわらみち)の跡ではないかとみている。田原道の遺構が確認されたのは初めて。

 田原道は、城陽市付近から京都府宇治田原町を抜け、瀬田川沿いを北上し、東国へ向かう道とされる。恵美押勝の乱の際、討伐軍が通ったと「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記されている。

 道路跡は、幅約18メートル、両側には幅約1−3メートル、深さ深さ10−30センチの側溝があり、南北に約250メートル延びていた。道に沿うようにして約30棟の建物群が確認され、都の遺跡などから出土する龍(りゅう)のような形をした硯(すずり)1点や土器類なども見つかった。県教委は、その規模などから国家が建設し、管理に当たった官道ではないかとみている。

 また、道路跡を北へ約4・5キロ延長すると、当時の役所・近江国庁跡があり、その西側に位置する瀬田唐橋を渡ると、藤原仲麻呂が造営を計画したとされる保良宮の推定地に至る。

 発掘にかかわった県文化財保護協会の藤崎高志主任は「田原道は山道で、整備されていないとされていたが、今回の発掘で大規模な道であったことが判明した。(奈良時代に整備された幹線道路の)東山道の可能性もある。保良宮につながる朱雀大路だったのではないかなど想像も膨らむ」と話している。

 関津遺跡の発掘調査は、県による水田の区画整備事業に伴い2003年4月から行っていた。

 現地説明会は10月7日午後1時から行われる。雨天決行。

 【恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱】 藤原仲麻呂が企てたクーデター。太政大臣に就任するなど一時は大きな権力を誇った藤原仲麻呂だが、称徳天皇に重用された僧・道鏡との政争に敗れ、764年、事態を打開するため計画した。クーデターは失敗に終わり、仲麻呂一族は惨殺された。

 中国風衣装の古代女性描く
 島根・山持遺跡で板出土

 島根県出雲市の山持(ざんもち)遺跡で、中国風の服装をまとった女性像や吉祥天とみられる仏像を描いた8−9世紀初頭(奈良−平安時代)の板4枚が見つかり、島根県埋蔵文化財調査センターが4日、発表した。

 1枚の絵は、詰め襟に似た丸い襟に筒袖、スカート状の裳をまとった女性の全身像。平安時代初期以前の女性の全身像が見つかったのは高松塚古墳(奈良県明日香村)壁画に次ぎ2例目という。

 板は針葉樹で、古代の湿地跡と、隣接する道路跡から出土した。幅約8センチ、長さは約23−65センチ。絵は墨で1枚に1体ずつあり、全身像や腰、頭などの部分が描かれているのが判別できた。

 背後に頭光(ずこう)と呼ばれる丸い輪がある絵もあり、上半身に衣服を着けていることから吉祥天の可能性が高いという。

 同センターの内田律雄主幹は「吉祥天だとすれば、何らかの仏教儀式に使われた可能性があり、仏教の民衆への広まりを知る上で貴重な資料だ」と話している。

 出土品は8日午前10時から出雲市の発掘調査事務所で一般公開される。

 中国風衣装の古代女性描く
 島根・山持遺跡で板出土

 島根県出雲市の山持(ざんもち)遺跡で、中国風の服装をまとった女性像や吉祥天とみられる仏像を描いた8−9世紀初頭(奈良−平安時代)の板4枚が見つかり、島根県埋蔵文化財調査センターが4日、発表した。

 1枚の絵は、詰め襟に似た丸い襟に筒袖、スカート状の裳をまとった女性の全身像。平安時代初期以前の女性の全身像が見つかったのは高松塚古墳(奈良県明日香村)壁画に次ぎ2例目という。

 板は針葉樹で、古代の湿地跡と、隣接する道路跡から出土した。幅約8センチ、長さは約23−65センチ。絵は墨で1枚に1体ずつあり、全身像や腰、頭などの部分が描かれているのが判別できた。

 背後に頭光(ずこう)と呼ばれる丸い輪がある絵もあり、上半身に衣服を着けていることから吉祥天の可能性が高いという。

 同センターの内田律雄主幹は「吉祥天だとすれば、何らかの仏教儀式に使われた可能性があり、仏教の民衆への広まりを知る上で貴重な資料だ」と話している。

 出土品は8日午前10時から出雲市の発掘調査事務所で一般公開される。



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