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 古墳期の大型石室が出土
 多賀町・大岡高塚古墳 首長の墓か

 滋賀県多賀町大岡の大岡高塚古墳から古墳時代の6、7世紀ごろと見られる横穴式石室が出土したと30日、多賀町教委が発表した。

 石室は全長11・6メートルあり、奥の壁には高さ2メートル以上もある巨石が使われ、犬上郡の首長級の墓と推定できるという。町教委は「県内では大きな部類に入る墓で、被葬者は湖東地方や岐阜あたりの地位のある者と連携していたことがうかがえる」としている。

 石室の内部には、高さ3メートル、幅2メートル、奥行き5・2メートルの被葬者を安置する玄室があり、奥の壁には高さ2・2メートル、幅1・8メートルの巨石が用いられていた。巨石は被葬者の地位を表しているとされる。

 首長級の古墳にしかないとされる轡(くつわ)、鐙(あぶみ)などの馬具一式も出土した。馬具は通常、古墳の外か玄室内から見つかるが、石室内の廊下の羨道(せんどう)にあったという。

 出土した須恵器の年代から、町教委は「石室は6世紀後半から7世紀前半までに少なくとも3回、埋葬が行われていたのでは」としている。

 滋賀県立大の林博通教授(考古学)は「墳丘や石室の規模が非常に大きい。芹川流域に位置しているこの地域が中心となって水田開発をしていたことが考えられる。地域開発の状況を知るうえで興味深い」と話している。

 大岡高塚古墳は1981年の町指定史跡で、昨年5月から発掘調査していた。

 現地説明会は2月4日午前10時から行われる。問い合わせは多賀町立文化財センターTEL0749(48)0348。

 奈良期前半の土錘工房跡を確認
 南丹・室橋遺跡

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは30日、南丹市八木町室橋の室橋遺跡について「弥生時代から平安時代の遺構を南北約500メートルにわたって確認するなど同遺跡が大規模で長期間、営まれた集落遺跡」などと発表した。遺物では、土錘(どすい)(漁網のおもり)を作っていたと思われる奈良時代前半(8世紀)の建物跡も確認され、同センターは「こうした工房跡は口丹波でも珍しく、貴重な資料」としている。

 発掘調査は、昨年9月から府道改良工事に先立ち実施。弥生時代後期(1−2世紀)から平安時代後期(12世紀後半)の建物跡が計9棟確認され、うち、工房跡(5・6メートル×4・5メートル)と見られる建物跡1棟は、通常の竪穴式住居とは異なる構造で、床面に大小の土抗や壁寄りに竈(かまど)(または炉)が残り、直径30センチの柱が等間隔で10本建てられた跡があった。

 同建物跡からは、未完成のものを含め、20点以上の土錘や、鉄滓(てっさい)が須恵器などとともに出土。竈の火を使った痕跡から「粘土製の土錘をまとめて作っていたと考えられる」(同センター)という。

 土錘は長さ5−10センチ、直径1−1・5センチ。管状で、ひもを通す穴もあった。同センターは「土錘は、比較的簡単にできるため、各家で作ったと思われていたが、1カ所でまとめて制作していたことがうかがえ、当時の分業のあり方を知る上で貴重な資料になる」としている。

 現地説明会は2月1日午後2時から。問い合わせは同センター携帯電話090(1969)5286。

 2000年前に開頭手術か
 中国新疆で頭骨発掘

 中国新疆ウイグル自治区のトルファン近郊で発掘された2000−3000年前の墓から、穴が開いた複数の人の頭骨が見つかり、当時から頭骨の切開手術が行われていた可能性が高いことが分かった。新華社が26日までに伝えた。

 落馬などで負傷した人に対し手術が行われたとみられ、新華社は頭骨切開の初歩的な技術が当時あったことを裏付けていると伝えた。発掘を担当した新疆文物考古研究所は「医者を兼ねていた祈☆師が手術に当たったとみられる」と話している。

 頭骨が出土したのは、トルファン近郊の砂漠から集団で発掘された2000を超す墓の一部で、同研究所などが円形や四角い穴の開いた13の頭骨を調査。頭骨には最大で7つの穴が開いており、穴の周囲には組織再生の跡がみられるなど、生前に手術を受けたことを示していた。

 入れ墨模様の黥面土偶を発見
 赤野井浜遺跡 西日本初出土

 滋賀県文化財保護協会は25日、守山市赤野井町と杉江町にまたがる赤野井浜遺跡で、弥生中期の土偶形容器の破片と、顔に入れ墨を表す模様が描かれた縄文晩期の黥(げい)面土偶が出土したと発表した。いずれも東日本を中心に見つかっており、土偶形容器が西日本で出土したのは初めて。同協会は、「(同遺跡が)縄文晩期から弥生中期かけて、東西文化の接点だったとみられる」としている。

 滋賀県教委の委託を受け、2002年度から04年度にかけて調査した。土偶形容器の破片と黥面土偶は、幅約30メートルの2本の川跡で出土した。

 土偶形容器の破片は長さ6・2センチ、幅3・5センチ。容器の上部にある顔の部分で、目や口をくぼませ、周辺には細い線で入れ墨を表現した模様がある。弥生中期前葉(約2200年前)の物で、遺骨を入れたとみられる。

 黥面土偶は、短径3・4センチ、長径3・8センチのだ円形。大きく開けた口をくぼませて表し、目は線状で、目の周辺に入れ墨を表現した線がある。縄文晩期最終末(約2400年前)の物とみられる。

 土偶型容器は、東北地方の南部から愛知県にかけて出土している。黥面土偶は東海・中部地域を中心に出土し、県内では守山市の播磨田城遺跡の2例に続き3例目という。

 赤野井浜遺跡では西日本で出土する木偶も見つかっており、同協会によると「黥面土偶と土偶型容器、木偶が一つの遺跡から出たのは初めて」という。

 2月4日午後1時半から、県立安土城考古博物館(安土町下豊浦)で調査報告会を行う。

 最大級の「木の埴輪」出土
 奈良・市尾墓山古墳

 奈良県高取町の史跡・市尾墓山古墳(6世紀前半、前方後円墳)で、周濠跡から「木の埴輪」とみられる長さ約2メートルの板状木製品が見つかり、同町教育委員会が24日発表した。

 盾か儀式用のつえをかたどったとみられ、木の埴輪としては最大級。町教委は「被葬者の権威の大きさを示している。墳丘のすそ部に立て、古墳の内と外を区別する意味もあったのかもしれない」と話している。

 木製品は、現存で長さ約2メートル、幅25−36センチ、厚さ1−2センチ。腐食が進み両端が欠けていたが、町教委は「元は長さ3メートルぐらいあったのでは」と推測している。

 発掘現場に近い墳丘すそ部に、この木製品を立てたとみられる穴の跡が残っていた。木の埴輪を立てた正確な場所が分かるのは珍しく、木製品は倒れた後、周濠の中に滑り落ちたらしい。

 弥生期の石器や土器が大量出土
 亀岡・時塚遺跡

 京都府亀岡市馬路町の時塚遺跡の発掘調査をしている府埋蔵文化調査研究センターは24日、弥生時代中期(紀元前後)の方形周溝墓から石器や土器を大量に出土したと発表した。農業や戦闘用など多彩な用途の石器が含まれており、同センターは「この遺跡の集落が当時の丹波地方で最大級の大規模集落であったと推測される」としている。

 発見された土器や石器のほとんどは、今回の発掘調査で確認された11基の方形周溝墓のうち6基の墓の埋葬部分を囲んだ溝に捨てられたものとみられる。約230箱(1箱縦20センチ、横40センチ、奥行き60センチ)分が見つかり、その大半が弥生時代中期−後期の物だった。

 稲穂の脱穀や刈り取りに使われる石包丁、祭事や戦闘の際に使われる環状石斧(せきふ)や石鏃(せきぞく)など石器だけで100点以上が確認された。製造途中の石器もあり、この集落で石器生産が行われていたとみられる。同センターは「これだけの発見量は府内でも珍しい。生活場面に応じた多種多様な石器があることから、集落は大規模で、有力者一族の拠点集落だったのだろう」としている。

 また古墳時代後期(6世紀前半−半ば)の円墳(直径約19メートル)が同遺跡から初めて確認された。この時期は在地の有力者の間で主流だった四角形の古墳が、大和朝廷の権力拡大によって丸形へと墳形を変える過渡期に当たることから、同センターは「大和朝廷の影響力の浸透で、在地の旧勢力の力が減退しきたことを示すものではないか」としている。

 現地説明会は27日午前11時から。問い合わせは同センターTel:090(2063)8569へ。

 9世紀の木棺墓発見-橿考研「東中谷遺跡」と命名

 県立橿原考古学研究所は23日、高取町薩摩の丘陵から、周囲に木炭と土を交互に敷き詰めた特殊な形状を持つ九世紀(平安時代前半)の木棺墓が見つかったと、発表した。「東中谷遺跡」と新たに命名。木炭は吸湿や防臭を目的に敷き詰めたと考えられ、似たような形状の墓の出土例は巨勢山室古墓(御所市、九世紀初)など全国で十数例あるが、詳しい構造が分かる遺構は珍しいという。

 よろい「挂甲」は小型 吉備塚古墳
 1領分 儀式用か

 奈良教育大(奈良市高畑町)の構内にある吉備塚古墳から出土した、よろいの一種、挂甲(けいこう)は、全国的にも珍しい小型サイズとみられることが、古代武器研究会(代表、菅谷文則・滋賀県立大教授)の調べでわかった。挂甲がまとまった状態で見つかった例もほとんどなく、貴重な資料になるという。

 同古墳は6世紀前半の円墳(直径20メートル)か前方後円墳(全長40メートル)。墳頂部に2基の埋葬施設があり、2002、03年度に教育大が北側の1基を調査。刀身や飾りに、神とみられる金銅製人物像をはめ込んだ鉄製環頭大刀(たち)が初めて出土して話題になった。

 挂甲は革や鉄の小片(小札(こざね))を重ねてひもでつなぎ、体の前後を覆ったよろい。被葬者の足元である埋葬施設の西端から、1領分が立った形で見つかった。脱いだままの状態で埋めた県内で初の出土例だったが、当時、鉄製環頭大刀の陰に隠れて注目が薄かった。

 教育大生として発掘に参加し、現在は京都府立大文学研究科で学ぶ初村武寛さんが中心になって、04年度から調査。さびて固まった小札などを丹念に分解し、どのように重なっていたかの復元に取り組んでいる。

 その結果、小札は大半が幅2センチ、長さ5・5〜6センチで、中には長さ15センチのもあり、計5型式とわかった。約500枚を確認、最終的には700枚以上になるという。銀が残っていたり、絹など数種類の布が着いていたりした小札もあり、一部には漆も塗られていた。

 古代武器研究会のメンバーが教育大を訪れ、重なり具合を復元した小札を調査。組み立てるとベストにもならない小型サイズで、成人が着用する大きさではないことがわかった。

 県内での挂甲の出土例は14例ほどだが、小札が破片の状態で部分的に見つかっている程度。今回のように1領分がまとまって出土したのは極めて珍しい。

 メンバーの一人で県立橿原考古学研究所の水野敏典主任研究員は「大変貴重だ。組み上げてみないと最終的にはわからないが、全体的に小型であり、儀式用など特殊なものとも考えられる。挂甲が出土すると『被葬者は武人』とすぐ判断されがちだが、それでいいのかということにもつながる発見」と話している。

 漢武帝のおいの王墓出土
 安徽省、皇帝級の埋葬法

 中国安徽省六安市で、前漢(紀元前202−紀元8年)全盛期の皇帝、武帝のおい、劉慶を埋葬したとみられる墓が21日までに出土した。劉慶はこの地域に置かれた「六安国」の諸侯王で、前漢時代の王陵制度の研究に貴重な史料となりそうだ。

 発掘された墓は、遺体を外気から封印するよう木を積み重ねた壁で囲む「黄腸題湊」と呼ばれる、漢の皇帝や諸侯王の埋葬形式であることなどから、劉慶の墓と判断された。

 発掘調査をした同省考古学研究所によると、これまで全国で出土した約10の黄腸題湊のうち最も保存状態が良いものの一つという。

 墓は小さな丘陵に築かれており、墓道を含めた全長が45メートル。墓室は縦17メートル、横12メートル。墓室の中心部に置かれた棺は四重になっており、その周囲に長さ92センチの角材を約1000本使って壁をつくった黄腸題湊があった。

 キトラ 朱雀余白はぎ取り

 明日香村の特別史跡・キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の壁画保存作業で、文化庁は18日、石室南壁に描かれた四神・朱雀のはぎ取り準備として朱雀の上部余白の漆喰(しっくい)を取り除いた。

 文化庁によると、余白は最大で縦約18センチ、横約53センチ、厚さは1〜4ミリ。石壁からは少し浮いた状態で、3分割して手で取り外した。

 文化庁は今後、周囲の余白をはぎ取り、2月14日の朱雀の取り外しに備える。川野辺渉・東京文化財研究所修復材料研究室長は「バクテリアなどの状態は変化なく、落ち着いている」と話していた。

 割れた鍬形石出土

 天理市の環濠(かんごう)集落跡、平等坊・岩室遺跡で、古墳時代前期(4世紀前半)の穴から、古墳の副葬品で、最高級の宝物とされる「鍬形(くわがた)石」が、半分に割られた状態で見つかり、市教委が18日、発表した。同遺跡は初期の大和政権にかかわる集落とみられ、集落の祭祀(さいし)を物語る資料として注目される。

 鍬形石は緑色凝灰岩製で縦11・5センチ、横10・8センチ、厚さ3センチ。川べりの穴(直径、深さとも約50センチ)から、かめなどと出土した。本来は鍬の刃に穴を開けたような形だが、出土物は下半分がなくなっていた。周囲に焼けた土や土器が埋まった穴が5か所あることから、祭祀の目的で断ち割って埋めたらしい。

 鍬形石は大和政権から贈られた最高級の宝物とされ、古墳の副葬品として見つかることが多く、集落跡から出土するのは珍しい。同遺跡の首長は大和政権とかかわりの深い有力者とみられ、これまでの調査で、首長の居館跡とされる区画が近くで見つかっている。

 現地説明会は20日午後1時から。

 石野博信・徳島文理大教授(考古学)の話「夜の水辺で、火を使った何らかの“秘儀”が行われ、それに使われたのではないか。古墳の副葬品としてだけではなく、様々な用途があったのだろう」

 大量の土器など出土

 ◆平安後期から江戸後期

 奈良市教委は18日、奈良市中心部にある都市遺跡「奈良町遺跡」で、平安時代後期(11世紀後半)から江戸時代後期(19世紀)にかけての土器などが、時代が途切れることなく大量に出土したと発表した。平安時代前期(8世紀末〜10世紀)の遺物や遺構がなかったため、同市の中心市街地は平安時代後期から形成され始めたことが、ほぼ確定的になった。これまで鎌倉時代初期(13世紀)とされていた町の誕生が、100年以上さかのぼることになる。

 ○町の形成時期裏付け

 今回の調査地は同市高天町と高天市町、中筋町にまたがる遺跡の中心部約810平方メートルで、市の中心市街地の中で最も古い一角とされる。平安後期の土師器(はじき)の皿や木製のハシが大量に出土したのをはじめ、鎌倉、室町、江戸各時代の素焼きの小皿などが見つかり、発掘調査用のケースで約1200個分に達した。

 同市教委によると、中心市街地の形成は、平安末期の1180年にあった平家による「南都の焼き打ち」以降に始まったとされてきたが、近年の同遺跡の調査で、焼き打ち以前にさかのぼる可能性がでていた。同市教委の中島和彦技師は「今回、1080年から1090年ごろの遺物が広範囲から大量に出土したので、町の形成時期はこのころと裏付けることができた」と話す。

 調査地からは、奈良時代の柱穴や地鎮のためと思われる土師器の杯、和同開珎(わどうかいちん)も見つかっている。だが平安前期の遺構や遺物がないことから、同市教委は、平城京が長岡京に遷都した後いったん人々が住まなくなり、平安後期になって新たに町ができて現在に至ったとみている。

 水辺で祭り?古墳期の遺構出土
 宮津の難波野遺跡 室町の漆器も

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは17日、宮津市江尻の難波野遺跡の第5次発掘調査結果を発表した。古墳時代中期に水辺で祭りを行う場所だったとみられる跡や、黒漆の上に朱漆で花や鳥が描かれるなど装飾が施された室町時代の漆器などが見つかった。

 国道178号のバイパス工事に伴い、同センターは2002年度から調査を実施。今回は8区画計約1700平方メートルを発掘した。

 西側の1区画(約900平方メートル)の地下1・5メートル−1・8メートルから、古墳時代中期のかめや高杯(たかつき)などの土器、それを模した小型土器計100点超が出土。大半が上を向き、流路跡(幅約5メートル)に入り込む形で一辺が約3メートルの「コ」の字の列に並んでいることなどから、同センターは水辺で祭りを行う場所だったとみている。このように並んだ土器が発掘された例は全国的に少ないという。

 また、同じ区画から漆器、はしなどの木製品、陶磁器が出土。漆器は直径6センチ−20センチの17点で、黒漆の上に朱漆で花や鳥が描かれるなど装飾が施された高級品。

 現場近くには、延喜式式内社で丹後国一宮の籠神社があり、また、神子(みこ)屋敷などの小字名が残っており、漆器は籠神社に関係する施設で使われていた可能性があるという。

 同センターは「一帯は当時、足利氏が代々保養に訪れるなど、豊かな文化があり、今回の漆器もその一端を示している」としている。

 現地説明会は20日午後2時から行う。問い合わせは現地事務所=携帯電話090(9718)3588=へ。

 四文字刻んだ銅印が出土
 甲賀の北脇遺跡、滋賀県で初

 滋賀県甲賀市水口町北脇の北脇遺跡から、「徳西庶家」との文字を刻んだ平安前期(9−10世紀)の銅印が出土したと15日、同市教委が発表した。四文字の印章の出土は滋賀県内では初めてで、つまみの部分(鈕(ちゅう))に国内でもあまり類例のない装飾が施されていた。同市教委は「庶家」は「分家」の意味で、有力な氏族が私印として使ったとみている。

 銅印は分銅型で、文字を刻んだ印面が縦横3・5センチ、つまみを含めた高さは3・0センチ、重さ64グラム。青銅製の鋳造品で、穴の開いたつまみには、二筋の縄目状の模様や線刻が施されていた。柱穴の遺構から見つかり、つまみの形状や一緒に出土した須恵器の年代などから平安前期のものとみられる。

 日本の印章制度は大宝律令(701年)とともに整備され、平安期から貴族に私印の使用が認められ、書類や蔵書に押印されたとされる。古代の印章の出土は県内6例目、国内では50数例あるが、「家」の文字が使われたものは国内で2例目という。

 印面の文字について市教委は、「庶子」などの使い方から「庶家」は「本家」に対する「分家」の意味と推測。「徳西」という氏族名は見当たらないが、中世の文献に「徳地」の氏族名があり、現在でも北脇周辺に「徳地」姓が多く、「徳地一族の西の分家」の意味とも考えられるという。

 市教委は「未知の有力豪族がいた可能性もあり、今後の調査に期待したい」としている。

 現場は昨年10月に平安期の鍛冶工房跡が見つかった場所から東150メートル。銅印は16日から2月3日まで水口歴史民俗資料館で一般公開する。問い合わせは同館Tel:0748(62)7141。

 ■銅印の文字を解読した奈良文化財研究所の市大樹研究員の話

 印章を支配に役立てていた豪族の存在がうかがえ、古代の甲賀の政治経済の中心があったと推測される。「庶家」の文字の例は聞いたことがなく、「庶」の意味にもよるが、本家だけでなく分家でも印章を使っていたということなら興味深い。

 漆喰片7つ見つかる-キトラ古墳

 文化庁は12日、明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初)の石室床面で、約4ミリから1センチ四方の漆喰(しっくい)片が7片見つかったと発表した。漆喰が塗られている側壁や天井、床面から剥離(はくり)したと考えられるが場所や時期は不明。漆喰片がまとまって見つかったのは、定期点検の発表を始めた昨年5月以来、初めて。

 今月9日に実施した定期点検で石室の中央からやや南側の床面に約20センチ四方の範囲で点在。採取して分析した結果、漆喰の破片であることが分かった。床面にも漆喰が残っている場所で、床面から剥離したのか側壁や天井から剥落したものかは不明だという。

 シカ描いた弥生土器
 山口で出土、国内最古級

 山口県美祢市の下村遺跡で、シカなどの絵を描いた弥生時代中期初頭(紀元前3−2世紀ごろ)の土器片が見つかり、同県埋蔵文化財センターが12日、発表した。

 弥生時代の絵画土器としては、福岡市の吉武高木遺跡などで見つかったものとほぼ同時期で、国内最古級。当時の人々の文化や精神世界を知る上で重要な手掛かりになりそうだ。

 同センターによると、土器片はつぼ型土器の肩部分とみられ、シカの胴体部分と4本の足、「く」をつなげたような羽状の模様などが描かれている。土器のほかの部分は見つかっていない。

 下村遺跡は、丘陵上に位置する弥生時代中期初頭の集落跡で、竪穴住居跡5棟分や貯蔵用に掘った穴の跡などが発掘された。

 同センターの小南裕一文化財専門員は「弥生絵画の起源や伝わった経路を考える上で貴重な資料だ」と話している。


 シカ描いた弥生土器
 山口で出土、国内最古級

 山口県美祢市の下村遺跡で、シカなどの絵を描いた弥生時代中期初頭(紀元前3−2世紀ごろ)の土器片が見つかり、同県埋蔵文化財センターが12日、発表した。

 弥生時代の絵画土器としては、福岡市の吉武高木遺跡などで見つかったものとほぼ同時期で、国内最古級。当時の人々の文化や精神世界を知る上で重要な手掛かりになりそうだ。

 同センターによると、土器片はつぼ型土器の肩部分とみられ、シカの胴体部分と4本の足、「く」をつなげたような羽状の模様などが描かれている。土器のほかの部分は見つかっていない。

 下村遺跡は、丘陵上に位置する弥生時代中期初頭の集落跡で、竪穴住居跡5棟分や貯蔵用に掘った穴の跡などが発掘された。

 同センターの小南裕一文化財専門員は「弥生絵画の起源や伝わった経路を考える上で貴重な資料だ」と話している。

 最古の冠形埴輪復元-桜井・纒向遺跡出土

 3世紀に出現した巨大集落の跡で、邪馬台国の有力候補地としても知られる桜井市の纒向遺跡から、昭和60年に出土した最古の冠形埴輪(はにわ)を6日までに、同市教育委員会が復元した。

 細かく割れていた上、全国的にほとんど類例がないため作業は難航。新たに確認できた破片を加え、発掘から約20年かけて復元に成功した。

 埴輪は頭をすっぽり覆うフードのような形で、高さ約60センチ、直径約37センチ。4世紀初めとみられ、かぶった人物の顔の輪郭を彩るように、縁には「鋸歯文(きょしもん)」と呼ばれるのこぎり歯のような文様が彫り込まれ、左右にヒレ状の張り出しが付いていた。

 「流水双鳥鏡」や鋳型を出土
 京都四条で室町期の鋳造工房跡

 京都市中京区四条新町北西角の発掘調査で、室町時代の鏡の鋳造工房が6日までに見つかった。室町時代の説話集「神道集」(安居院(あぐい)作)には、調査地付近の鏡屋を舞台にした話が載っており、当時の商工業の繁栄をほうふつとさせる。

 社屋建設に伴い、8月上旬から宇治市の民間調査会社が約540平方メートルを調査した。

 炉跡は15世紀前半とみられ、直径約1メートル50センチの円形で深さ30センチ。焼けた石や土、炭化した木、鋳型の破片が見つかった。

 鏡は直径9センチ、厚さ1ミリの銅製。エックス線写真で調べたところ、水の流れと鳥をあしらった「流水双鳥鏡」だった。鋳型には、亀甲紋や松葉の細かい文様がきれいに残っていた。

 遺物はいずれも14−15世紀前半のもので、ゴミ捨て穴や井戸から出土した。ふいごの羽口や溶けた銅を入れたとみられる皿もあった。

 神道集「鏡の宮の事」という話では、田舎から上洛した老人が四条の町の怪しげな商人にだまされ、鏡を法外な値で売りつけられる。四条の町とは四条大路と町小路の交差点付近で、ちょうど調査地のある四条新町に当たる。

 西山良平・京都大人間・環境学研究科教授(日本古代・中世史)は「説話の内容と符合する鏡の工房が出てきたことで、京土産の店として有名な鏡屋が実在した可能性が出てきた。商工業で栄えた町小路のにぎわいをほうふつとさせる発見だ」と話している。

 藤原公任の邸宅跡?
 平安中期の人工池跡 中京で確認

 京都市中京区四条新町北西角の発掘調査で、平安時代中期11世紀前半の庭園の池の洲浜跡が31日までに見つかった。周辺は平安期の歌人藤原公任(きんとう)(966−1041)の邸宅「四条宮」との説もある場所で、関連が注目される。

 ■「四条宮」 位置再考迫る

 社屋建設に伴い、8月上旬から、宇治市の民間調査会社が約540平方メートルを調査した。

 洲浜は、やや小さめの粒のそろった河原石を池の肩口にしっかり固定した丁寧なつくり。池の深さは約40−50センチで、祭祀(さいし)に使ったとみられる土器片も交ざっていた。周辺には築山とみられる土盛りもあった。下にはさらに古い時期の洲浜も見つかり、1度造り替えたとみられる。

 四条宮は、小倉百人一首に収められた「滝の音は絶えて久しくなりぬれど、名こそ流れてなほきこえけれ」の歌で知られる藤原公任の邸宅。1025年に焼亡の記録があり、池の造り替えの時期と符合するという。公任には「秋ふかきみぎはの菊のうつろへば、波の花さへ色まさりけり」という場所は不明だが、池のみぎわを詠んだ歌もある。

 平安後期の九条本「延喜式」や鎌倉以降に成立した「拾芥抄(しゅうがいしょう)」の左京図では、四条宮を調査地のある四条北側としているが、「拾芥抄」本文では四条通を挟んだ四条南側と記され、こちらが通説とされる。

 西山良平・京都大人間・環境学研究科教授(日本古代・中世史)は「拾芥抄本文は不正確な記述が多く、延喜式の方が成立年代も早く、正確だと思う。四条宮の場所について再検討を促す発見だ」としている。


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