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 玄武歩んだ道探る  キトラ特別展

 ◆ダイヤモンドソーも出展

 文化庁が27日に発表したキトラ古墳(明日香村)の壁画「玄武」を初公開する特別展「キトラ古墳壁画四神玄武」では、古代中国や朝鮮、日本に残された25点の玄武図も展示し、玄武がたどってきた道のりを紹介する。今月15日の「朱雀」はぎ取りで使われたダイヤモンドワイヤ・ソーも出展される予定で、話題を集めそうだ。

 特別展は4月20日から6月24日まで、同村の奈良文化財研究所飛鳥資料館で開かれる。

 展示では、蛇と亀が絡まった玄武図の東アジアでの展開を紹介。最古の玄武は紀元前2世紀中ごろの中国・前漢で、西安郊外に築かれた陽陵の祭祀(さいし)建物に敷かれた床の磚(せん)(タイル)に刻まれた。

 この磚のほか、高句麗壁画古墳の双楹塚(5世紀末)や湖南里四神塚(こなんりししんづか)(5世紀末〜6世紀初め)、正倉院に収められた十二支八卦背円鏡(はっけはいのえんきょう)(8世紀中ごろ)などの写真パネルや拓本、模写を展示、後漢や隋の銅鏡などは実物が並ぶ予定だ。

 同館の加藤真二・主任研究員は「900年間に及ぶ展示品を通じて、特異な姿の玄武の謎の解明に迫っていきたい」と話している。





 5月に「玄武」一般公開-キトラ古墳壁画

 文化庁は27日、明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初)の石室北壁から剥(は)ぎ取った四神像「玄武」を5月11日から27日までの17日間、同村奥山の奈良文化財研究所飛鳥資料館で特別公開すると、発表した。同古墳壁画の一般公開は昨年の「白虎」に続き2回目。飛鳥資料館では公開に併せて4月20日から6月24日まで、春期特別展「キトラ古墳壁画四神玄武」を開く。

 キトラ古墳の玄武は横約25センチ、横約14センチ。昭和58年、ファイバースコープによる調査で最初に確認され、平成17年11月に大きく3分割して剥ぎ取られた。現在は奈良市の奈良文化財研究所で修復保存のために保管。公開は各部分をつなぎ、ほぼ完全な形で蛇と亀が絡み合った特異な姿を見ることができる。

 また、春期特別展は紀元前2世紀から8世紀までの日本や中国、朝鮮半島の玄武像を紹介。古代における玄武の発生からの変遷を考える。最古の玄武とされる「陽陵空心磚」(紀元前2世紀)の写真パネルや、天理大学付属天理参考館所蔵の「爾朱紹(じしゅしょう)墓誌蓋」(6世紀前半)、高松塚古墳玄武の模写など約30点を展示する。

 会場では玄武や朱雀などの剥ぎ取り作業のビデオが放映されるほか、剥ぎ取り専用器具「ダイヤモンドワイヤー・ソー」も展示される予定。期間中の5月20日午後2時からは特別講演会も開かれる。

 問い合わせは、飛鳥資料館、電話0744(54)3561。


 県内最古級の円墳

 守山市教委は、同市欲賀町の欲賀南遺跡から、古墳時代初頭(3世紀後半)の円墳が出土したと発表した。円墳としては県内最古級で、市教委は「近くを流れる境川流域では、ほかにも古墳が見つかっており、川の堤防上に地域の有力者がこの円墳を築いたとみられる」としている。現地説明会は25日午後2時から。小雨決行。

 宅地造成などに伴い、2006年4月から約5000平方メートルを調査。直径約25メートル、周囲には幅6〜7メートル、深さ1・2メートルの堀のある円墳が見つかった。一緒に出土した土器から、年代は3世紀後半と見られる。古墳のすその部分からは、直径10〜20センチの穴が多数見つかり、飾りのようなものを立てた可能性があるという。

 石野博信・徳島文理大教授(考古学)は「遺跡がある一帯が、弥生時代から古墳時代の変わり目に一定の役割を果たしていたことが改めてわかった」と話していた。

 3世紀後半の円墳出土
 守山欲賀南遺跡 周辺は方形墓群

 守山市教委は23日、滋賀県守山市欲賀(ほしか)町の欲賀南遺跡で3世紀後半(古墳時代初期)の円墳が見つかったと発表した。同遺跡周辺は弥生中後期の方形周溝墓の群集地があり、市教委は「弥生から古墳時代へ移る過渡期の墳墓の一つ」としている。

 円墳は墳丘の高さ約1メートル、直径約25メートルで、外側に幅6−7メートル、深さ1・2メートルの周濠(しゅうごう)が確認された。遺体を埋葬する「主体部」や副葬品は見つからなかった。周濠などから古墳時代初頭の土器とされる庄内式土器の破片が出土した。

 墳丘の斜面には直径10−20センチの穴が約60個見つかり、装飾品を立てた可能性があるという。また、同遺跡から弥生時代の竪穴住居4棟なども見つかった。

 市教委によると、同時期の円墳は滋賀県内では大津市で2基、野洲市で1基確認されている。

 欲賀南遺跡周辺には方形周溝墓の群集地が6カ所あり、市教委は「伝統的な四角い形の墓を踏襲せず、円形を採用している」として、有力な豪族の墓とみている。

 ■古墳形成過程探る発見

 守山市欲賀町の欲賀南遺跡で見つかった円墳について、古墳の専門家たちは「古墳の形成過程を知るうえで、興味深い貴重な発見」と口をそろえる。

 滋賀県で多くの古墳発掘にかかわってきた名古屋女子大の丸山竜平教授(考古学)は「古墳時代初期にこれだけ立派に整った円墳は国内では例がない」という。その上で「湖南地域は方形周溝墓の発祥の地ともいわれ、円墳が見つかったことで前方後円墳の発祥とも関連づけられる可能性が出てきた」と話している。

 これに対して、弥生−古墳時代の墳墓に詳しい兵庫県芦屋市教委の森岡秀人学芸員は「完全な古墳とは言い切れない」とする。しかし、規模の大きい周濠(しゅうごう)を持ち、独立して築かれていることを理由に「弥生の周溝墓とは違う。古墳になる中間過程ではないか」とみる。

 また、奈良県立橿原考古学研究所の寺澤薫・調査研究部長は、「九州や山陽地方では弥生後期の円形墓が多くあり、その流れを受けて近江に築造されたのでは」と話している。

 現地説明会を25日午後2時から開く。小雨決行。

 精巧な石室「実測図」完成
 高松塚、解体は4月から

 壁画保存のため、石室が解体される奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)で、石室内を高精度のデジタルカメラで写した原寸大の「フォトマップ」が完成し、文化庁が23日、公開した。

 実物の石室との誤差はわずか約2ミリ。天井石に入った亀裂やしっくい層のひび割れまで詳細に分かり、石室解体や壁画修復に際し「実測図」として利用する。

 奈良文化財研究所が2006年8月末から約1週間かけて、3900万画素のカメラで撮影。20センチ間隔で写した約1000カットのうち365枚を合成し、天井や壁石、床面のパネル計6枚を作成した。

 高松塚古墳は現在、墳丘の発掘が進んでいる。文化庁によると、記録作業やカビ発生を防ぐ処置に時間がかかっており、スケジュールは約1週間遅れ。このため、3月末に予定していた石室解体開始は、4月上旬にずれ込むという。

 墓群に中国鏡、ガラス玉
 福岡、三雲・井原遺跡

 中国の史書「魏志倭人伝」に登場する弥生時代のクニ、伊都国の中心地とされる福岡県前原市の三雲・井原遺跡(旧名・井原ヤリミゾ遺跡)で、弥生後期(1−2世紀)の木棺墓、甕棺墓など計19基と、副葬品の中国鏡「内行花文鏡」(2枚分)や多数のガラス玉が出土し、同市教育委員会が23日発表した。

 2004年度の調査で、王族のものとみられる墓群と、副葬品の方格規矩鏡や多数のガラス小玉が出土。今回の調査により墓群の範囲はさらに拡大したが、期待された伊都国で3番目の「王墓」は発見されなかった。

 伊都国歴史博物館の西谷正館長は「倭人伝に記された代々の王と血縁関係がある王族の墓だろう。王墓の特定は今後の課題となる」と話した。


 墓群に中国鏡、ガラス玉
 福岡、三雲・井原遺跡

 中国の史書「魏志倭人伝」に登場する弥生時代のクニ、伊都国の中心地とされる福岡県前原市の三雲・井原遺跡(旧名・井原ヤリミゾ遺跡)で、弥生後期(1−2世紀)の木棺墓、甕棺墓など計19基と、副葬品の中国鏡「内行花文鏡」(2枚分)や多数のガラス玉が出土し、同市教育委員会が23日発表した。

 2004年度の調査で、王族のものとみられる墓群と、副葬品の方格規矩鏡や多数のガラス小玉が出土。今回の調査により墓群の範囲はさらに拡大したが、期待された伊都国で3番目の「王墓」は発見されなかった。

 伊都国歴史博物館の西谷正館長は「倭人伝に記された代々の王と血縁関係がある王族の墓だろう。王墓の特定は今後の課題となる」と話した。

 墳丘に木製くい、築造目的?
 長岡京の恵解山古墳で出土

 京都府長岡京市埋蔵文化財センターは21日、同市勝竜寺の恵解山(いげのやま)古墳で行った発掘調査から、墳丘に盛り土を施す際の基準に使ったと見られる木製のくい2本が出土した、と発表した。古墳の築造に使った木製のくいが腐らずにみつかるのは、府内で初めてという。

 ■府内初 腐らず

 恵解山古墳は乙訓地域最大として知られる前方後円墳で、史跡公園としての整備に向け、昨年12月から発掘調査を実施。前方部を中心に、これまで未調査の5カ所約230平方メートルで行った。

 調査では、古墳前方部の西辺に平行して内側約35センチの位置に、約5センチ四方の角型のくい2本が出土。約2・4メートル間隔で、敷き詰められた葺(ふき)石のすき間から、それぞれ地表に5−10センチ程度突き出た状態でみつかった。

 葺石や盛り土を施す前に、くいを目印として打ち込んだとみられ、市埋蔵文化財センターは「端を決める基準だった可能性がある」とする。「木製のくいが朽ちずに残っていた例は珍しく、府内では初めて」としている。

 古墳東側でも西側と同じように葺石が施されたことや、江戸時代には古墳一帯が墓地として使われた可能性が高いことなども確認できた。

 現地説明会は、24日午後1時半から行われる。

 縄文晩期の竪穴住居跡6棟発見
 西京 農耕開始直前の集落解明へ

 京都市西京区大原野上里南ノ町の発掘調査で、縄文晩期の竪穴住居跡6棟や墓地が見つかり、22日、京都市埋蔵文化財研究所が発表した。1棟は炉を備えたほぼ完全な形で見つかった。縄文晩期の竪穴住居跡が近畿で見つかるのは非常に珍しく、6棟も見つかったことで、農耕が始まる直前の集落構造を解明する発見として注目される。

 市道建設に伴い、昨年6月中旬から約940平方メートルを調査した。

 最も良好な住居跡は円形で直径約4メートル。中央に直径30センチの炉があり、焼けた土や深鉢の一部が残っていた。また周囲を直径20センチ程度の8個の柱穴が取り囲み、全体が60センチ以上掘りくぼめられていた。

 残りの住居跡には炉はなかったが、3棟がだ円形、2棟が方形と多様な形態を示していた。

 墓地には土壙墓(どこうぼ)や子ども用の土器棺墓が計9基あり、深鉢を転用した土器棺や副葬品の土器が良好な状態で残っていた。

 また、赤色顔料が塗られた東北地方の特徴を持つ土器片も出土し、当時の集落が広範囲に交流していたことを裏付けた。

 西日本では、縄文晩期の竪穴住居跡が前後の時代と比べて極端に数が少なく、近畿ではこれまで、日下遺跡(大阪府東大阪市)以外ほとんど発見例がなかった。

 現地説明会は24日午前10時から。問い合わせは現場事務所Tel:075(332)1516。

 豪族の墓? 方墳6基を確認
 亀岡市教委、「中古墳群」と命名

 亀岡市教育委員会は21日、京都府亀岡市千歳町千歳の国営農地再編整備事業に伴う発掘調査で、5世紀後半から6世紀前半の築造とみられる方墳6基を確認したと発表した。1基は一辺が約28メートルと比較的大きく、市教委は「地元の豪族の墓ではないか」としている。

 この地域で新たに見つかった古墳群で、市教委は調査地(千歳中区など2600平方メートル)の名を取って「中(なか)古墳群」と名付けた。

 6基はいずれも部分的に発掘され、最も大きい方墳(1号墳)は墳丘の北東角と南端の一部が確認された。墳丘のすその部分から、敷き詰められた石と円筒埴輪のかけら1個が出土したほか、墳丘を囲む溝(幅8メートル、深さ1メートル)の一部や、墳丘上に木製埴輪を並べたとみられる6つの柱穴も確認された。

 ほかの5基は1号墳の北側に密集しており、いずれも一辺5−10メートルの小規模な方墳とみられる。墳丘を囲む溝からは須恵器(高坏(たかつき)、つぼなど)が見つかった。

 調査を担当した市教委の中澤勝主任は「5世紀後半にまず1号墳が造られた後、ほかの5基が順番に出来たと考えられる。全体として前時代(弥生時代)の方形周溝墓の伝統を受け継いだ古墳群といえることから、被葬者は中央から派遣された人物ではなく、在地の有力者の墓ではないか」と話している。

 現地説明会は24日午前11時から。問い合わせは市社会教育課Tel:0771(25)5054。

 天井石の上面も黒いカビ
 高松塚古墳 石室入り口

 石室解体に向け発掘調査が進む奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)で、天井石の上面に黒いカビが見つかり、文化庁が16日、発表した。

 4枚ある天井石の南端で、盛り土がなくなっていた部分。これまで石室入り口の保護施設で隠れていた。文化庁は「周囲が暗く、定期点検でも分からなかった。石室の中のカビと直接関係があるか調査したい」とし、専門家を派遣しカビを採取、種類の特定などを急いでいる。付近はアルコール消毒した。

 カビは最大で縦横約20センチ。ほかに直径約1センチのものが縦0・7メートル、横1・7メートルの範囲に10数カ所あった。

 文化庁は昨年11月、発掘に伴い石室入り口を保護していたコンクリートを撤去。木製の囲いで穴をふさぎ、防水シートなどで覆っていたが、これを外し、カビが広がっているのが分かった。

 長岡京跡?最南西に溝60メートル

 長岡京のものとみられる溝

 府埋蔵文化財調査研究センターは15日、長岡京市下海印寺の長岡京跡・伊賀寺遺跡で、長岡京の溝とみられる遺構が見つかった発表した。幅約1メートル、長さ約60メートルで、長岡京のものと断定できる痕跡はないが、東西に一直線に伸びている様子から都市計画に基づいて設置されたことを推測できるといい、同センターでは「長岡京を探る大きな手がかり」としている。

 京都第二外環状道路建設に伴い、昨年9月から長岡京南西部の右京七条四坊十二町にあたる部分約1250平方メートルを調査した。

 溝はこれまで確認されている長岡京の遺構の中では最も南西に位置。宅地内の道路などに付随していたとみられるが、年代を特定できる土器は見つからず、対となる溝の存在も調査出来なかった。同センターは来年度に対の溝の存在を調べる意向。

 このほか、古墳時代ごろのものとみられる竪穴住居跡(3〜4メートル四方)なども4棟分見つかった。製鉄の際に出る鉄くず「鉄滓(てっさい)」やふいごの口も出土。周辺に大規模集落があり、小鍛治なども行っていたとみられる。

 現地説明会は17日午前11時から。問い合わせは現地事務所(075・953・1544)。

 王印管理者の墓発掘
 エジプト・サッカラ遺跡

 エジプト考古最高評議会は14日、カイロ郊外のサッカラ遺跡で、紀元前14世紀の古代エジプト第18王朝の王アメンホテップ4世時代に王印の管理者を務めた人物の墓が、13日に発掘されたと明らかにした。王印管理者は王朝の高官だったとみられる。

 墓は泥でできたれんが製で、美しい壁画が特徴。大きさは縦15メートル、横9・6メートル。列柱に囲まれた広間の一角に礼拝場所がある。

 壁面の大部分には、果実を食べるサルや、墓の主が神々にささげものをする姿などが描かれており、専門家の1人は、アマルナ美術様式と呼ばれる写実的な技法で日常生活が描かれていると語った。

「朱雀」はぎ取り成功
キトラ古墳、最後の四神図

 保存のため極彩色壁画のはぎ取りが進む奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で、文化庁は15日、石室南壁に残っていた最後の四神図「朱雀」の取り外しに成功したと発表した。

 同様に石室内に四神図が描かれた高松塚古墳(同村)は、盗掘で南壁のしっくい層がはく離したため朱雀図が確認できておらず、国内の壁画古墳で四神図がそろっているのはキトラ古墳だけ。

 これで2004年のはぎ取り開始以来、文化庁はキトラ古墳で確認された四神図と十二支図(六体分)の取り外しにすべて成功、後は天井に描かれた天文図を残すだけとなった。しかし、天文図は傷みが激しく技術的なめどは立っていない。

 しっくい層が薄く作業が難航していた朱雀図のはぎ取りには、特製カッターを使用。ダイヤモンド粒子が付いた極細ワイヤを絵の下地になっているしっくい層と壁石の間に通し、絵を分割せずに1枚で切り離した。

 威奈真人大村の骨蔵器複製品など150点 二上山博物館企画展

 皇族の流れをくむ飛鳥時代の官僚で、二上山山麓(さんろく)から金銅製の骨蔵器(国宝)が出土している威奈真人大村(いなのまひとおおむら)(661〜707)の没後1300年を記念して、ゆかりの資料を集めた冬季企画展「威奈真人−二上山と火葬の文化−」が、香芝市藤山の二上山博物館で開かれている。

 公葬地だった二上山麓では、陵墓や墳墓のほか、火葬した遺骨を骨蔵器に納めて埋葬した火葬墓も発見されている。火葬は、飛鳥時代以降に貴族や僧の一部で用いられていたという。

 大村の骨蔵器は、江戸時代に現在の同市穴虫付近で発見された。器は球状(直径24.4センチ、高さ24.2センチ)で表面に391文字の墓誌銘が刻まれており、大村の出自や人物像などが記されている。墓誌銘や「続日本紀」によると、大村は現在の兵庫県尼崎市に本拠を置いていた威奈氏の出身で、持統天皇の御葬司副長官を務め、その後、越後城司に任命され同地で死亡したとされる。

 今回は、大村の骨蔵器の複製品や、威奈氏が建立した猪名寺廃寺(尼崎市)の瓦など大村ゆかりの資料のほか、二上山麓の火葬墓から出土した別の骨蔵器や墓誌など約150点を展示している。石野博信館長は「大村の骨蔵器は球状で珍しく、精巧に復元したものなのでぜひ見てほしい」と話している。

 3月25日まで(月曜休館)。3月3日には「日本古代の墓誌〜威奈卿墓誌銘を読む〜」をテーマにした、東野治之・奈良大教授による講演会も予定している。問い合わせは同館((電)0745・77・1700)へ。

 悲劇の恋人たちか イタリアで見つかった数千年前の遺骨

 イタリア北部のマントバ郊外でこのほど、抱き合って横たわった姿勢の遺骨2体が発見された。5─6000年前の若い男女とみられ、「悲劇に遭った恋人たちではないか」と、専門家らの想像をかき立てている。

遺骨は5日、工場建設現場で見つかった。約40キロ北には、シェークスピアが悲劇「ロミオとジュリエット」の舞台に選んだベローナの町がある。

考古学者らが発掘調査したところ、近くには矢じりやナイフなど、新石器時代のものとみられる道具が埋蔵されていた。発掘チームを率いたエレナ・メノッティ氏によると、2体とも歯が完全な形で残っていることなどから、若くして突然死亡した可能性が高い。

同氏がAP通信との電話インタビューで語ったところによれば、新石器時代の遺骨が2体同時に発掘された例は初めて。またローマの人類学者、ルーカ・ボンディオリ氏は、「この時代からすでに、現代と同じような人間関係が形成されていたことがうかがえる」と説明する。

専門家らは今後、男女の年齢や血縁関係、死亡した時期などを詳しく調べる予定だが、2人の死にまつわる物語は、永遠になぞに包まれたままかもしれない。

 形象埴輪について、さまざまな形で紹介する企画展「埴輪の魅力」が、滋賀県米原市顔戸の近江はにわ館で開かれている。

 長浜市加納町の越前塚遺跡から出土した家形埴輪や旧近江町(米原市)地域の息長古墳群の一つ、狐(きつね)塚古墳で見つかった矢を入れる道具の埴輪を復元したものなど4点と全国各地で出土した埴輪の写真約60枚を展示している。息長古墳群の説明も添えている。

 25日まで。入場無料。


 キトラ朱雀、15日はぎ取り
 分割や一部延期の可能性も

 極彩色壁画のはぎ取り作業が進む奈良県明日香村のキトラ古墳(特別史跡、7世紀末−8世紀初め)で、文化庁の調査研究委員会作業部会は7日、奈良市で会合を開き、四神図「朱雀(すざく)」を15日に特製カッターではぎ取ることを確認した。

 朱雀図は絵の下地になっているしっくい層が1・5ミリと薄く、壁面に凹凸があるため作業が難しい状態。状況によっては何片かに分割したり、一部のはぎ取りを延期する可能性もあるという。

 会合では、実際に作業する東京文化財研究所の担当者が朱雀図の現状や、はぎ取りによる壁画損傷の危険性を説明。文化庁は「1枚で取り外すのが理想的だが、細かく砕けるよりは大きく分割し安全にはぎ取る方がいい」と話している。

 これまで、同じ四神図の「白虎」などが分割して取り外され、修復されている。

 「日月山水双鳥鏡」酷似の鋳型が出土
 中京 同じ工房で制作か

 京都市中京区四条新町の発掘調査で昨年末見つかった室町中期の鏡の鋳型が、京都国立博物館(東山区)所蔵の銅鏡「日月山水双鳥鏡」に酷似していることが7日までに分かった。発掘地には鏡を作った工房があったとみられ、京博は「京の鏡作りの変遷の空白を埋める発見」と注目している。

 「日月山水双鳥鏡」は中国鏡を模し、外縁部に幾何学模様を連ねた「擬漢式鏡」の一種。太陽や月を模した半円形の下に山や松葉、流水や洲(す)浜をあしらい、2羽の小鳥が飛び交う優雅な図柄だ。

 出土した鋳型は、縦5センチ、横4センチの破片だが、推定される全体の形は京博所蔵鏡とほぼ同じ大きさ。松葉などの文様やひもを通す中心部の鈕(ちゅう)の亀形も酷似している。京博は「全く同じ図柄ではないが、この鏡を制作した工房だった可能性が高い」とみている。

 京の鏡作りは、鎌倉時代に、現在のJR京都駅付近に工人町が形成されたが、14世紀中ごろに京内各地に分散した。下京区で15世紀後半の工房が見つかっているが、その間の実態が分かっていなかった。

 京博の久保智康工芸室長(金工史)は「普通、文様の刻まれる鋳型の表面部分は、再利用されるため、発掘で見つかるのは大変珍しい。図柄は型押しではなく、へらで刻み込んでおり、手が込んでいる。室町時代は鏡の使用が貴族から町衆に広がった時代。鏡の工房が都の縁辺部から消費地に近い中心部に移っていった傾向がうかがえる」と話している。

 室町期の堀と集落跡見つかる
 野洲、上永原遺跡 寺跡の遺構か?

 野洲市教委はこのほど、滋賀県野洲市上屋の上永原遺跡で、室町時代前期の寺跡の遺構とみられる堀と、集落跡が見つかった、と発表した。戦国時代にあったとされる上永原城跡の約200メートル東側に位置し、市教委は「一帯が寺と関係が深い豊かな地域だったので、城が建てられたのでは」としている。

 同遺跡は、室町時代から戦国時代の集落遺跡。西側に隣接する上永原城遺跡は当時の近江守護、佐々木六角氏の有力家臣永原氏の城跡とされ、2002年の調査で土塁などが出土している。

 発掘された堀は南北に延び、長さ約65メートル、幅約1・7メートル、深さ0・8メートル。中から14、5世紀のものとみられる石仏や墓石などが見つかった。また、堀の北側に建物の柱跡や井戸跡のある集落跡が東西約130メートル、南北約20メートルの規模で確認され、寺の瓦や火鉢なども出土した。

 市教委は、同遺跡周辺の字名が「見星寺(けんじょうじ)」で、約500メートル北に同名の寺があり、堀は移転前の見星寺の遺構ではないかとみている。出土品は3月4日まで市歴史民俗博物館で開催中の文化財速報展で展示している。問い合わせは同館Tel:077(587)4410。

 室町時代の寺院跡が出土
 野洲・上永原遺跡

 野洲市上屋見星寺(けんじょうじ)の上永原遺跡で、室町時代(14−15世紀)の寺院や住居の跡が出土し、同市教育委員会が6日、発表した。地元では寺院の存在があったと伝えられてきたが、実際に確認されたのは初めて。市教委は「寺院を中心とした集落の在り方が分かる貴重な史料となる」としている。

 宅地造成に伴い、市教委が昨年5月から、遺跡東側約3500平方メートルを調査した。その結果、寺院の敷地跡とみられる堀が調査地の南側から出土した。

 堀は北東から南西に約約60メートルにわたって確認され、幅約6メートル、深さ約1メートル。堀跡からは、通常の住居では使われない瓦をはじめ、石仏や墓石の一部などが見つかった。発見された堀の長さから境内は60−80メートル四方と推測されるという。

 寺院跡の東側からは、掘っ立て柱建物跡8棟が出土した。1棟は約15−30平方メートルと推測される。周辺は田園地帯だったことから、市教委は「当時、寺院は地域コミュニティーの中心で、近くには有力な農民層が住んでいたのではないか」とみている。

 出土遺物約30点は3月4日まで、同市辻町の市歴史民俗博物館で展示されている。

 飛鳥浄御原宮の北限か
 7世紀の精巧な石組み溝

 奈良県明日香村の飛鳥京跡で、7世紀後半の精巧な石組み溝が見つかり、県立橿原考古学研究所が6日、発表した。

 巨岩と小石を積み分けた2段構造で、水流調整のため溝と溝の合流地点で深さを変えるなど高度な設計。同研究所は「天武天皇(在位673−686年)の飛鳥浄御原宮の北限だった可能性がある」としており、当時の都市計画を考える貴重な資料になる。

 この石組み溝を北限とすると、飛鳥浄御原宮は推定で南北約800メートル、東西は最大で約500メートルとなり、飛鳥盆地全体に広がる大規模な宮だったと推測される。

 弥生人のリフォーム跡

 60〜70年で最低9回

 右京区西院清水町の西京極遺跡を調査している京都市埋蔵文化財研究所は5日、建て替えや拡張工事が繰り返された弥生時代後期(2世紀ごろ)の竪穴式住居跡を確認したと発表した。60〜70年間に少なくとも計9回「リフォーム」されており、同研究所の担当者は「短期間にこれだけリフォームが続いた跡は珍しい」と話している。

 住居跡は小さいもので約5メートル四方、大きいもので約7メートル×約8メートルの長方形。石包丁や銅製の矢じりなどが出土し、建て替えにあわせて新しい土を床に張っていたことも確認された。

 当時の竪穴式住居の耐用年数は長くて約10年。地面を掘り下げて土壁とする竪穴式住居の場合、同じ場所を掘り返して建て直すと壁が崩れやすくなるため、敷地をずらして再建することが多いという。また、建て替えでできた直径約20センチの柱穴は、かめや高坏(たかつき)などの土器が完全な形で入れられた状態で埋め戻されていた。地鎮の意味を込めた可能性が高いという。

 工場新築工事に伴い、昨年12月から調査していた。現地説明会はない。

 現れた「歴史の転換点

 蘇我入鹿の邸宅「谷(はざま)の宮門(みかど)」跡とする説が有力な甘樫丘東麓遺跡(明日香村川原)。期待された邸宅の主要施設は見つからなかったが、日本書紀に記された年代と重なる石垣が出土。蘇我氏の強大な権力をうかがわせる大規模な整地が行われていたことが分かり、発掘担当者や研究者も興奮を隠し切れない。奈良文化財研究所は今後も調査を継続する予定で、日本の歴史のターニングポイントとなった舞台の全容解明に期待が高まる。

 石垣が出土したのは記者発表のわずか1週間余り前。同研究所の玉田芳英主任研究員は「こんな物が埋まっているとは思いもせず、呆然、がく然とした。『これはえらいことになった』と思った」と出土時の興奮を語る。

 「建物を建てるとき、土地を削った方が地盤は安定するが、わざわざ整地している。普通であればやらない」と河上邦彦・神戸山手女子大学教授(考古学)。「計画性がうかがえ、しかも並の造成でない」とし、「今与えられた条件で考えるのなら、蘇我の屋敷の一部だと考えるのが妥当」とする。

 7世紀前半の石垣や建物跡
 奈良、蘇我入鹿邸の一部か

 大化改新(645年)で中大兄皇子らに殺された飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘の東南ふもとで、7世紀前半の石垣や建物跡などが新たに見つかり、奈良文化財研究所が1日、発表した。

 石垣は、人頭大の川原石をびっしりと積み上げた立派なつくり。谷地を大規模に造成しており、日本書紀に「谷の宮門」と記された入鹿邸の一部とみられる。同研究所は「傾斜地形を補強した上、迫力ある家構えに見せる効果もあっただろう。近くに主殿など邸宅の中心建物があった可能性が高い」と話している。

 日本書紀によると、644年11月、入鹿と父・蝦夷は甘樫丘に邸宅を並び建て、蝦夷の家を「上の宮門」、入鹿の家を「谷の宮門」と呼んだ。門の脇には武器庫があり、武装した兵士が警備。周囲は城柵で囲まれていた。半年後、入鹿は中大兄皇子らに暗殺され、蝦夷は自邸に火を放ち自害したという。

 万寿寺の池跡見つかる
 下京、焼け瓦で埋め立て跡も

 室町時代、京都五山に列する格式ある寺で、京都中心部の「万寿寺通」の名の由来にもなった万寿寺の池跡が、京都市下京区間ノ町通五条下ルの発掘現場で見つかり、1日、市埋蔵文化財研究所が発表した。万寿寺の遺構が見つかったのは初めて。池は平安期以来3度造り替えられ、室町中期の火災の焼け瓦で埋め立てた跡もあった。

 下京消防署の新築で昨年11月末から約486平方メートルを調査した。

 同寺は1591(天正19)年、豊臣秀吉の京都改造で東福寺塔頭に格下げとなったが、以前は、平安後期に白河天皇の御所となった六条院を継承し、南北3町(約360メートル)の大伽藍(がらん)を誇った。

 池跡は時代とともに縮小し、2期目は六条院の池と同じ緩やかな洲浜があったが、3期目は大量の焼け瓦で埋め立てられ、4期目はさらに縮小して、十分な手入れがされなかったことを示す腐植土もたまっていた。

 火災で変色した礎石2個も見つかり、直径50センチの柱跡も残っていた。市埋文研は焼け瓦は1434(永享6)年の火災によるものとみている。

 市埋文研所長の川上貢・京都大名誉教授(日本建築史)は「かつての万寿寺をしのぶ遺跡で価値ある発見。寺地の北寄りに位置していることから、仏堂の裏の方丈に伴う池だったのではないか」と話している。

 現地説明会は3日午前10時から。問い合わせは現場事務所Tel:075(344)8662。


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