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2008/10/05 (Sun) 飛鳥京跡
2008/10/02 (Thu) 浄土屋敷遺跡
2008/10/02 (Thu) 金貝遺跡
2008/10/01 (Wed) エジプト展
2008/10/01 (Wed) 高松塚壁画
2008/09/30 (Tue) 南曽我遺跡
2008/09/30 (Tue) 箸墓古墳
2008/09/28 (Sun) 藤原宮朝堂院跡
2008/09/27 (Sat) 平城宮跡

 4月3日に解体スタート
 奈良の高松塚古墳

 文化庁は30日、奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)で4月3日から、壁画保存に向けた石室の解体作業を始めると発表した。1枚目になる北端の天井石の取り外しは5日になる見込み。

 解体は天井、壁、床の石計16枚を1枚ずつ、特殊な器具でつかんでクレーンでつり上げ、高松塚から運び出して近くに建設した修理施設へ移す。

 北端の天井石の後は、4月中旬ごろ四神図「玄武」が描かれた北壁、さらに天井石の北から2枚目、「飛鳥美人」と呼ばれる女子群像がある壁石−と、北から南へ解体していく。

 1週間に1枚のペースで作業。6月末までに壁石と天井石の作業を終え、床石4枚の搬出まで終了するのは7月末の予定。

 昨年10月からの発掘調査で、石室はほぼ全体がむき出しになった。石室の倒壊を防ぐため盛り土の一部は残しており、つり上げる壁石に合わせてその都度、取り除く。

 縄文土器の底にアサの果実
 秋田・由利本荘の貝塚から

 秋田県由利本荘市教育委員会は29日、縄文時代早期の菖蒲崎貝塚で出土した縄文土器の底から、炭化した約7600年前のアサの果実10数粒が見つかったと発表した。アサの繊維でできた縄や種子が見つかった例はあるが、アサを加工、利用しようとしている状況が分かる例はなかった。市教委は「縄文時代の植物資源の海外からの導入や栽培、利用を知る上で重要な発見」としている。

 市教委によると、アサは直径約31センチ(推定)の深鉢の中で見つかった。「おこげ」のような状態の炭化物として見つかり、アサの果実と確認された。

 市教委によると、食用に加工したり、果実から油を取った可能性があるほか、アサには毒性があるため祭祀に使われたとも考えられるという。

 アサは日本に自生しておらず、中央アジア原産とみられるが、日本へ伝わったルートはほとんど分かっていない。

 縄文土器の底にアサの果実
 秋田・由利本荘の貝塚から

 秋田県由利本荘市教育委員会は29日、縄文時代早期の菖蒲崎貝塚で出土した縄文土器の底から、炭化した約7600年前のアサの果実10数粒が見つかったと発表した。アサの繊維でできた縄や種子が見つかった例はあるが、アサを加工、利用しようとしている状況が分かる例はなかった。市教委は「縄文時代の植物資源の海外からの導入や栽培、利用を知る上で重要な発見」としている。

 市教委によると、アサは直径約31センチ(推定)の深鉢の中で見つかった。「おこげ」のような状態の炭化物として見つかり、アサの果実と確認された。

 市教委によると、食用に加工したり、果実から油を取った可能性があるほか、アサには毒性があるため祭祀に使われたとも考えられるという。

 アサは日本に自生しておらず、中央アジア原産とみられるが、日本へ伝わったルートはほとんど分かっていない。


 古代の国道「山田道」か 幅18メートル、遺構見つかる

 奈良県明日香村の石神遺跡で、古代の国道「山田道」とみられる7世紀後半−8世紀初めの道路遺構が見つかり、奈良文化財研究所が29日、発表した。

 道幅は最大で約18メートルとみられ、国内初の本格都城・藤原京(694−710年)のメーンストリートだった朱雀大路に匹敵する規模。7世紀後半は中国を手本に藤原京の造営が始まった時期で、当時の都市計画や政治情勢を考える資料になりそうだ。

 発掘されたのは、東西方向に走る道路の南側側溝。これまでの調査で北側側溝が確認されるなど山田道とみられる遺構はいくつか見つかっているが、道幅など規模が判明したのは初めて。

 日本書紀は613年、推古天皇が「大道」を整備したと記述。横大路など朝廷が維持管理した交通幹線の一つとして山田道もつくられたと考えられている。

 弥生中期の神殿か
 鳥取で大型建物跡を発掘

 鳥取県大山町の文珠領遺跡で、約2200年前(弥生時代中期)の大型掘っ立て柱建物跡が見つかり、同町教育委員会が29日、発表した。

 伊勢神宮など後の神社建築に通じる「独立棟持ち柱」という特殊な構造で、同様の建物跡は文珠領遺跡より古い上の山遺跡(大阪府)など各地の弥生集落跡で発掘されている。町教委は「神殿や祭殿のような特別な施設だったのではないか」と話している。

 独立棟持ち柱は、切り妻の屋根を支える柱が壁から独立して離れた造り。建物を壮大に見せることができ、今も神明造りの神社で採用されている。

 掘っ立て柱建物跡は少なくとも2棟以上あり、1棟が独立棟持ち柱を持つ高床式の建物だったとみられる。棟持ち柱とされる柱の穴跡は直径約1・2メートル、深さ1・2メートルで、柱の直径は約30センチだったと推測される。

 建物のごく一部しか発掘されておらず、全体の規模は不明。


 弥生中期の神殿か
 鳥取で大型建物跡を発掘

 鳥取県大山町の文珠領遺跡で、約2200年前(弥生時代中期)の大型掘っ立て柱建物跡が見つかり、同町教育委員会が29日、発表した。

 伊勢神宮など後の神社建築に通じる「独立棟持ち柱」という特殊な構造で、同様の建物跡は文珠領遺跡より古い上の山遺跡(大阪府)など各地の弥生集落跡で発掘されている。町教委は「神殿や祭殿のような特別な施設だったのではないか」と話している。

 独立棟持ち柱は、切り妻の屋根を支える柱が壁から独立して離れた造り。建物を壮大に見せることができ、今も神明造りの神社で採用されている。

 掘っ立て柱建物跡は少なくとも2棟以上あり、1棟が独立棟持ち柱を持つ高床式の建物だったとみられる。棟持ち柱とされる柱の穴跡は直径約1・2メートル、深さ1・2メートルで、柱の直径は約30センチだったと推測される。

 建物のごく一部しか発掘されておらず、全体の規模は不明。

 弾圧から守る施設か-土塁跡や掘跡確認

 聖徳太子の伝承が残る王寺町本町の達磨寺で、境内の東側を区切る堀跡や土塁跡が、町教育委員会の調査で見つかった。江戸時代ごろの絵図では、西側を除く三方が堀に囲まれており、初めて裏づけられた。興福寺の強い弾圧から防衛するために設けた可能性が高いという。

 現在は農地で宅地の造成に伴い調査した。堀は幅約3.2メートル、深さ約1.3メートルで、東端は確認できなかった。絵図には幅三間(5.45メートル)とあり、さらに東に続くとみられる。

 掘り出した土で土塁を築いており、現存の高さは0.7メートル。土の量から本来の高さは約1.5メートルと推定でき、土を叩き締めながら頑丈に造られていた。

 古代の高級邸宅か-明日香・竹田遺跡

 明日香村教育委員会は27日、同村飛鳥の竹田遺跡から、飛鳥時代の掘っ立て柱建物跡が見つかったと発表した。これまでの調査でも大型建物跡群が出土し、遺跡が北側に広がっていたことがわかった。飛鳥の盆地を見下ろす丘陵地で、皇族や高級官僚が住む「古代の高級住宅地」だったと推定されている。

 1月下旬から約420平方メートルを調査。多数の柱跡が出土し、7世紀後半とみられる建物跡2棟を確認した…

 ●現地見学会は31日午後1時から3時。少雨決行。現場は近鉄橿原神宮前東口から奈良交通バスで飛鳥下車、東へ徒歩約15分。駐車場はない。

 1つの火葬墓に4人を埋葬
 福岡、8世紀の有力豪族か

 福岡県前原市の多久遺跡群で、奈良時代(8世紀)の火葬墓群が出土し、同市教育委員会が26日、発表した。うち1つの墓は4人を埋葬したとみられる全国初の例で、同市教委は「地域の有力豪族一族の墓ではないか。地方での終末期古墳から火葬墓への変遷を示す貴重な資料」としている。

 発見された火葬墓は計3基。うち1基(8世紀前葉−中葉)は小石室を築き、内部に4つの骨つぼ(須恵器、土師器)を納めていた。4つとも骨が入っていたが残存状況は悪く、性別や年齢は不明。被葬者は2世代以上の4人とみられるという。

 残りの2基(8世紀中葉−後葉)には石室はなく、穴に骨つぼが1つずつ納めてあった。

 同市教委によると、火葬は700年に僧・道昭の葬儀で初めて行われたと続日本紀に記され、天皇や貴族、地方官僚らに広がっていった。


 1つの火葬墓に4人を埋葬
 福岡、8世紀の有力豪族か

 福岡県前原市の多久遺跡群で、奈良時代(8世紀)の火葬墓群が出土し、同市教育委員会が26日、発表した。うち1つの墓は4人を埋葬したとみられる全国初の例で、同市教委は「地域の有力豪族一族の墓ではないか。地方での終末期古墳から火葬墓への変遷を示す貴重な資料」としている。

 発見された火葬墓は計3基。うち1基(8世紀前葉−中葉)は小石室を築き、内部に4つの骨つぼ(須恵器、土師器)を納めていた。4つとも骨が入っていたが残存状況は悪く、性別や年齢は不明。被葬者は2世代以上の4人とみられるという。

 残りの2基(8世紀中葉−後葉)には石室はなく、穴に骨つぼが1つずつ納めてあった。

 同市教委によると、火葬は700年に僧・道昭の葬儀で初めて行われたと続日本紀に記され、天皇や貴族、地方官僚らに広がっていった。

 平安京の右京 再開発?
 京都市埋文研調査 五条大路遺構を確認

 京都市中京区の発掘調査で、五条大路など平安時代後期(11世紀後半以降)に再整備されたとみられる路面が見つかったことが26日までに分かった。平安京右京は平安中期以降、廃れたとされるが、一部で再開発されていたことを示す遺構として注目される。

 ■中期に衰退“定説だけど…

 JR山陰線の高架化に伴い、市埋蔵文化財研究所が昨年8−12月、四条通から松原通までの南北約450メートルを3−4メートルの幅で調査した。

 調査地は平安京の朱雀大路のすぐ西側に当たり、五条大路(現松原通)の路面と北側溝、高辻小路の南側溝、五条坊門小路(現・仏光寺通)に伴う整地層、綾小路の南側に掘られた幅2・5メートル、深さ90センチの堀跡など、の平安後期の東西の通りの遺構が次々見つかった。また、五条大路の北側で、柱を抜き取った後に石を埋め、地鎮祭をしたとみられる穴も見つかった。

 右京の荒廃は慶滋保胤(よししげのやすたね)の「池亭記」に記され、発掘でも確認されていた。しかし、近年、調査地の500メートルほど南で同時期の御堂や建物跡が見つかっており、今回の成果で平安後期の開発が比較的広範囲であったことが確認された。

 山田邦和・花園大教授(考古学・都市史)は「当時右京は廃れてはいたが、五条大路など東西の通りは松尾大社などへの参詣道、桂川の港へ向かう交通路として生き続けた。通り沿いに西へ櫛(くし)状に町が形成されたことを示す遺構ではないか」と話している。

 未盗掘墳から大量の副葬品
 出雲、装飾大刀や馬具

 2002年に未盗掘の横穴式石室から銀糸の装飾付き大刀が見つかった島根県出雲市国富町の中村1号墳(6世紀後半)で、新たに馬具2組や装飾大刀2本、小刀、須恵器など大量の副葬品が発掘され、同市文化財課が23日、発表した。

 大刀や一部の須恵器は形などから近畿で作られたとみられ、同課は「大和朝廷と密接なつながりを持つ有力豪族の墓ではないか。当時の政治情勢や埋葬儀礼を考える貴重な資料」と話している。

 馬具はいずれも鉄製で、金銅製の飾り金具「杏葉」などがついた立派なつくり。装飾大刀は1本に金銅を巻いたさや、もう1本には金銅製のつばが付いていた。鉄製のやじりが6点、かめなどの須恵器も54点あった。

 石室は奥の「玄室」と入り口側にある「前室」の2部屋に分かれ、玄室には古墳の主を葬ったとみられる家形石棺、前室には近親者のものとみられるふたのない石棺を安置。2本の大刀は玄室、馬具は前室にあった。


 未盗掘墳から大量の副葬品
 出雲、装飾大刀や馬具

 2002年に未盗掘の横穴式石室から銀糸の装飾付き大刀が見つかった島根県出雲市国富町の中村1号墳(6世紀後半)で、新たに馬具2組や装飾大刀2本、小刀、須恵器など大量の副葬品が発掘され、同市文化財課が23日、発表した。

 大刀や一部の須恵器は形などから近畿で作られたとみられ、同課は「大和朝廷と密接なつながりを持つ有力豪族の墓ではないか。当時の政治情勢や埋葬儀礼を考える貴重な資料」と話している。

 馬具はいずれも鉄製で、金銅製の飾り金具「杏葉」などがついた立派なつくり。装飾大刀は1本に金銅を巻いたさや、もう1本には金銅製のつばが付いていた。鉄製のやじりが6点、かめなどの須恵器も54点あった。

 石室は奥の「玄室」と入り口側にある「前室」の2部屋に分かれ、玄室には古墳の主を葬ったとみられる家形石棺、前室には近親者のものとみられるふたのない石棺を安置。2本の大刀は玄室、馬具は前室にあった。

 天文図分割を決定
 キトラ古墳で文化庁委員会

 奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)の壁画保存をめぐり、文化庁の調査研究委員会は23日、奈良市で会合を開き、石室天井に残る天文図は劣化が激しいため1枚でのはぎ取りを断念し、分割して取り外すことを決めた。

 天文図は微生物被害でしっくい層が内側から溶け始めており、いつ崩落してもおかしくない状態。壁石と違い、天井は緩やかにカーブしているため、四神図「朱雀」のはぎ取りを成功させた特製カッターも使えず、作業を担当する東京文化財研究所が新たな技術開発を検討している。

 一方、泥で覆われたままの壁面には未確認の十二支図「辰」や「巳」が残っている可能性もあるといい、調査の時期や方法が課題になっている。

 文化庁は委員会に先立ち、2月までに特製カッターではぎ取った朱雀図と十二支図「寅」を委員に公開。

 発掘・解体同時進行を決定
 高松塚古墳で4月スタート

 国宝壁画保存のため石室が解体される奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)をめぐり、文化庁の恒久保存対策検討会が22日、奈良市で開かれ、発掘と解体を同時に進める作業方法を決めた。

 4月上旬からの解体開始も決まり、壁画救出に向けた大事業がいよいよスタートする。

 作業は石室が半分ほど盛り土に埋まった状態で始める。壁石に載っている天井石はそのままクレーンを使って運び出すが、東西計6枚の壁石や北壁は、つり上げる前に石の周囲の土をその都度取り除き、解体する手順になる。

 当初の計画は、石室全体をむき出しにして石を運び出す予定だった。

 しかし発掘調査で天井石が傾いていることなどが判明。周囲の盛り土をすべて取り除くとバランスが崩れ、壁石が倒壊する恐れがあり、13日の検討会作業部会で計画変更の方針が示されていた。

 高松塚の発掘日誌見つかる
 調査チームの学生が記す

 4月から石室が解体される奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初)で、1972年3月21日の壁画発見当時、調査に加わっていた大学生が個人的に記した詳細な発掘日誌が残っていることが21日、分かった。

 日誌には、発見直後の壁画や遺物の様子が克明に記され、「しっくいの上に描かれており、保存が気にかかる」と壁画の行く末を懸念する記述もあった。当時の調査の様子を知る貴重な資料として注目されそうだ。

 記録は、調査がスタートした3月1日から壁画発見の記者発表が行われた26日までの60ページ。龍谷大3年生だった同県橿原市立今井小学校教頭の島田隆昌さん(56)が書いて自宅に保管していた。

 日誌によると、調査は淡々と進んでいたが、21日の昼休みにチームを率いる故・網干(あぼし)善教関西大名誉教授が「壁画発見」を打ち明け、様子は一変。「興奮冷めやらぬまま全員が交代で開口部に首を突っ込み、埋葬施設内部をのぞき観察する」「(重要性は)先生の表情、声を見ても明らかである」とチームの高揚ぶりを記している。

 「馬引く人」埴輪が出土
 大阪大の円墳

 大阪大学の豊中キャンパス(大阪府豊中市)内にある待兼山5号墳(5世紀末、円墳)で、馬を引く人の埴輪片が見つかり、同大埋蔵文化財調査室が20日、発表した。

 乗馬は5世紀前後に朝鮮半島から伝わった新しい風習で、権威の象徴だったとみられる。馬と人がセットになった埴輪は珍しく、最古級という。

 埴輪の高さは推定で馬が約78センチ、人が約64センチ。人のほおに入れ墨を表す縦線が刻まれていることから、同調査室は「警護や芸能など特殊な役割を担う人かもしれない」と推測している。

 平城宮の「霞が関」か
 8世紀の大型建物跡発掘

 奈良市の平城宮跡で、築地塀で囲まれた大規模な区画から8世紀の大型建物群跡が見つかり、奈良文化財研究所が20日、発表した。

 天皇が政務を執った大極殿跡に隣接していることなどから、天皇の秘書業務を担う中務省か、各省を総括する律令制の最高官庁・太政官だった可能性があるという。

 同研究所は「現場周辺は、中央官庁が集まる古代の霞が関だったと考えられる。平城宮の役所配置は分かっていない部分が多く、当時の都市計画を復元する貴重な手掛かり」と話している。

 区画は東西50メートル、南北120メートル以上。北から約50メートルのところに築地塀があり、南北の2エリアに仕切られていた。

 南側エリアには基壇跡があり、推定で東西約29メートル、南北約19メートル、高さ80センチ以上。建物規模は不明だが、礎石を置き柱を据えた立派な建物があったとみられる。

 弥生土器に真っ赤な太陽?
 島根・矢野遺跡で出土

 島根県出雲市にある弥生時代の大規模集落跡・矢野遺跡で、太陽のような絵や「く」の字をつないだ綾杉模様などを赤い顔料で描いた彩文土器の破片が大量に見つかっていたことが17日、分かった。

 彩文土器は約2500年前(弥生時代早期)に九州で製作が始まった。兵庫県、奈良県などでも出土しており、瀬戸内海経由で東へ伝わったとされるが、調査した同市文化財課は「もう一つの日本海ルートがあったのではないか。当時の交易や地域交流を考える資料になる」と話している。

 発掘された破片はいずれも約2300年前(弥生時代前期)とみられ、復元するとつぼ約30個分。漆とみられる黒い顔料を塗った上に赤色のベンガラで文様を描いており、コントラストが美しい。未整理の遺物が多数あり、彩文土器がさらに見つかる可能性が高い。

 出土した彩文土器は、21日午前11時から午後3時、出雲健康公園健康センター(同市矢野町)で展示される。

 弥生土器に真っ赤な太陽?
 島根・矢野遺跡で出土

 島根県出雲市にある弥生時代の大規模集落跡・矢野遺跡で、太陽のような絵や「く」の字をつないだ綾杉模様などを赤い顔料で描いた彩文土器の破片が大量に見つかっていたことが17日、分かった。

 彩文土器は約2500年前(弥生時代早期)に九州で製作が始まった。兵庫県、奈良県などでも出土しており、瀬戸内海経由で東へ伝わったとされるが、調査した同市文化財課は「もう一つの日本海ルートがあったのではないか。当時の交易や地域交流を考える資料になる」と話している。

 発掘された破片はいずれも約2300年前(弥生時代前期)とみられ、復元するとつぼ約30個分。漆とみられる黒い顔料を塗った上に赤色のベンガラで文様を描いており、コントラストが美しい。未整理の遺物が多数あり、彩文土器がさらに見つかる可能性が高い。

 出土した彩文土器は、21日午前11時から午後3時、出雲健康公園健康センター(同市矢野町)で展示される。


 奈良期の竪穴住居跡が10棟出土
 彦根・松原内湖遺跡の傾斜地で

 滋賀県彦根市松原町の松原内湖遺跡を発掘調査していた県教委は15日、丘陵と内湖に囲まれた傾斜地から奈良時代の竪穴住居跡10棟が出土した、と発表した。農耕に適さない谷に立地する同時期の集落の発見は県内で初めてで、「内湖とかかわりのある暮らしをうかがわせる貴重な遺跡」としている。

 調査は琵琶湖流域下水道東北部浄化センターの増設工事に伴い、県文化財保護協会が昨年7月から約3400平方メートルの範囲で行っていた。

 谷底に当たる東西約30メートル、南北約80メートルの傾斜地に、8世紀ごろとみられる竪穴住居跡10棟の柱穴を確認した。住居は一辺が3−4メートルの正方形で、半世紀ほどの間に繰り返し建て替えられた形跡があるという。煮炊き用のかまど跡や魚の捕獲網用の土製の錘(おもり)、須恵器の食器、井戸跡も出土した。

 県文化財保護協会によると、一帯は水田耕作に適さず陸路での行き来は不便だが、日当たりがよく湖からの風を避けることができるという。小島孝修主任技師は「水上交通に向いており、漁業か水運か、何らかの形で湖にかかわる職業に従事していた人々の生活を解明するうえで興味深い」と話している。

 現地説明会は18日午後1時半から行われる。

 キトラ玄武、痛々しい姿に
 修復後も傷あとくっきり

 奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)で、保存のため石室壁面から5分割してはぎ取られた四神図「玄武」の修復が終わり、文化庁が15日、写真を公開した。

 絡み合うヘビの頭とカメの甲羅が左右真っ二つになるなど、分割時の痛々しい傷あとがくっきり残る。最先端の保存科学技術でも、元通りには戻せなかった。

 玄武図(縦14・5センチ、横25センチ)は、2005年11月にへらを使って北壁から取り外された。絵が描かれたしっくい層に、壁石の接ぎ目に沿って亀裂ができていたため分割せざるを得なかったが、文化庁は「修復すれば元に戻る」と説明していた。

 国内最古の人面彫刻か
 佐賀市・東名遺跡で出土

 佐賀市教育委員会は15日、東名遺跡(同市金立町)の第2貝塚で縄文時代早期(約7000年前)の人面とみられる木製品が出土したことを明らかにした。人の顔を表現した木製彫刻物としては国内最古という。

 市教委は「木製の人面ならば、これ以上古い出土例はなく大変珍しい」としている。面は縦約40センチ、幅約20センチ、厚さが最大約2・5センチ。目の部分にのぞき穴がなく、裏面には縦にこすったような跡があったことから、顔にかぶったのではなく、棒などにくくりつけて使ったらしい。

 左右の縁には3個ずつ穴が開いており、ひもなどを通したとみられる。また、加工しやすくするため全体を火であぶったとみられ、焦げた部分を鼻筋に沿って削り取った跡があった。

 同遺跡群調査指導委員の山田昌久首都大学東京准教授(考古学)は「祭祀用やデスマスクとして使われた可能性が高い。当時の社会を知る上で貴重な資料だ」と話した。


 国内最古の人面彫刻か
 佐賀市・東名遺跡で出土

 佐賀市教育委員会は15日、東名遺跡(同市金立町)の第2貝塚で縄文時代早期(約7000年前)の人面とみられる木製品が出土したことを明らかにした。人の顔を表現した木製彫刻物としては国内最古という。

 市教委は「木製の人面ならば、これ以上古い出土例はなく大変珍しい」としている。面は縦約40センチ、幅約20センチ、厚さが最大約2・5センチ。目の部分にのぞき穴がなく、裏面には縦にこすったような跡があったことから、顔にかぶったのではなく、棒などにくくりつけて使ったらしい。

 左右の縁には3個ずつ穴が開いており、ひもなどを通したとみられる。また、加工しやすくするため全体を火であぶったとみられ、焦げた部分を鼻筋に沿って削り取った跡があった。

 同遺跡群調査指導委員の山田昌久首都大学東京准教授(考古学)は「祭祀用やデスマスクとして使われた可能性が高い。当時の社会を知る上で貴重な資料だ」と話した。

 未盗掘石室に馬具やよろい
 5世紀、岡山の勝負砂古墳

 岡山県倉敷市にある5世紀後半の勝負砂古墳(前方後円墳、全長42メートル)で、未盗掘の竪穴式石室から馬具やよろいなど大量の副葬品が見つかり、岡山大学考古学研究室が14日、発表した。

 天井石8枚のうち1枚が割れて石室に落ち込んでいるだけで、ほぼ完全な姿。石室は古代朝鮮半島の古墳とよく似た工法で築かれており、松木武彦助教授は「被葬者は半島と関係の深い人物かもしれない。5世紀の未盗掘墳が見つかるのは全国的にも例がなく、埋葬時の様子が分かる貴重な発見だ」と話している。

 確認された副葬品は銅鏡1枚、鉄製の馬具とよろい、黒漆塗りの柄がついたやりか矛、やじりの束、土器など。木製品や革の一部も残っていた。

 同研究室によると、石室は崩落した天井石や土砂で床面の半分近くが埋もれており、さらに多くの副葬品が見つかる可能性が高い。


 未盗掘石室に馬具やよろい
 5世紀、岡山の勝負砂古墳

 岡山県倉敷市にある5世紀後半の勝負砂古墳(前方後円墳、全長42メートル)で、未盗掘の竪穴式石室から馬具やよろいなど大量の副葬品が見つかり、岡山大学考古学研究室が14日、発表した。

 天井石8枚のうち1枚が割れて石室に落ち込んでいるだけで、ほぼ完全な姿。石室は古代朝鮮半島の古墳とよく似た工法で築かれており、松木武彦助教授は「被葬者は半島と関係の深い人物かもしれない。5世紀の未盗掘墳が見つかるのは全国的にも例がなく、埋葬時の様子が分かる貴重な発見だ」と話している。

 確認された副葬品は銅鏡1枚、鉄製の馬具とよろい、黒漆塗りの柄がついたやりか矛、やじりの束、土器など。木製品や革の一部も残っていた。

 同研究室によると、石室は崩落した天井石や土砂で床面の半分近くが埋もれており、さらに多くの副葬品が見つかる可能性が高い。

 本堂の建物跡見つかる
 宮津・成相寺の旧境内

 京都府の宮津市教委は14日、西国三十三カ所観音霊場の二十八番札所・成相寺の旧境内発掘調査で、かつての本堂とみられる建物跡や奈良時代から室町時代にかけての遺物が見つかった、と発表した。不明だった旧伽藍(がらん)の規模や、8世紀初頭とされる創建時期を裏付ける貴重な資料としている。

 成相寺は、天橋立を眼下に望む成相山の標高約330メートルにある真言宗の寺。同寺に伝わる「成相寺古記」によると、704(慶雲元)年に文武天皇の勅願で創建され、1400(応永7)年に山崩れのため旧伽藍が壊滅したとあるが、詳細な裏付け資料はなかった。

 今回の調査では、発掘や測量などで旧伽藍が約6万平方メートルと広大であることが分かり、現在の本堂から北へ約300メートル(標高約400メートル)に設けられた平たん地に、東西約22メートル、南北約14メートルの建物跡が見つかった。建物跡は土器破片などの遺物の状況から、10−14世紀に造営された本堂と推察されるという。

 また、同地からは8世紀後半とされる須恵器や土師(はじ)器の杯も出土し、創建時期が遅くとも奈良時代後半であることが立証されたという。

 さらに、敷地内には70カ所を超える平らな段地形があり、建物の基礎となる石列や井戸跡などが発掘され、古記にある塔や僧坊などの存在もうかがえるという。

 同市教委は「三井寺の覚忠や本願寺の覚如ら高僧が参詣していたという歴史資料の通り、眺望に恵まれた成相寺は昔から、多くの人のあこがれの聖地だった」としている。

 現地説明会は18日午後1時半から。問い合わせは同市歴史資料館Tel:0772(22)8686。


 政庁の「中門」発見 築地塀も確認
 大津・史跡近江国庁跡

 滋賀県教委は14日、史跡近江国庁跡(大津市大江6丁目)から、政庁(国庁の中心部)の正面玄関にあたる「中門」とみられる遺構が見つかった、と発表した。門を囲う築地塀も合わせて確認し、県教委は「今まで不明だった国庁の南側の様子が明らかになり、政庁の構造を解明する上で重要な手掛かりになる」としている。

 近江国庁は古代の役所で、奈良時代(8世紀)から平安中期(10世紀)まで政治、経済の中心的な機能を果たした。

 遺構が発見されたのは、政庁前殿から南へ約40メートルの地点。門の基礎部分にあたる基壇(東西約13・5メートル、南北約8・4メートル)の一部と門前方の礎石の据え付け柱跡4カ所があった。基礎部分は雨水で崩れないように瓦を敷き詰め、強度を高めた「瓦積み基壇」。柱跡は東西に並び、中心の2本の間隔は約3・9メートル、左右両側の間隔は約3メートルあった。

 国庁の中門とみられる遺構は、多賀城跡(宮城県)、伊勢国庁跡(三重県)など6カ所で確認されている。

 門の東側で確認された築地塀の幅は約3メートルあった。2度改修されており、当初の幅は約1・8メートルで、60センチずつ拡張した跡が確認された。県教委は「組織改編の際や威厳を示すために施したのでは」とみている。

 中門の南約100メートルのところには当時の主要街道「東山道」があったとされる。中門から東山道に至る道は下り坂となっており、富山大の黒崎直教授(考古学)は「東山道を通る人たちは門や塀を見上げる形になり、門や壁の威容に驚いたはず。国の出先機関として権威付け的な視覚効果も狙っていたのでは」と指摘する。

 現地説明会は、17日午後2時から(雨天決行)。問い合わせは県教委文化財保護課Tel:077(528)4674。

 石室解体方法を変更
 高松塚、倒壊の危険

 国宝壁画保存を目的とした奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)石室解体をめぐり、文化庁の恒久保存対策検討会作業部会は13日、奈良市で会合を開き、部会委員が解体方法の変更を提案した。

 石室全体が傾いており、今後の発掘調査で石室をむき出しにすると倒壊などの危険があると指摘。発掘と並行して解体する方法を提案した。22日に開く検討会で報告、了承を得る考え。解体は4月上旬から始めることを確認した。

 高松塚は、これまでの発掘で厚さ約60センチの天井石まで掘り進んだ。当初は3月末までに壁石の周りの盛り土をすべて取り除いた上で、解体に取り掛かる計画だった。

 この日の会合は、解体担当者が当初計画による作業のリスクを説明した。天井や側壁の石は内部に細かい亀裂が入っていると推定され、固定する器具の締め付けで損傷したり、既に傷のある部分が落ちて壁画を傷つけることも考えられるという。

 キトラ石室を3D計測
 天文図保存に向け調査

 壁画劣化が進む奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)で、文化庁は13日、石室内を3次元(3D)計測した。天井に残る天文図の保存に向け詳細なデータを収集し、はぎ取り実験などに使う天井石の模型をつくる。

 レーザーで5ミリ間隔に1万数千地点を測量。緩やかにカーブした天井の形状や石の表面のわずかな凹凸まで解析できるという。

 キトラ古墳の石室についてはこれまで原寸大の写真しかなく、詳細な実測図は作成されていなかった。文化庁は、近く解体が始まる高松塚古墳(同村)でも石室を3D計測している。

 天文図は傷みが激しく、触れるとはく落する恐れがあることなどから、四神図「朱雀(すざく)」のはぎ取りを成功させた特製カッターも使えず、同庁が保存方法を検討している。

 天文図に新たなカビ