古墳・遺跡・化石・現地説明会 他
Recent entries
2008/10/05 (Sun)
飛鳥京跡
2008/10/02 (Thu)
浄土屋敷遺跡
2008/10/02 (Thu)
向日市埋蔵文化財センター
2008/10/02 (Thu)
金貝遺跡
2008/10/01 (Wed)
エジプト展
2008/10/01 (Wed)
高松塚壁画
2008/09/30 (Tue)
南曽我遺跡
2008/09/30 (Tue)
箸墓古墳
2008/09/28 (Sun)
藤原宮朝堂院跡
2008/09/27 (Sat)
平城宮跡
石室内を再現
高松塚壁画、鮮やかに再現
奈文研が映像制作
国宝壁画修復のため石室を解体した奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)の石室内を鮮明に再現した映像が完成し、制作した奈良文化財研究所が30日、報道陣に公開した。
実際の石室内で壁画をじっくり観察するようなリアルさで、同研究所は「描線や顔料の濃淡、繊細な筆遣いまで分かる。かけがえのない壁画の魅力を広く知ってもらいたい」としている。
映像は10分間。南壁の盗掘穴から石室に入り、4神図「玄武」が描かれた北壁へ。東、南、西壁をぐるりと回り、最後に天文図がある天井を映し出す。「飛鳥美人」と呼ばれる女子群像など1つ1つの壁画について、絵の特徴や傷み具合も解説している。
解体前に撮影した高精度のデジタル写真を石室の3次元(3D)計測データと合わせてコンピューター処理。立体的で滑らかな動画に仕立てた。
デジタル高松塚、濃淡まで鮮明
奈文研が映像制作
国宝壁画修復のため石室を解体した奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)の石室内を鮮明に再現した映像が完成し、制作した奈良文化財研究所が30日、報道陣に公開した。
実際の石室内で壁画をじっくり観察するようなリアルさで、同研究所は「描線や顔料の濃淡、繊細な筆遣いまで分かる。かけがえのない壁画の魅力を広く知ってもらいたい」としている。
映像は10分間。南壁の盗掘穴から石室に入り、四神図「玄武」が描かれた北壁へ。東、南、西壁をぐるりと回り、最後に天文図がある天井を映し出す。「飛鳥美人」と呼ばれる女子群像など一つ一つの壁画について、絵の特徴や傷み具合も解説している。
解体前に撮影した高精度のデジタル写真を石室の三次元(3D)計測データと合わせてコンピューター処理。立体的で滑らかな動画に仕立てた。
映像は奈良県橿原市の同研究所藤原宮跡資料室で希望者に公開する。
2007/10/31 17:54
奈 良
特別史跡安土城跡
安土城、もっと広かった?
石垣上に「虎口」が出土
滋賀県安土城郭調査研究所は29日、安土町下豊浦(しもといら)の特別史跡安土城跡で、要所への出入り口となる「虎口(こぐち)」が新たに出土したと発表した。これまで城の内外を画すとみられてきた石垣上で見つかったことから、同研究所は石垣の外側の内堀も城域に含まれると推定、「安土城が近世城郭の先駆けと位置付けられる」としている。
新たに見つかった虎口は幅約4・5メートルで、中央の大手門の西約180メートル、西端の百々橋(どどばし)口の東約150メートルにあった。家臣が登城に使ったらしい。
虎口の奥にある踊り場の西からは7段の石段と幅1・2メートルのスロープも出土した。礎石などから櫓(やぐら)門など重厚な門ではなく、虎口を西の端に持つ平屋の建物だったとみている。
虎口が見つかった場所はこれまで、石垣が続いていると推測され、その外側の石敷き路は一般人が通行できる城外の道とみられていた。
しかし、侵入口になり得る虎口が城外路に面してあれば守備上の弱点となるうえ、虎口を持つ建物も防御に適していないことから、約120メートル南まで広がる内堀を含めて城域と考えるべきとしている。
淀城、江戸城など後世の城郭は内堀を城域に取り込んで防御するのが特徴だが、堀の内側の道が堀の外から見える構造の城はごくまれ。近藤滋所長(62)は「安土城はこれまで城外路に面する特異な構造を持つ城とみられていたが、近世城郭の先駆けをなすことが分かった。1989年以来18年間の調査を見直す発見」としている。
現地説明会は11月3日午前10時半から。
問い合わせは同研究所TEL0748(46)6144。
2007/10/30 16:59
滋 賀
中原遺跡
防人が作った食器用土器か
唐津の中原遺跡で出土
北部九州防衛のため東国から赴任した防人が作ったとみられる食器用土器が、佐賀県唐津市の中原遺跡で見つかった。同市の「古代の森会館」で30日から開く「古代の中原遺跡」展で公開される。
原料の土は地元のほかの土器と同じだが、8世紀ごろ相模国(神奈川県)で作られていた「相模型杯」と同型であることが確認され、相模出身の防人がこの地域に派遣されていたことをうかがわせる。
中原遺跡では一昨年、甲斐国(山梨県)出身の防人の存在を示す木簡も出土した。
唐津市教育委員会によると、土器は口径約14センチ、高さ約4センチ。へらで表面を削った際に砂粒がこすれてできる小さな溝が多いなど、相模型杯の特徴を備えている。破片をつなぎ合わせ、全体の3分の2ほどが復元された。
2007/10/29 17:53
残 骸
中原遺跡
防人が作った食器用土器か
唐津の中原遺跡で出土
北部九州防衛のため東国から赴任した防人が作ったとみられる食器用土器が、佐賀県唐津市の中原遺跡で見つかった。同市の「古代の森会館」で30日から開く「古代の中原遺跡」展で公開される。
原料の土は地元のほかの土器と同じだが、8世紀ごろ相模国(神奈川県)で作られていた「相模型杯」と同型であることが確認され、相模出身の防人がこの地域に派遣されていたことをうかがわせる。
中原遺跡では一昨年、甲斐国(山梨県)出身の防人の存在を示す木簡も出土した。
唐津市教育委員会によると、土器は口径約14センチ、高さ約4センチ。へらで表面を削った際に砂粒がこすれてできる小さな溝が多いなど、相模型杯の特徴を備えている。破片をつなぎ合わせ、全体の3分の2ほどが復元された。
2007/10/29 17:53
其 他
伏見城石垣
伏見城石垣 参道にごろり
桃山御陵 工事で出土、宮内庁が「展示」
京都市伏見区桃山町の桃山御陵の参道で、下水道敷設工事中に、伏見城の石垣とみられる石が29日までに多数見つかった。宮内庁桃山陵墓管区事務所は、市民に見てもらうため、石を参道脇に並べ展示している。
石は花こう岩の切石で、40個ほどが崩れ落ちた状態で見つかった。大きさもさまざまで、一辺40センチ−1・8メートル。石を切り出すときのくさびの跡が残っていた。
京都市文化財保護課によると、一帯は伏見城の大きな堀には当たらず、本丸の西南にある三の丸付近とみられることから、三の丸の斜面に積まれた石垣ではないかとみている。
同事務所は「地域の歴史を伝える貴重なものなので、説明板を設置し、恒久的な展示にしたい」と話している。
2007/10/29 17:50
京 都
伊賀寺遺跡
弥生時代の川跡出土
長岡京市下海印寺上内田の伊賀寺遺跡で、弥生時代後期(約1800年前)の遺物を含む川跡などが確認され、京都府埋蔵文化財調査研究センターが27日、現地説明会を開催した。
今回見つかった弥生時代の川跡からは、同時期の土器がほぼ完全な形で数多く出土。未加工の木も発見されており、周辺の樹木が流れ込んだものとみられる。
さらにこの調査地の西側では、弥生時代後期の竪穴式住居跡1基が発見。直径約1.6メートルの住居とみられ、中心には直径60センチほどの中央土坑が確認されたという。
同センターは「川跡の西側に、弥生時代の集落が広がっているのではないか」と分析している。
調査は、京都第2外環状道路建設に先立って行われている。
2007/10/28 17:46
京 都
宇治市街遺跡
平等院と同じ木型の軒丸瓦 宇治市街遺跡で出土 藤原摂関家の邸宅跡か
宇治市歴史資料館は26日、「宇治市街遺跡」(宇治市宇治)から、平等院・小御所跡の瓦と同じ木型で焼かれた軒丸瓦が出土したと発表した。平安時代後半の大型建物の柱穴や、当時、家の格式を示した中国・宋の白磁の水差しの破片なども見つかり、同資料館は、藤原摂関家にかかわる邸宅があった可能性が高いとみている。
JR宇治駅の西側にある元病院跡で、マンション建設に伴う調査。発掘面積は約500平方メートル。瓦は軒丸瓦1個と軒平瓦2個が見つかった。小御所跡の瓦と同じ軒丸瓦は、頭の部分が直径約15センチで、花弁をデザイン化した複弁蓮華(れんげ)紋で、小御所で出土したものと同じところに傷があり、同一の木型を使ったとわかった。
宇治市街遺跡では、これまでにも平等院と同じ唐草文や巴文の文様がある瓦が見つかっており、同資料館は「時代を考えると、平安時代の摂政・関白藤原頼通、師実(もろざね)、師通(もろみち)の邸宅や別業(別荘)だったのではないか」と話している。
2007/10/27 17:59
京 都
キトラ古墳
天文図朱線剥ぎ取り
明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末―8世紀初)の壁画修復で、文化庁は25日、天井に残る天文図で、漆喰(しっくい)が劣化して剥落(はくらく)の危険性が高い朱線などを剥(は)ぎ取った。作業は先月27日に続き4回目。
作業は24、25日の2日間実施。天文図南側の星座「孤矢」付近と南東の星座「星宿」付近を通る「外軌」の朱線2カ所のほか南側の余白1カ所を剥ぎ取った。
2007/10/26 17:36
奈 良
友岡遺跡
縄文時代の石冠など見つかる
長岡京・友岡遺跡 府内5例目
京都府埋蔵文化財センターは25日、長岡京市下海印寺と友岡など2カ所の発掘調査で、縄文時代後期の石冠(せきかん)や弥生時代後期の竪穴式住居跡などが見つかったと発表した。
石冠は、長岡京市下海印寺・友岡にまたがる友岡遺跡内から単独で見つかった。高さ約8センチ、直径約5センチ、重さ約300グラムの安山岩で、男性器を模した形をしており、多産などを願う祭事に使われたとみられる。石冠が見つかったのは京都府内では5例目。
石冠は、岐阜県など中部地方を中心に出土しており、同センターは中部地方との交流によって持ち込まれたのではないかと推測している。ほかにも狩猟で使われた有舌尖頭(ゆうぜつせんとう)器なども見つかった。
一方、長岡京市下海印寺の伊賀寺遺跡では、弥生時代後期のものと見られる竪穴式住居跡が見つかり、6メートル四方で中央にはかまどが据えられていたような土抗もあった。
現地説明会は27日午前10時から伊賀寺遺跡で、同日午前11時から友岡遺跡で行われる。問い合わせは現地事務所Tel:075(953)1544。
2007/10/26 17:00
京 都
酒船石遺跡
水路に大量のベニバナ-みそぎ用?
明日香村岡の酒船石遺跡で、亀形石造物近くの水路(7世紀後半)から、ベニバナの花粉が大量に検出されていたことが分かった。奈良教育大学の金原正明准教授(環境考古学)が堆積土を分析した。花粉を水に溶かすなど、みそぎに使われた可能性があるという。
水路は亀形石像物から北に伸びており、幅約1.6メートル。ベニバナは全花粉の約10―30%で、水に溶かせば真っ赤になる量という。暗渠構造の溝からもベニバナの花粉が検出された。
亀形石像物はわき水を利用した祭祀(し)施設と考えられており、周辺には石敷きが施されている。女帝・斉明天皇(在位655―661年)の時代に造られ、国家的な祭祀に使われた可能性が高い。
2007/10/25 18:09
奈 良
西田中瓦窯
藤原宮・中枢建物の瓦焼いた窯3基を確認
◎大和郡山・西田中瓦窯
大和郡山市西田中町の西田中瓦窯(がよう)(7世紀末)で、日本初の都城の中心だった藤原宮(694〜710)の中枢建物の瓦を焼いたとみられる登り窯3基が並んで見つかった。同市教委が24日、発表した。何度も改修した跡があり、大量の瓦の生産に追われた様子がうかがえる。近くにあるものも合わせると、10基以上の窯を持つ大瓦生産団地だった可能性が出てきた。
市の環境整備事業に伴い200平方メートルを掘った。3基の窯は高さ約4メートルの丘の斜面に東西に約2メートル間隔で並んでいた。うち2基を発掘。いずれも長さ約5メートル、幅1・1〜1・6メートルのトンネルで、階段状になった内部には生産途中の瓦が多数捨てられていた。瓦は文様から、藤原宮中枢部の朝堂院や大極殿院のものとわかった。
発掘した2基は、5回以上改修した跡があった。また雨水の浸入防止のため3基を取り囲むように掘った溝もみつかった。3基を一体として同時稼働させ、藤原宮全体で約200万枚必要だったといわれる瓦を急ピッチで焼いたらしい。
隣接地にもう3基の窯跡が埋まっていることがわかっており、300メートル南西でもすでに4基が見つかっている。市教委は「もっと瓦窯があった可能性がある。一帯が大きな瓦生産団地だったのではないか」とみている。
現地説明会は27日午前10時〜正午。
近鉄郡山駅の南西約2・5キロ。
2007/10/25 17:56
奈 良
平城宮跡資料館
「天皇の食膳」示す木簡公開 平城宮跡資料館で地下の正倉院展
平城宮跡で昭和38年に出土し、今年重要文化財に指定された奈良時代の木簡群の一部を公開する特別企画展「地下の正倉院展−平城宮木簡の世界」が23日、奈良市佐紀町の奈良文化財研究所平城宮跡資料館で始まった。12月16日まで4つのシリーズに分けて公開され、第1弾「天皇の食膳(しょくぜん)」(〜11月4日)では、天皇のもとへ全国から集まった食材を示す木簡が展示されている。
木簡群は計1785点で、国内の木簡研究の基礎を築き、6月に一括して重文となった。聖武天皇が愛用した香を入れる容器の付札だった可能性が高い木簡なども含まれており、うち計79点を、「天皇の食膳」▽「宮廷の生活」(11月6日〜18日)▽「木簡の諸相」(同20日〜12月2日)▽「宮城の守り」(12月4日〜16日)−に分けて公開。付札とみられる木簡は「宮廷の生活」で展示される。
「天皇の食膳」の展示品のうち、近江国(滋賀県)のチーズのような乳製品「生蘇(なまそ)」の荷札は、生の蘇を記したものとしては全国唯一の木簡。生蘇は半固形だったらしい。
また「板野郡牟屋海(むやのうみ)」という産地名が記された鳴門ワカメの荷札は、行政地名を記す通常の荷札とは違った特徴を有しており、鳴門ワカメが当時から名高かったことがうかがえる。
同様に、下総国(千葉県)「酢水浦(すみずのうら)」ブランドのワカメの荷札もあるほか、伊予国(愛媛県)のサバ、備前国(岡山県)のクラゲなどの荷札も展示されている。
午前9時〜午後4時半で、月曜休館、無料。11月23日午後1時半からは公開シンポジウム「木簡研究の最前線」も開かれる。問い合わせは同研究所文化財情報課((電)0742・30・6753)。
2007/10/24 17:11
奈 良
中路遺跡
近江国庁関連の建物跡2棟発見
大津・中路遺跡 倉庫や厩に使用か
大津市神領2丁目の中路遺跡から、奈良時代中期から平安時代にかけての2棟の大型礎石建物跡が見つかったと大津市教委が23日、発表した。建物跡の規模や、近くから見つかった瓦の破片に刻まれた文様や文字から、近江国を統治していた「近江国庁」に関連の官衙(かんが)(役所の建物)跡とみられ、市教委は「近江国庁の実態を解明する上で貴重な資料」と話している。
見つかった礎石建物跡は、幅がいずれも2間(6メートル)、長さは7間(21メートル)と5間(15メートル)の2棟。柱穴は直径1メートル前後と大きく、礎石はなくなっていたが、礎石の下に敷かれる「下石」は数多く残っていた。柱穴と柱穴の間に床を支える「束柱(つかばしら)」のものとみられる小さな柱穴も確認された。
建物跡の近くには、大量の瓦の破片が1カ所にまとめて捨ててあった。破片には国庁関連の遺跡でも発見されている「飛雲文」と呼ばれる文様や、修理用に使われたことを示す「修」の字が刻まれたものが含まれていた。
同市教委は「国庁に関連する官衙だったことは間違いない」としたうえで「束柱があり、構造的に頑丈なことから、倉庫や厩(うまや)などに使われていたのでは」と話している。
近江国庁は8世紀中ごろから10世紀にかけて、近江国を統治していた。中路遺跡は近江国庁跡の南西400メートルにあり、発掘調査は1991年に滋賀県教委が行って以来2度目。
現地説明会は27日午前10時半から行われる。
小雨決行。
■規則的に丘に建設
林博通・滋賀県立大教授(考古学)の話 ほかの近江国庁関連の遺跡同様に、中路遺跡も小高い丘の上にあり、官衙が規則性を持って丘陵地に配されていたことが一層明確になった。国庁周辺に碁盤目状の都市計画があったとする説が根強いが、今回の発見でさらに見直す必要性が強まった。
2007/10/24 17:00
滋 賀
平城宮跡
聖武天皇愛用品の木簡か
奈文研、再調査で判明
平城宮跡(奈良市)で過去に出土した木簡2点が、聖武天皇愛用の香炉などに付けられていた可能性の高いことが、22日までに奈良文化財研究所の調査で分かった。
恭仁宮(京都府)などへの遷都を経て平城宮に戻った後の747(天平19)年ごろに廃棄されたとみられるが、天皇と直結する木簡の出土が確認されたのは初めてという。
香の容器を示すとみられる「搗香☆」と墨書された木簡は発見当時、☆の字が「漬」と読まれていた時期もあり、香炉にまつわるものとは考えられていなかったという。
1963年、平城宮のゴミ穴から大量に見つかった木簡の一部。同じ穴から天皇が住む内裏で使用された香炉を示す「御殿内火爐一口」と書かれた木簡も出土、セットで聖武天皇に関係する木簡と結論づけた。木簡は香炉やお香を持ち運んだり、収蔵したりする時に容器に付けられていたらしい。
(注)☆は木ヘンに貴
2007/10/23 17:41
奈 良
柳沢遺跡
弥生時代の銅戈2本出土
長野、東日本に青銅文化か
長野県埋蔵文化財センターは22日、中野市の柳沢遺跡で、弥生時代の青銅製祭器「銅戈(どうか)」が2本出土したと発表した。東日本では群馬県で破片の出土例があるが、完全な形での出土は極めて珍しく、複数出土したのは初めて。同センターは、弥生時代、この地域にも西日本のように青銅器を使用した文化圏が存在した可能性を指摘している。
同センターによると、出土した銅戈は全長32・3センチ、最大幅13・9センチと、全長36・0センチ、最大幅17・2センチの2本。ともにやりの穂先に似た形。地面から約1・5メートル下で2本が密着して埋納されているような状態で見つかった。形式は畿内で出土する大阪湾型の可能性が高いという。
銅戈はそれぞれ17日と19日に出土し、同センターがさらに遺物がないか調査している。
銅戈は古代中国の武器で、大陸から朝鮮半島を経由して日本に伝わり、後に祭器になった。
2007/10/23 17:40
残 骸
柳沢遺跡
弥生時代の銅戈2本出土
長野、東日本に青銅文化か
長野県埋蔵文化財センターは22日、中野市の柳沢遺跡で、弥生時代の青銅製祭器「銅戈(どうか)」が2本出土したと発表した。東日本では群馬県で破片の出土例があるが、完全な形での出土は極めて珍しく、複数出土したのは初めて。同センターは、弥生時代、この地域にも西日本のように青銅器を使用した文化圏が存在した可能性を指摘している。
同センターによると、出土した銅戈は全長32・3センチ、最大幅13・9センチと、全長36・0センチ、最大幅17・2センチの2本。ともにやりの穂先に似た形。地面から約1・5メートル下で2本が密着して埋納されているような状態で見つかった。形式は畿内で出土する大阪湾型の可能性が高いという。
銅戈はそれぞれ17日と19日に出土し、同センターがさらに遺物がないか調査している。
銅戈は古代中国の武器で、大陸から朝鮮半島を経由して日本に伝わり、後に祭器になった。
2007/10/23 17:40
其 他
高松塚古墳埋
“主”なき墳丘-高松塚古墳埋め戻し終了
明日香村平田の高松塚古墳(7世紀末―8世紀初)の墳丘仮整備事業で、文化庁は19日、石室を取り出した墳丘の埋め戻し作業を終了。石室解体前より少し小さな墳丘が姿を現した。
埋め戻し作業は先月初めから始まり、解体作業のため縦約7メートル、横約6メートル、高さ約6メートル掘られた墳丘が約5メートルの高さまで復元。墳丘を保護するために頂上部には、防カビ処理した土のう袋が二段に詰まれた。
2007/10/22 16:52
奈 良
大墓の考古学
木製樋など貴重な2000点 府立丹後郷土資料館で特別展
京丹後市を縦断して流れる福田川流域などに点在する10遺跡から近年発掘された木製樋(とい)や、青い腕輪のガラス釧(くしろ)など貴重な出土品を集めた秋季特別展「大墓の考古学」が、宮津市国分の府立丹後郷土資料館で開かれている。鉄剣や神鏡、弥生土器なども含めて約2000点を展示。11月25日まで。
特別展のメーンは、浅後谷南遺跡(京丹後市網野町公庄)で平成10年秋に出土した全長3・4メートルの府指定文化財の木製樋。この樋は細い溝の中央に水をためる丸いくぼみがあり、弥生後期(3世紀)から古墳前期(4世紀)にかけて作られたとみられる。澄んだ水をくみ取る儀式を行うための祭器の役割も果たしたと考えられ、同資料館で保管されていたが今回、地元で初公開された。
また、大風呂南1号墓(与謝野町岩滝)で平成10年秋に発掘されて話題になった国内でも出土例が少ないガラス釧や、太田南5号墳(京丹後市峰山、弥栄町)の石棺から見つかった「青龍三年」(235年)の銘が刻まれた、珍しい方格規矩四神鏡なども特別公開している。
同資料館の奥村清一郎専門員は「弥生時代の丹後地方に出現した大権の謎に迫る特別展で、貴重な出土品を厳選しています」と話している。
◇
特別展の関連イベントとして、「丹後地方の遺跡めぐりバスツアー」が11月17日、開かれる。奥村専門員が案内役となり、関連する7遺跡の現地説明会を行う。当日は午前9時50分に同資料館に集合。大人500円、中学生以下300円。申込期限は同6日。問い合わせは同資料館((電)0772・27・0230)。
2007/10/21 17:00
京 都
遺跡の瓦!?
遺跡の瓦!? いえ、せんべい です
「いいね・滋賀」が考案した「志賀の宮 さそり文瓦煎餅」
大津市の新名物をつくろうと、市民グループ「いいね・滋賀」(奥村和治代表)が、大津京関連遺跡の一つ「南滋賀町廃寺跡」(国史跡)から出土した珍しい軒瓦をモチーフにした「志賀の宮 さそり文瓦煎餅(せんべい)」を考案した。同市南志賀の市立志賀小で28日に開かれる「ふれあい文化祭」で販売する。
同遺跡でしか出土例がない「蓮華(れんげ)文方形軒瓦」の焼き印が付いた縦横7センチの正方形。ハスの花の側面形ををあしらった文様が、サソリに似ていることから「さそり文瓦」とも呼ばれる。
グループでは、JR西大津駅が来春、大津京駅に改名されるのを機に、地元の歴史や文化を広く知ってもらおうと企画し、市内のせんべい店に500枚の製造を依頼した。
文化祭では、2枚入り60円と10枚入り300円の2種類を用意。その後は土産物店に販売を呼びかけるという。
奥村代表は「遺跡の多いこの地域の素晴らしさを、多くの人に知ってもらえるきっかけになれば」と意気込んでいる。
2007/10/21 16:55
滋 賀
旧本能寺跡
信長 本能寺 京の拠点?
堀跡、東北部のみ囲む 境内4分の1占拠か
京都市中京区の旧本能寺跡で、8月上旬に見つかった16世紀後半の堀跡は、その後の調査で境内の西半分には続かず、境内東北部を囲む堀だった可能性が高まった。織田信長が明智光秀に攻められ自害した「本能寺の変」(1582年)と同時期で、信長は境内東北部、約4分の1を占拠し、京都の重要な拠点として用いていたと推測される。僧を追い出して本堂は壊していたとみる専門家もおり、歴史のベールに包まれている「信長時代の本能寺」の姿に、新たな謎を投げかけそうだ。
■「天皇迎える空間」説も
旧本能寺跡は7月下旬−8月上旬、境内推定地の東側約130平方メートルを、関西文化財調査会(上京区、吉川義彦代表)が調査、本能寺の変によるとみられる大量の焼け瓦や、石垣を伴うL字型の堀を見つけた。
その後、京都市埋蔵文化財研究所が堀の延長に当たる西側部分を調査したが、堀跡は検出できなかった。吉崎伸調査課長は「堀は南北の中心線(現在の小川通)を越えていなかった可能性が高い」と話す。
この成果を基に、吉川代表が堀の位置を推定すると、堀が正方形だったと仮定すれば、境内東北部約4分の1を占拠していたことになる。復元案について、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)は「細川管領家の屋敷など、通常の武家屋敷と同規模で、妥当な復元だ」と評価する。
ただ、そうなると他の建物配置が問題になる。通常、境内の中央部には本堂があるが、堀を正方形に造ろうとすると、本堂が邪魔になる。ほぼ同時代の京を描いた「上杉本洛中洛外図」には瓦葺(ぶ)きと板葺きの建物が2棟ずつ描かれるが、本能寺の大部分は雲で隠され、実像は全く分かっていない。
吉川代表は、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの「日本史」にある「信長が僧侶を追放し、複数の建物をつくった」との記述に着目。「僧侶のいない寺に本堂は必要ない。本堂を壊し、その資材を利用して占拠した可能性もある」と推測する。
一方、下坂守・帝塚山大教授(日本中世史)は「フロイスの記述は概ね信用してよく、僧侶を追放したのは事実だろう。しかし、それは僧侶を居住空間から追い出したにすぎず、寺の機能は失っていなかった」とみる。
今谷教授は「堀により、信長は境内に僧侶が立ち入れない空間をつくったのだろう。(境内の4分の1にとどまる)堀の復元で、信長にとっての本能寺が、軍事的というより、天皇や公家を迎える儀礼的な空間だった性格が明らかになった」としている。
本堂破壊の真相は不明だが、今後の旧本能寺調査に向け、今回の発掘結果が重要な意味を持つことは間違いない。
2007/10/20 18:01
京 都
山田寺跡
山田寺跡から出土の壁画片を初公開 飛鳥資料館で特別展
飛鳥時代の回廊が当時の姿で見つかり話題を集めた山田寺跡(桜井市、特別史跡)の出土品を集めた奈良文化財研究所・飛鳥資料館(明日香村奥山)の秋季特別展「奇偉(きい)荘厳・山田寺」が19日、始まった。金堂の壁を飾っていた飛天とみられる壁画片が初公開され、銅版に鍍金を施した仏像など約200点も展示。大半が重要文化財で、1300年前の壮大な伽藍(がらん)の姿がうかがえる。
山田寺跡では昭和51年から調査を開始。壁画片は53年に金堂跡から2点出土し、うち1点は縦7センチ、横9センチで、表面に白と青黒い彩色が確認された。斜め方向の曲線が描かれていることなどから、飛天の衣の一部とみられている。もう1点は縦横6・5センチで、白い彩色が全面に塗られていたが、模様はなく壁画の種類は不明という。
いずれも高熱を受けており、12世紀末の金堂火災で焼け、彩色部分が残ったとみられている。
特別展では、凝灰岩に獅子が浮き彫りされた階段の一部、「山田寺」と記された土器、僧侶が暖をとるため懐に入れたとみられるカイロなども並んでいる。
11月25日まで(無休)。入館料は一般260円、高校・大学生130円、中学生以下無料。問い合わせは同館((電)0744・54・3561)へ。
2007/10/20 17:59
奈 良
阿倍野筋北遺跡
河川跡から木製の卒塔婆 100本超みつかる
大阪市阿倍野区の阿倍野筋北遺跡で、室町時代後期の河川跡から木製の卒塔婆が100本超見つかり19日、大阪市教委などが発表した。中世の卒塔婆が大量に見つかるのは珍しく、市教委は「追善供養の原型を示す貴重な資料」としている。
卒塔婆は、河川跡の東西5メートル、南北2メートルの範囲から出土した。破片を含めて約390点あり、原形をとどめているものが100超あった。完全なものは長さ約70センチ、幅約8センチ、厚さ5ミリの板状で、先端は五輪塔の形に削られていた。
卒塔婆には墨書が確認できるものもあり、表に「南無大勢至菩薩」など菩薩の名称や梵字、裏に仏教経典の一節や戒名、供養した日付とみられる年号などが読めるものもあった。年号は室町時代後期の15世紀末から16世紀にかけての明應や文亀、文明など。卒塔婆は風化が進んだものと真新しいものが混在しており、墓地の管理者がまとめて川に流したとみられる。
卒塔婆は初七日や一周忌などに墓に立て故人をしのぶ追善法要に使われた。初七日から三十三回忌まで13本の卒塔婆を立てる。今回見つかった卒塔婆は一周忌のものや三回忌に使われたらしい。
卒塔婆に詳しい仏教史の研究者の千手寺の木下密運住職は「卒塔婆による追善供養は室町時代ごろに確立しており、現代にも残る葬送の原型の一部が見つかった意義は大きい」と評価している。
現地説明会は27日午後1時半から。
場所は阿倍野区阿倍野筋1丁目で、地下鉄谷町線天王寺駅から南西に徒歩5分。問い合わせは大阪市文化財協会難波宮調査事務所((電)06・6943・6836)へ。
2007/10/20 17:58
大 阪
亀塚古墳
亀塚古墳の形状円墳の可能性大
野洲市教委は18日、これまでホタテ貝の形をした古墳と考えられていた亀塚古墳(同市冨波甲)は、5世紀後半に造られた直径25メートル前後の円墳である可能性が高いことがわかった、と発表した。同市教委は「8基の古墳からなる国史跡・大岩山古墳群の最後の古墳の形と築造時期が分かったことで、古墳群の変遷を知ることができる」としている。
史跡整備に伴い、市教委が今年9月から調査を続けている。亀塚古墳の周囲からは、5世紀後半の円筒埴輪(はにわ)や須恵器の破片など約100点も出土した。
現地説明会は20日午前11時半。
雨天決行。問い合わせは同市教委(077・589・6436)へ。
2007/10/19 17:30
滋 賀
鍵遺跡
製造時は鮮やかな赤銅色
唐古・鍵遺跡の銅鐸分析
国内最大級の弥生時代の環濠集落跡、奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前1世紀)とみられる銅鐸が、製造時は新品の10円玉のような鮮やかな赤銅色をしていたことが分かり、町教育委員会が18日発表した。
町教委の依頼で奈良文化財研究所の村上隆上席研究員(歴史材料科学)が分析するため銅鐸片(縦7センチ、横6センチ、厚さ7−9ミリ)の裏側を削ったところ、当時の色が現れた。
銅鐸は銅、スズ、鉛を主な成分とし、スズの含有量によって色合いが変わり、10%で金色、20%で銀色っぽくなるという。村上上席研究員の成分分析の結果、唐古・鍵遺跡の銅鐸片はスズが2・83%と極めて少ないことが判明。10円玉の1−2%に近かった。
39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根県)での同様の分析でもスズの含有量に差があることが指摘されている。
2007/10/19 17:23
奈 良
元善町遺跡
善光寺に鎌倉時代の造成跡
幕府挙げての寄進裏付け
長野市教育委員会は18日、同市の善光寺境内にある元善町遺跡で、鎌倉時代の大規模な土地造成による石積みや盛り土などが見つかったと発表した。源頼朝や北条氏が善光寺を深く信仰、鎌倉幕府を挙げて建物を寄進したとする歴史書の記述を裏付ける初めての遺構発見という。
遺跡は善光寺南側の「仁王門」の東側。発掘した区画の南側に直径60−90センチの石を1列に並べた石積みがあり、粘土を突き固めてのり面が崩れないようにした上で、北側に約1メートルの高さまで土が盛られていた。盛り土の上面は水平にならされ、建物の礎石とみられる石が3カ所に配置されていた。
また盛り土には10−12世紀の土器片や、鎌倉時代前期に登場した「巴文」の瓦片などが大量にまじっており、鎌倉時代初期から半ばの造成と判明。焼けた壁土なども見つかり、境内で大きな火災が起きた後、整地したとみられる。
2007/10/19 17:22
残 骸
元善町遺跡
善光寺に鎌倉時代の造成跡
幕府挙げての寄進裏付け
長野市教育委員会は18日、同市の善光寺境内にある元善町遺跡で、鎌倉時代の大規模な土地造成による石積みや盛り土などが見つかったと発表した。源頼朝や北条氏が善光寺を深く信仰、鎌倉幕府を挙げて建物を寄進したとする歴史書の記述を裏付ける初めての遺構発見という。
遺跡は善光寺南側の「仁王門」の東側。発掘した区画の南側に直径60−90センチの石を1列に並べた石積みがあり、粘土を突き固めてのり面が崩れないようにした上で、北側に約1メートルの高さまで土が盛られていた。盛り土の上面は水平にならされ、建物の礎石とみられる石が3カ所に配置されていた。
また盛り土には10−12世紀の土器片や、鎌倉時代前期に登場した「巴文」の瓦片などが大量にまじっており、鎌倉時代初期から半ばの造成と判明。焼けた壁土なども見つかり、境内で大きな火災が起きた後、整地したとみられる。
2007/10/19 17:22
其 他
永原御殿跡
「永原御殿」遺構を初確認
野洲 南端で馬屋跡見つかる
江戸時代初期の幕府直営の宿泊所「永原御殿」跡(滋賀県野洲市永原)を調査している野洲市教委は18日、御殿南端から馬屋跡が見つかったと発表した。同御殿の遺構が確認されたのは初めて。馬屋跡は御殿の建築設計図(指図)に示された位置と一致し、市教委は「御殿の全容解明に向け重要な手掛かりになる」(文化財保護課)としている。
永原御殿は徳川家の将軍が京都へ赴く際に利用した施設で、朝鮮通信使の通った「朝鮮人街道」沿いにある。1634年の3代将軍家光の宿泊を最後に、1685年に廃止された。
市教委が御殿南端の三の丸にあたる140平方メートルを調査したところ、1634年に作製された設計図通りの位置から、馬屋建物の土台となる礎石8基のほか、多数の瓦が出土した。礎石の一つ(幅26センチ、高さ39センチ、厚さ13センチ)は石仏が転用されていた。
設計図から馬屋の規模は幅約6メートル、奥行き約70メートルと推定され、同課は屋根は瓦とこけらで葺(ふ)かれていたとみている。
20日午前10時から現地説明会を行う。
問い合わせは同課Tel:077(589)6436。
2007/10/19 17:21
滋 賀
長法寺
首長級の大型古墳か
長岡京・6世紀中期の横穴式石室跡が出土
京都府長岡京市長法寺の発掘現場から古墳時代後期にあたる6世紀中ごろの横穴式石室跡が見つかったと、長岡京市埋蔵文化財センターが18日、発表した。大型古墳と見られ、この地域の首長クラスの墓の可能性も出ている。
同市の長法寺小校舎建て替えに伴う発掘で、調査地は約180平方メートル。出土した石室の大きさは幅約2メートル、長さ約5メートルだった。古墳全体の形状や石室全体の大きさは不明だが、直径16メートル以上の大型古墳と推測される。
石室の左側壁の最奥部に位置していたとみられる石が一つ残っており、この石には石室を解体した際のくさび跡も付いていた。また、石室内の土から焼け跡が見つかったことから、明治初期の小学校建設の際に石室の石を焼いて粉砕したのではないかとみている。
組み合わせ式石棺の石には内部を装飾したと思われる赤色顔料が付着していた。黒色粒子の少ない特徴を持つ凝灰岩が使われており、大阪以東では出土例のない石が使われていた可能性がある。調査を担当した長岡京市埋蔵文化財センターは「推定される規模と組み合わせ式石棺の存在から、この地域の首長墓かもしれない」としている。
2007/10/19 17:20
京 都
酒呑場遺跡
縄文中期も大豆栽培 山梨の遺跡 約5000年前に
山梨県北杜(ほくと)市の酒呑場(さけのみば)遺跡で出土した縄文時代中期の土器から、大豆の圧痕(あっこん)が発見されたと17日、県立博物館などの研究グループが発表した。大豆の栽培開始は弥生時代が定説だったが、9月に熊本大などが、九州の縄文後期の遺跡で大豆の圧痕を確認。今回の発見はそれを1500年ほどさかのぼり、すでに約5千年前に大豆が栽培されていたことを示す。地域も九州から中部へ広がったことで、大豆をはじめとする雑穀栽培が、縄文中期に日本列島の広範な地域で行われていた可能性が強まった。
研究グループによると、県内各地の遺跡で出土した2万点の土器を調べ、植物の種子などの跡があれば、型に取って顕微鏡で観察する「レプリカ法」で調査。県北西部の酒呑場遺跡で出土した深鉢形土器の取っ手から、長さ11.9ミリ、幅5.7ミリ、厚さ3.7ミリの大型種子の圧痕が見つかり、大豆特有の「へそ」が確認された。野生種だと、水につかって膨張した場合でも最大長さ8ミリ程度にしかならないことなどから、扁平(へんぺい)系の栽培種と判断した。
酒呑場遺跡は、八ケ岳南ろくにある巨大環状集落で、本州中部の縄文文化の中心の一つと考えられている。研究グループの中山誠二・県立博物館学芸課長によると、エゴマとシソの炭化した種子も前に見つかっていた。「大豆は主食となりうるもの」(中山課長)で、この遺跡の食生活の豊かさを示すと見ている。
一方、研究グループは同じレプリカ法で、山梨県都留市の中谷遺跡の縄文晩期前半(約3000年前)の土器から、稲や麦などの穀物を食べるコクゾウムシの痕跡を発見した。「これで、縄文時代に中部地方でも、稲や麦の栽培や貯蔵が行われていたことがわかった」と話している。
2007/10/18 17:39
京 都