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 鮮やか、表情豊か-キトラ「寅」の仮修復終わる

 文化庁は30日、明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末―8世紀初)から剥(は)ぎ取った極彩色壁画のうち、12支像「寅(とら)」の仮修復後の写真を初めて公開した。「寅」は「子(ね)」「丑(うし)」とともに、同村奥山の奈良文化財研究所飛鳥資料館で、5月9日から25日まで一般公開される。同古墳壁画の一般公開は四神図の「白虎」「玄武」に続き3回目。十二支像は初めて。

 「寅」は縦約17センチ、横約9センチ。顔は獣、体は人で衣の襟に鮮やかな朱が残る。右手に矛を持ち、口を開けて歯をむき出しにしたかわいらしい表情をしている 。

 “完全復元”へ本格始動-名勝・旧大乗院庭園

 奈良市高畑町にある国の名勝・旧大乗院庭園(指定面積1万5400平方メートル)で、日本ナショナルトラスト(東京都)が平成7年度から行っていた発掘調査が本年度でほぼ終わり、新年度から未整備の西小池の復元事業が本格化する。30日、関係者が集まり、現地確認と復元に向けた詰めの協議を行った。庭園の起源は室町時代にさかのぼるが、復元計画は興福寺所蔵の絵図など資料が残る江戸末期の姿に庭園をよみがえらせる。平城遷都1300年の平成22年度完成を目指し、一般公開する。

 大乗院は一乗院と並ぶ興福寺の門跡寺院。平安時代に興福寺の北方、現在の県庁付近に建てられたが、治承4(1180)年、平重衡の南都焼き討ちで消失。翌年、元興寺別院の禅定寺があった現在の場所で再興された。

 京の「銭座」を裏付けか
 JR京都駅東南、坩堝や砥石が多数出土

 京都市南区の発掘調査で、江戸中期に寛永通宝などの銭貨を鋳造した工房「銭座」で使われたとみられる鋳造道具が出土したことが、31日までに分かった。遺構は見つかっていないが、銭座の存在を裏付ける発見として注目される。

 八条通の拡幅に伴い、京都市埋蔵文化財研究所がJR京都駅東南の約1400平方メートルを調査した。

 銅を溶かす坩堝(るつぼ)や型に銅を流し込む取瓶(とりべ)、銭の整形に使われたとみられる砥石(といし)などが、ごみ捨て穴や用水路の跡などから多数見つかった。

 坩堝は、陶器の甕(かめ)の外側を土で覆って保護されており、銅の塊がこびりついていた。また砥石は手のひらサイズの砂岩で、銭の側面や表裏を磨いたとみられ、丸い溝が何本も刻まれていた。いずれも壊れるまで使い込まれた様子がうかがえる。

 このほか、銭座で鋳造されたものかどうかは不明だが、寛永通宝も約20枚見つかった。

 京都の銭座は長崎屋忠七ら5人の商人が幕府から請け負い、1700(元禄13)年から1708(宝永5)年まで、総額18億文もの銭が鋳造されたという。同時代の絵図に、調査地東側の畑の中に銭座があったことが記されている。

 市埋文研の担当者は「坩堝の出土例はあるが、砥石が見つかったのは初めて。銭座の存在の可能性がさらに高まった」と話している。

 キトラ古墳のしっくい損傷
 カビ除去中に

 文化庁は29日、奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)で、石室内のカビの除去作業中、担当者が誤って北壁のしっくいを損傷したと発表した。

 壁画がない余白部分で、長さ約1・5センチ、幅最大3ミリがはがれた。文化庁によると、損傷個所は修復できるといい、方法を検討する。

 損傷事故は29日午後3時ごろに発生。北壁と接する西壁の隅で見つかったカビを、担当者が筆(長さ20センチ)で取り除いていたところ、筆の柄が北壁下部に当たり損傷した。はく離したしっくいは、柄の先に付いた状態になっていた。

 文化庁は「申し訳ない。今後さらに注意して作業したい」としている。

 「古鳥居」年代、鎌倉初期と判明
 宮津・籠神社で出土 市教委発表

 京都府宮津市教委は28日、昨年6月に同市大垣の籠(この)神社境内で出土した古鳥居とみられる柱根の年代が鎌倉時代初期と判明した、と発表した。

 柱根は、鳥居の建て替え工事に伴い、拝殿の約50メートル南の地中(深さ約3メートル)に約4・9メートルの間隔で2本出土した。

 直径約80センチのクリ材で、表層部などから試料を採取し、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の今村峯雄教授が放射性炭素年代測定法による年代測定を行っていた。

 出土時、室町時代の画僧・雪舟が国宝「天橋立図」(1500年ごろ)で描いた鳥居の可能性も指摘されたが、測定では1224年−1239年のもので、可能性は低いという。

 市教委は「同神社境内には鎌倉初期の建物の礎石もあり、鎌倉時代に大規模な造営工事が行われた可能性が推測できる」と話している。

 石室解体の是非は…高松塚シンポで激論

 「文化財の破壊」とも言われた高松塚古墳(奈良県明日香村)の石室解体について、国民への理解を求めるため文化庁が26日、橿原市内で初めて開いたシンポジウム。パネルディスカッションでは情報公開など同庁の姿勢が追及される一幕もあり、同古墳壁画をめぐる一連の問題を教訓に、今後の文化財保存について真剣な議論が交わされた。

 同庁の高塩至次長が冒頭、「壁画は国が管理してきたが、汚れが進んだうえに人為的な損傷事故もあった。情報公開の不十分さを深くおわびしたい」と、一般対象のシンポでは異例とも言える形で陳謝。信頼回復へ尽力する同庁の苦悩がにじみ出た。

 一方、河上邦彦・神戸山手大学教授(考古学)は「壁画発見以来、劣化状況をきちんと説明しなかった文化庁の責任は大きい。壁画をいっさい見せないまま石室解体に至ったことを国民は怒っている」と批判した。

 根強い論議がある解体の是非については、壁画点検を長年担当した三浦定俊・東京文化財研究所副所長が「スペースシャトルが宇宙を飛ぶ時代に、カビの除去もできないのかと言われるが、湿度100%の石室内で、壁画を変色させずに除去するには薬剤など手段は限られていた。もはや解体しかなかった」と説明。解体は苦渋の決断だったことをうかがわせた。

 さらに、今後の壁画修復について川野邊渉・同研究所副センター長は「飛鳥美人の顔周辺にある新しいカビは除去できそうだが、壁画を覆うバクテリアなどゼリー状物質の除去は難題」と指摘した。

 約4時間に及ぶシンポに歴史ファンらは興味津々。

 キトラ「日像」をはぎ取り
 天文図の3星座も

 文化庁は25日、奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)で、石室天井に描かれた「日像」と、「尾宿」など天文図の3つの星座をはぎ取ったと発表した。作業による損傷はないという。

 日像は天文図の東側に隣接し、直径4・5センチの金箔で太陽を表現。金箔の大半は残っていないが、一部に太陽の象徴とされる3本足のカラスの足や尾羽を描いたとみられる墨線が確認されている。太陽の下には朱線が数本引かれ、雲や水平線との説がある。

 作業は23−25日に実施。日像は周囲の余白を含めて縦13センチ、横18センチの範囲を下地のしっくいごとヘラではがした。

 文化庁は「カビなど微生物の影響で付いた黒い染みが日像のすぐそばまで迫っており、早急に対応する必要があった」としている。

 天文図西側にある「月像」も2月中旬にはぎ取る予定。

 ほかにはぎ取った星座は「心宿」と「天江」。3星座とも日像近くにあった。

 2種類の蓮華文軒丸瓦が出土
 京丹後・俵野廃寺

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは24日、丹後地域最古の寺院跡とされる京丹後市網野町俵野の「俵野廃寺」から、飛鳥時代後期(7世紀後半)の文様の異なる2種類の蓮華文(れんげもん)軒丸瓦が見つかった、と発表した。「当時の寺院建築に必要な瓦製造の時代的推移を知る貴重な資料」としている。

 調査は、俵野川河川改修に伴い、右岸脇の水田(約600平方メートル)で昨年10月から実施している。

 装飾用に使われた蓮華文軒丸瓦は、上方部分が少し欠けたほぼ完形で計8点を確認した。いずれも直径16・2センチ、厚さは1センチほど。ひとつはハスの花弁が7つに描かれた簡略式の単弁蓮華文。ほかは、花弁が2枚1組の8弁で表現された複弁蓮華文で、周囲に鋸歯(きょし)文様も施されている。瓦の文様は当時、寺院ごとに図柄が異なっていたとされ、2種類とも丹後独自の文様という。

 朝鮮半島から伝わった瓦製造の技術と比べると左右対称の精巧さなどが劣り、同センターは「中央政府の寺院瓦製造技術が地方に伝播・普及する初期のころのものではないか」と見ている。

 現地説明会は27日午前11時から。

 墳墓や古墳など5基を確認
 京丹後の茶臼ケ岳古墳群

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは24日、京丹後市久美浜町橋爪の「茶臼ケ岳古墳群」で、弥生時代から古墳時代にかけての墳墓や古墳計5基などを確認したと発表した。同センターは「周辺に影響力を持つ有力者の墓と考えられる」としている。

 国道整備工事に伴い、昨年10月から調査した。川上谷川流域の平野部を見下ろす丘陵の西側斜面に、東端の7号墳(標高40メートル)から西端の9号墳(同26メートル)まで5基が階段状に並んで築造されていた。

 このうち8、9号墳は弥生時代後期の方形台状墓で、8号墳からは鉄剣や鉄の矢じり、管玉などが出土した。

 5−7号墳は古墳時代前期のものとされ、▽墳丘のすそが不明確▽墳頂部に土器棺(高さ60センチ、幅50センチ)を含む複数の埋葬施設が存在▽墳丘上に破砕された土器が置かれている−など丹後地域の弥生時代後期の伝統を色濃く残しているという。五号墳の墳頂部からは、経典を筒に入れて地中に埋めた平安時代末期の経塚1基も見つかった。

 同センターは「前方後円墳が誕生する以前の川上谷川中流域の中小豪族の墓だろう。近くに同時期の集落跡もあり、墓と密接な関係があるのではないか」としている。

 現地説明会は27日午後2時から。

 橿原で方形周溝墓17基
 京奈和道予定地 最大東西16、南北14メートル

 橿原市観音寺町の京奈和自動車道予定地で、県内最大規模を含む弥生時代中期前半(約2200年前)ごろの代表的な墓「方形周溝墓」が17基まとまって出土し、県立橿原考古学研究所が23日、発表した。一帯で遺跡はこれまで確認されておらず、同研究所は「出土した土器の時代を精査することで、弥生時代に奈良盆地で方形周溝墓が造られていった過程を知る手がかりになる」としている。

 同自動車道整備に伴い、1万2000平方メートル(東西約149メートル、南北約96メートル)を調査。周囲に溝(深さ10〜20センチ、幅0・5〜3メートル)を掘り、長方形(一辺7〜16メートル)に区画した方形周溝墓計17基が確認された。最大の墓は東西16メートル、南北14メートルで、多数の同族、家族を葬ったとみられる。

 埋葬施設や副葬品は出土しなかったが、墓に供えた溝内の土器から年代がわかった。墓の向きに違いがあり、複数の集団の存在が考えられる。墓域は東西300メートル、南北150メートル程度まで広がり、周囲1キロ前後に集落があったとみられる。

 県内では、奈良盆地を中心に約350基の方形周溝墓が見つかっているが、調査地一帯は弥生時代の遺跡が未確認だった。同研究所は「この墓域を造った人々が住んでいた場所については、今後の調査に期待したい」としている。

 現地説明会は27日午前10時〜午後1時。午前11時から調査担当者が現場に立って説明する。

 車いすで石室見学OK  藤ノ木古墳の整備事業

 豪華な副葬品の出土で知られる斑鳩町の藤ノ木古墳(6世紀後半)の石室が、車いすでも見学できるように整備された。羨道(せんどう)と呼ばれる入り口部分にステンレス板の通路を設置。墳丘すそとの高低差もなくした。同町は整備の終わった石室を来年度から年2回ずつ特別公開する方針で、「車いすで入れる石室は全国的にも初めてでは。大勢の人に見学してほしい」と話している。

 石室は長さ約8.3メートルの羨道の奥に玄室があり、家形石棺が安置されている。羨道は床から天井までの高さが約2.4メートルと非常に広く、車いすでも利用できる通路の設置が実現した。

 40センチほどの高さに格子状のステンレス板を敷き、透明のアクリル板を通して羨道の床面が観察できる。玄室への立ち入りは禁止だが、入り口から巨大な家形石棺を間近に見られる 。

 琵琶湖底に集落遺構
 伝承から調査、初確認

 420年余り前の「天正大地震」で琵琶湖底に沈んだ集落の一部とみられる遺構が、長浜市下坂浜町沖で確認された。水深約3メートルの湖底に広がる人工盛り土の中央に、上部を朝顔形に開く直径40センチの円筒型構造物を埋め込み、周りを杭列で囲んでいた。近くの湖岸の寺院に関連する施設ともみられる。

 調べたのは、林博通・県立大教授(考古学)の研究室。「水没村伝承」を持つ同町沿岸から188メートル沖の湖底で、周辺を「下坂浜千軒遺跡」と名付け、潜水調査などを続けてきた。一昨年までに人工的に打ち込まれた杭などは見つかっていたが、遺構は初めて。

 盛り土は東西19メートル、南北12メートル、高さ60センチで、硬くたたき締められていた。円筒型構造物の材質はまだわからないが、縁の幅は10センチほどあり、周囲1・3メートル四方を区画するように、角材の杭(高さ30〜40センチ)を10数センチ間隔で打ち込んでいた。

 角材はイヌガヤなどを加工しており、一部を放射性炭素年代測定で調べたところ、1460〜1660年に伐採されたことがわかった。一昨年見つかった杭もほぼ同じ年代で、同時に水没したらしい。この間に起きた大規模地震として、天正13年11月(1586年1月)に長浜城を倒壊させた天正大地震が想定される。

 現場に近い湖岸の古刹(こさつ)・良疇寺(りょうちゅうじ)は鎌倉時代の創建。林教授は「その境内はかつて広大だったと言われ、今回の遺構が関連施設の一部とも考えられる」とみており、「今後、周辺を潜水調査などでさらに精査し、遺構の性格などを絞り込みたい」と話している。

 戦国時代のおにぎり出土
 上杉謙信の家督争いの戦跡

 戦国武将、上杉謙信の後継者をめぐる「御館の乱」の舞台となった新潟県妙高市の鮫ケ尾城跡で、戦火で焼けたとみられる炭化したおにぎり4個が、市の発掘調査で出土していたことが22日、分かった。

 当時は雑穀を混ぜたおにぎりが一般的だったが、出土したおにぎりは米だけの“銀しゃり”。市の担当者は「謙信の養子の景虎陣営が、最後の戦いを前に武将らに振る舞ったのではないか」と話している。

 おにぎりは2006年度の調査の際に、城内の「三の丸」付近で陶片とともに見つかり、握りこぶしほどの大きさで、重さは約40グラム。市が国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)に鑑定を依頼したところ、手で握ったり、葉でくるんだりした痕跡が見つかり、おにぎりと判明した。具は見つかっていない。炭素測定で戦国時代のものであることも分かった。

 おにぎりは26日から新潟県立歴史博物館(長岡市)で展示される。

 16世紀の穴窯で焼き物いかが? 県立陶芸の森が参加者募集

 甲賀市信楽町の県立陶芸の森は、再現された16世紀の穴窯で焼き物を作る「中世の窯−金山再現窯で作品を焼いてみよう!」の参加者を募集している。

 穴窯は2002年、県教育委員会の調査で、同町黄瀬の金山遺跡から出土。全長10・7メートル、幅3−1・13メートル。山肌をくりぬいて造られ、内部は壁で仕切られている。戦国時代の陶器の破片が見つかり、生活雑器を焼いた窯と分かった。

 信楽焼の原点を探る上で貴重なことから、同森が呼び掛け、地元の陶芸家らが04年に10日がかりで窯を再現した。

 焼成温度が高い順に、たき口付近、中部、奥の3つのゾーンに分け、それぞれ約10人を募集する。2月に窯詰めや焼成をし、3月初めに窯出しする。

 松波義実指導員(34)は「焼成にはアカマツを使うので、緑色の自然釉(ゆう)が出ます」と話している。

 締め切りは1月29日。参加費は人数によって3万7500円−7500円。問い合わせは、同森創作研修課=電0748(83)0909=へ。

 「切石」は供物台?-中国人研究者が新説

  明日香村平田の高松塚古墳(7世紀末―8世紀初め)の発掘調査のきっかけとなった謎の「切石(きりいし)」について、中国・西北大学の王維坤教授(考古学)は19日までに、「供養品を置く供物台(くもつだい)」とする新説を打ち出した。

 切り石は被葬者名を記した墓碑や、追悼場所を示す礼拝石との説があるが、決め手はない。高松塚古墳は、内部に壁画が描かれるなど大陸色が強く、中国人研究者の見解に注目が集まりそうだ。

 外濠を発見 芦屋市「金津山古墳」 阪神間では2例目

 芦屋市春日町にある古墳時代中期(5世紀後半)の前方後円墳「金津山古墳」が二重の濠(ほり)を備えていたことが分かり、同市教委が18日、発表した。阪神地域では御願塚古墳(伊丹市)に続き2例目。

 見つかったのは、外濠の一部で、長さ8メートル、最大幅1.5メートル、深さ30センチ。濠の中から円筒埴(はに)輪が約80点出土した。

 金津山古墳は、地方を治めていた首長が埋葬されたとみられる全長55メートルの前方後円墳。これまでに墳墓周囲に濠があったことが確認されている。

 二重周濠は天皇陵などに多くみられ、櫃本誠一・大手前大史学研究所教授は「芦屋地方の地域勢力と中央との密接な関係を示す証拠では」と話している。

 現地説明会は22日午後2時から。問い合わせは市教委生涯学習課((電)0797・31・2121)。

 銀閣寺、造営当初の石垣
 石材に石割るくさび跡

 足利義政が造営した京都市左京区の慈照寺(通称・銀閣寺)境内の発掘調査で、造営当初とみられる石垣が18日までに見つかった。1993年の調査でも見つかっているが、その延長部分に当たる。石材には石を割る時のくさびの跡が残っていた。15世紀にさかのぼる割石を使った本格的な石垣は全国的に極めて珍しいという。

 銀閣寺守った土塁や石垣出土
 防災設備か土石流跡も確認

 京都市左京区の慈照寺(通称・銀閣寺)境内の発掘調査で、造営当初の室町後期(15世紀末)の土塁や石垣が見つかり18日、同寺と京都市埋蔵文化財研究所が発表した。土塁は土砂崩れなどから主要建物を守る防災設備とみられ、実際に土石流から寺地を守った状態も確認された。

 同寺は1482年、将軍職を辞した足利義政が隠居所として造営した。現場は観音殿(銀閣)約90メートル北の山すそ。研修道場建設に伴い11月中旬から約220平方メートルを調査している。

 土塁は幅2・5−3メートル、高さ0・8−1メートルで、東西方向に30メートル以上確認された。土塁の北側では、16世紀代の土石流による砂層が土塁の頂上付近にまで堆積(たいせき)していたが、南側にはなく、間一髪で被害を回避した様子が確認できた。

 土塁の北側では、自然石や割石を積んだ石垣や石組みの溝が、当時の山の斜面に沿ってL字型に造られていた。1993年の調査で見つかった石垣の延長に当たり、石垣は16世紀の土石流で崩れていたが、当初は1・2メートルあったとみられる。

 北側の山中には義政が自分の廟(びょう)とした建物があったとされ、建物の美観を保つための石垣の可能性があるという。

 現地説明会は21日午後1時から。問い合わせは現場事務所の携帯電話080(5324)7920へ。

 平城宮で初の地鎮跡
 和同開珎と灯明皿が出土

 奈良市の平城宮跡で、和同開珎などの貨幣の穴にひもを通して束ねた「さし銭」と灯明皿2枚が出土し17日、奈良文化財研究所が発表した。奈良時代後半に地鎮具として使ったとみられる。平城京中枢部の平城宮跡で見つかったのは初めて。

 天皇の離宮があったとされる東院地区で出土。横約40センチ、縦約50センチ、深さ約20センチの穴に約110枚の貨幣を入れ、その上に直径約19センチの土師(はじ)器の皿2枚を置いていた。

 貨幣はさびてくっついた状態で、表から見える2−3枚の和同開珎以外の種類は不明。土師器は表面にすすが付いており、地鎮の際に灯をともす灯明皿として使われたとみられる。

 東院地区は平城宮跡の東に張り出した部分。これまでの調査で、わずかな期間に5回、大規模な建て替えをしていたことが判明。地鎮具が納められていた穴は、称徳天皇が在位していた764−770年ごろの建物の近くにあり、出土状況から、この時期以降の祭祀跡とみられる。



平城宮跡で初の地鎮具-110枚以上の銭と灯明皿

   天皇や皇太子の宮殿が営まれた奈良市法華寺町の平城宮跡東院地区で、地鎮具とみられる8世紀後半の和同開珎や灯明皿が見つかり、奈良文化財研究所が17日、発表した。110枚以上の銭がひも状のものに通して埋められていた。平城宮跡で地鎮具が出土したのは初めて。

 東院玉殿が完成した称徳天皇(在位764―770年)の時代かそれ以降の遺構とみられる。東西40センチ、南北50センチ、深さ20センチ以上の穴に銭を入れ、2枚の灯明皿(直径19センチ)が乗せられていた。

 銭は少なくとも3枚が和同開珎で、今後、エックス線CTで残りの銭文を調べる。穴は同時期ごろの建物跡と重なるが、東院地区全体の地鎮祭祀(さいし)に使われた可能性もあるという 。



広場や石組み溝も-平城宮跡東院地区

 平城宮跡で初めて地鎮具が出土した東院地区。奈良文化財研究所は17日、バラス敷きの広場や石組み溝も見つかったと発表した。建物だけでなく、空間全体が見栄えよく演出されていたことが明らかになった。建物跡は五時期に分かれ、天皇や皇太子が替わるたびに建て替えた可能性もあるという。

 東院の中枢に近い約1400平方メートルを調査した。8世紀前半から光仁天皇(在位771―777年)の時代まで、13棟の掘っ立て柱建物跡と石組み溝などが見つかった。

 石組み溝は幅30―40センチ。東院地区が本格整備された7世紀中ごろの遺構で、北側にバラス敷きが広がる。調査区を超えて東側に続く大型建物跡も見つかった。

 奈良女子大でシンポ、築造時期などで論戦

 平城京の南限を十条大路に拡大する遺構が確認されたことで知られる大和郡山市の下三橋遺跡の発掘調査成果を考える研究集会「古代都城と条坊制−下三橋遺跡をめぐって−」が、奈良市の奈良女子大で開かれた。羅城(城壁)の範囲と築造時期、水田の区割り「条里」の施工時期を巡り、調査担当者と研究者の間で論戦となった。

 研究者ら約100人が参加。調査担当者の山川均・大和郡山市教委主任と佐藤亜聖・元興寺文化財研究所主任研究員が成果を報告。羅城の年代は、出土した瓦や日本書紀の記述、羅城門(平城京の正門)の築造年代などから750年ごろとし、範囲も羅城門から東西計1キロまでとした。

 奈良盆地に広がる条里の施工時期は、平城京の条坊(碁盤目状の街区)が十条まで作られた後に九条まで切り詰められ、十条地区が特殊な条里となった後に、一般的な条里が施工されたとした。

 これに対し、小沢毅・奈良文化財研究所室長は、平城京の条坊より条里の施工が先行するとし、羅城の年代も、羅城門付近から出土した瓦の検討から、8世紀の前半にさかのぼる可能性を指摘。井上和人・奈良文化財研究所室長は、羅城が京域南辺全体にあったとした。

 討論では、山川主任の「平城京以前の条里のこん跡が発掘されないのはなぜか」という質問に、小沢室長が「平城京の条坊施工で失われた可能性があり、発掘で確認するのは困難だろう」と答えるなど、議論が交わされた。

 三輪山周辺の遺跡を紹介−−桜井市埋文センター

 古くから信仰の対象だった三輪山周辺の遺跡を紹介する展示「三輪山を仰いで−三輪山西麓の遺跡−」が、桜井市芝の市立埋蔵文化財センターで開かれている。4月8日まで。

 奈良盆地を代表する弥生時代の拠点集落の一つ、芝遺跡については、鳥や建物を描いた絵画土器片や、祭祀(さいし)用の木製品、石包丁などを展示。茅原大墓古墳や毘沙門塚古墳で見つかった埴輪(はにわ)や、三輪山の祭祀の状況を示す勾玉(まがたま)も展示している。

 午前9時から午後4時半まで(入館は午後4時まで)。月、火曜日休館(祝日の場合は翌日が休館)。一般200円、小・中学生100円。

 出雲遺跡溝から石の腕輪

 亀岡市教委は10日、同市千歳町の出雲遺跡から、4世紀後半の古墳と、石で作った腕輪が見つかったと発表した。腕輪は、棺の中ではなく、溝から出土するという府内で初のケース。儀式に使われたものとみられる。

 古墳は直径約19メートルの円墳で、周囲には幅4メートル、深さ0・5メートルの溝が巡らされている。亀岡市北部から南丹市南部にかけての地域を治めた有力者の墓とみられる。

 腕輪はほぼ完全な形で見つかっており、直径約10センチ、薄緑色の凝灰岩で作られたもので、縦方向の筋状の模様がつけられている。

 腕輪は通常、副葬品として棺の中に納められることが多いが、今回は古墳内へ通じる通路横の溝から土器の破片などと一緒に見つかった。市教委は「通路上で死者を送る儀式をした際に使われたものではないか」としている。

 現地説明会は12日午前11時から。問い合わせは市教委社会教育課(0771・25・5054)へ。

 高松塚古墳:石室解体の経緯や保存話し合い 26日、橿原でシンポジウム

 ◇県橿原文化会館で−−参加者募集

 高松塚古墳(明日香村)の石室解体の経緯や文化財保存のあり方などを話し合う「高松塚古墳シンポジウム」(文化庁など主催、毎日新聞社など後援)が26日、橿原市の県橿原文化会館で開かれる。現在、参加者を募集している。

 午後1時半〜同5時。発掘調査や解体作業担当者による石室解体のリポートと考古学や保存科学の専門家らを交えたパネルディスカッションの2部構成。

 入場無料。申し込みは、往復はがき(1人1枚)で。裏面に「高松塚古墳シンポジウム参加希望」と書き、住所、氏名(ふりがな)、電話番号を記入。返信用のあて先、あて名を書いて、〒630−8577 奈良市二条町2の9の1、奈良文化財研究所「シンポジウム受付係」へ。締め切りは17日(消印有効、先着1000人)。問い合わせは、同研究所(0742・30・6752)。

 8千年間の遺構 出土
 縄文→平安 大津・中村遺跡

 大津市教委は9日、同市真野2丁目の中村遺跡で、縄文時代から平安時代にかけての数多くの遺物や遺構が見つかった、と発表した。土器片、やじりや方形周溝墓、掘っ立て柱建物跡など種類もさまざまで、同市教委は「8000年にわたる長期間の遺物、遺構が同じ場所から見つかるのは珍しい」としている。

 発掘されたのは、JR堅田駅の北東約400メートルにある東西約60メートル、南北約12メートルの宅地造成地。

 見つかった遺構は▽弥生時代中期の方形周溝墓▽古墳時代後期の竪穴建物2棟▽平安時代の役所関連の建物とみられる掘っ立て柱建物3棟。構造や一緒に出土した遺物などから年代を特定した。

 調査地の東端には、奈良時代後期の多数の土器と牛か馬の骨が埋められた、雨ごいの儀式跡とみられる穴(直径1メートル)もあった。

 縄文時代初期のやじり約230個や関西では珍しい「黒曜石」の破片、平安時代の役人が身につけていたベルト飾り「石帯(せきたい)」をはじめ、各時代の土器やその破片など、大量の遺物も見つかった。

 調査地は、かつては湖岸だったことがわかっており、近くを古代の北陸道が通っていた、とされている。北西約450メートルでは、奈良後期から平安にかけての掘っ立て柱建物跡が見つかっている。

 同市教委の田中久雄主査は「湖上、陸上とも交通の便が良く、幅広い交易圏を持つことができる場所だったため、これだけ長期間にわたって、生活などの痕跡が残ったのではないか」と推測している。現地説明会は12日午前10時半から。雨天決行。


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