古墳・遺跡・化石・現地説明会 他
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飛鳥京跡
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藤原宮朝堂院跡
2008/09/27 (Sat)
平城宮跡
藤ノ木古墳
調査時の感動再び - 藤ノ木古墳石室を一般公開
斑鳩町の国史跡・藤ノ木古墳(6世紀後半)で、整備事業の終わった石室が5月3日から6日まで一般公開される。未盗掘石棺の開棺から20年。見学用デッキが設けられた石室内はもちろん、墳丘周辺も美しく整備された。調査にかかわった研究者も“再会”を心待ちにしている。
県立橿原考古学研究所の副所長として調査を統括した石野博信・徳島文理大学教授は「石室内の湿度は98%。千数百年経た石棺は豆腐のようになっていると予想された。力を加えて持ち上げて大丈夫か心配した。砕けてしまう可能性もあった」と振り返る。
石工の左野勝司さんを中心に開棺作業が進められ、ジャッキでわずかなすき間を作った後、石室内に入れたクレーンでつり上げた。無事成功した時にはすべての調査が終わったほどの安堵を覚えたという。
2008/04/30 17:29
奈 良
奥園遺跡
平安時代のサイコロ出土
太宰府天満宮に奉納?
福岡県太宰府市の奥園遺跡で、平安時代後期(11−12世紀)の石製サイコロ1個のほか、すごろくの駒や碁石、おはじきなどに使われたとみられる小石の加工品約50個が30日までに見つかった。
遺跡は太宰府天満宮の南西約500メートルで、参道に続くとみられる幅約3メートルの道があり、掘っ立て小屋の跡や加工前の水晶の塊も出土。同市教育委員会は「遺跡は遊具職人の作業場だった可能性がある。天満宮に奉納したか、参詣する有力者に販売していたのではないか」とみている。
市教委によると、サイコロは1辺約1・1センチの立方体で滑石製。現代のサイコロは表裏両面の数の和が7だが、出土品は「6」の裏が「4」となるなど、数字の並び方が今とは違っていた。約50個の加工された小石は約0・8−2センチの大きさで、長石や緑色片岩、チャートなど素材も色もさまざまだった。
サイコロや小石は6月20日から7月21日まで、太宰府市文化ふれあい館で展示される。
2008/04/30 17:22
其 他
下田東遺跡出土木棺
突起に縄かけ固定
両端に突起が付いた木棺の底板 下田東遺跡の方墳(5世紀後半)の周濠(しゅうごう)から、底板が完全な形で出土した。長さ2・9メートル、幅最大65センチ、厚さ同10センチ。木棺は腐りやすく、古墳時代では全国でも約30例しかないが、周濠内の粘土質の土にパックされた状態で、幸運にも残っていた。
両端から2本ずつ飛び出した突起は、当時の「長持形石棺」の底部と似ている。石棺は重い部材を運搬具に乗せるため、突起に縄を掛けてつり上げたと考えられている。だが木棺は、ふたと底板の突起に縄を回し、間の側板を固定する役割の方が大きいとみられ、人手があれば、組み立てた状態で運搬できる。
古代の葬儀は、埋葬前に被葬者の再生を願う儀礼の「殯(もがり)」を、埋葬まで遺体を安置する喪屋(もや)や殯宮(ひんきゅう)で行う。今回の底板の出土で、被葬者を喪屋などで木棺に納め、古墳まで運ぶ様子も想定できるようになった。
殯は長ければ、数年にわたることもあり、岡林孝作・県立橿原考古学研究所総括研究員は「遺体をそのままに保管するより、納棺するのが普通だと思っていた。底板の残りが良く、当時のイメージを提供できる意義は大きい」と話す。
また、周濠には底板しかなく、須恵器を下敷きにして置いていた。側板や遺体は見つかっていない。今までに見られない葬送儀礼で、今後の研究課題となるだろう。石野博信・香芝市二上山博物館長は「葬儀は人間の精神を反映し、現代の100年でも大きく変わった。古代葛城が、われわれが知らない複雑な葬送儀礼の一端を見せてくれている」と、語った。
◇
葛城地方の歴史を振り返る香芝市二上山博物館の春季企画展「古代葛城へ、考古学の旅人 大和高田市の考古学」と、発掘調査速報展「香芝発掘2007」から、主な展示品を紹介する。
▽期間 6月8日まで(下田東遺跡の方墳から出土した木棺のみ5月11日まで)▽主催 香芝市教委▽後援 大和高田市教委▽会場 香芝市二上山博物館(香芝市藤山)▽開館時間 午前9時〜午後5時▽休館日 月曜(5月5日除く)と5月7日▽観覧料 一般350円、高校、大学生200円、小、中学生150円
2008/04/27 17:14
奈 良
発掘調査速報展
発掘展など香芝で開幕
香芝市二上山博物館で26日、春季企画展「古代葛城へ、考古学の旅人 大和高田市の考古学」と発掘調査速報展「香芝発掘2007」が始まった。葛城地域の古代文化を知るうえで貴重な遺物約180点を展示している。
香芝市の下田東遺跡(5世紀後半)から出土した突起が付いた木棺の底板や、大和高田市・三倉堂遺跡(6世紀中ごろ)の木棺を展示。古墳や群集墳などから出土した鶏形や盾形の形象埴輪(はにわ)などが並ぶ。
木棺の調査報告や、石野博信・同博物館長らの講演会が5月11日午後1時30分から、博物館が入るふたかみ文化センター市民ホールで開かれる。観覧料が必要。
問い合わせは同博物館(0745・77・1700)へ。
2008/04/27 08:10
奈 良
小阪合遺跡
シカと船で豊作祈願か
大阪、火鉢形の絵画土器
大阪府八尾市の小阪合遺跡で、古墳時代初頭(3世紀前半)の溝から出土し、ヘルメットのような覆いのある「手あぶり形土器」にシカ6匹と船が描かれていることが分かり、同市文化財調査研究会が24日、発表した。シカと船の絵がある手あぶり形土器は、全国で初めてという。
シカは角の生え替わる時期が稲作のサイクルと一致し、船は稲の霊を運ぶとされており、同研究会は「いずれも稲作の象徴で、豊作を祈る祭りに使ったのではないか」と話している。
土器は高さ約17センチ、直径約16センチで、ほぼ完全な形で残っていた。シカは雄と雌が3匹ずつ、船は長さ約9センチで8本の櫂(かい)が描かれていた。
手あぶり形土器は銅鐸が祭祀に用いられなくなった後、弥生時代後期から古墳時代前期までの約200年間だけ、近畿地方を中心に使われたらしい。
2008/04/25 17:44
大 阪
キトラ古墳
「月像」をはぎ取る
奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)で、文化庁は24日、石室天井に描かれた「月像」をはぎ取ったと発表した。
月像は天井中央に描かれた天文図の西側にあり、月を表した直径5・5センチの銀箔の一部が残っている。周囲を含め縦9センチ、横8センチの範囲で絵の下地のしっくいごとはがした。
作業は22−23日に実施、しっくいが厚さ1センチ以上と分厚く、硬かったため難航した。新たに開発した円盤状の刃が付いたカッターではぎ取り個所の縁を石から切り離し、ダイヤモンド粉末を付けたワイヤやピアノ線などを使って、少しずつはがしたという。
星座「星宿」の一部など3カ所もはがした。
キトラ古墳は1月に天井の「日像」(太陽)をはぎ取っており、文化庁は残る天文図の作業を進める。
2008/04/25 17:43
奈 良
柏木川4遺跡
縄文時代の布に複雑な模様
北海道恵庭市の遺跡から出土
北海道埋蔵文化財センター(江別市)は24日、北海道恵庭市柏木町の柏木川4遺跡から、複雑な模様が編まれた縄文時代後期の布が出土したと発表した。布の調査を依頼された国立民族学博物館(大阪府吹田市)の吉本忍教授(民族技術)によると、模様がデザインされた編み布が古代遺跡から出土するのは国内では初めて。
吉本教授は「これまで手掛かりが無かった縄文時代のファッションについて、具体的な解明が期待できる」としている。
布は2006年秋に、恵庭市の柏木川の旧河道跡で、縦1・2メートル、横0・6メートルの範囲から67の断片に分かれて出土。同時に出てきた土器などから、約3200年前のものと推定された。
糸の材質は分析中だが、植物性とみられる。「もじり編み」といわれる技法を用い、糸の間隔を変えたり穴状のすき間を編み込むなど、さまざまなデザインが施されている。
2008/04/25 17:41
其 他
高松塚古墳
25日、村民に壁画公開
高松塚、発見以来初めて
奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)の国宝壁画が25日に1972年の発見以来初めて、村民に公開される。これに先立ち文化庁は24日、準備が整った施設を報道陣に披露した。
古墳近くの修復施設では同日、西壁に描かれた「飛鳥美人」と呼ばれる女子群像などの壁画が見学通路から見やすい場所に置かれた。
村民公開は27日までの3日間。村民の約4分の1にあたる約1500人が来場する予定で、初対面への期待が膨らんでいる。
2008/04/25 17:40
奈 良
下鴨神社
江戸期の雨ごい井戸を発見
下鴨神社、庶民信仰裏付け
京都市左京区の下鴨神社境内・糺の森で、江戸時代の井戸跡が見つかり、神社が24日発表した。江戸中期の文献に記された雨ごいの祭祀(さいし)を行った井戸と見られる。
境内整備に伴い京都市埋蔵文化財研究所が2月中旬から調査した。楼門南東にある川に囲まれた「舩島(ふなじま)」という中州で、幅2メートルで十字形に掘った。
井戸跡は石組みで島の南側で見つかり、半径1メートル、深さ1・8メートル。20センチ程度の川原石を丁寧に積み重ね、50センチ程度の大きな石も混じっていた。底に桶(おけ)などの設備がなく、水脈に届いていないことから、実用ではないとみられる。
同神社の1799年の文書に江戸中期の「干ばつのとき民衆が井戸を作って雨を祈った」との記述があり、幕末ごろの絵図に「雨壺」と記され、雨ごいの祭りを行った井戸とみられる。
市埋文研では「江戸時代に舩島を雨ごいの場とする庶民信仰が根付いていた証しではないか」と話している。
2008/04/25 17:35
京 都
旧吉備中学校校庭遺跡
弥生時代後期の竪穴住居跡見つかる 大規模集落か 和歌山
和歌山県有田川町下津野の旧吉備中学校校庭遺跡で、弥生時代後期の竪穴住居跡やガラスの小玉などが見つかり23日、町教委が発表した。今回の調査で弥生時代の居住跡がこれまでの想定より拡大し、範囲は東西200メートル以上、南北180メートルに及ぶ大規模な集落跡であることが判明した。
26日午後1時半から現地説明会を開く。
町教委によると、4次となる今回の調査面積は約5500平方メートル。弥生時代後期の竪穴住居跡6棟が見つかったのをはじめ、飛鳥時代の竪穴住居や奈良時代の溝、鎌倉時代の掘立柱建物跡8棟、地鎮跡と土葬墓1基などが確認された。屋敷地内に墓と地鎮跡が確認された事例は県内では珍しいという。
また、今回見つかった竪穴住居跡からガラス小玉3個が出土した。直径約4ミリで水色が2点、コバルト色が1点。これまでに見つかったものと合わせ計5個になり、弥生時代の出土量としては県内最多となった。町教委は「ガラス小玉はこの集落で作られたものではなく、朝鮮半島か国内の別の所からもたらされ、権威の象徴として位の高い人がネックレスなどとして日常的に身に付けていたのではないか」と推測している。
2008/04/24 16:58
其 他
元岡遺跡群
国内最古の青銅製鞘尻か
福岡・元岡遺跡群から出土
魏志倭人伝に登場する伊都国の一部と考えられている福岡市西区の元岡遺跡群で、弥生時代中期後半−後期(紀元前後−2世紀ごろ)の青銅製鞘尻金具が出土したことが、24日までに分かった。
刀の鞘の末端に付ける装飾金具で、福岡市教育委員会は「弥生時代の遺跡からの出土例はなく、国内最古例の可能性が高い」としている。
出土した鞘尻金具は、長さ2・95センチ、幅2・85センチ、厚さ0・9センチで中国製とみられる。鞘本体は見つかっていないが、刀子(小刀)の鞘であったと推定される。
市教委埋蔵文化財第2課は「当時の中国では、刀子を木簡や竹簡に記した文字を削り取る道具としても用いており、同時代におけるこの地域の文化的先進性を物語る資料だ」と指摘している。
26日から6月29日まで、福岡県前原市の伊都国歴史博物館で公開される。
2008/04/24 16:38
其 他
下鴨神社
糺の森で平安の祈り
下鴨神社、祭祀遺構を復元
下鴨神社(京都市左京区)境内の糺の森で進められていた平安時代後期の祭祀(さいし)遺構の復元が24日、完了した。朝廷が関与し、水を使って天変地異を鎮める祭りが行われていたとみられる。
遺構は2001−05年度の発掘調査で、平安時代の川跡「奈良の小川」の南岸の2カ所で見つかった。川原石を敷き詰めた上に盛り土をし、数個の平らな石を立てていた。
復元は1月から3カ月で実施。遺構を埋め戻し、遺構と同様約30センチの盛り土をしたほか、一部に石敷きを露出させた。7カ所の祭祀跡も復元した。
新木直人宮司は「本殿ができる以前からの自然の神を拝んだ古代の神社信仰の姿を見てほしい」と話している。
29日から一般公開される。
2008/04/24 16:27
京 都
キトラ古墳
シックな黒に銀の輝き
キトラ古墳の大刀復元
極彩色壁画で知られる奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)の出土品から、奈良文化財研究所が副葬品の大刀を復元し、報道陣に23日、公開した。
つややかな黒漆塗りのさやに銀製の金具が付くデザイン。高松塚古墳などの華美な唐風の大刀とは違うタイプだが、同研究所は「洗練された美しさがある。第1級の品で被葬者の身分の高さがうかがえる」としている。
長さ約90センチ、幅4・4センチ、重さ672グラム。さやはヒノキ製で、つかにサメ皮を巻いた。
これまでの発掘調査でさやや大刀の破片、金具など計8点が出土。金具の種類から2本以上の大刀が副葬されたという。このうち細身の1本の形や装飾を、同時期の古墳で見つかった例を参考にして推測した。
大刀は5月9日から明日香村の同研究所飛鳥資料館で展示する。
2008/04/24 05:51
奈 良
飛鳥資料館
飛鳥資料館で十二支像特別展 5月9〜25日にはキトラ壁画公開
キトラ古墳に描かれた「子(ね)」「丑(うし)」などの十二支をかたどった獣頭人身像壁画のルーツを探る特別展が、明日香村奥山の奈良文化財研究所・飛鳥資料館で開かれている。十二支の発祥地・中国で出土した獣頭人身を表現した焼き物の人形「傭(よう)」、キトラ壁画との関係が注目される朝鮮半島の獣頭人身像のレリーフの拓本など、約70点を展示。6月22日までで、5月9〜25日には、キトラ古墳からはぎ取られた獣頭人身像「子」「丑」「寅」が初公開される。
時間や方位を表す十二支は、始皇帝が活躍した秦時代(紀元前221〜同206年)に生まれたともいわれる。十二支を描いた壁画は、中国の貴族の墓(西暦570年)が最古という。
一方、頭は十二支の動物、体は人間として表現された獣頭人身像は、中国で6世紀末に出現し、7世紀に流行。日本には7〜8世紀に入ってきたといわれる。ただ、十二支の獣頭人身像の壁画は、中国では北京で発見された貴人の墓(734年)が最古とされ、7世紀末に描かれたキトラ古墳の獣頭人身像が世界最古として注目される。
キトラ古墳の獣頭人身像は、四方の壁に3体ずつ、方位に従って規則正しく描かれていたとみられ、これまでに「子」「丑」「寅」「午(うま)」「戌(いぬ)」「亥(い)」の6体が見つかった。
特別展では、キトラ古墳の寅や午の発見直後の写真、ダイヤモンド粒子を埋め込んだ特殊なワイヤを使って寅をはぎ取る写真などを展示。また、十二支を頭に付けた十二神将(五條市・栄山寺蔵、国重要文化財)も陳列され、仏教との関連についても紹介している。
5月7、8両日を除いて期間中無休。キトラ壁画公開期間中は午前9時〜午後6時(通常は同4時半)開館で、5月10、17、24日には午後9時まで延長される。観覧料は大人260円(壁画公開中は500円)、高校・大学生130円(同300円)、中学生以下無料。問い合わせは同館((電)0744・54・3561)へ。
2008/04/23 17:21
奈 良
下田東2号墳
1500年 奇跡の出土
◎香芝の木管底板
芝市教委が22日発表した下田東2号墳から出土した木棺の底板は1500年以上を地下で過ごし、ほぼ完全な形で姿を現した。「これは奇跡です」と担当者は力説した。古墳から木棺はめったに出土しない。平地より高いので水はけがよい分、木が腐るからだ。だが、木棺の蓋(ふた)板と側板がなく、棺を埋めた穴の痕跡もなかった。底板だけあって、埋葬した跡がないのはなぜか――。新たな謎が生まれた。
最も考えやすいのは、底板だけ残って他は朽ちた▽農地にするため古墳が削られた時に蓋板と側板を失った▽墳丘が崩れて底板が動いた――などの可能性だ。
同市教委の山下隆次主査は「底板は元の位置を動いていない」と断言する。底板の上の土は自然堆積(たいせき)でまったく乱れておらず、墳丘とほぼ並行に、水平に据えられている。また、底板は幅の広い方が北で、遺体を置けば頭部は北になり、当時の北枕の習慣とも合う。
となると、遺体を底板に寝かせたまま放置する風葬が考えられる。だが、石野博信・同市二上山博物館長は「風葬といっても、小屋の中でうっすら土をかけるらしい。もし周濠(しゅうごう)上で行われたのなら、野ざらしの完全風葬になる。それは考えにくい」という。
中国では発掘例がある、主君に殉じた死者を埋葬する殉葬はどうか。日本では周濠に馬を埋葬した跡が見つかっており、馬の殉葬とされている。だが、人間の殉葬は考古学的には確認されていない。日本書紀に殉死に代わって埴輪(はにわ)を立てたという有名な話があり、殉死の風習はあったとされる。「でも、殉葬なら遺体を埋めたはず。その痕跡はない」と山下主査は否定的だ。
では、殯(もがり)はどうか。喪屋(もや)に遺体を安置して飲食物を供え、縁者が歌舞飲食して死者の再生を祈る儀礼で、文献にはしばしば出てくるが、遺構や遺物では確認できていない。石野館長は「復活を願う儀式をお墓である古墳で営むのはおかしい」と否定する。
一方で、石野館長は「事故死、戦死など突発的な死に対する葬礼」の可能性を指摘する。が、「これも資料が少なく、可能性以上のことは言えない」と話すにとどまる。
山下主査によると、古墳時代の木棺は全国でも二十数例しか見つかっていない。このうち、組合(くみあわせ)式の木棺は今回が11例目だ。大和高田市の三倉堂遺跡(6世紀)からは1928年に組合式と割竹(わりたけ)形の木棺が計6基、出土している。同市から外に出たことがないため、二上山博物館(香芝市藤山1丁目、0745・77・1700)は三倉堂木棺の3基を展示する企画展を26日〜6月8日に開催することにしており、今回の底板も26日〜5月11日に特別展示する。
2008/04/23 17:10
奈 良
島庄遺跡
飛鳥時代の石組み溝-明日香・島庄遺跡
古代の豪族、蘇我馬子(?―626年)の邸宅があったとされる明日香村島庄の島庄遺跡で、飛鳥時代(7世紀)の石組み溝が見つかり、同村教育委員会が21日、発表した。溝の用途は不明だが、大規模な土地造成が行われ、当時の有力者に関連した何らかの施設があった可能性もあるという。馬子邸や蘇我氏滅亡後に天皇家によって築かれた嶋宮との関連性も注目される。
遺跡の範囲確認を目的に2月から約160平方メートルを調査。石組み溝は幅0.8―3.5メートル、深さ1.2―1.3メートルで、東西方向に長さ約4メートルにわたって見つかった。
盛土を行ったあと掘られ、両側に人頭大(10―80センチ)の石を6―8段積み上げて護岸。石の組み方は北岸に比べ、南岸はやや雑だった。南岸の上面にはバラス状の細かな石が人為的に敷き詰められていた。
2008/04/22 17:39
奈 良
唐古・鍵遺跡
「楼閣土器」など3点-初の町指定文化財に 田原本町
田原本町は、弥生時代の大規模環濠集落、唐古・鍵遺跡(同町唐古など)から出土した楼閣が描かれた土器片などを町指定文化財にした。同町の文化財指定は初めて。
指定を受けたのは楼閣の絵画土器片と唐古・鍵遺跡出土の鳴石容器・翡翠(ひすい)製勾玉(まがたま)、法貴寺千万院(同町法貴寺)の木造十一面観音立像(室町時代)の三点。
2008/04/21 16:40
奈 良
橿原考古学研究所
埴輪に往時の社会見る 橿考研博で220点きょう特別展開幕
古墳時代の埴輪(はにわ)から、当時の人や社会の様子を見る、春季特別展「はにわ人と動物たち―大和の埴輪大集合」が、橿原市の県立橿原考古学研究所付属博物館で19日、開幕する。県内67の古墳や遺跡から出土した埴輪、計約220点が展示されている。6月15日まで。
埴輪は古墳の被葬者や、祭られた人の生前の姿が推測できる貴重な資料。人物や動物から、古墳時代の人の思いや、祭祀(さいし)、社会観を学んでもらおうと同博物館が企画した。
人形埴輪の多くは足がなく筒形だが、今回展示されている石見遺跡(6世紀前半)の「椅子(いす)に座る男性」は全身が表現されている。埴輪の姿で人物の身分など当時の社会秩序を反映していることが伺える。
また、橿原市の四条7号墳(5世紀後半)の「騎乗する男性」は、曲がった足の破片などから、馬に乗る姿とわかる。馬に乗っている埴輪が出土したのは近畿地方で初めてで、同古墳の主が騎乗者の姿を重要視していたとみられる。
期間中、埴輪製作体験(26日、5月10、16、22、25、31日、6月8、11日、いずれも午後1時から)や奈良芸術短大の学生による埴輪復元作業の公開などもある。
一般800円、高校大学生450円、小中学生300円。休館は月曜(5月5日は開館)と5月7日。問い合わせは同博物館(0744・24・1185)へ。
2008/04/19 17:17
奈 良
荒神谷遺跡
国宝の銅剣に亀裂 古代出雲歴史博物館
出雲市の古代出雲歴史博物館は十八日、荒神谷遺跡(同県斐川町)から出土した国宝の銅剣を調査中、台座にぶつけ長さ約四センチの亀裂ができたと発表した。亀裂が広がらないよう接着し、今後文化庁と協議して修復方針を決める。
博物館によると、破損した銅剣は長さ約五十センチで厚さは約二ミリ。片側の刃のほぼ中心部分に長さ四・二センチ、幅○・九ミリの亀裂が入り、粉状のかけらが散らばった。
銅剣の劣化を調べるため訪れていた奈良県の研究所技師が、銅剣の写真を撮影し、展示台に戻そうとして刃が台座にぶつかったという。
荒神谷遺跡では一九八四、八五年に銅剣や銅鐸(どうたく)が大量に出土。弥生時代の青銅製品として貴重な資料とされ、銅剣三百五十八本などが九八年、国宝に指定された。
2008/04/18 21:31
其 他
田原本秦楽寺遺跡
勾玉など120点超
◆工房?未完成多く
古墳時代中期から後期(5世紀後半〜6世紀前半)の勾玉(まがたま)や管玉など石製玉類120点以上が、田原本町秦庄の秦楽寺(じんらくじ)遺跡で出土したと17日、同町教委が発表した。珍しい琥珀(こはく)製品のほか、多数の未完成品や砥石(と・いし)も見つかった。同町教委は「近くに工房があったと考えられ、地域の首長が作らせていた可能性もある」という。
秦楽寺北側にあるため池の護岸工事に伴い、約150平方メートルを調査。西側のトレンチから出土した。
玉類の多くは直径5ミリ程度。薄い円盤状の石の中央に穴を開けた「臼玉」が最も多かったが、管玉や勾玉、丸玉などもあった。完成品は約20点だけで、未完成品や破片が100点以上にのぼり、原石も多数見つかった。砥石も7点見つかったことから、近くに玉類の製作工房があった可能性が高いという。
石の種類は滑石(かっせき)がほとんどだが、水晶や瑪瑙(めのう)、琥珀もあった。同時期の玉類の製作工房跡とされる遺跡は県内で15カ所程度見つかっているが、琥珀の玉類が見つかる例は珍しいという。
□
見つかった玉類や砥石は、同町阪手の唐古・鍵考古学ミュージアムの特別展示室で19日から始まる「たわらもと08発掘速報展」(一般200円、高校・大学生100円)で展示される。5月25日まで。
2008/04/18 16:51
奈 良
森広遺跡
四国の青銅器を九州で鋳造
九大調査、巴形の鋳型一致
香川県さぬき市の森広遺跡で明治時代に出土した巴形銅器3点が、福岡県春日市の九州大筑紫地区遺跡群で1998年に出土した弥生時代後期(2世紀)の石製の鋳型で鋳造されていたことが分かり、九州大埋蔵文化財調査室が17日、発表した。
同調査室によると、弥生時代の青銅器で鋳型と製品が一致した例は、銅鐸以外では初めて。祭祀などに使われたと考えられる青銅器が、九州から四国へ運ばれていたことを示す物証といえる。同調査室の田尻義了学術研究員は「弥生時代の政治状況や経済交流が垣間見える貴重な発見だ」と話している。
また、青銅器は同じ鋳型で何回も鋳造されたとこれまでも推定されていたが、3点の巴形銅器が鋳型と一致したことで、複数回の鋳造が現物資料によって裏付けられた。
巴形銅器は、脚が7本で、脚を含めた直径が約12センチ。
2008/04/18 16:26
其 他
高松塚壁画
飛鳥美人、対面近づく-来月31日から一般公開
文化庁は16日、明日香村平田の高松塚古墳(7世紀末―8世紀初)から取り出した国宝壁画の一般公開を5月31日から6月8日までの9日間、古墳近くの壁画修理施設で実施する、と発表した。全国で考古学ブームを巻き起こした「飛鳥美人」などの極彩色壁画が、発見から36年を経て初めて一般に公開される。
壁画は昭和47年3月の発見以来、保存を理由に非公開とされてきた。カビなどによる劣化で昨年4月から5カ月間、石室解体が実施された後は修理施設内に保管。2月の同古墳恒久保存対策検討会で、壁画保存への理解を深めることを目的に期間限定の一般向け公開が決まった。
2008/04/17 17:10
奈 良
キトラ壁画
キトラ壁画が引っ越し
明日香村で保管、修復
奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)からはぎ取った極彩色壁画が16日、保管している奈良市の奈良文化財研究所から“故郷”の明日香村に引っ越した。
四神図と十二支図のうち、修復を終えた5つの壁画は同研究所飛鳥資料館に収蔵。このうち5月9−25日の間、飛鳥資料館で一般公開される十二支図の「子」「丑」「寅」を作業員が慎重に展示ケースに並べた。
保存処置中の四神図「朱雀」「青竜」や十二支図「午」などは、高松塚壁画の修復施設へ運び、一緒に作業を進める。分割してはぎ取っている天文図も施設へ移した。
文化庁によると、同研究所の収納場所がいっぱいになり、今後、天文図を復元するために専用スペースが必要になることから、保管場所を変更したという。
2008/04/17 05:41
京 都
キトラ古墳
新兵器登場へ着々
明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末―8世紀初)の壁画保存修復で、文化庁は10日、石室天井に残る天文図7カ所で剥(は)ぎ取りに成功したと発表した。今回で、天文図全体の約4分の1の剥ぎ取りが終わった。
9、10日の両日、壁画修理技術者2人が作業を実施。天文図北側の星座「造父」の金箔(ぱく)で表した星や朱線を一体(縦約3センチ、横約4センチ)で取ったほか、七つの星座の一部を最大縦約8センチ、横約5センチで、へらなどを使って剥ぎ取った。
2008/04/11 16:25
奈 良
平城宮跡東方官衙
木簡は数万点規模
奈良市の平城宮跡東方官衙(かんが=役所)地区で出土している木簡の堆積(たいせき)層が、総数で数万点規模になることが、奈良文化財研究所の調査で分かった。削りくずが大半だが、点数では長屋王家木簡(約3万5000点)を上回る可能性が高く、平城京で過去最多の二条大路木簡(約7万4000点)に迫る様相を見せている。
木簡は直径6メートルほどの穴に投げ込まれた状態で、最高約40センチほどの厚さで全体に堆積している。土はほとんどはさまっておらず、削りくずだけがびっしりと積み重なった状態だった。
これまでに取り上げたのはごく一部だが、すでに約3500点に上っている。西側半分は未発掘。同研究所は「役所の建て替えなどに伴って一気に捨てられたのだろう。わざわざ木簡だけの層を作ったような状態で、穴を埋める際の作法など、何か理由があるのではないか」とみている。
2008/04/11 16:24
奈 良
高取城跡
豊臣期の排水溝発見
高取城跡(国史跡)の壺坂口中門跡の下から、石組みの排水溝が見つかった。高取町教委が10日、発表した。溝のすべての面に平らな石材が使われるなど、非常に丁寧な造りで、16世紀末に大和郡山城主となった豊臣秀長の指示で本格的な築城を始めた時のものとみられる。
城跡の整備事業にともない、県から委託を受けた町教委が中門跡周辺の約90平方メートルを調査した。
排水溝(幅20センチ、深さ20センチ)は、長さ約15メートルのものと、それに取りつく同約5メートルの2本。いずれも平らな石(最大約80センチ)を組んでおり、溝の上部にはふたがあった。すき間には粘土で目張りした跡も確認できた。
溝は中門の礎石の下約60センチをくぐり抜けており、そのまま門の外へ続いていた。城内の水を門外へ出すためとみられ、溝が城内に張りめぐらされていた可能性もある。同様の石組み溝は大和郡山城の追手門跡などにもある。また、溝近くの石垣のすそには、完形の平瓦が並べて敷き詰めてあった。水はけをよくするためらしい。
同町教委の木場幸弘次長補佐は「軟弱な地盤の上に大規模な石垣をつくるため、排水を重視したのだろう。非常に丁寧で、ここが豊臣の城だったことが改めて確認できた」としている。
このほか、これまで3石が確認されていた中門の礎石が新たに2石見つかり、門の規模が幅5・4メートル、奥行き1・8メートルだったことも確認された。現地はすでに埋め戻されており、説明会の予定はない。
2008/04/11 16:12
奈 良
公家の邸「泉殿」跡か
鎌倉期、公家の邸「泉殿」跡か
京大西部構内で発掘
京都市左京区吉田泉殿町の京都大西部構内の発掘調査で、鎌倉時代の建物跡が10日までに見つかり、同大学文化財総合研究センターが発表した。鎌倉時代、親幕府派の公家として権勢を誇り、太政大臣にまで上った西園寺公経(さいおんじきんつね)の邸「泉殿(いずみどの)」の可能性があるという。
京大の課外活動施設建設に伴い1月上旬から約920平方メートルを調査した。建物跡は、建物の周囲を囲んだとみられる石敷きと、石を埋めて地盤を強化した「掘り込み地業(じぎょう)」。出土土器から13世紀代とみられるという。
石敷きは帯状(長さ8メートル、幅1・4メートル)でほぼ東西に伸びていた。直径20センチ程度の平らな石を丁寧に並べており、内側は建物周囲の雨落ち溝、外側は石畳とみられる。地業は直径10−30センチの多くの川原石を、地盤が低い2カ所に投入していた。
吉田神社に近い調査地付近は、鎌倉時代に公家や武家の邸が建ち並んでいたとされ、地名の泉殿町は西園寺公経が営んだ邸「泉殿」に由来するという。
同センターの伊藤淳史助教は「調査地は近世以前は泉殿町に含まれていなかったが、院政の拠点の鳥羽離宮などに匹敵する水準の工事で、造営主としては公経とみるのがふさわしい」と話している。
現地説明会は11日午後零時半と1時半。
問い合わせは現場事務所Tel:075(753)7690へ。
・西園寺公経(1171−1244) 藤原道長の父兼家の末弟公季の子孫。源頼朝や摂関家との姻戚関係で勢力を伸ばした。承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇の挙兵を鎌倉幕府に急報。乱後、そうした功績で太政大臣に上り、現在の金閣寺の地に豪勢な北山山荘を営み権勢を誇った。
2008/04/11 15:46
京 都
大山崎瓦窯跡
窯跡の説明板除幕
大山崎 平安京造営時に瓦供給
平安京造営の際に瓦を供給したとされる国史跡「大山崎瓦窯跡」説明板の除幕式が9日、京都府大山崎町大山崎の瓦窯跡近くの町有地で行われた。
同遺跡は、宅地開発に伴う発掘調査で2005年2月に6基の瓦窯跡が発見され、平安京の主要施設に使われた同じ文様の瓦が大量に出土。発掘から9カ月という過去最短で国史跡指定が決まった。
同瓦窯跡の入り口に立てた説明板はステンレス製で、縦80センチ、横130センチの大きさ。表面には、出土時の写真と瓦窯の構造や造られた時代背景などが詳しく記されている。「大山崎瓦窯跡」と彫った白御影石製の標識も設置した。
除幕式には同町の真鍋宗平町長や住民ら約50人が出席。真鍋町長は「当時の瓦生産の解明に大きな手掛かりとなる貴重な遺跡で、今後も段階を踏んで整備を進めたい」とあいさつ、説明板の覆いを取り払った。引き続き、発掘を担当した林亨町歴史資料館長が瓦窯ができた背景などを解説した。
2008/04/10 18:10
京 都
藤ノ木古墳
藤ノ木古墳の見学施設完成
車いすのまま石室内に
金銅製の馬具など豪華な副葬品で知られる奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳(国史跡、6世紀後半)で、石室の見学施設が完成し、同町と町教育委員会が8日、報道陣に公開した。車いすのままで石室内に入れる「全国的にもおそらく初めての施設」(町教委)という。
石棺の置かれた玄室までの羨道に、長さ約8・4メートル、幅約1メートルの手すり付き通路を設置。玄室の入り口付近から、約3メートル先にある凝灰岩製の家形石棺(長さ2・4メートル、幅1・3メートル、高さ1・5メートル)を見ることができる。
一般公開は5月3日から4日間、午前9時から午後5時まで。1日約1000人で先着順。
2008/04/09 16:22
奈 良
佐紀古墳群
墳丘東側にも造り出し - 佐紀古墳群で初確認
考古学や歴史学など、国内の16学・協会が2月に行った神功皇后陵(五社神古墳、奈良市山陵町)の立ち入り調査で、造り出しとみられる張り出しが、墳丘の東側で確認された。西側の造り出しは宮内庁の調査で見つかっていたが、両側に張り出す可能性が強まった。佐紀古墳群では初の確認となる。
造り出しは祭祀(し)用の施設とされ、両側に備わるのは大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(四世紀末)が最初と考えられている 。
2008/04/08 18:01
奈 良