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 「飛鳥美人」初の一般公開
 高松塚壁画、修復施設で

 奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)の国宝壁画が31日、1972年の発見以来初めて一般公開された。

 古墳近くの修復施設で6月8日までの9日間、事前申し込みで選ばれた4873人が「飛鳥美人」と呼ばれる女子群像などをガラス窓越しに見学する予定。

 文化庁は2007年、カビなどで傷んだ壁画を修復するため、石室を解体。壁画が描かれた石ごと施設へ運び、カビや汚れの除去を進めている。

 壁画は発見後、石室内に現地保存され、文化庁は管理上の問題から立ち入りを厳しく制限。これまで一般の人が壁画の実物を見る機会はなかった。修復には10年かかるとされ、文化庁は毎年公開する方針。

 バーミヤンに世界最古油絵
 7−10世紀の仏教壁画

 アフガニスタンの世界遺産バーミヤン遺跡の石窟内に描かれた7−10世紀の仏教壁画が、世界最古の油絵であることが東京文化財研究所などの調査で31日までに分かった。調査した専門家によると、絵画の分野では、12世紀のスウェーデンの「キリスト磔刑像」の彩色で確認された油絵の具が最古の例とされており、美術史を塗り替える発見となる。

 調査に参加した谷口陽子・東文研客員研究員(筑波大助教)によると、同遺跡にある50の石窟の壁画から塗料を採取して成分を化学的に分析した結果、12の石窟の壁画に、クルミやケシの実の油に極めて近い成分の油を用いた油性塗料が使われていることが判明した。

 塗料の分析を行った欧州シンクロトロン放射光施設(フランス)は「世界最古の油絵であることが証明された」と声明で断定、「中国と欧州を結ぶシルクロードを旅した芸術家の作品だろう」と推測している。

弥生人気で400万人達成

 弥生時代最大級の環壕集落、吉野ケ里遺跡を整備し2001年に開園した佐賀県の吉野ケ里歴史公園が31日、累計入園者400万人を達成した。

 同公園では昨年、弥生時代の衣装を着て楽器作りや踊りを学べる体験学習ゾーン「南のムラ」がオープン。今年は王墓とみられる「北墳丘墓」を復元した常設展示も始まり、考古学ファンらの人気を集めた。植木市やコンサートなど地元のイベントに幅広く使われたことや、佐賀県での全国高校総体の開催も集客を後押しした。

 今後は、弥生時代の植生をイメージした「古代植物館(仮称)」を12年度に開館するほか、外国人観光客や修学旅行生の誘致にも力を入れていくという。

 「万葉歌木簡」縁に交流を
 甲賀と安積山ゆかり福島・郡山

 滋賀県甲賀市信楽町の紫香楽宮跡(宮町遺跡)から出土した万葉集の「安積山(あさかやま)の歌」の木簡に、歌の舞台とされる福島県郡山市から熱い視線が注がれている。郡山文化協会の役員らがこのほど信楽を訪れて木簡と対面。「これを縁に甲賀と交流を」と期待を寄せている。

 安積山は郡山市西部の額取(ひたいとり)山(1009メートル)の別名で、地元では歌の作者の采女(うねめ)にまつわる悲話が伝わる。歌碑が立てられ、毎年夏に「うねめまつり」も開かれている。

 木簡発見は大きなニュースとなり、郡山文化協会の今泉正顕名誉会長と七海晧奘理事が急きょ甲賀へ。七海理事は「伝説と思われていたものが出てきて大変な感動です。国宝級の発見では」と話す。

 協会側は郡山での木簡展示も希望したが、水分補給など管理上の問題があり、実現は難しいという。発見者の栄原永遠男大阪市立大教授を招いた講演会開催や木簡のレプリカ(複製)展示などの考えを甲賀市の担当者に伝えた。

 甲賀市歴史文化財課は「関心を持っていただいてありがたく、できることは協力していきたい」と話している。

 石室ひんやり、じっくり見学
 向日・物集女車塚古墳を公開

 向日市物集女町の物集女車塚古墳で、石室の一般公開がこのほど始まった。29日は、近くの第4向陽小の児童や歴史ファンら約70人が訪れ、普段は見られない横穴式石室の内部を熱心に見学していた。

 同古墳は6世紀中ごろに築かれた全長45メートルの前方後円墳で、物集女地域一帯を治めた豪族の墓とされる。市教委が1992年から3年かけ史跡公園として整備。復元した石室は毎春、市民らに予約制で公開している。

 訪れた人たちは、ひんやりとした石室に入り、玄室に置かれた石棺や羨道(せんどう)の石組みなどをじっくりと見て回った。市文化財調査事務所の職員が「一番小さい天井石でも、一つで軽自動車1台分の重さがある」などと説明すると、興味深そうに耳を傾けていた。公開は6月1日まで。

 最古級のイラン文字資料で講演
 30日 京大で

 紀元前2800年ごろのものとみられる世界でも最古級のイランの文字資料を紹介する講演会「イラン最古の文字資料」(総合地球環境学研究所主催)が30日午後1時から、京都市左京区の京都大時計台記念館で開かれる。

 シュメール文明とほぼ同時期と考えられているエラム文明の中心地、イラン南東部のジーロフトの遺跡から出土した未解明の文字資料について、イランにおける考古学の第一人者で遺跡発掘調査を統括するユースフ・マジッドザデー博士が、文字資料や現地の写真を交えながら語る。

 当日受け付けで無料。問い合わせは研究所Tel:075(707)2377へ。

四川大地震

中国・陝西省文物局は、西安郊外にある秦の始皇帝の兵馬俑(よう)のうち7体が12日の四川大地震で軽い被害を受けたことを明らかにした。西安の地元紙・華商報(電子版)が28日報じた。

同紙によると、兵馬俑博物館1号坑の陶俑2体の頭部が傾き、3号坑の馬の頭や下あごに亀裂が走るなどした。

 手塩の修理 あと10年

 ◆事前見学 担当者の苦労しのぶ

 高松塚古墳壁画の一般公開(31日〜6月8日)を前に、文化庁が22日夜に実施した報道公開で修理施設の作業室内に入った。やはり壁画はカビや汚れで痛々しい状況だったが、幸い解体後は劣化が広がっていないという。修理は10年かかるとされる長い地道な作業。担当者の苦労がしのばれた。

 ◎ゲル被害範囲広く/作業、1日5センチ四方

 約180平方メートル。気温21度、湿度55%に保たれた無音、無臭の無機質な空間に、圧倒的な存在感を持つ「飛鳥美人」(女子群像)など16枚の石材が横たわっていた。

 許された見学時間は15分。壁画を傷つけないよう、ペンもノートも持てない。入り口で手と足をアルコール殺菌し、マスクを着用した。

 重要な絵の部分は、色が変化する恐れもあるので、まだ手つかずの状態。西壁の「飛鳥美人」は約30センチの距離で見ても顔の表情がわかったのは1人だけ。数カ所で直径約7ミリの陥没も確認できた。内部が空洞になり、今後下に何かを埋める必要があるという。

 劣化の象徴とも言える「白虎」は、思ったより背中などの描線が残っていた。それでも全体的にぼやけ、ほとんど見えなくなっているのは間違いない。「青竜」の前脚も、発見当時の写真と比べれば薄くなっているように感じた。

 盗掘穴のある南壁では薬品を使い、細菌やカビなどの混合物「ゲル」を除去するテストをしていた。周りの茶色っぽい色と比べ、ずいぶん白くなっていたが、顕微鏡でのぞくと、表面に網目状の物質が残っているのがわかる。色は落ちたが、根本的な除去方法は見つかっていない。

 天井石の上には壁画をまたぐような形の作業台があった。担当者は台の上でお辞儀をするような姿勢で、顕微鏡を見ながら約2時間休憩なしで作業を続けているという。

 獣頭人身像は再び静かな眠りに。

 明日香村の飛鳥資料館で開かれていたキトラ古墳十二支像壁画「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)」の特別公開(文化庁・同資料館主催、県・同村など共催、朝日新聞社後援)が25日、幕を閉じた。朝方は夜来の雨が残ったものの開館前から行列ができ、2067人が来場。村民向け見学会なども含めた期間中の来場者は3万7千人を超えた。飛鳥美人の衣装を体験できる催しや吹奏楽の演奏も最終日を盛り上げた。

 「万葉歌木簡」に思いはせ
 甲賀で講演会、180人熱心に

 滋賀県甲賀市の紫香楽宮跡(宮町遺跡)から万葉集と同じ歌を書いた木簡が出土したことを受けた記念講演会が25日、同市の信楽中央公民館で開かれ、約180人が歴史ロマンに思いをはせた。

 木簡の裏側に「安積山(あさかやま)の歌」を発見した大阪市立大大学院の栄原永遠男教授が発見のいきさつや意義を話し、同大大学院の村田正博教授が「難波津(なにわづ)の歌」と合わせた歌文化の伝承について話した。

 奈良時代中期に奈良・東大寺が所領した荘園の開発状況などを描いた荘園絵図が見つかり、奈良国立博物館(奈良市)の調査で、正倉院宝物として現存する同時期の荘園絵図18点とともに江戸時代まで東大寺に一括保存され、その後外部に流出し所在不明だった絵図であることがわかった。

 日本で最も古い時期に描かれた地図原本の一つで、正倉院宝物より製作当時の状況をよく保っており、同博物館は「国宝級の発見」と評価している。

 「越中国射水(いみず)郡鳴戸開田地図」で、縦77センチ、横141センチの麻布製。現在の富山県高岡市の一部を、東を上に、「条里」と呼ばれる碁盤の目状の区画に割って、荘園の範囲や地番、田の開発状況を個別に墨書き。「沼」などの書き込みや水路のような線がある。造(ぞう)東大寺司や東大寺僧、越中国司の署名と「天平宝字三年(759年)十一月十四日」の日付が添えられていた。

 東大寺では、越中と越前、近江の開田図や墾田図を中心に、奈良時代中期の麻布の荘園絵図19点を保存していたが、うち1点が江戸時代後期に外部に流出。一時、個人所蔵となったが、戦後は所在不明だった。残る18点は明治初期に献納され、正倉院宝物となった。

 同博物館は、絵図のほぼ全面に押された97個の「越中国印」の印影などを正倉院宝物のものと比較した結果、外部流出した1点と確認した。

 昨年、古道具店が入手したとの情報を得て、同博物館が調査していた。すでに絵図を購入しており、修理後、一般公開する。

 正倉院宝物以外で現存する同様の荘園絵図は、国宝・額田(ぬかた)寺伽藍(がらん)並(ならびに)条里図(国立歴史民俗博物館蔵)しかない。

 杉本一樹・宮内庁正倉院事務所長の話「(正倉院宝物の荘園絵図と異なり)修理の跡がほとんどなく、当初の状態に近いところが大変貴重だ。この価値を損なわないよう保存・展示してほしい」

 土塁、整備当時の状態で見つかる
 舞鶴、田辺城跡の発掘調査

 京都府の舞鶴市教委は23日、同市南田辺で実施している田辺城三ノ丸跡の発掘調査を発表した。外堀の内側の土塁が整備当時の状態で見つかり、高さが初めて確認された。

 同城は、細川氏が幽斎、忠興の2代で1590年ごろに築城。城跡調査は1981年から続いており、27回目。今回は後に入城した京極氏が、17世紀初頭に拡張した三ノ丸の南部分(JR西舞鶴駅北東の約150平方メートル)を調べた。

 土塁は約9メートルの外堀の内側にあり、幅6−8メートルのかまぼこ型。砂利と粘土を交互に積んでいた。今回、地面からの高さを約1・5メートルと初めて確認。城内への上水道「御水道(おすいどう)」の石組み溝が、土塁の内側に沿って続くことも確認された。

 市教委文化財係の松本達也主査は「江戸初期は豊臣政権からの移行期。政情不安な側面もあって、京極氏の時代に大規模な土木工事をしていたことが証明された」と説明する。

 現地説明会は25日午前10時半から。問い合わせは市田辺城資料館TEL0773(76)7211。

 埴輪片など南条古墳の遺物並ぶ
 向日、文化資料館で

 京都府向日市寺戸町の文化資料館で、1月の南条古墳群第3号墳(同市物集女町)の発掘調査で見つかった線刻入りの埴輪(はにわ)片や土器の破片など出土物15点が展示されている。

 同古墳は、古墳時代中期に築造された円墳で、市史編さんの一環として行われた1970年代後半の測量調査では、直径23・5メートル、高さ3・5メートルと推定されていた。

 今回調査は、1月15日から2月5日まで、市埋蔵文化財センターが墳丘の規模確認のために実施した。その結果、古墳は直径約25メートル、高さ約5メートルと以前の推定よりもやや大きいことが判明した。埴輪片なども出土した。

 資料館入り口のブースには、部位や文様は不明ながら表面に線で絵が描かれた埴輪片や古墳に使われた円筒状埴輪、上方部が開いた朝顔型埴輪の破片などが展示され、須恵器のふたの破片なども並んでいる。

 7月11日まで。入場無料。問い合わせは市埋蔵文化財センターTEL(931)3841。

イエメンで恐竜の足跡発見、アラビア半島では初

 科学者たちのチームが、アラビア半島で初めてとなる恐竜の足跡をイエメンで発見した。発掘に参加したオランダのマーストリヒト大の古生物学者、アン・シュルプ氏はロイターとの電話インタビューで明かした。

 それによると、足跡は地上で暮らした生物としては地球史上最も大きい竜脚類と呼ばれるグループに属する草食恐竜のもので、推定約1億5000万年前に残されたという。


万葉集の木簡が初出土 紫香楽宮、難波津の歌も

 聖武天皇が造営した紫香楽宮(742−745年、滋賀県甲賀市)跡で出土した木簡に、最古の歌集、万葉集の「安積山の歌」が書かれていたことが分かり、市教育委員会が22日発表した。万葉集の歌の木簡が見つかったのは初めて。

 反対の面には「難波津の歌」が記されていた。両歌は、平安時代に紀貫之が古今和歌集の仮名序(905年)で「和歌を習得する際に必ず学ぶもの」として「歌の父母」と記している。2つの歌が書かれた史料としては仮名序より約150年さかのぼり、古典文学の成立過程を解き明かす発見となりそうだ。

 木簡は1997年に出土。幅は約2センチ、厚みはわずか1ミリで、これまで木簡の削りくずとみられていた。一部が欠けており、長さは約60センチと推定されている。

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 優雅な歌会「文化首都」示す
 紫香楽宮・木簡和歌確認

 聖武天皇が造営した紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽町)に歌の世界から新たなスポットが当たった。万葉の歌を記した木簡の発見に、研究者らは「紫香楽宮を舞台に優雅な歌会が繰り広げられていたのでは」と往時の都の様子を思い描く。

 木簡は文字の大きさなどから推定して全長約60センチ。木簡としては大きめ。「安積山」の歌文字を発見した栄原永遠男・大阪市立大大学院教授(古代史)は「歌会などの儀式で、はっきりと詠み上げるための大きさであり、紫香楽宮で儀式や歌会が催されていたことを示す」とみる。

 「歌木簡は朝堂などを舞台にした公式の場で使われたのではないか」と語るのは、黒崎直・富山大教授(考古学)。「歌会で1文字ずつゆっくりと詠み上げたのだろう」と当時の官人らの優雅な姿に思いをはせる。

 これまでの調査で、紫香楽宮は本格的な都だったことが明らかになっている。同宮跡調査委員長の小笠原好彦・滋賀大名誉教授は「教養として和歌を詠むような当時の官人層が紫香楽宮に入ってきていた証明の一つ」と説明。同宮が政治や宗教とともに、「文化首都」としても重要な役割を果たしていた、と推察する。

 一方、紫香楽宮の朝堂跡などが見つかった宮町遺跡からは4年前、皿の底に「歌一首」と書かれた墨書土器が出土。続日本紀によると、万葉集を編さんしたとされる奈良時代の歌人大伴家持(おおともやかもち)が官位を授けられたのは紫香楽宮だった。調査を担当する甲賀市教委の鈴木良章係長は「因縁を感じる」と驚く。

 万葉集や古今和歌集に詳しい山崎健司・熊本県立大教授(日本古代文学)は、家持の年齢などから判断して、紫香楽宮が万葉集編さんの舞台とは考えにくいとしながらも、「ほかに歌木簡が見つかればその可能性も出てくる」と話している。

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 「歌の父母」2歌、木簡に
 紫香楽宮跡出土、墨書を確認

 滋賀県甲賀市信楽町の紫香楽宮(しがらきのみや)跡(宮町遺跡)から出土した8世紀中ごろの木簡に、平安時代の「古今和歌集」に「歌の父母」と紹介されている「難波津(なにわづ)の歌」と「安積山(あさかやま)の歌」が墨書されているのが確認され、市教委が22日発表した。安積山の歌は日本最古の歌集「万葉集」に収められており、万葉の歌が木簡で見つかったのは初めて。市教委は「二大歌集にかかわる、古典文学研究上の極めて重要な発見」とみている。

 木簡は上半部で、長さ約8センチと14センチの2片に分かれ、幅約2センチ、厚さ1ミリ。両面に万葉仮名で記され、一方は「奈迩波ツ尓(なにわづに)」など13文字、反対側は「阿佐可夜(あさかや)…流夜真(るやま)」の7文字を判読でき、それぞれ難波津、安積山の歌と分かった。

 紫香楽宮の中枢部から西約200メートルの排水路とみられる溝から見つかり、同時に出土した木簡の年号などから、744(天平16)年末−翌年初め以前に埋まったと推定。万葉集(15巻本)の成立時期は「天平17年以降の数年間」とされ、それ以前に書かれた可能性が高い。市教委は「広く流布していた歌が一方で木簡に書かれ、他方で万葉集に収められた」とみている。

 2つの歌は905(延喜5)年に記された「古今和歌集」の序文「仮名序(かなじょ)」で、撰者(せんじゃ)の紀貫之(きのつらゆき)が「歌の父母であり、手習う人が最初に学ぶもの」と記述。両歌の関係が150年以上さかのぼる奈良時代に成立していたことが判明した。木簡は歌を伴う儀式や宴会の場で使われ、再利用の際に裏面に歌が書かれたとみられ、筆者は表裏で別の可能性もある。

 木簡は1997年に出土し、当時は難波津の歌だけを判読。昨年12月の再調査で安積山の歌が確認された。両面に歌が書かれた木簡は2例目。難波津の歌の木簡は各地で多数見つかっている。

 ■「難波津の歌」

 難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花(古今和歌集)冬を終えて難波津に花が咲いた、との歌意で百済からの渡来人王仁(わに)が、仁徳天皇の即位を祝って詠んだとされる。

 ■「安積山の歌」

 安積(香)山影さえ見ゆる山の井の浅き心を我(わ)が思はなくに(万葉集)陸奥国(みちのくのくに)に派遣された際、当地のもてなしに不満を示した王に対し、機転を利かせた女性が、誠意を表そうと詠んだとされる。

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 「安積香山…」 万葉集の歌、墨書の木簡見つかる

 滋賀県甲賀市教委は22日、同市信楽町の宮町遺跡(8世紀中ごろ)から発見された、古今和歌集の歌が記された木簡の裏に、万葉集の歌も書かれていたことがわかったと発表した。出土した他の木簡に記載された年号から、この歌が収められた万葉集16巻の成立(750年前後)より数年から十数年前に墨で書かれたとみられ、万葉集の編纂(へんさん)以前から、収録の歌が宮中で根づいていたことがうかがえる。
  
 万葉集収録の歌が書かれた木簡が確認されたのは初めて。両面の2首は、紀貫之が古今和歌集の仮名序(905年)で、初心者が最初に習う「歌の父母」のような一対の歌と紹介しており、その150年も前から2首の組み合わせは成立していたと言える。万葉集が生まれた過程をはじめ、当時の歌の文化をさぐる手がかりとなりそうだ。

 同遺跡は奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる。木簡は97年度の調査で発見。上下二つに分かれて出土し、上部は長さ7.9センチ、下部は14センチ、いずれも幅2.2センチ、厚さ1ミリ。漢字1字を1音で表記する万葉仮名で「奈迩波ツ尓(なにはつに)」「夜己能波(やこのは)」「由己(ゆご)」とあり、古今和歌集収録の「難波津(なにはつ)に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の一部とみられる。

 反対側の面の上部には「阿佐可夜(あさかや)」、下部には「流夜真(るやま)」と書かれている。万葉集16巻には、陸奥国に派遣された葛城王をもてなした前(さき)の采女(うねめ)=元の女官=が、王の心を解きほぐすため宴席で詠んだ「安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」が収録されている。

 大阪市立大大学院の村田正博教授(国文学)は、天皇をたたえた難波津の歌と、男女の恋愛がテーマの安積香山の歌が同じ木簡に書かれていたことに注目。「難波津の歌はいわば公の歌。宮廷の歌会に出席した人物が、この歌が書かれた木簡を持ち帰り、裏に安積香山の歌を書き加えたのでは」と推測する。当時広く知られた2首を両面に書き、歌を習い始めた家人に教えていたことなどが考えられる。

 奈良大の上野誠教授(万葉文化論)は「人々の間に広まっていた歌が書き記され、歌集になるという万葉集の成立過程を明らかにする上で極めて重要な発見だ」と話す。

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 紫香楽宮跡から出土の木簡に「万葉集」の和歌

 万葉集に収録された「安積山の歌」の一部が書かれた木簡。上部に「阿」の字が読める 奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)(742〜745年)があった滋賀県甲賀市の宮町遺跡で出土した木簡に、万葉集に収められた和歌が記されていたことが分かり、市教委が22日、発表した。

 万葉歌が書かれた木簡が見つかったのは初めて。古今和歌集(平安時代)の仮名序で、紀貫之が「歌の父母(ちちはは)」と位置づけた「安積(あさか)(香)山(やま)の歌」の一部で、片面には対となる「難波津(なにわづ)の歌」が記されていた。木簡の年代は、万葉集が編纂(へんさん)されたのとほぼ同時期にあたり、日本最古の歌集の成立を考えるうえで極めて重要な発見となる。

 木簡には、万葉集巻16に収められた「安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」のうち、1字で1音を表す万葉仮名で「阿(あ)佐(さ)可(か)夜(や)」と「流(る)夜(や)真(ま)」の計7文字の墨書が判読できた。

 歌の大意は「(福島県の)安積山の影まで映す山の泉ほど、私の心は浅くありません」。陸奥国に派遣された葛城(かつらぎ)王が国司の接待が悪くて立腹したが、かつて王の采女だった女性が機転をきかせてこう詠んだので、王は機嫌を直したという注が歌に添えられている。

 木簡は、宮殿中枢部の西約220〜230メートルの大溝から1997年度の発掘調査で出土した。長さ7・9センチと14センチの二つに割れており、いずれも幅2・2センチ、厚さ1ミリ。本来の長さは約60センチと推定され、儀式や宴会で詠み上げるのに使った「歌木簡」とみられる。744年末〜745年初めに捨てられたらしい。

 全国の「歌木簡」を調べていた栄原永遠男(さかえはらとわお)・大阪市立大教授(古代史)が、宮町遺跡出土の「難波津の歌」木簡の裏に墨痕があるのを偶然見つけた。木簡は薄いため、片面にしか書かれていない削り屑(くず)とみられていた。

 万葉集は745年以降の数年間に巻15までと付録が成立し、巻16は付録を増補して独立させたとする説が有力。今回の木簡は、万葉集完成前に書かれた可能性が強く、市教委は「この歌が当時、広く流布しており、それを万葉集に収録したのだろう」と推測している。

 「難波津の歌」が書かれた木簡や土器は全国で三十数点が出土している。万葉集には収録されていないが、古今和歌集の仮名序では、「安積山の歌」との2首を、手習いの最初の歌と紹介。今回の発見で、これらを一対とする伝統が、仮名序を160年さかのぼる奈良時代から続いていたことも明らかになった。

 25日午後1時から、甲賀市信楽町の信楽中央公民館で報告会を開き、26〜30日、同市の宮町多目的集会施設で展示する。

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 宮町遺跡:万葉集「歌木簡」出土、地元に喜びと期待 発掘凍結に警鐘

 ◇古代の謎、塩漬けに警鐘

 紫香楽宮跡とされる宮町遺跡(甲賀市信楽町宮町)で出土した「歌木簡」。万葉集に収録された歌の書かれた木簡が初めて見つかり、地元には喜びと期待が広がった。一方、県の市町補助金の削減により、同市の文化財関連予算も半減し、同遺跡の発掘調査は今年度、事実上凍結されている。古代の謎をひもとく遺跡が塩漬け状態になることに、警鐘を鳴らす声は大きい。

 同市甲南町竜法師の甲南情報交流センターで22日、歌木簡の発見を発表した同市教委の国松嘉仲教育長は「(83年から続く)25年間の発掘調査の成果」と喜び、「まるで、宮さん(遺跡)が『まだまだ大事なもの持ってるで』と言っているよう」と期待を寄せる。

 凍結前の昨年度は、内裏など重要な区画があったとみられる遺跡北側を発掘し、その調査が進めば、再び貴重な史料が出てくる可能性もある。「しがらきの郷・歴史ボランティアガイドの会」の小谷柳太さん(61)も「大いに興味をそそられる。新しい企画も考えたい」と意気込む。

 一方で、同市は今年度、県の補助金が半減したため、83年の同遺跡の調査開始以来、初めて発掘を凍結した。

 県の補助金は20市町に対し、計2970万円しかなく、甲賀市歴史文化財課の鈴木良章係長は「どの市町も厳しい中、うちだけ『予算つけて』とは言えないが……」と複雑な心境をのぞかせる。

 また、地元住民で作る「宮町遺跡対策委員会」が調査凍結を前に3月、市に調査継続の要望書を出すなど同遺跡を核とした地域振興への期待は大きい。

 紫香楽宮跡調査委員長の小笠原好彦・滋賀大名誉教授(考古学)は「都が短命のため、史料の年代が限定的で面白い。掘れば貴重な木簡が増えるだろう」と推測。「行政は長期的な計画を検討すべき」と話していた。

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 万葉集の木簡が初出土・紫香楽宮、編さん過程解明に道

 聖武天皇が造営した紫香楽宮(742―745年、滋賀県甲賀市)跡で出土した木簡に、最古の歌集、万葉集の「安積山の歌」が書かれていたことが分かり、市教育委員会が22日発表した。万葉集の歌の木簡が見つかったのは初めて。

 反対の面には万葉集には収録されていないが、古代から伝わる「難波津の歌」が記されていた。両歌は、平安時代に紀貫之が古今和歌集の仮名序(905年)で「和歌を習得する際に必ず学ぶもの」として「歌の父母」と記している。

 両歌が書かれた史料としては仮名序より約150年さかのぼり、万葉集など古典文学の成立過程を解明する第一級の史料となりそうだ。

 木簡は1997年に宮の中心部近くの溝から出土。幅は約2センチ、厚みは約1ミリで木簡の削りくずとされていた。長さは推定約60センチ。筆跡から別人が書いたとみられ、先に難波津の歌が書かれ、儀式などに用いられた後、再利用され、安積山の歌が記されたらしい。

 墳丘を測量調査へ - 橿原の菖蒲池古墳

 漆を塗った最高級の家形石棺で知られる橿原市五条野町の国史跡・菖蒲池古墳(7世紀中ごろ)で、市教育委員会が墳丘の測量調査を計画している。石室に流れ込んだ雨水が石棺にたまり、抜本的な対策を講じるためだ。史跡に指定されているのは石室内だけで、発掘や墳丘の測量は行われていない。範囲確認の試掘も検討しており、墳形などの解明が期待される。

 菖蒲池古墳は明日香村に近い丘陵にあり、天武・持統陵と同じ藤原宮の中軸線上に位置することから、皇子クラスの人物を葬ったと考えられている。

 横穴式石室には二基の家形石棺が納められ、いずれも内側に黒漆を塗った最高級品。昭和2年、国の史跡に指定されたが、発掘調査は行われていない。石室の入り口にコンクリート製の覆い屋が設けられ、金網を通して手前の石棺を見ることができる。

 ◎壁画の薄さ2〜5ミリ 湿度低く色白っぽく 
 ◎来場者「合点!」

 明日香村の奈良文化財研究所飛鳥資料館で開催中のキトラ古墳十二支像壁画「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)」の特別公開は近く、来場者数が3万人を突破する見通しで、古代史ファンらの高い関心を集めている。同館の研究員らに対し、来場者からは様々な質問が寄せられている。

 同館の研究員や案内係の人に寄せられる質問は、1日に数十件。最も多いのが「なんでキトラ古墳という名前なの」という質問。全体の7、8割を占めるという。
 同館の杉山洋・学芸室長によると、最も有力なのは、古墳のある土地の地名「北浦」がなまって、「キトラ」と呼ばれるようになったとの説だという。呼称なので特に漢字はなく、カタカナがあてられてきた。

 次に多いのは、「壁画が描かれている漆喰(しっくい)の厚みはどのくらいなの」。研究員らによると、壁画本体の厚みは2〜5ミリと極薄だ。見学者の目には、壁画は厚みがあり2層になっているようにも見えるが、壊れないように、ロハセルという変形しにくい特殊な発泡剤などを裏側に張り付けて補強しているという。

 同館には壁画の実物とともに、壁画発見時の写真も展示している。だが、写真では見える線が実物では見えにくく、色も若干異なるため、「写真と実物はなんでこんなに違うの」という質問もたくさん寄せられている。

 加藤真二・主任研究員によると、写真は湿度100%の中で撮影されたために色が濃く見える一方、実物は湿度を60%まで下げているので乾いて白っぽく見えるという。
 来場者の中には、実物を見た後、「これはサンプルですか」と尋ねる人も。実物と知らされると慌てた様子で並び直したという。

 史跡指定の範囲を追加 - マルコ山古墳で答申

 明日香村真弓の国史跡・マルコ山古墳(7世紀末―8世紀初め)について、国の文化審議会は16日、新たに293平方メートルを史跡に指定するよう、文部科学大臣に答申した。

 平成16年に行われた村教育委員会の調査で墳丘すその石敷きや排水溝が見つかり、墳丘が六角形だったことが明らかになった。

 山田寺跡で土砂崩れ-年度内に復旧へ

 倒壊した回廊の出土で知られる桜井市山田の国特別史跡・山田寺跡(7世紀中ごろ)で昨年7月、指定地内の斜面が長さ約40メートルにわたって崩落していたことが分かった。遺構への影響はなく、文化庁は土のうで応急処置を行う一方、本年度中に復旧して再発を防ぐことにしている。

 崩れたのは特別史跡の北東隅で、伽藍(がらん)を囲む大垣の外側。高さ約5メートルの斜面が長さ約40メートルにわたって崩壊し、土砂が下の田を埋めた。同日の大雨で地盤が緩んだとみられる。

 東大寺  南大門の石獅子像、かつては黄色に塗られていた

 中国・宋の石工が造ったとされる東大寺(奈良市)南大門の1対の石獅子像(12世紀末、高さ約1.8メートル)が、かつて黄色に塗られていたことが、東京文化財研究所主任研究員、朽津信明さんの調査で分かった。同時代の木造の獅子は金色に塗られる例が多く、それに近い印象だったと考えられるという。

 福岡県太宰府市で17日、開かれた「文化財保存修復学会」で発表した。石獅子に彩色があったことは分かっていたが、具体的な色は分かっていなかった。

 朽津さんが昨年12月と今年1月、デジタルカメラや蛍光X線分析装置を使い、非接触で付着している顔料を調べた。その結果、両方の像ともにかなり広い範囲で、黄土とみられる顔料が残っていることが分かった。重ね塗りや風化した部分への補色の跡が見られないことから、像が造られて間もない時期に、全体が黄土色に塗られていた可能性が高いという。口の中や首飾りからは、ベンガラと見られる赤い顔料が見つかった。

 北壁の漆喰はぎ取り

 明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末―8世紀初)の壁画保存修理で、文化庁は15日、石室北壁の余白漆喰(しっくい)をはぎ取ったと発表した。

 14、15日の両日、壁画修理技術者2人がはぎ取り器具「ダイヤモンド・ワイヤ・ソー」やへらなどを使って実施。北壁西側の下方にある余白漆喰(縦横約35センチ)を、最大縦約35センチ、横約23センチで11分割してはぎ取った。

 判読可能な墨書土器出土
 城陽の横道遺跡

 京都府の城陽市教委は14日、2007年度市埋蔵文化財調査報告を行い、市内で初めての判読可能な墨書土器が同市平川の横道遺跡から見つかったと発表した。奈良時代の土師(はじ)器の破片で、古代中国の祭りに使われていた「コウ(こう)」の文字が書かれている。市教委は「中国の習慣を取り入れていたとみられこの地域の文化レベルの高さを裏付ける証拠」と話す。

 破片は、7−8世紀の集落跡である横道遺跡から出土した皿の一部。長さ約7・5センチ、幅約2・7センチ、厚さ3ミリ。1997年からの発掘調査で出土し、昨年5月、文字が書かれているのを見つけた。

 市教委によると、「コウ」は、主に北斗星を表す「天コウ」の言葉に使う文字で、古代中国で行われていた北斗星の祭りとかかわりがあるとみられる。

 遺跡周辺には、久世郡役所跡や国分寺規模の平川廃寺が見つかっており、市教委は「僧侶や役人など文字の書ける有識者が集落の人々を集め、中国に倣って祭りを催したのでは」と話している。

朱に彩られた異色の木棺か
キトラ古墳調査で奈文研

 極彩色壁画で知られるキトラ古墳(奈良県明日香村、7世紀末−8世紀初め)に納められた漆塗り木棺は、表面がオーソドックスな黒ではなく、異例の朱色だった可能性が高いことが15日、奈良文化財研究所の調査で分かった。

 高松塚古墳(同村)などの出土例から「木棺の外は黒、内は朱」に塗るのが専門家の一般的な見方だった。「キトラは内外とも朱色だったことになる。常識外の結論が出た」と驚いており、今後議論を呼びそうだ。

 木棺は破片になっており、同研究所員だった高橋克寿花園大准教授(考古学)が、残っていた数千点の漆片を分析。

 黒と朱色が半々で、木棺外側の縁部分とみられる朱の漆片を数点確認した。棺外側に付ける飾り金具の下にも朱の漆片が付着しており、外面は朱色と判断。内面は別の漆片から朱色と確かめられた。2002−04年の発掘調査の報告書に掲載した。

 キトラ大好き!!  来場1万人突破

 奈良県明日香村の飛鳥資料館で開かれている特別史跡、キトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の十二支像壁画「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)」の特別公開は12日、来場者数が1万人を突破した。村を訪れる人に壁画に負けず劣らず注目を集めているのがキトラ関連の商品だ。かわいらしい十二支像を身につけられたり、発掘気分と味覚の両方を楽しめたり。「遊び心」に富んだ商品がそろっている。

 ●3日で千個販売

 資料館の敷地内の物産テントでひときわ人気なのが、十二支像の携帯ストラップだ。1個500円。6千個の限定品で、9日からの3日間で約1千個も売れた。自分の干支(え・と)に合わせて購入する人も多いが、一番人気はやはり寅という。

 企画・製作したのは、長野県でエンブレムの製作などを手がける町田実さん(57)。奈良文化女子短大の来村多加史教授(中国考古学)が監修し、子・丑・寅だけでなく、絵が確認されていない干支の像も再現した。「明日香村が誇る文化財をお土産を通して伝えたい」

 ●和菓子で発掘気分

 小豆粉をはらうと、キトラの「四神」が出現――。そんな遊び心で壁画を発掘する気分が味わえるのが、和菓子「飛鳥瑞祥(ずい・しょう)」だ。寒天や卵白などで作った漆喰(しっ・くい)を模した土台の上にかかっている粉を備え付けのガーゼではらうと、水飴(みず・あめ)でかたどった「白虎」「玄武」「青竜」「朱雀」の四神が現れる仕掛けだ。

 明日香村の和菓子販売会社社長の松原真知子さん(56)が、知り合いの奈良市の和菓子屋に依頼してつくり、近鉄飛鳥駅前の観光案内所などで販売している。四神が各1個入って1575円(税込み)。「味はもちろん、発掘する楽しさを味わってほしい」と話す。

 三角縁神獣鏡、立体的に
 計測データで画像作成

 京都国立博物館は13日までに、邪馬台国の女王・卑弥呼の鏡とも言われる三角縁神獣鏡の計測データを基に、鋳造当時の3次元(3D)画像を制作した。福岡県太宰府市で開かれる文化財保存修復学会で18日、発表する。

 1973年に静岡県清水市(現静岡市)の午王堂山3号墳で出土した神獣鏡を、村上隆・保存修理指導室長らがレーザー光線で表と裏両面の材質などを分析した。組成は銅75・6%、スズ21・2%などで、本来は黄色っぽい銀色と判明した。断面の最も薄い部分は0・6ミリ。

 村上室長は「薄い部分は研磨によるものだろう。総合的な研究で、鏡が製造された時代の高い技術の解明に迫れたと思う」と話している。

 北海道に被子植物の化石
 「南半球起源説に一石」

 1999年に北海道三笠市で、約1億年前(白亜紀前期)の地層から発見された化石が、南半球にだけ分布するとされている原始的な被子植物「トリメニア」の世界最古の種子化石であることが分かったと、金沢大の山田敏弘講師(植物進化発生学)らの研究グループが8日、発表した。同講師らは「北半球に1億年前に分布していたことを示しており、被子植物の起源は南半球という通説に疑問を投げ掛けるものだ」としている。

 被子植物は花を咲かせ、種を作る種子植物のグループに属する。化石は長さ約5ミリのだ円形で炭化しているが細胞内部の構造が分かるほど状態は良好。種子の皮が厚いなど、現存するトリメニアの種子と特徴の多くが一致した。化石は国立科学博物館(東京)で保存されている。

 山田講師は「世界中に分布していたトリメニアが、南半球では残り、北半球では絶滅したのではないか」と話している。

 基礎部分復元 飛鳥時代の色や形、質感再現  米子/鳥取

 ◇特殊セメント使い基壇を型どり

 国内初の仏教壁画「神将」の出土で知られる米子市淀江町福岡、上淀廃寺跡(国史跡)で、金堂と塔の基礎部分が特殊な強化セメント(GRC)で復元整備され、仏教を地方に伝播(でんぱ)させた白鳳寺院の創建時を彷彿(ほうふつ)させている。GRCを面的に使用した史跡の復元は初めてという。市教委は11日午後1時半から現地説明会を開く。

 約2・2ヘクタールとされる境内の中央に位置する約2500平方メートルの中心伽藍(がらん)の全体を高さ約1・5メートルまで埋め戻して復元された。

 金堂跡は、瓦約460枚▽自然石の礎石28個▽GRCの石列を使い、崩れていた基壇(東西約14メートル、南北約12メートル、高さ0・7〜1・2メートル)を復元した。中塔と南塔跡(いずれも約10メートル四方)は残っていた基壇底部を型どりし、GRCで復元した。北塔は基壇が見つかっていないため、柱を支えた礎石を1個だけ復元した。GRCによる復元は色、形、質感が創建当時とそっくりに仕上がっている。

 上淀廃寺は、飛鳥時代の7世紀終わりごろ創建され、平安時代の11世紀初めに焼失した。文献がなく、当時の寺院名は不明。国内最古の仏教寺院、飛鳥寺(奈良県飛鳥村)ができた後、地方に建築された初期の地方寺院。金堂は高さ8メートル、塔はいずれも同20メートルの三重塔と推定され、塔が南北に並ぶ独特の配置だった。

 11日午後1時半に現地説明会を開く
 現地説明会の問い合わせは同市教委文化課(0859・23・5438)へ。

 プチゆる?弥生キャラ

 ◎葛城で古代出土品展

 縄文時代の土偶、弥生時代の動物形土製品、古墳時代のミニチュア炊飯具など、手のひらに載る古代の出土品が中心の「ちっちゃなお道具さん」展が、葛城市忍海の市歴史博物館で開かれている。

 展示品は35種、約50点。このうち、御所市の巨勢山境谷遺跡で見つかった、弥生時代とみられる犬の土製品は長さ約4・5センチ。小型で尾を巻いた姿はしば犬に似て愛らしい。

 ミニチュア製品は信仰にかかわり、ひな祭りなど今も祭りの中に生きていることから、ひな人形など現代のミニチュアも展示している。

 6月29日まで(毎火曜と第2・4水曜は休館)。大人200円、高校・大学生100円、小・中学生50円。

 キトラ十二支図を公開
 「寅」など3壁画

 奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)の石室からはぎ取り、修復を終えた壁画の十二支図「子」「丑」「寅」が7日、奈良文化財研究所飛鳥資料館(同村)で村民向けに公開された。一般公開は9日から25日まで。

 3つの壁画はそれぞれ縦50センチ、横40センチの額に入れられ、ガラスケースに展示。最も保存状態が良い寅図は、歯をむき出し、ぎょろりとした目玉がユーモラス。子図や丑図は着物の一部や、手に持つ武器に朱色などが残っている。

 午前9時ごろから見学者が続々と来館。

 キトラ壁画の公開は、四神図の「白虎」「玄武」に続き3回目。

 物集女車塚古墳の石室出土品を展示
 向日・文化資料館

 京都府向日市物集女町の物集女車塚古墳の石室一般公開に先駆け、同古墳の出土資料展「ようこそ黄泉(よみ)のクニへ」が3日、同市寺戸町の文化資料館で始まった。石室から見つかった装飾品や馬具、武器など古代の宝物類や遺物が多数並び、訪れた歴史ファンらを魅了した。

 同古墳は、6世紀中ごろの古墳時代後期に築かれた前方後円墳で、物集女地域一帯を治めた豪族の墓とされる。市教委が、毎年春に石室内部を一般公開している。今年は28日から公開する。

 会場には、青や黄のガラス玉の首飾りや銀製冠の残片などの装飾品のほか、鉄製の刀や矛などの武器、くつわなどの馬具を展示した。それらが納められた石棚の脚部分もあり、来館者はじっくりと見入っていた。

 7月6日まで。無料。問い合わせは、文化資料館TEL(931)1182。


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