古墳・遺跡・化石・現地説明会 他
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2008/10/05 (Sun)
飛鳥京跡
2008/10/02 (Thu)
浄土屋敷遺跡
2008/10/02 (Thu)
向日市埋蔵文化財センター
2008/10/02 (Thu)
金貝遺跡
2008/10/01 (Wed)
エジプト展
2008/10/01 (Wed)
高松塚壁画
2008/09/30 (Tue)
南曽我遺跡
2008/09/30 (Tue)
箸墓古墳
2008/09/28 (Sun)
藤原宮朝堂院跡
2008/09/27 (Sat)
平城宮跡
秀吉庭園遺構
秀吉庭園遺構に400人
豊臣秀吉が築いた「宇治川太閤堤(たいこうづつみ)跡」(宇治市菟道(とどう)丸山)で出土した庭園遺構の現地説明会が30日行われ、約400人の歴史ファンが詰めかけた。
石組みの池や炉の跡などを前に、同市歴史資料館の職員が「あり得ない所から庭園が出た時は、まさかという思いで、驚いた」と発掘した時の状況を説明。見学者らは「庭を造って護岸がゆがめられないのか」などと熱心に質問していた。
2008/08/31 17:22
京 都
新庄遺跡
鎌倉末期の倉?祭事施設?
南丹・新庄遺跡掘っ立て柱建物跡出土
京都府南丹市八木町室橋の新庄遺跡で、一般の住居と異なり特殊な用途と考えられる鎌倉時代末期の掘っ立て柱建物跡1棟分が見つかり、発掘調査している府埋蔵文化財調査研究センターが28日、発表した。
府のほ場整備事業に先立ち、今年5月から1270平方メートルを調査している。
掘っ立て柱建物はほぼ南向きで、二間四方(東西4・3メートル、南北5メートル)の高床式。周りを囲む柵か塀の柱跡も見つかった。建物中央の柱の下から、地鎮の目的で埋めたとみられる中国製の青磁碗2個と、土師器(はじき)の皿3枚の破片が出土した。
掘っ立て柱の建物は、鎌倉時代には古い形式に属し、主要な建物には用いず、倉庫や祭事用などに使われたという。近くの室橋遺跡などでも確認されているが、今回の遺構は柱の直径が40−50センチで、鎌倉時代としては規模が大きいという。同センターは「用途は不明だが、高くて立派な建物だったのでは。村の重要な物を入れた倉か、宗教的な意味合いがあった可能性もある」としている。
このほか、古墳時代中期の竪穴住居跡や、かまどを備えた作業場とみられる奈良時代の半地下式掘っ立て柱建物跡、かんがい用水路とみられる幅約3メートルの時代不明の溝跡も見つかった。
30日午前10時半から現地説明会を開く。
駐車場はない。問い合わせは同センターの携帯電話090(6205)8261。
2008/08/29 21:03
京 都
足跡化石
3種の恐竜と鳥の足跡化石を発見
福井市の河川敷
福井県立恐竜博物館は28日、福井市美山町の足羽川河川敷で、獣脚、竜脚、鳥脚の3種類の恐竜と中生代の鳥類の足跡化石が見つかったと発表した。
同館では、1カ所から3種類の恐竜と鳥類の足跡化石が見つかるのは全国で3カ所目で、中生代鳥類の足跡化石発見は全国で4例目としている。
発表によると、発見されたのは1億4000万年前から1億3000万年前の地層の足跡化石6点。長さ19・9センチ、幅15・1センチで、鳥脚類で草食恐竜のイグアノドン類の足跡とみられるもののほか、大型の竜脚類と思われる足跡の一部や小型獣脚類の右足の足跡など。また、長さ3・8センチ、幅5・3センチの中生代鳥類の足跡化石も確認された。
これらの足跡化石は、教材収集をしていた同県若狭町立瓜生小教諭の島田正樹さん(45)が昨年4月から11月までの間に発見した。依頼を受けて同博物館が鑑定していた。
2008/08/29 20:41
其 他
別所ツルベ遺跡
縄文のヒスイの玉も 天理市教委が発掘成果展
奈良県天理市教委の発掘成果展「発掘の現場から−地下に眠る天理の昔々−」が、同市守目堂町の市文化センターで開かれている。別所ツルベ遺跡(同市別所町)で見つかった縄文時代後期のヒスイの玉など、市北部にある豊田山丘陵周辺の遺跡や古墳からの出土品を陳列している。
別所ツルベ遺跡では、平成6年の調査で、縄文時代後期の集落跡が見つかった。ヒスイの玉は長さ約3センチ、幅2・5センチで、新潟・糸魚川付近の原産とみられ、穴が開いていることなどから副葬品の首飾りだったと考えられている。同遺跡の出土品としては、九州や東北など遠方から運ばれてきた土器も展示されている。
また、豊田山丘陵周辺には、古墳時代後期(6世紀ごろ)を中心にした前方後円墳が分布しており、会場では袋塚古墳(同市別所町)の埴(はに)輪(わ)片なども展示されている。
30日まで、入場無料。問い合わせは同市埋蔵文化財センター((電)0743・65・5720)へ。
2008/08/28 18:46
奈 良
テル・レヘシュ遺跡
イスラエルでカナン人の仮面出土
日本の調査団発掘
イスラエル北部エンドル近郊のテル・レヘシュ遺跡で、古代イスラエル王国成立前の住民カナン人の居住跡から紀元前12−10世紀ごろの土製の仮面、女神像が彫られた石器片、オリーブ油を搾る施設とみられる跡などが見つかった。2006年から発掘している日本の調査団が27日、発表した。
調査団長の月本昭男立教大教授(古代オリエント学)は「エジプト、メソポタミアの大文明のはざまで独自の文化を発達させたカナン人の生活を知る上で重要な発見」と意義付けている。
テル・レヘシュ遺跡は旧約聖書に記述された都市「アナハラト」と推定され、紀元前3000年ごろから紀元後100年ごろまでの居住跡とされる。
出土した仮面は下半分。表情をゆがめており、魔よけなどに使われたとみられる。類似の仮面は地中海岸で活躍したフェニキア人の遺跡から多く見つかっているという。
2008/08/28 18:24
外 国
華蔵院遺構
万福寺の塔頭跡を確認
宇治市教委 境内図もとに発掘調査
京都府宇治市教委は27日、同市五ケ庄の黄檗宗大本山万福寺の南側で行った発掘調査で、江戸前期の同寺開創当初に建てられた塔頭(たっとう)の華蔵(けぞう)院跡を確認した、と発表した。1871(明治4)年に陸軍の火薬製造所建設のため取り壊されており、市教委は「塔頭の正確な建物配置を知る貴重な資料」としている。
市教委と同寺によると、華蔵院は万福寺を開いた中国の僧隠元の弟子・南源性派(なんげんしょうは)が開創7年後の1668(寛文8)年に建立。同寺は18世紀初めに現在の倍の境内約56万平方メートルに33の塔頭があったが、現在は19に減っている。
発掘調査は、17世紀後半に描かれたとされる境内図をもとに行い、華蔵院の所在地付近から、塔頭で僧が寝起きする庫裏(くり)と呼ばれる建物遺構が出土した。東西20メートル、南北12メートルで、土台の礎石を据え付けるための直径約1メートルの穴8つ確認した。庫裏は東西に伸び、南北に長い本堂とL字型に接していた。
遺構から土瓶や急須、煎(せん)茶わんの破片なども多数見つかり、隠元がもたらした喫茶文化が弟子に受け継がれていたことがうかがえるとしている。
現地説明会は30日午前10時から行う。
2008/08/28 18:07
京 都
箸墓古墳
前方部に幅60mの外濠
邪馬台国の女王卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳(3世紀半ば−後半、全長約280メートル)で、前方部正面に幅60−70メートルと推定される外濠跡が見つかったことが27日、分かった。
外濠の幅は、同じ纒向(まきむく)遺跡にある箸墓以前に築造された古墳と比べると突出した規模。調査した市教育委員会は「古墳は箸墓の時代から、急に周囲と隔絶され近寄りがたい存在になった。被葬者の力が他を圧倒していたことを示すのではないか」としている。
外濠跡はこれまで前方部の側面2カ所で確認されていたが、正面では初めて。本格的な前方後円墳の始まりとされる箸墓の築造時の墳丘構造を考える材料になりそうだ。
2008/08/27 09:50
奈 良
大日山35号墳
腰装着型矢筒の埴輪が出土
和歌山で全国初
和歌山市の大日山35号墳(前方後円墳、6世紀前半)から、腰に装着する「胡☆」と呼ばれる矢筒をかたどった埴輪が見つかり、和歌山県教育委員会が26日発表した。背中に背負う矢筒「靫」の出土例はあるが、胡☆は全国で初めて。古墳時代の武具の研究で貴重な史料といえそうだ。
埴輪は円筒形の台部分を含め高さ96センチ、幅39センチと実物より大きい。矢羽根を上にした5本の矢が、細い線を彫って描かれていた。
実際の胡☆は革や木でできており、銅の金具がはめ込まれている。埴輪は3つの穴で金具の細かい鋲を表し、粘土で勾玉形の飾りも付け、本物の矢筒らしく作られていた。
県教委は「これまでは発掘された金具や正倉院にあった実物から推定していた古墳時代の胡☆が、実際に近いかどうかを判断する材料になる」と評価している。
埴輪は2005年度の発掘調査で古墳の西側から大量の破片が見つかり、矢羽根が描かれていたことから胡☆と確認。約2年かけて復元した。
(注)☆は竹カンムリに録の旧字体
2008/08/27 09:45
其 他
キトラ古墳
キトラ古墳の天文図7星座をはぎ取り
文化庁は22日、明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の天文図(石室天井)南東の「房宿」など6星座と「心宿」の一部の計7星座を含むしっくいをはぎ取ったと発表した。
はぎ取ったのは合計で東西12センチ、南北17センチの範囲。しっくいは計11片に分割されている。すべてヘラで作業した。はぎ取り作業は今回で天文図全体のほぼ5分の4を終え、10月中にもすべて終える見通しだという。
2008/08/23 16:17
奈 良
剣歯虎の化石
180万年前の剣歯虎化石
ベネズエラ油田地帯で発見
南米ベネズエラの油田地帯である東部モナガス州で、長い犬歯を持つ絶滅した大型ネコ類の剣歯虎(サーベル・タイガー)の化石が6頭分見つかった。調査団を率いたベネズエラの古生物学者の話としてAP通信が21日伝えた。南米で生息していたのが確認されたのは初めてという。
6頭の頭骨とあごの骨で、180万年前のものとされる。調査団は、北米大陸と南米大陸がつながって間もなく北米から渡ったとみている。
化石は地表に近い地層から見つかり、この層にはサッカー場2つ以上の広さを持つタールの入った穴があったという。調査団は昨年4月に発見していた。
モナガス州は、アスファルト分の多い超重質油田を擁するオリノコ川流域にある。
2008/08/23 15:42
外 国
国内最古の氷
北海道に国内最古の氷
過去の気候解明に期待
北海道中央部の然別(しかりべつ)山地の永久凍土から見つかった氷が、国内最古となる約3800年前のものだったことが、独立行政法人「産業技術総合研究所」(茨城県つくば市)の沢田結基研究員の研究で分かり、このほど米国で開かれた国際永久凍土学会で報告された。当時の気候を知る手掛かりとなりそうだ。
温暖な日本では古い氷が残っていることは少なく、これまで見つかった最古のものは富山県・立山の雪渓で見つかった約1700年前の氷だった。
沢田さんは北海道大低温科学研究所の研究員だった2005年、然別山地の標高1000メートル付近の斜面で地下約4メートルまでの永久凍土を採取。2・5メートル付近の氷の中にあった植物の葉の年代測定から氷の古さを推定した。氷を構成する酸素や水素の解析から、当時の気温など環境が分かる可能性があるという。
2008/08/23 15:40
其 他
野田遺跡
道路の遺構出土 長岡京もう少し広かった?
長岡京跡の北に隣接する野田遺跡(向日市森本町)で、長岡京の小路の延長とみられる道路の遺構が見つかり、向日市埋蔵文化財センターが21日発表した。小路に伴って柱穴も出土。道路沿いに何らかの建物が建っていたことがうかがえ、センターは「従来の想定よりも京域が北に広がっていた可能性が高まった」としている。
工場建設に伴い、5月から1396平方メートルを調査。道路の遺構は、長岡京の北限とされてきた北京極大路をさらに北へ約40メートル上がった付近で、南北約40メートルにわたって出土。長岡京の東二坊坊間西小路の延長線上に位置し、幅約9メートルで、両側に幅約0・8〜1・2メートルの溝を配していることなど、この小路と同じ形状であることを確認した。
溝の脇には、平行して柱穴が数か所にわたって出土。一辺65〜90センチ、深さ80センチの井戸跡なども見つかった。
これまでも、東一坊大路などいくつかの大路が、北京極大路より北に延びていることを確認しているが、小路については今回が初めて。大小の道路を東西南北に整備した長岡京の条坊区画がさらに北に広がっていた可能性が高まったという。
同センターでは「桂川のはんらんなどで南側に京域を広げることが出来ないため、北側に広がりを持たせたのでは。長岡京を築いた桓武天皇の計画性の高さがうかがえる」としている。
一方、山中章・三重大教授(考古学)は「北側の広がりは、京域ではなく、唐の長安や平城京にもあった天皇の私的な空間ではないか。その空間が条坊区画されていたということだろう」との見方を示している。
現地説明会は23日午前10時から行われる。
2008/08/22 18:23
京 都
宇治川太閤堤跡
宇治川太閤堤跡に庭園遺構 秀吉らしさ
有馬の茶庭に類似
新たに庭園遺構が見つかった宇治市の宇治川東岸の「宇治川太閤堤跡」。土の下から姿を現したのは、治水目的の堤防に庭を造る、という太閤さんらしい奇抜な発想だった。
見つかった庭園遺構の池は、池の水が川に流れ込むような構造だった。
秀吉が湯治で、たびたび訪れていた有馬温泉(神戸市)の「湯山遺跡」の茶庭にも同じ構造の池跡があり、仲隆裕・京都造形芸術大教授(庭園史)は太閤堤跡の池が「湯山遺跡の池と類似している」とみる。神戸市教委によると、1590年には秀吉が千利休や津田宗及ら茶人と有馬温泉を訪れたという文献が残されているという。
小和田哲男・静岡大学教授(戦国史)も「自分の天下を確信し、茶の湯にのめり込んだ晩年の秀吉らしい、破天荒さが表れているのではないか」と話す。
宇治川での茶会の記録はないが、秀吉は組み立て式の「黄金の茶室」を造ったほか、京都で大茶会を催すなど茶道の振興に尽くしたことで知られ、戦場などで野だてを楽しんでいたとされる。
今回は茶器の破片や別の建物遺構は見つかっていないが、今後の遺構の全容解明が期待される。
2008/08/22 18:16
京 都
キトラ古墳
西壁の余白に傷-点検で確認、原因不明
文化庁は15日、明日香村阿部山のキトラ古墳(7世紀末―8世紀初)の石室内で、西壁の余白に線状の傷が見つかったと発表した。同日の定期点検で初めて確認した。物理的な接触などによる傷の可能性があるが、発生時期も含め原因は不明だという。
傷は長さ約1.5センチ、幅約1ミリで、上側が膨らんだ弓形の曲線状。西壁南端から約45センチ、床面から約78センチの壁画がない場所で見つかった。表面に泥がついている部分で、傷は大部分が泥の上で止まっているが、幅1ミリほど漆喰(しっくい)が露出している。
2008/08/18 18:10
奈 良
草津宿街道交流館
街道沿いから出土の70点 草津の交流館で展示
かつての街道沿いにある遺跡の出土品を紹介する夏季テーマ展「道にまつわる物語」が、草津市の草津宿街道交流館で開かれている。31日まで。
紹介されているのは、市内の遺跡で見つかった品など70点。江戸時代の画家歌川広重の作品も出展されている。
奈良時代から平安時代(8世紀−10世紀)の大将軍遺跡と矢倉口遺跡の出土品からは、絵馬や溶解炉を展示。平安時代末から鎌倉時代(11世紀末−13世紀)からは、海外から輸入された陶磁器や常滑焼など。
江戸時代(17世紀−19世紀)の草津宿場町遺跡と中畑遺跡から出た伊万里や通貨も並べられ、時代ごとに変化する出土品を楽しむことができる。
岡田追分遺跡から発見された平安時代(9世紀前半)の鋳型も披露されている。
23日午後1時半から、前年度の発掘調査結果を発表する市教育委員会の報告会(入場無料)が市役所である。
交流館の入場料は大人200円、高校・大学生150円、小中学生100円。月曜休み。問い合わせは交流館=電077(567)0030=へ。
2008/08/17 17:05
滋 賀
縄文土器の・・・
縄文時代に九州で豆類栽培か
土器に痕跡、熊本大調査
九州各地で出土した約3600−3000年前の縄文土器の表面に、栽培種とみられる大豆や小豆の痕跡があることが熊本大の調査で分かった。定説では豆類の栽培は弥生時代以降とされるが、調査した小畑弘己准教授らは「縄文後期には九州地方にマメ科植物の栽培技術があった可能性がある」と指摘している。
縄文期の豆類は、出土例は多いが炭化しており、豆の種類の判別や、野生種か栽培種かの特定は困難だった。そこで、土器の作製過程で粘土に混入したマメ科種子が焼け落ちてできたとみられるくぼみに、シリコーンを流し込んで型を復元し、電子顕微鏡で調べる「レプリカ法」を採用。九州の遺跡から出土した5万点以上の土器片の中から、豆類とみられる痕跡について分析した。
その結果、長崎県の大野原遺跡や熊本県の三万田遺跡から出土した縄文土器計4点に残っていた跡を、豆の「へそ」と呼ばれる部分の形状などから大豆と特定。福岡県の大原D遺跡や鹿児島県の柊原貝塚など10遺跡の土器15点でも、大豆形の跡を確認した。
2008/08/17 16:45
其 他
サハラ砂漠
サハラ砂漠に5000年前の墓 花の中に眠る女性と子供も
アフリカ北部サハラ砂漠の真ん中で、5000年以上前のものと見られる墓地が見つかった。女性と子供2人の墓では3人の骨格がほぼ完全な形で残り、互いに向き合って手を伸ばす格好で葬られている。米シカゴ大学の研究チームが14日、ナショナル・ジオグラフィック協会で記者会見して発表した。
シカゴ大学のポール・セレノ教授の研究チームはアフリカのニジェールで恐竜の化石を探していて偶然、この墓地を発見。2005年から06年にかけての現地調査で200あまりの墓のほか、動物や魚、ワニの化石が見つかった。いずれも砂漠には住まない生物で、サハラ砂漠がかつて緑豊かな地だったことを実感したという。
墓所は「砂漠の中の砂漠」として知られる場所にあり、近くにはかつて湖があったと思われる。放射性炭素による年代測定で、最も新しいものでもエジプトのピラミッドより1000年も前の墓であることが分かった。
この地には、約1万年前から8000年前にかけてと、7000年前から4500年前にかけての2時代にわたりヒトが住んでいたことが分かっている。
装飾品や儀礼品も多数見つかり、カバの牙でできた腕輪を身に着けた女性や、粘土製の船に頭を載せた男性、カメの甲羅に座った格好の男性などが埋葬されていた。
女性と子供2人の墓は花に囲まれていたことが、花粉から判明したという。研究チームはこの墓を発見当初のままの形で保存している。
研究結果は14日付でオンライン・ジャーナル「PLoS One」と、ナショナルジオ・グラフィック誌9月号で発表された。
2008/08/16 17:35
外 国
貨幣資料室
和同開珎などの貨幣を一般公開
三井住友銀
三井住友銀行は18日から、神戸営業部(神戸市中央区)内のビルにある貨幣資料室で、日本最古の流通貨幣とされる「和同開珎」や、豊臣秀吉が発行した金貨「天正大判」など国内外の約1100点を一般公開する。
貨幣の歴史を学ぶことができ、夏休みの小中学生にとっては自由研究の格好のテーマにもなりそうだ。29日までで23,24両日は休館。無料。
旧・神戸銀行時代に収集家から譲り受けたコレクションを基に、少しずつ増やした。徳川家康がつくった「慶長大判」や、古代の中国で使われた貝や魚の形をした青銅貨などもある。
三井住友銀によると、これほどの数の貨幣を一度に見られるのは珍しいという。昨夏公開し好評だったため、今年も開放することにした。問い合わせは神戸営業部、電話078(331)8101。
2008/08/15 22:28
其 他
西野遺跡群
銅矛の再加工品が初出土
高知県、剣に利用か
高知県香南市の西野遺跡群で、弥生時代の祭りの道具である銅矛の芯の一部を再加工し、棒状にした青銅器が出土し、同市教育委員会が14日、発表した。銅矛の再利用例は国内初という。
鑑定した愛媛大の吉田広准教授(考古学)は「祭祀用だった銅矛を剣として再利用した可能性が高い。祭器の使い方を考える上で貴重な史料だ」としている。
市教委などによると、青銅器は全長13・8センチ、幅2・2センチ。銅矛の芯に当たる盛り上がった部分を利用、片方の端に直径約5ミリの穴が開けてあった。穴の周辺には磨いた跡も残っていた。木などの柄を付けて剣などの武器として利用したか、銅鐸を鳴らすために内側にぶら下げて使用した可能性もあるという。
銅矛は1世紀ごろに九州北部で鋳造され、3世紀初めごろまでに再加工されたらしい。
西野遺跡群では、これまでに土器など計約15万6000点が出土。青銅器は竪穴住居跡から見つかった。15日から県立歴史民俗資料館で展示される。
2008/08/15 22:27
其 他
キトラ古墳
朱雀図に褐色の斑点
キトラ古墳、ゲルが乾燥
奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末−8世紀初め)からはぎ取り、保存処置中の四神図「朱雀」で、カビと細菌の混合体(ゲル)が乾燥して褐色の斑点状になり、全体に広がっていることが13日、分かった。
石室内で鮮やかだった朱色も表面を覆った泥が乾いて白っぽくくすんだようになっている。顔料自体に変化はないという。奈良市で同日開かれた文化庁の古墳壁画保存活用検討会で公表された。
作業を担当する東京文化財研究所の川野辺渉副センター長によると、ゲルは水でふやかして削ることはできるが、完全に取り除くことは難しい。
朱雀図は2007年2月にはがし、湿度が100%に近かった石室から取り出した。現在は明日香村の高松塚古墳近くの修復施設で保管し、カビ発生を抑えるため乾燥させている。
また、石室の西壁の泥に覆われた部分で十二支図の「申」の一部とみられる赤い顔料が確認された。川野辺副センター長は申図のほか、東壁に「辰」、南壁に「巳」が残っている可能性が高いと報告。
2008/08/14 17:46
奈 良
文廻池遺跡
彩色鮮やか、想像上の高山表す 京都、国宝級の陶器発見
奈良の都の北郊にあたる文廻(ぶんまわし)池遺跡(京都府木津川市)から、板状の三彩陶器数十点が見つかった。鮮やかに彩色されており、正倉院宝物にもひけをとらない国宝級。組み立てると仏教世界の中心にそびえる想像上の高山である須弥山(しゅみせん)を表す、立体的な大型工芸品になりそうだ。三彩の須弥山は国内での出土例はなく、中国でもきわめて珍しい。発掘場所は本格的な調査中だが、万葉集の木簡も出土。陶器は唐からもたらされた貴重な唐三彩の可能性もあり、専門家は前例のない遺跡として、今後の調査に注目している。
◇
〈須弥山〉 インドが起源とされ、仏教の世界観の中心にあると言われる高山。複数の山や川、海などの自然が表現されている。日本で有名なのは奈良県明日香村で見つかった7世紀の須弥山石。一部が失われたものの、山などが刻まれていることが分かる。噴水としても使われたらしい。文様が表現され、仏像をのせた「須弥壇」もその一種。このほか、銅鏡の文様などにも応用された。
2008/08/12 18:57
京 都
高松塚古墳
36年前の姿、徐々に
奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末−8世紀初め)の発掘調査で、墳丘南側の盛り土の除去が進み、文化庁が12日、報道陣に公開。1972年に壁画が見つかった当時の姿が徐々に現れてきた。
石室の温湿度を調節するため設置していた保存施設が墳丘に突き刺さった形になっており、文化庁は9月末ごろから撤去を開始。芝生を張るなど、来年3月末ごろまでに全体を整備する。
高松塚は壁画発見後、保存施設の建設などに伴って約510立方メートルの土を盛り、墳丘の形を整えていた。
2008/08/12 18:50
奈 良
肥田城遺跡
彦根・肥田城遺跡:塚乞手古墳から木製埴輪2体出土 飛翔姿の鳥形、県内初
◇翼、装着の痕跡も
県文化財保護協会は、彦根市肥田町の肥田城遺跡の塚乞手(つかごって)古墳から、古墳時代後期(6世紀前半)の鳥形と笠形の木製埴輪(はにわ)2体が出土したと発表した。木製埴輪の出土は県内9例目だが、鳥形は保存状態が良好で、飛翔(ひしょう)姿が表現されたものとしては県内初。
見つかったのは、遺跡地図にも掲載されていなかった同古墳の周壕の底面近く。昨年12月〜今年3月、通常埴輪の破片とともに、鳥と笠の形をした埴輪1点ずつと、支柱とみられる杭(くい)状の木製品が出土した。
鳥形は、長さ59センチ、厚さ14〜12センチで、頭部の最大幅は13センチ、胴部は最大幅20センチ。胴部に幅24センチ、深さ1・5センチの切り込みがあり翼を装着したと思われる跡があった。笠形は直径27センチ、高さ8センチで、共にスギを使用、中央に穴が上下に貫通していた。同時に出土した埴輪の年代から、木製としては最終段階の6世紀前半とみられる。
調査に当たった同協会調査整理課の内田保之主任は「木製埴輪は韓国を含め全国で38基の古墳から出土。うち21基の古墳が大和(奈良県)で近江(滋賀県)が9基目。これまで湖南と湖北でしか見つかっておらず、彦根での出土は空白地帯を埋める貴重な発見」としている。和田晴吾・立命館大教授は「木製埴輪は古墳時代前期後半から後期なかばまで畿内を中心に用いられ、ヤマト王権中枢部で共有された古墳の習慣。同古墳の被葬者が王権中枢部と深い関係にあったのでは」と言う。
同協会は木製埴輪を24日に県立安土城考古博物館(安土町下豊浦)で開く「あの遺跡は今!Part7」で公開する。
2008/08/09 16:33
滋 賀
県立橿原考古学研究所
考古学の黎明たどろう 奈良・橿考研70周年で特別陳列
高松塚古墳など日本を代表する遺跡を調査してきた県立橿原考古学研究所が、9月で創立70周年を迎えるのにちなみ、研究所の歩みを振り返る特別陳列が、9日から橿原市畝傍町の同研究所付属博物館で開かれる。研究所発足のきっかけとなった昭和13年の橿原遺跡(同市)の調査を紹介するコーナーでは、勤労奉仕で全国から参加した「建国奉仕隊」の様子を記録した写真などが展示され、考古学の黎明(れいめい)期をたどる上で興味深い内容となっている。
同研究所は昭和13年、神武天皇即位2600年を記念する「皇紀2600年」を2年後に控えた橿原神宮外苑整備に伴って橿原遺跡を調査し、故・末永雅雄氏が遺跡内に事務所を設けて「橿原考古学研究所」と命名したのが始まり。26年に県立となり、47年には極彩色壁画の描かれた高松塚古墳、最近では飛鳥時代の都「飛鳥浄御原(きよみはらの)宮」跡やシリア・パルミラ遺跡の調査なども手がけ、世界的に注目されている。
特別陳列では、研究所発足から昭和30年代の調査にスポットを当て、35年に調査された天神山古墳(天理市)から出土した銅鏡23枚(重要文化財)や、真っ赤な朱が塗られた木棺(長さ2・6メートル)、石舞台古墳の周濠(しゅうごう)で見つかった土器などを展示している。
9月21日までで、毎週月曜と9月9〜11日、16日は休館。入館料は一般400円、高校・大学生300円、小・中学生200円。9月7日午後1時半から、同研究所の歩みを知る森浩一・同志社大名誉教授らが解説する無料講演会も開かれる。問い合わせは同博物館((電)0744・24・1185)へ。
2008/08/09 16:20
奈 良
風呂坊5号墳
未盗掘古墳から金銅製馬具
政権からの賜り物?
奈良県桜井市の風呂坊5号墳(6世紀前半−中ごろ)で、未盗掘の石室から副葬品の金銅製馬具などが見つかり、市教育委員会が7日発表した。
金銅は銅に金メッキしたもので、表面の金メッキがわずかに残り、本来は金色に輝いていたらしい。渡来系氏族の墓に多く見られる銀製指輪やかんざしも出土。近くにあった工房で、金属加工の技術者を束ねた渡来系一族が葬られたとみられる。
付近一帯は、6世紀代に歴代大王の宮殿があったとされる地域。市教委は「当時の政権とかかわりがあり、特別な働きが認められて馬具を与えられたのではないか」としている。
馬具は石室の北東隅でまとまって出土。馬の口にかませて手綱を結び付ける轡や、くらの金具などで、下地には鉄が用いられていた。金銅製の馬具は一般に流通するものではなく、当時は貴重だったという。
2008/08/08 21:16
奈 良
鍛冶屋敷遺跡
鍛冶屋敷遺跡から建物跡
信楽町 甲賀寺関連の役所か
甲賀市教委は7日、紫香楽宮を造営した聖武天皇に関係のある鍛冶屋敷遺跡(滋賀県甲賀市信楽町黄瀬)から、8世紀中ごろの掘っ立て柱建物跡が出土した、と発表した。天皇が奈良・東大寺に先駆けて大仏造立を計画した甲賀寺に関連する役所跡の可能性が高いとみている。
建物跡は3棟で、うち2棟は南北に60尺(17・8メートル)離れて並んで建ち、北棟は12尺(3・5メートル)、南棟は11尺(3・25メートル)間隔の柱跡が見つかり、南棟の1カ所で柱根が出土した。60尺四方の空間に建てられたとみている。
遺跡からは2002年、甲賀寺に銅製品を供給したとみられる大規模な鍛冶工房跡が見つかっている。建物跡は鍛冶工房跡から約130メートル西の丘陵近くで出土した。市教委は2棟が整然と配置されていることなどから、「鍛冶工房とは性格が異なり、儀礼的な機能を併せ持つ役所だったのでは」と推定。大仏建立にかかわる何らかの儀式の場だった可能性もあるとしている。
また、建物の向きが宮町遺跡の遺構などと一致しており、「紫香楽宮と甲賀寺を結ぶ平たん地に一連の計画で建てられた役所群が展開し、その一つだった」とみている。
今回の発掘調査は、民間開発に伴い、今年5月から約350平方メートルを調べていた。
2008/08/08 21:13
滋 賀
出町遺跡
川跡から古墳時代のヒョウタン 出町遺跡 完全な形で
近江八幡市出町の出町遺跡で古墳時代前期(1700−1800年前)の川跡からヒョウタンなどが見つかり、市地域文化課が発表した。瓶や器台、高坏(たかつき)などの土師(はじ)器、機織りの部材や火おこし具の木器も出土し、同課は「当時の暮らしぶりを知る上で貴重」としている。
ヒョウタンは計10点出土した。最も保存状態のよい遺物は全長20センチ、幅8センチ。用途は不明だが、容器の未加工品か水辺の祭祀(さいし)に用いられた可能性がある。
東近江市の斗西遺跡や長浜市の川崎遺跡などでも確認されているが、完全な形を保ったヒョウタンは県内でも珍しいという。
出町遺跡はこれまでの調査で縄文、弥生中期、古墳前期、平安の各時代の遺構、遺物が出土し、各時代で集落が存在していた。
9日午前10時から現地説明会を開く。
雨天中止の場合あり。平日の問い合わせは、同課=電0748(36)5529=へ。
2008/08/07 17:37
滋 賀
市之郷廃寺
飛鳥時代の金堂跡か
兵庫・姫路の市之郷廃寺
兵庫県姫路市の「市之郷廃寺」で、飛鳥時代の大量の瓦破片や柱の土台となった礎石などが見つかり、県立考古博物館が6日発表した。寺院の屋根の上端を飾る鴟尾の破片も発見されており、同博物館は仏像を安置した金堂などの建物があったとみている。
瓦の破片は飛鳥時代のほか、奈良、平安時代のものもあり計数万点に上る。また基壇状の高まり(東西約20メートル以上、南北約16メートル、高さ約0・6メートル)の中に礎石も1つ残っていた。
塔の先端を飾る「水煙」と呼ばれる青銅製装飾品の破片も発掘されており、敷地内には塔もあったとみられる。
市之郷廃寺はJR姫路駅の東約1キロにあり、これまでの出土品から7世紀後半−9世紀中ごろまで存続した地域の有力寺院と考えられている。
同館の岸本一宏主査は「今後はほかに建物があるかや、伽藍配置などについて詳しく調べていきたい」と話した。
2008/08/07 17:08
其 他
酒屋跡
酒屋跡か、室町期の町家
下京 地下には麹室も
京都市下京区烏丸通綾小路西入ルの発掘調査で、室町時代前期(14世紀後半)の酒屋とみられる町家跡が見つかり6日、市埋蔵文化財研究所が発表した。醸造の甕(かめ)を据えた多数の穴や、麹(こうじ)を育てる地下倉庫、井戸など酒造業の施設がそろっていた。
ビル建設に伴い5月上旬から585平方メートルを調査。甕跡は直径70センチ、深さ25センチの円形で38個確認された。東西3−6列、南北15列に整然と並んでいた。地下倉庫は東西5メートル、南北2・5メートル、深さ1メートル。地中の湿気を遮る「すのこ」を支えたとみられる礎石が残っており、麹室の可能性が高いという。
礎石など町家跡も良好に残り、幅10メートル、奥行き30メートルの「うなぎの寝床」だったとみられる。通り沿いに店舗、奥に作業場と井戸、通りから奥まで突き抜ける「通り庭」があり、現在とよく似た京町家の構造という。甕の破片は人為的に壊されており、1419年、幕府が出した麹づくりの禁令に従わなかった制裁の可能性があるという。
室町時代の京は酒どころ。300軒以上の酒屋が並び、高利貸を兼業し財を蓄えたという。市埋文研は「現場は町衆の町として栄えた下京の中心地。山鉾が出され始めたころの祇園祭を、経済的にバックアップした酒屋だろう」と話している。
現地説明会は9日午前10時から。
問い合わせは現場事務所TEL075(344)2602へ。
2008/08/07 17:06
京 都
カンジョ古墳
石舞台しのぐ天井の高さ
奈良県高取町のカンジョ古墳(6世紀末−7世紀前半)の石室天井の高さが約5・3メートルであることが分かり、同町教育委員会が5日発表した。
蘇我馬子の墓とされ、天井の高さ約4・7メートルの石舞台古墳(7世紀前半、奈良県明日香村)を上回り、高さ5メートルを超えるものは全国的にも珍しいという。
石室の床面には木棺を載せる棺台とみられる跡も発見。墳丘も一辺36メートルと大規模な方墳で、町教委は「周辺を墓域とした渡来系氏族、東漢氏の盟主が葬られたのだろう」としている。
石室内にたまった土砂を除去したところ天井の正確な高さが判明。奥行きと幅も、それぞれ6メートル、3・7メートルと確定した。
棺台跡は床面の中央付近にあり、粘土と炭を交互に重ねて台状に盛り上げ、上面を白い石の粉で塗り固めていた。後世に削られ、北側半分は残っていなかったが、当初は幅1メートル、長さ2・2メートルだったとみられる。
2008/08/05 20:36
奈 良