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 1万2000年前の宴席の跡、イスラエルの洞穴で発見

 イスラエルの洞穴で、約1万2000年前の宴席で出されたとみられる食べ物などの痕跡が見つかった。米コネティカット大の研究チームが30日、米科学アカデミー紀要で報告した。

 同チームは洞穴で身分の高い女性の墓場と、その横に亀71匹分の甲羅のほか、「オーロックス」と呼ばれる牛が調理された跡を発見。当時この地で生活していたナトゥーフ人は、まだ農耕を始めるほど進歩していなかったが、定住は始めていたとされる。

 調査を率いた同大の考古学者、ナタリー・マンロ氏は「この宴会は社会的関係における交渉、結束、緊張の緩和などの面で重要な役割を果たした」と指摘。「特に葬儀という状況での宴会は地域社会をまとめるのに役立ったと考える」としている。
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 江戸期人骨にハンセン病菌
 青森の遺跡、DNA検出

 青森県八戸市にあった畑内遺跡の江戸時代中期(18世紀)の墓で発掘された人骨から、ハンセン病を起こす病原菌のDNAを検出したと、国立感染症研究所ハンセン病研究センターの鈴木幸一室長らが26日付の米科学誌プロスワンに発表した。

 遺跡の人骨からのハンセン病菌のDNA検出は、欧州や中東で数例あるが、日本では初という。古病理学の成果といえそうだ。

 この人骨は身長164センチの30~40代の男性。上あごや鼻の萎縮状態からハンセン病とみられていた。近くにはほかの人骨もあり、同じように埋葬されていた。

 収蔵する東北大総合学術博物館の許可を得て、骨の外見を損なわないよう、0・01グラム以下のごく微量の骨を上あごなど数カ所から採取。病原菌のDNAを検出した。ほかの人骨からは検出されなかった。

 これまでは、骨の変形などから病気を推定するしかなかったが、微量の試料から病原菌のDNAを感度よく検出する手法を開発して利用した。

 DNAの塩基配列を調べ、インドや東南アジアで分離される菌の型に近いと判明。現在の日本の病原菌は欧州や中国に多い型が主流で、明治維新以降に国内外の人々の交流が増え、日本の病原菌が入れ替わった可能性もうかがわせた。

 奈良・大安寺で鎌倉期の瓦出土
 塔の修理裏付け

 南都七大寺の一つ、大安寺(奈良市)で奈良市教育委員会が実施した東塔の発掘調査で鎌倉時代の瓦などが見つかり、26日、同市教委が発表した。

 瓦は製作技法の特徴から13世紀中ごろのものとみられる。市教委は「当時の文献の裏に『東塔の修理をした』などという記述があり、それが裏付けられた」としている。

 文献は東大寺の僧侶で、鎌倉時代に2度大安寺の別当に就任した宗性(1202~78年)が残したもの。瓦には「大安寺塔」「大安寺」などと書かれていた。

 文献は法会を記録した内容で、その裏に1度目の就任時には東塔を修理し、2度目には東塔の四方に築地塀を築いたなどと記述されていた。このため、瓦は東塔の修理時と築地塀の建設時にそれぞれ使われたと推測できるという。

 また、東塔基壇の東西の長さが、これまでに判明していた南北と同じ21メートルであることが新たに判明。西塔と同規模であることが分かった。

 現地説明会は28日午前10時~正午まで。


 東塔の高さは70メートル/大安寺

 ◆発掘調査 礎石・穴配置で判明


 奈良市東九条町の大安寺旧境内(国史跡)にあった東塔の高さは推定で約70メートルだったと、奈良市教委が26日発表した。2003年に明らかになった西塔の規模と同じで、いずれも奈良時代では東大寺の七重塔(推定約70~100メートル)とほぼ同じか、それに次ぐ高さだったとみられる。巨大な七重塔が東西に並び立つ奈良時代最大級の国立寺院が改めて裏付けられた。

 東塔は8世紀ごろ創建され、1296年の焼失以降、再建されていない。今回は未調査だった東側部分を発掘し、柱の土台となる礎石やその抜き取り穴の配置などから、塔の初層(1階)は約12メートル四方、基壇(基礎部分)は約21メートル四方、基壇に上る階段の幅は約5・4メートルと判明した。

 塔を囲む築地塀の遺構や基壇下部を埋める整地跡なども見つかり、東大寺文書などの文献のみで知られていた鎌倉時代の二度の修理についても裏付けられたという。

 現地説明会は28日午前10時から。場所は現・大安寺の約150メートル南。小雨決行。問い合わせは同市埋蔵文化財調査センター(0742・33・1821)へ。

 西京・大枝山古墳群、住民らが保存活動

 桂坂ニュータウンの開発に伴い発掘され、京都市の史跡指定を受けながら、長年の樹木の繁茂で古墳の位置が分かりにくくなっている京都市西京区御陵大枝山町の「大枝山古墳群」で、住民たちが保存活動に乗り出した。古墳周辺の草刈りに取りかかっており、「地域の歴史を知る貴重な財産」と保存会の設立も目指している。

 同古墳群は古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初め)に造られ、1980年代に市埋蔵文化財研究所が発掘調査を行った。円墳23基や銀の象眼を施した鉄の刀などが出土しており、渡来系氏族の秦氏に関連する古墳と考えられている。

 管理は土地を所有する民間業者に委ねられている。発掘直後、道路と重なる1基が業者の協力で近くの公園に移築され、2000年には市が14基(約1万平方メートル)を史跡に指定した。しかし古墳の存在を示す説明板は設置されず、清掃なども行われないまま、事実上放置されていた。

 今年1月、移築に協力し、府内で文化財保全に取り組む全京都建設協同組合有志の「もっこの会」が史跡内を清掃。活動を知った住民約30人が5月と7月の清掃に参加した。

 国史跡の天皇の杜(もり)古墳(西京区)や御土居(北区など)など、地元保存会が維持管理に携わるケースは多く、市文化財保護課も「地元で清掃を行ってもらい、文化財へ関心をもってもらえるのはありがたい」としている。

 地元では9月に、市埋文研の担当者による勉強会や出土品の展示、説明板の設置も計画している。桂坂自治連合会の菊池潤治会長(80)は「活動を通じ、地域の歴史を知ることで地域のきずなを確かなものするきっかけにしたい」と話している。

 皇族ゆかりの領主屋敷跡か 大山崎の遺跡で発掘印刷用画面を開く

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは25日、京都府大山崎町円明寺松田の松田遺跡で、13~14世紀(鎌倉後期-室町前期)の掘立柱の建物跡3棟や柵列跡などが見つかったと発表した。中国・南宋から輸入されたとみられる白磁や青磁も出土しており、同センターは「皇族や貴族と縁のある領主の屋敷だったと考えられる」としている。

 京都第二外環状道路の建設工事に伴い、6月から小泉川東岸を発掘調査していた。

 3棟の建物跡のうち、最大のものは縦5・5メートル、横10・4メートル。中央部では、焼けた跡のある土間に似た石敷き遺構が確認された。柵列跡は調査区域の南端にあり、九つの柱穴が東西19メートルにわたり並んでいた。

 建物跡に並行して南北に走る溝からは、貴重品を入れる白磁器「合子(ごうす)」のふたの一部が見つかった。ボタンの花の紋様が刻まれており、藤原頼通の娘・寛子が創建した白川金色院跡(宇治市)の敷地から出土した合子と同型という。

 各遺構からは白磁片と青磁片計約40点のほか、青銅製の水入れやすずり、土師(はじ)器の皿なども見つかった。

 同センターの石井清司主幹は「瓦は出土していないため、屋敷は板ぶきか檜皮(ひわだ)ぶきだろう。白磁や青磁が都の外で見つかるのは珍しい。並の領主が持てる物ではなく、屋敷の主は皇族や貴族とかかわりのある人物だったのでは」と話した。現地説明会は29日午前10時半から。問い合わせは同センターの岡崎研一専門調査員の携帯電話080(5321)8666。

 古墳時代の埴輪や勾玉、発掘成果展示 橿考研で10月4日まで

 橿原市畝傍町の県立橿原考古学研究所の1階アトリウムで、四条遺跡(同市四条町)の発掘成果が展示されている。出土した古墳時代の埴輪(はにわ)などを間近で見ることができる。10月4日まで。

 四条遺跡は、国道24号と同165号の交差する橿原署を中心とした南北約600メートル、東西約1キロの広さで、弥生時代以降の遺構が確認されている。橿考研が大和高田バイパス工事などに伴い、87~01年に断続的に調査した。

 遺跡内では、古墳時代中期(5世紀前半)以降に造られた古墳が12基が見つかった。橿考研は近くにある宮内庁管理の「神武天皇陵」や「綏靖(すいぜい)天皇陵」とともに古墳群を形成していたとみている。

 展示では、遺跡の概要を示すパネルとともに出土した盾型や家型、人物などの埴輪、勾玉(まがたま)などが並んでいる。平日午前9時~午後5時。無料。

 新たに2棟建物跡 柱穴から土器類、地鎮跡か

 大津市教委は25日、奈良~平安時代の「県庁街」にあたる「近江国府跡」で、10世紀半ば~11世紀の平安時代中期に建設され、その後建て替えられたとみられる2棟の掘っ立て柱建物跡や地鎮の跡が見つかったと発表した。中心的な役所だった「近江国庁」跡(同市大江6)の北東約350メートル。国庁の衰退時期と重なり、当時の状況を考える貴重な資料になるという。

 宅地造成に伴い、今年4月から約1000平方メートルを調査。2棟は同じ場所にあり、古い方は広さ東西9・5メートル、南北4・4メートル以上で柱穴が50~55センチ、後に建てられた方は東西10・8メートル、南北4・1メートル以上で柱穴が30~40センチとみられ、やや大きい造りと考えられる。

 柱穴からは多くの土器類が出土し、建設や取り壊しの際に何らかの祭祀(さいし)を行ったと推測される。建物の北側からは、国庁跡などで見つかっている建物の修理に使われた瓦や緑釉(りょくゆう)陶器などが出てきた。

 近江国府を巡っては、地理学者の米倉二郎氏(故人)が1935年、国庁を南端とする正方形の範囲を提唱。しかし、近年は国庁の南側、昨年は北側で建物跡などが見つかり、広範囲にまたがる可能性も出ている。今回の発見もそれを裏付けるもので、市教委文化財保護課の西中久典技師(29)は「出土品から位の高い人たちがいた関連施設があったのでは」と話す。

 またその南側、国庁関連の倉庫群があった「惣山遺跡」では、8世紀半ばごろの奈良時代の大規模な土木工事跡を確認。土をたたき締めながら何層にも積み上げる「版築」という工法で整地されており、現時点で東西15メートル、南北20メートルの範囲に広がっている。国庁関連の遺跡では最大規模で、倉庫建設の際に整地されたとみられる。

28日に現地説明会

 現地説明会は28日午後1時半から。近江国府跡、惣山遺跡の順で回る。問い合わせは市教委文化財保護課(077・528・2638)。

 「版築」で大規模整地
 倉庫群そばに1.2メートル厚み

 奈良―平安時代に近江を統治した近江国庁の関連遺跡・惣山(そうやま)遺跡(国史跡、大津市大江)で、奈良時代(8世紀)に「版築(はんちく)」と呼ばれる工法で大規模に整地した跡が見つかり、市教委が25日、発表した。同遺跡では計12棟の大型倉庫群が南北300メートルに一直線で立ち並んでいたことが判明しており、市教委は「倉庫建設に伴う造成跡か、さらに何らかの施設を建てようとした場所ではないか」とみている。

 版築は、土壌を何回も棒で突き、地盤を固める工法。古墳の墳丘や寺院の基壇をつくる際に用いられる。

 宅地開発に伴い、倉庫群跡の西約50メートルの約200平方メートルを発掘したところ、東西15メートル、南北20メートルにわたり、当時の地表から約1・2メートルを版築を用いて土を積み上げていることが判明。棒で突いた痕跡も残っていた。

 版築で固めた土からは遺物が出ていないことから、市教委は、倉庫群を建設する際に一帯が造成されたと推測。ただ、整地をするだけなら多大な労力が必要な版築でなくても可能なため、倉庫群に関連する施設を建てようとしたが、何らかの事情で断念した可能性もあるという。

 このほか、近江国庁の北西約350メートルの「近江国府跡」(同市大江)でも、平安時代中期(10世紀後半)の掘立(ほったて)柱建物2棟などの跡を検出。建物跡の中央部や柱穴には、建物の完成時と廃棄の際に祭祀(さいし)をしたとみられる土師器(はじき)の皿が多数見つかった。

 同時期は国庁が衰退する時期で、市教委は「未解明の国府の範囲や、衰退期の様子を解明する手がかりになる」としている。

 現地説明会は28日午後1時半。問い合わせは市教委文化財保護課(077・528・2638)。


 卑弥呼王国の“閣僚”登場 桜井で来月11日

 卑弥呼王国の閣僚がパネリストという設定で地域づくりについて考える「ここが邪馬台国!フォーラム~甦れ卑弥呼王国」が来月11日、桜井市粟殿の桜井市民会館で開催される。主催の平城遷都1300年記念事業協会と桜井市が参加者を募集している。

 「卑弥呼」をテーマに地域のブランド力を高めようと企画され、フォーラムでは大阪二十一世紀協会の堀井良殷理事長とOSK日本歌劇団の桜花昇ぼるさんが、桜井市や県の観光について語る。

 続くパネルディスカッションでは、菅谷文則・県立橿原考古学研究所所長や瀧浪貞子・京都女子大教授ら4人のパネリストが、卑弥呼の王国を現代に置き換えた仮想王国の閣僚として登場。千田稔・県立図書情報館館長がコーディネーターを務め、古代と現代をクロスさせながら地域づくりについて考える。

 午後1時開始。先着1200人で入場無料。参加希望者は、郵便番号▽住所▽氏名▽年齢▽電話番号▽参加人数(1通2人まで)▽「ここが邪馬台国!フォーラム参加希望」-を明記し、平城遷都1300年記念事業協会県内事業室(〒630-8113 奈良市法蓮町757)へ、はがきかファクス(0742・23・2500)で申し込む。問い合わせは同記念事業協会((電)0742・25・2010)。

 4トン 巨石人頭像など130点 古代メキシコ・オルメカ文明展

 メキシコ沿岸地方で紀元前1200年頃、栄えたオルメカ文明の石像などを展示した「古代メキシコ・オルメカ文明展―マヤへの道」が中京区の京都文化博物館で開かれている。遺跡から見つかった大型の石像やヒスイ製品など約130点が展示してある。

 同文明は紀元前1500年~同400年前まで持続したとされ、日本では縄文時代後期~晩期にあたる。ヒスイの加工や神殿を築く建築技術などを持つ高度な文明で、滅亡後に生まれたマヤ文明も影響を受けたと考えられている。

 半人半獣神像(高さ105センチ、幅77センチ、奥行き77センチ)は、紀元前1200年頃の作製で、信仰の対象だったネコ科のジャガーと人間が融合した姿で、両こぶしを胸の前で突き合わすようにして座っている。豊穣(ほうじょう)儀礼に関連した像とみられる。

 またヒスイの仮面(長さ16センチ、幅16センチ)は、厚い唇や大きい鼻が特徴で、祭りや儀式で用いられたらしい。約4トンある巨石人頭像(高さ176センチ、幅120センチ、厚さ107センチ)もある。

 9月26日まで。月曜休室。午前10時~午後6時。一般1300円。問い合わせは同博物館(075・222・0888)へ。

 遺跡群「文化的まとまり」

 青森市の三内丸山遺跡に代表される「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」の2015年度の世界遺産登録に向け、考古学者ら7人でつくる専門家委員会が23日、北海道函館市で開かれた。

 遺跡群は北海道、青森、岩手、秋田の15カ所。まとめて世界遺産に登録することに関し「他地域と比較し、特に強い文化的まとまりがある」との見解が示された。

 委員会では、5カ所ある貝塚について「貝塚は文化や精神性を知る情報源。世界観を整理すべきだ」との指摘があったほか、国史跡に指定されていない複数の遺跡を遺跡群に加えるよう求める意見も出た。

 専門委は昨年6月に4道県が協定を締結して設置され、専門的調査や検討を実施。世界遺産登録の推薦書の案を作成する「縄文遺跡群世界遺産登録推進会議」に意見を述べる。

 委員長の菊池徹夫早稲田大名誉教授は記者会見で「なぜこの地域を切り取るか説明を深め、どう海外に伝えるかが大切」と述べた。

 専門委は昨年9月に青森市で初会合が開かれ、今回で4回目。次回は環状列石などをテーマに11月に秋田県で開催する予定。

 土器片や埴輪90点 ノムギなど前方後方墳紹介

 夏の文化財展「発掘の現場から-地下に眠る天理の昔々-大和(おおやまと)の前方後方墳・ノムギ古墳をはじまりとして」(天理市教委主催)が、同市守目堂町の市文化センター1階展示ホールで開かれている。29日まで。無料。

 ノムギ古墳は市南部の萱生町と佐保庄町にまたがる全長63メートルの古墳。市を代表する大和古墳群に属し、その中で確認されている前方後方墳5基では最も早い3世紀後半ごろに築造されたとみられる。全国的にも最古の部類の大型前方後方墳で、市教委が調査を続けている。

 同展では、ノムギ古墳や他の前方後方墳などをパネルや写真で詳しく紹介。古墳の築造年代を探る重要資料の土器や埴輪について解説している。また、ノムギ古墳出土の土器片などのほか、船やオールの絵が刻まれた珍しい鰭付(ひれつき)楕円筒埴輪(市内の東殿塚古墳出土)などの資料約90点を展示している。

 22日午後2時から、市教委文化財課の青木勘時係長の講演「大和の前方後方墳」と展示解説がある。隣接する市役所1階市民ホールでは31日まで、大和古墳群の発掘調査の歩みを写真パネルで紹介している。23日は休館。問い合わせは市教委文化財課(0743・65・5720)。

 平壌に大規模高句麗古墳
 日朝が初の本格合同調査

 北朝鮮の平壌市楽浪区域で昨年、5世紀ごろに築造された大規模な高句麗壁画古墳が発見された。共同通信社は14日までに学術調査団を現地に派遣、北朝鮮の社会科学院考古学研究所と合同学術調査を実施し、崩落を免れた天井や壁のほぼ全面に壁画やその痕跡を確認した。

 平壌近郊などに分布する高句麗古墳群のうち、旧楽浪郡中心地域での壁画古墳発見は初。古代東アジアの歴史や文化交流、絵画史などを考察する上で第一級の史料となりそうだ。

 北朝鮮側は「東山洞壁画古墳」と命名。今後、国宝に指定、国連教育科学文化機関に世界遺産登録を追加申請する方針。

 日本と北朝鮮による本格的な合同学術調査は初めて。日本から東大の早乙女雅博大学院教授、サイバー大の青木繁夫教授の研究者2人が参加。

 同古墳は、石室を覆う墳丘も残っていて直径約35メートル、高さ約8メートル。石灰、炭、赤色粘土が交互に積まれた構造が初めて確認された。約16メートルの墓道の先に南南東に開いた古墳の入り口と羨道があり、長方形の前室と遺体を安置する後室が狭い通路でつながっていた。

 雪野山古墳近くで石室 住民が発見

 東近江市平田地区の住民らが、雪野山古墳がある雪野山の北側のふもと(同市中羽田町)で、古墳時代後期(6~7世紀)とみられる古墳の石室を発見した。県がこのほど正式に遺跡に認定し、「八幡社南古墳群」と名付けられた。1989年に雪野山古墳が確認されて以来の新発見で、市埋蔵文化財センターは「今ごろになって発見されたことにびっくり。市民の手で見つかったのは貴重なこと」としている。

 平田地区まちづくり協議会が2月に実施した里山保全活動で、伐採作業をしていた際に、大きな石とぽっかりと開いた穴が見つかり、市埋文センターに連絡し、石室と判明した。さらに調査した結果、近くに2基目の石室も発見し、県に遺跡申請した。

 一つは横穴式の石室で天井石付きの石組み(縦2メートル、横4メートル、深さ1・5メートル)が残っていた。もう一基はほぼ同じ大きさの石組みの一部が露出しており、石室の残存部分と見られる。

 市埋文センターによると、石室の形状から古墳時代後期に作られたとみられ、古墳の規模はそれぞれ直径10~15メートルの円墳が想定されるという。

 古墳~奈良時代 集落跡発見
 □「南田原ミヤケ遺跡」と命名

 奈良市南田原町で古墳時代から奈良時代にかけての集落跡が見つかり、「南田原ミヤケ遺跡」と名付けられた。田原地区には光仁天皇陵や古事記を編集した太安万侶の墓などがあり、天皇や高級官僚の墓域として重要な場所だが、これまで飛鳥・奈良時代の遺跡がほとんど見つかっていなかった。県立橿原考古学研究所は「当時のこの地域の様相を知るうえで貴重な発見」としている。

 ほ場整備のため、今年5月から約1800平方メートルを調べた。見つかったのは、時代順に、古墳時代の竪穴式住居5棟▽飛鳥時代の掘っ立て柱建物1棟▽飛鳥時代から奈良時代にかけての掘っ立て柱建物2棟。当初は地面が軟弱で石も多く、生活しづらい場所だったとみられるが、飛鳥時代の後半以降に土を数十センチ盛り、住居域としていた。

 奈良時代の炉とみられる跡や井戸、火葬墓の可能性がある穴なども見つかった。橿考研は今後、出土資料の整理を進め、集落の性格を明らかにする。地元向け説明会は8日に開催され、一般向けは予定されていない。

 アフリカの動物化石に傷

 アフリカ東部のエチオピアで見つかった約340万年前の動物の化石から、人類が石器を使った最も古い証拠になるとみられる傷が発見された。これまで石器の使用が始まったとされてきた時期を、約80万年さかのぼることになる。米国とドイツの研究グループが、12日付の英科学誌ネイチャーに発表した。

 傷は、初期人類のアファール猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス)が食用に動物の肉を骨から切り離したり、骨髄を取り出したりするときにできたらしい。人類の進化における石器の使用や、その発展の考察に一石を投じそうだ。

 グループは、同国北部・アワッシュ渓谷下流域の339万~342万年前の地層で、牛ぐらいの動物の肋骨(ろっこつ)と、ヤギぐらいの動物の大腿(だいたい)骨の化石を発見。いずれも切り傷のほか、引っかいたり、たたいたりした跡があった。

 電子顕微鏡で調べた結果、傷は骨が化石になる前に付いていたと判明。歯ではなく石器による傷だということも分かり、一部には石器とみられる成分が残っていた。

 和同開珎の鋳造年示す木簡
 下関の史跡付近で発見

 古代の銅銭、和同開珎を鋳造していたと伝えられる山口県下関市の史跡「長門鋳銭所跡」付近から、鋳造年代が書かれた木簡と和同開珎のかけらなどが大量に出土したと、市教育委員会が10日発表した。市教委によると、文献以外で和同開珎の鋳造年代を示す遺物の発見は全国初という。

 見つかった木簡は幅約1センチ、長さ約22センチ。左半分は欠けているが、「天平二年(730年)五月四日」と墨で書かれていた。

 当時、長門国(現在の山口県西部)で銅銭が鋳造されていたとの「続日本紀」の記述が裏付けられるとともに、この場所に官営の貨幣鋳造所があったことが確実となった。

 木簡はほかにも数百点見つかり、溶かした銅を鋳型に流し込むのに使うるつぼや鋳型のかけらも数千点が出土した。

 大阪市立大の栄原永遠男名誉教授(古代流通経済史)は「広く流通していた和同開珎の鋳造の全容を明らかにする上で大きな一歩といえる。一緒に出てきた遺物の分析にも期待したい」と話した。

 斑鳩・上宮遺跡 出土91点一堂に
 文化財センター

 平城遷都1300年祭に合わせた斑鳩文化財センターの夏季企画展「上宮(かみや)遺跡展」が5日、斑鳩町法隆寺西の同センターで始まった。出土した軒瓦、須恵器、土師(はじ)器、木簡片、柱根など91点が展示されている。9月14日まで。

 法隆寺の南東1・5キロにある同遺跡は、1991年に発掘調査され、平城宮の建物と同じ配置をした奈良時代の大型掘立(ほったて)柱建物群が出土。平城宮や平城京で使用された軒瓦と同じ文様の軒瓦などが出土し、「続日本紀」に記されている称徳天皇が河内に向かう際に宿泊した「飽波宮(あくなみのみや)」とみられている。

 発掘調査にかかわった町教委生涯学習課の平田政彦係長は「斑鳩には古代寺院のほかに奈良時代の貴重な遺跡があることも知ってほしい」と話している。

 無料。開館時間は午前9時~午後5時、水曜休館。問い合わせは同センター(0745・70・1200)。

 土壁下に地覆石 戦国期で初確認
 関津城遺跡の土蔵跡・大津

 大津市関津3丁目の関津城(せきのつじょう)遺跡で戦国時代後期(16世紀後半)の土蔵跡が発見された、と滋賀県文化財保護協会が4日、発表した。土壁の下部や壁を支える地覆石(じふくいし)、柱跡が残っており、戦国期の城郭から構造がわかる土蔵が発掘されたのは全国初という。協会は、城郭建築技術の変遷を考える貴重な資料としている。

 関津城は近江国の守護大名・佐々木六角氏の家臣、宇野氏の居城とされる。土蔵跡は遺跡南側で土塀を伴って見つかった。土蔵の規模は縦4メートル、横3・6メートルで、幅約30センチ、高さ約20センチの土壁の下部が残り、その下には地覆石が並んで敷かれていた。内部には炭化した米や麦、火災などで赤く変色した土や炭が残っていた。

 協会によると、地覆石を並べて土壁を支える建築技法は、江戸時代以降の城郭建築でみられる手法だが、戦国期の城郭で確認されたのは初めて。「火災後に土をかぶせて整地したとみられ、基礎部分が極めて良好に残存した」と推測している。

 周辺からは、土蔵に収められていたとみられる調度品の金具や中国、朝鮮の陶磁器など数百点も出土した。

 村田修三大阪大名誉教授(日本中世史)は「地覆石を敷いて地盤をたたき上げる技法はその後の城郭建築に広く用いられていく。保存状態が良く、ほかの発掘例の基準になる」と評価し、「多様な遺物も出土し、城郭が戦闘だけではなく、生活、儀礼の場など多様に使われていたことも示す」と話す。

 国道422号のバイパス工事に伴い、昨年8月から2200平方メートルを調査していた。現地説明会は8日午前10時と午後1時半の計2回。同協会Tel:077(548)9780。

 弥生時代の埋没林を発見、奈良
 水田横で伐採や狩り?印刷用画面を開く
 
 奈良県御所市の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)の大洪水で埋まったとみられる水田跡の隣に、埋没した広葉樹林の跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が4日、発表した。

 埋没林からは人間や動物の足跡、狩りに使う矢尻などが見つかった。木材を得るために伐採した跡とみられる切り株も出土。同研究所は「弥生時代の埋没林は非常に珍しい。稲作を始めたばかりの人々が、水田周辺の森林をどう活用していたかが分かる貴重な発見だ」としている。

 埋没林の調査範囲(約3千平方メートル)からは20種以上約200本の木が見つかった。木の実が採れるオニグルミやクリのほか、木材に使われることが多かったエノキやツバキなどを確認。明るい広葉樹林が広がっていたとみられる。



広がる水田、隣に里山 - 広葉樹林200本超  

 御所市條の中西遺跡で、弥生時代前期(約2400年前)の水田と森の跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が4日、発表した。弥生人が利用した里山と水田の景観を一体的に実証する例は全国で初めて。同研究所は「弥生時代の人々の暮らしを立体的に復元できる」としている。

 京奈和自動車道(御所区間)の建設に伴う発掘調査で、約4700平方メートルの調査区の北側約1700平方メートルで、1枚が3~12平方メートルの水田80枚を検出。幅2メートル、深さ60センチの水路を挟んで南側で200本以上の木の根や立ち木を確認した。

 200本のうち186本の樹種を特定。クワ(44本)、ツバキ(39本)、カエデ(21本)、エノキ(7本)など22種類を数え、クルミやトチ、カシ、クリも確認。広葉樹林が広がっていたとみられる。伐採したり、木の実を食べた形跡や、人や獣の足跡も残っている。

 現地説明会は7日午前10時から。


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