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 エジプト博物館の略奪被害拡大か
 中東のTVが映像放映

 中東の衛星テレビ、アルアラビーヤは29日、エジプトのデモ拡大をきっかけとした首都カイロの暴動で略奪を受けたエジプト考古学博物館内部の映像を伝えた。古代エジプトのミイラ2体が損傷したとされていたが、他にも多くの展示ケースが損壊、壊された古代の石像などが映った。被害はさらに拡大しそうだ。

 エジプト考古最高評議会は被害の詳細を明らかにしていない。同評議会のザヒ・ハワス事務局長は28日夜に暴徒が押し入り、ミイラ2体が壊され、チケット販売所も荒らされたとしていた。

 ツタンカーメン王の副葬品など貴重な文化財を収蔵する考古学博物館は、同日夜からの暴動で放火された与党、国民民主党(NDP)に隣接。延焼の危険もあったが、デモ隊が手をつないで囲み、延焼や略奪から守っていたという。
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 考古博物館のミイラ2体損傷=デモ混乱で何者かが侵入―エジプト
 
 エジプトのザヒ・ハワス考古最高評議会事務局長は29日、国営テレビに対し、ムバラク独裁政権打倒を求める大規模デモが起きた28日に、何者かがカイロ中心部の考古学博物館に侵入し、古代エジプト時代のミイラ2体を損壊したと語った。
 
 重要な観光資源の博物館は、軍が出動する前にデモ隊や観光警察が人間の鎖を形成して守っていたと伝えられていた。しかし、同事務局長は「何人かが侵入し、ミイラ2体を損壊した。

 木材は敷居と垂木 - 高級材のヒノキ

 邪馬台国の有力候補地とされる桜井市辻の纒向(まきむく)遺跡でモモの種などと一緒に見つかった3世紀中ごろの木材が、建物の敷居や垂木(たるき)であることが、市教育委員会などの調査で分かった。王宮中枢部にあった建物の一部とみられ、当時では珍しいヒノキが使われていた。一帯の特殊性がさらに強まったと言えそうだ。
 
 板は長さ約70センチ、幅約20センチ。神戸大学大学院の黒田龍二准教授(日本建築史)が用途を検討し、敷居と結論づけた。柱の形に合わせて丸く加工され、扉の両側に付ける板「方立(ほうだて)」を留めたとみられる2本の溝があった。
 
 敷居から推定でぎる扉の幅は約30センチと小さく、倉庫の可能性があるという。先端がヘビの頭のように加工された棒状の木製品は軒の垂木と判断した。
 
 出土した穴の北側では3世紀前半の大型建物跡が見つかっており、大きさの異なる4棟が軸線をそろえて東西に並ぶ。
 
 黒田准教授は「4棟のいずれかだった可能性が高く、非常に興味深い」と話している。
 
 材質を分析した金原正明・奈良教育大学教授(環境考古学)によると、当時の纒向遺跡周辺は照葉樹林で、ヒノキは手に入りにくい高級材だった。加工も難しく、「鉄器が使える工人集団の存在が考えられる」と言う。
 
 同遺跡では、古墳の周濠(しゅうごう)などでもヒノキ製の木製品が出土。市教委の橋本輝彦・文化財係長は「弥生時代に比べてち密な建造物を造る技術が纒向遺跡の時期に確立したのではないか」と話している。



 長岡京跡で桓武天皇の「西宮」?発掘 遺跡保存か、改築着工か

 ◇向日市ハムレット

 長岡京(784~794年)の中心施設、大極殿西側で昨年見つかった大型の掘っ立て式の複廊跡。桓武天皇が使った「西宮」の施設の一部として注目が集まり、遺跡の保存を求める要望が相次いでいる。しかし、現場は市立小学校の改築予定地。本来なら4月には着工が見込まれていた。向日市は文化財保護との折り合いに苦慮している。

 発掘調査は同市立向陽小(向日町南山)の耐震化改築工事に伴い、昨年10月から学校北側780平方メートルで実施された。文献の記述以外に長岡京の「西宮」の存在を裏付ける初めての発見だった。
 
 遺構の価値を高く評価し、市民団体「乙訓の文化遺産を守る会」が先月24日、研究者団体「日本史研究会」が今月12日、それぞれ文化庁や府、市などに要望書を提出。遺跡を破壊することなく現地保存することや、学校教材や歴史的な文化遺産として活用できる施設の設置などを訴えた。
 
 だが、学校の改築工事は12月の完成を目指しており、児童らは昨年4月から校庭の一部に建てられた仮設校舎で授業を受けている。市は既に工事費7億円を予算化。業者との本契約について市議会に諮る予定だったが、埋め戻さず遺構を現地保存するためには工法の検討や予算増など新たな課題も生じる。
 
 市教委文化財調査事務所の渡辺博所長は12日、日本史研究会からの要望を受けて「教育施設と文化財保護のバランスが重要。決まり次第報告していく」と説明。まだ明確な方向性を回答できる段階にはなく、市教委の江口藤喜雄教育部長も「学校の安全面と文化財保護の両面から検討しなければならず、対応に苦慮している」と話している。
 
 ◇「続日本紀」記述と一致  
 
 向日市埋蔵文化財センターの調査で見つかったのは、内裏を囲んでいたとみられる大型掘っ立て式の複廊(両側に廊下を伴う塀)の跡。長岡京の中心施設である大極殿(だいごくでん)の西約350メートル付近で、施設の北西角とみられる掘っ立て柱の穴21基とこの柱穴群を囲む石組みの雨落ち溝4本が見つかった。
 
 柱間は2.4~3.0メートルで、大極殿などが長岡宮へ移築された後期難波宮の複廊と一致。また、1970年代の調査で出た南の延長上の門跡の位置関係から施設は南北145メートルと推定され、既に判明している東宮の複廊の南北159メートルに匹敵することから、西宮の複廊との見方が強まった。
 
 平安初期の歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、桓武天皇が789(延暦8)年に「西宮」から「東宮」へ移ったとする記述があり、同センターは未確定だった西宮の施設の一部とみている。一方で「長岡宮は難波宮から移設されたのだから、当初の内裏は難波宮と同じく未調査の大極殿北側の可能性が高いはず」(山中章・三重大教授)とする慎重な見方もある。


 王妃の胸像返還を要求
 エジプトがドイツに

 エジプト考古最高評議会は24日、古代エジプト史上クレオパトラと並ぶ美女とされるネフェルティティ王妃の胸像をベルリンの新博物館に展示しているドイツに対し、胸像の返還を正式に求めたとの声明を発表した。

 要請文は博物館を監督するドイツ当局などに送ったという。

 ドイツ当局は24日、エジプト側の胸像返還要求には法的な根拠がなく、返還しないとの声明を発表。理由として「発掘はドイツの資金で行われ、複数の発掘品はエジプト側も合意の上で、双方に同じ価値の配分がされた」とした。

 胸像は1912年にエジプトで発見され、ドイツに運ばれた。ドイツ側はこれまで胸像を合法的に取得したと主張。エジプト側はより価値の低い胸像と偽って持ち出したと主張している。

 ネフェルティティは紀元前14世紀に在位した古代エジプト第18王朝の王アクエンアテンの妃。同評議会は2009年末、ドイツ側に対し近く正式な返還を要求するとの声明を出していた。

 百舌鳥・古市古墳群、考古学上の考察紹介 堺で世界遺産講演会

 堺市の「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録に向けた市主催の「第2回世界遺産講演会」が22日、同市南区茶山台の国際障害者交流センターで開かれ、考古学上の近年の考察などが紹介された。

 市は平成17年から登録への検討を始め、昨年3月に第1回講演会を開いた。古墳群は11月に日本の世界遺産暫定一覧表に記載された。

 斎藤英俊・京都女子大家政学部教授は「世界遺産は誰のためのものか」と題した講演で「登録されれば世界の人類で共有するものになるというのが概念」と解説した。

 岸本直文・大阪市立大大学院文学研究科准教授は、大仙古墳(仁徳天皇陵)に埋葬されているのは仁徳天皇ではないと思われることや、祭祀(さいし)をつかさどる神聖王と執政王の2系列の古墳に分かれるとみられることなど、考古学からの見解を披露した。

 講演会は市内の各区で順に開催される。


 押出遺跡から出土、「彩漆土器」を展示--国立博物館

 奈良市の奈良国立博物館で、特集展示「縄文のムラ 山形・押出(おんだし)遺跡からのメッセージ」が開かれている。山形県高畠町の押出遺跡から出土し、完形品としては世界最古の漆製品「彩漆土器」(重要文化財)など20件を展示している。2月13日まで。
 
 同遺跡は約5500年前の縄文時代前期後半の集落遺跡。1985年からの発掘調査で貴重な遺物が多数見つかった。彩漆土器は、赤漆地に黒漆の線で幾何学的な文様があり、関西での展示は初めて。「炭化食品」はクリやクルミの粉末と動物の肉を混ぜて焼いたもので「縄文時代のクッキー」と言われる。
 
 このほか、同県立うきたむ風土記の丘考古資料館(同町)に保管されている土器や石器が並ぶ。同博物館の岩戸晶子研究員は「未開の時代と思われがちな縄文時代にも、高い技術や精神性を持っていたことを感じてもらいたい」と話している。
 
 月曜休館。午前9時半~午後4時半(22日、2月3日は午後6時半、2月8~13日は午後8時半)。問い合わせはハローダイヤル(050・5542・8600)。

 飛鳥京跡石敷き さらに広く

 ◇外郭で発見 東西20メートル 端に柱穴列

 天武、持統天皇の宮殿「飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)」(672~694年)があったとされる明日香村の飛鳥京跡で、役所があったとみられる「外郭(がいかく)」から宮と同時代の石敷きが見つかった。県立橿原考古学研究所が20日発表した。石敷きは、半世紀前の調査で出土したものの延長とみられ、橿考研は「外郭に広範囲に広がる石敷きがあったことが、改めて確認できた」としている。

 吉野川分水の改修工事に伴う調査で、昨年11月から約820平方メートルを調べた。

 石敷きがあったのは、天皇の居住空間「内郭(ないかく)」の北約100メートル。

 水路工事などで失われた部分も多いが、子どもの頭大の石が5メートル四方に敷き詰められていた。

 奈良文化財研究所が1959年、東側の隣接地で同様の石敷きを見つけており、両方合わせると東西約20メートル、南北約40メートルの範囲になる。

 石敷きの西端には柱穴列(南北約16・5メートル)も見つかった。塀跡とみられるが、藤原宮に遷(うつ)る時期に柱が抜き取られ、解体されたらしい。

 橿考研の西藤清秀・埋蔵文化財部長は「石敷きがどのような用途で使われたのか不明だが、今後の調査で明らかにしていきたい」と話した。

 現地は工事中のため、見学できない。速報展(無料)が2月11日~3月6日、橿原市畝傍町の橿考研付属博物館である。

 卑弥呼に供えた山海の幸か
 魚や動物、鳥の骨出土

 邪馬台国の最有力候補地とされ「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される大型建物跡(3世紀前半)が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、祭祀の際に供えたとみられるタイなどの魚の骨、シカなどの動物や鳥の骨が見つかり、桜井市教育委員会が21日、発表した。

 昨年夏の調査で大量の桃の種が出土した穴の土を詳細に分析した結果、見つかった。人が調理して食べた形跡がなく、市教委は供物と推定。不老長寿や魔よけの果物と信じられた桃に続き、卑弥呼(生年不明~248年ごろ)の時代の祭祀像を具体的に検討できる貴重な史料となりそうだ。

 骨は大型建物の南側にあった柵の解体後に掘られた穴(南北約4・4メートル、東西約2・2メートル、深さ約80センチ)から見つかった。

 分析で使われた種や骨は桜井市立埋蔵文化財センターで22日~2月27日に展示される。


 恭仁京「京域」初遺構か 木津川・上狛北遺跡

 木津川市山城町上狛(かみこま)の上狛北遺跡の発掘調査で、京都府埋蔵文化財調査研究センターは20日、恭仁(くに)京に都が置かれていた奈良時代中期の溝跡や建物跡が見つかったと発表した。恭仁京では、中枢部の「宮域」の遺構はこれまでに確認されているが、「京域」とみられる地域で同時代の遺構が発見されるのは初めて。恭仁京の関連施設跡の可能性もある。

 古代の都は、役所や天皇の住まいが集まる「宮」を中枢とし、周囲に東西南北の道路で区切られ、貴族の邸宅や市場が並ぶ「京」が整備されていた。

 確認された溝跡は幅が最大1メートルで、約100メートルにわたり、ほぼ正確に南北方向に掘られていた。西側に沿う形で、掘立柱の建物跡3棟も見つかった。溝内の土器から、ともに8世紀中ごろの遺構とみられ、同時代の井戸跡や、恭仁宮跡と同種の軒平瓦も発見された。

 センターは「溝跡は道路の側溝か、邸宅などの区画溝の可能性があるが、規模や方位に合う点から、測量や土木技術を持つ国家か権力者が計画的に掘ったもの。建物も、役所や邸宅の一部と考えられる」としている。

 遺構の発見地点は、歴史地理学者の足利健亮氏(故人)が、続日本紀などをもとに復元した恭仁京域の「右京四条三坊」に当たるほか、山背(やましろ)国府があったとする説もある。

 中尾芳治・恭仁宮跡調査専門委員長は「遺物から、恭仁京遷都時代のものであることは間違いない。京域解明の大きな手がかりになる」と期待する。

 現地説明会は23日午前10時半から。小雨決行。問い合わせは現地事務所の携帯電話090(1027)1882。



 エジプト博物館で計測作業

 カイロのエジプト考古学博物館で19日、日本の国際協力機構(JICA)が支援する収蔵品のデータベース再構築プロジェクトの一環として、同博物館の最大の目玉である古代エジプトの王ツタンカーメンの「黄金のマスク」の計測作業が行われた。

 プロジェクトは、カイロ郊外ギザのピラミッド近くに建設される「大エジプト博物館」に収蔵予定の1万2500点について、既存のデータベースを確認、修正するのが目的。

 19世紀の台帳などを基にした現在のデータベースには重複や入力ミスが多く、あらためて大きさや保管場所などを入力し直すことにした。

 平安期の建物跡発見 精華の下馬遺跡

 京都府埋蔵文化財調査研究センターは18日、精華町下狛の下馬(げば)遺跡で、平安時代の建物跡などが見つかったと発表した。遺跡は奈良時代の官道に隣接していたとみられ、「奈良時代後期から平安時代後期まで営まれていた集落の一つでは」と推測している。

 調査は山手幹線の建設に伴い、2008年度から実施。昨年11月からは南東側の約800平方メートルを発掘した。

 建物跡は3棟見つかった。いずれも掘立柱式で、最も大きな建物跡は南北約12・9メートル、東西約4・2メートル。柱穴跡は直径約30センチあり、平安後期の住居とみられる。他の2棟は平安前期に建てられ、北側の建物跡は倉庫跡と推測されている。

 ほかにも、建物跡近くで自然の谷川跡を2カ所で確認。奈良時代の須恵器や土師器が多数出土した。

 下馬遺跡ではこれまでに、平安後期の建物跡や奈良時代の井戸跡などが発見されている。遺跡の南側には、平安前期の集落跡とみられる片山遺跡もあり、センターは「平城京から延びる山陽道と山陰道に隣接して、大規模な集落が広がっていた可能性が高い」とみている。

 現地説明会は23日午後2時から。問い合わせは現地事務所の携帯電話080(6141)8643。



 山芋掘りで荒らされた? 奈良時代の国史跡の瓦窯跡掘られる

 福岡県上毛町の国史跡「友枝瓦窯跡」で、奈良時代に作られたとみられる瓦十数点が地中から掘り出され捨てられているのが見つかり、町は17日、県警豊前署に被害を連絡した。町は、山芋を採ろうとした人が荒らしたとみて、文化財保護法違反の疑いで被害届の提出を検討している。

 町によると、窯跡は7世紀末~8世紀初めの遺跡。瓦焼き用と考えられる窯が四つあり、いずれも斜面に穴を掘ってつくった形状。被害にあったのは天井部分が土砂に埋まっている3号窯で、約50センチ四方の穴(深さ約75センチ)が掘られ、周辺に土と瓦が捨てられているのを町職員らが13日に見つけた。瓦の一部には割れるなどの損傷があった。

 町は平成23年度以降、本格的な発掘調査をする予定だが、瓦の位置関係が不明となったため、窯の年代推定に影響が出る可能性があるという。


 府埋蔵文化財調査研究センターは13日、巫女(みこ)形埴輪(はにわ)が発掘されたことで知られる塩谷古墳群の南側にある塩谷南古墳群(京丹波町曽根)で、塩谷古墳群と同時期の6世紀初頭の造営とみられる円墳(直径15メートル)を確認したと発表した。形状の異なる木棺2基の痕跡も確認され、同センターは「血縁関係にある地域の有力者が、時期をずらして埋葬されたのではないか」としている。
 
 道路工事に伴い、約800平方メートルを調査。円墳1基の頂部の東西に、共に長さ3・7メートルの木棺直葬の埋葬施設2基と計12点の副葬品が見つかった。
 
 円墳で木をくりぬいて作る「割竹型木棺」の跡を確認したほか、「組み合わせ式木棺」の跡と副葬品の鉄製の剣(長さ95センチ)などを発見。さらに、須恵器の壺(つぼ)を囲んだ蓋(ふた)付きの高杯(たかつき)7個も見つかり、同センターは「埋葬儀礼に使われたものではないか」と話している。
 
 現地説明会は15日午後2時から開かれる。問い合わせは現地事務所(090・3995・3936)へ。

 回廊脇まで池だった - 薬師寺 伽藍の中心部
 
 奈良市西ノ京町の薬師寺で、伽藍(がらん)の中心部に広がっていた池の跡が奈良文化財研究所の調査で見つかった。池の上層は水田で、復興前の同寺の様子をしのばせる資料となりそうだ。
 
 防災設備の設置に伴い、東回廊から外側に向かって幅1~2メートルの溝状に発掘した。池の西岸とみられる落ち込みや水草などの堆積を確認。池は調査区を超えて広がっており、東西18メートル以上になるという。
 
 回廊は金堂や講堂を囲んで設けられ、池の端から東回廊までは約20メートル。中心伽藍のすぐ近くまで池が広がっていたことが明らかになった。岸辺では廃棄された瓦の堆積も見つかった。
 
 時期を特定できる遺物はなかったが、岸を改修して土地を増やしたり、排水溝を掘るなど、知恵を絞った様子がうかがえる。池の後は水田で、同寺によると、復興前の境内は建物近くまで水田だったという。
 
 薬師寺は皇后の病気回復を願って天武天皇が建立。平城京遷都にあわせて藤原京から移転し、南都七大寺の一つに数えられた。
 
 天延元(973)年の火災と享禄元(1528)年の兵火で東塔(国宝)を除いて建物が焼失。荒廃した伽藍を昭和40年代から写経勧進で復興し、金堂や講堂、西塔が次々と再建された。
 
 村上太胤執事長は「復興前は旧金堂の北側にも小さな池があり、雨であふれたこともある。水はけには昔から苦労されたのだろう」と話している。



 鳥取の弥生遺跡で星雲文鏡の一部
 本州で初、交易拠点か

 鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から中国製青銅鏡「星雲文鏡」の一部が見つかり、県埋蔵文化財センターが12日、発表した。

 同センターによると、同種の青銅鏡が弥生時代の遺跡から見つかった例は福岡県で8件あるが、本州では初めて。同センターは「日本海沿岸の重要な交易拠点としての位置付けが高まった」としている。

 出土した星雲文鏡は、直径6・9センチの円形の一部で扇形。割れ方がきれいで、断面に磨いた跡があることから同センターは「意図的に割って分割し、権威の象徴として使ったのではないか」と話す。

 青谷上寺地遺跡は弥生時代の集落跡で、これまでに多くの鉄器や古代中国の銅銭などが出土。大陸との交流の重要拠点だったと考えられている。

 飛鳥時代の吉野見て - 大淀で30日に石神古墳講演会
 
 飛鳥の中央政権と吉野川・紀ノ川をつないだ勢力の有力者の古墳とみられる大淀町大岩の石神古墳(7世紀中ごろ)が町指定文化財となったことを記念して、町文化連盟と町教育委員会は30日、同町桧垣本の町文化会館で講演会を開催する。



 兵庫の小3男児、恐竜化石を発見
 1億1千万年前の地層

 兵庫県丹波市の白亜紀前期(約1億1千万年前)の地層から、背中の部分が硬い皮膚に覆われた草食恐竜「よろい竜」の歯の化石が発掘されたと、県立人と自然の博物館(同県三田市)が7日発表した。

 同博物館が協力して開いている体験発掘会で昨年10月、岩の破片を砕いて調べていた同県篠山市立古市小3年田中翔己君(9)が発見した。

 博物館によると、よろい竜はアンキロサウルス類とも呼ばれ、全長約2~6メートル。国内では北海道夕張市や熊本県御船町で頭や歯が、富山市で足跡の化石が、いずれも白亜紀の地層から見つかっている。今回の歯はよろい竜の体の一部の化石としては国内最古という。

 見つかった歯は1本で、茶色く、手のひらのような形。長さ3・7ミリ、高さ5・7ミリと小さい。


 入門クラス、ネットで受験

 遺跡の発掘調査などを行う民間約80社でつくる日本文化財保護協会(東京都)が2月、国内各地の遺跡や出土品の知識を問う「考古検定」をスタートさせる。

 考古学に親しんでもらい、遺跡の保護や発掘調査に対する関心を高めるのが狙い。入門クラスから考古学専攻の大学院修了レベルの最上級まで5段階を設けるが、初回は「青森市の三内丸山遺跡はいつの時代の大集落か」といったレベルの入門クラスだけを2月1~28日に実施する。受験者はインターネットを通じ、四択式の50問に1時間で挑戦し、正解が30問以上なら合格となる。

 入門クラスの初回検定の申し込みは、今月30日まで協会のホームページで。検定料1050円。

 http://www.n-bunkazaihogo.jp/koukokentei/index.html

 人類祖先、太古から航海か
 ギリシャの島で石器発見

 アテネからの報道によると、ギリシャ文化省は3日、南部クレタ島で70万年前から13万年前につくられたとみられるおのなどの石器を発見したと発表した。アフリカ大陸で生まれた人類は陸伝いに欧州まで移動してきたと考えられてきたが、旧石器時代から航海し、クレタに渡っていた可能性を示す発見とみられている。

 ギリシャ周辺のエーゲ海で人類が航海したことを示す最古の記録は約1万1千年前にさかのぼるが、今回の発見はこれを大幅に上回るものとなっている。

 石器はギリシャと米国の考古学チームがクレタ島南岸のプラキアス近くの洞窟などで発見。同チームは石器をつくった人類の祖先がどこから来たかなどを調べるため、追加調査を行いたいとしている。


 アンコール遺跡に教育施設
 上智大調査団主催で起工式

 カンボジア北西部シエムレアプのアンコール遺跡群の一つである仏教寺院バンテアイ・クデイ遺跡内に、「アンコール文化遺産教育センター」が建設されることになり、上智大アンコール遺跡国際調査団の石沢良昭団長(同大学長)の主催で2日、起工式が行われた。

 日本の草の根文化無償資金協力による約600万円の事業。センターでは、観光客のアンコール遺跡群への理解を深めるため、歴史や見どころなどを紹介するパネル展示のほか、地元小学校と協力して子どもたちを含めた地域住民への文化遺産教育を行い、長期的に遺跡群の保護につなげていく。

 同調査団が2001年に274体の仏像を発見した同寺院内の現場近くに、高床式草ぶきの木造施設を建設する。完成は今年9月の予定。


 足りない保管場所、自治体が悲鳴

 遺跡の調査で発掘され、増える一方の出土品の保管に自治体が悲鳴を上げている。文化庁は廃棄を認めているが、発掘担当者の間では「貴重な文化財を捨てることはできない」とタブー視されている。だが、財政難で保管場所の確保ができず、野積みされる出土品も。近い将来、廃棄に踏み切らざるを得ない自治体も出てきそうだ。

 福岡県久留米市の市埋蔵文化財センターは、ビニールシートにくるまれたプラスチック製の箱の山に囲まれている。中身は主に奈良、平安時代の筑後国府関連の遺跡から出土した土器片だ。

 立石雅文・文化財保護課長は「雨水で土器が劣化する恐れがある。盗難も心配」と話す。しかし屋内に余裕はなく、約10年前から価値の低いものは野積みされたままだ。

 市が保管する出土品は約1万5千箱。1990年から江戸時代の城下町調査を本格化させ、茶わんなど磁器の出土が急増した。市の埋蔵文化財の保管・活用の予算は、2003年度の834万円をピークにその後は500万円台で頭打ちに。新たな置き場を確保したいが、立石課長は「生活インフラと直結しない埋蔵文化財は、財政的な優先度が高くない」と悲観的だ。

 北海道北見市は、文化センターの倉庫に石器や土器などが入った大小約1200箱を保管。農機具など郷土資料も収納しており、98年ごろから手狭になってきた。市文化財課は置き場を確保するための予算を要求したが、財政難でかなわず。職員手作りの棚で急場をしのいでいる。

 文化財は文化財保護法で「大切に保存する」とされる。だが、増えるばかりのため文化庁は97年、都道府県教委に「保存・活用の必要性・可能性がない出土品は、十分記録を取った上で埋めたり廃棄したりできる」との通知を出した。

  それでも発掘担当者にしてみれば、どんな出土品も捨てられない。考古学の立場からすれば、小さな土器片でも「研究の宝」。担当者らは「いまは価値が定まらなくても、新しい研究法ができて歴史の発見につながる可能性がある」と口をそろえる。

 廃棄への心理的な壁はほかにもある。09年11月、奈良県香芝市教委が国史跡・尼寺廃寺(にんじはいじ)跡から出土した瓦20トン以上を遺跡の隣地に「地中保管」したことが発覚。学術団体や市文化財保護審議会から批判を浴びた。市教委は「不適切だった」と陳謝し、掘り返した。東京都内のある区の担当者は「将来の処分に備えているが、今は様子見中」と打ち明ける。

 ■文化庁「廃棄は可能」

 文化財はだれの責任で保管すべきなのか。99年の文化財保護法改正で、埋蔵文化財の所有権は国から都道府県に移った。ただ、同法は管理責任の所在には触れておらず、出土品は発掘調査にあたった都道府県教委または市町村教委が管理している。

 最近は都道府県教委の調査で出土した品を、地元の市町村教委に移譲する動きもあり、結局は財政力の弱い市町村が負担を強いられているのが実情だ。

 市町村側は「国民共有の財産というなら、国や都道府県が親身に対策を考えて欲しい」と訴える。一方、文化庁記念物課は「廃棄を可能にした通知を出し、既存施設の整備に補助金を用意している。自治体が地域の実情に合わせて対応して欲しい」とすれ違う。

 文化庁で文化財保護を長年担当した文化財虫害研究所の和田勝彦常務理事は「出土品は適切にランク付けをして、合理的に保管や活用を行うべきだ。その際、廃棄を含めた検討も必要だ」と指摘する。出土品のすべてを税金で保管し続けるのは国民の理解を得にくいと考えるからだ。

 また、国立歴史民俗博物館の広瀬和雄教授(考古学)は、自治体はまず、これまで以上に教材などとして活用する可能性を徹底的に探るべきだと主張する。「廃棄ありきではないが、精査をすれば研究にも教育にも使えない不要な出土品も出てくる。開発が減り、発掘調査の仕事量が一服している今こそ、活用と保管について見直す好機だ」と話している。


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